※この作品はR-18です。

闘神都市Ⅳ   作:勇者パンスト

4 / 9
予選3日目

☆予選3日目

 

 

 

【朝】

 

 

 

薄桃色の朝日が静かに差し込み、部屋の冷えた空気をゆっくりと温めていく。

 

 

 

 

ルートが身を起こすと、隣のベッドで丸くなっていたミナモが、パチリと目を覚ました。

 

 

ここ数日の規則正しい生活と薬のおかげか、朝の微熱はすっかり引き、その瞳には柔らかな光が戻ってきている。

 

 

 

「……おはよう、ルート」

 

 

 

「おはよう、ミナモ。体調はどう?」

 

 

 

ルートはベッドの脇に膝をつき、ミナモの額にそっと手をかざした。

 

ひんやりとした素肌の心地よい感触。呼吸も落ち着いている。

 

 

 

「うん、もう全然大丈夫。ルートの手、温かくて気持ちいい……」

 

 

 

ミナモは嬉しそうに目を細め、ルートの手のひらに頬を寄せた。

 

そして、サイドテーブルに置かれたルートの腰帯と愛剣に視線をやる。

 

 

 

 

「今日で……予選も3日目だね。街のほう、なんだか朝から外が騒がしいみたいだけど……」

 

 

 

遠くから微かに聞こえる、地鳴りのような街の狂騒。ミナモの小さな不安を察したルートは、彼女の手を包み込むようにギュッと握りしめた。

 

 

 

「…でも、俺がやるべきことは変わらないよ。」

 

 

 

「うん……。ルートが無事でいてくれるのが、私の一番の願いだから。絶対に、無茶はダメだよ?」

 

 

 

「分かってるよ。……それじゃあ、行ってくる」

 

 

 

ルートはミナモの頭を優しく撫でると、名残惜しさを断ち切るように身を起こした。

 

腰に愛剣を履き直し、ドアノブに手をかける。振り向くと、ミナモが布団の中から身を起こし、まっすぐな瞳で自分を見つめていた。

 

 

 

 

「いってらっしゃい、ルート! 応援してるからね!」

 

 

「ああ、行ってきます」

 

 

 

静かに扉を締め、廊下へと一歩踏み出す。

 

 

 

その瞬間、優しく穏やかだったルートの瞳から甘さが消え、代わりに鋭く研ぎ澄まされた刃のような冷徹さが宿る。

 

 

 

連日の探索で身体に染み付いた金属と血の匂い。暗く静まり返った木造の廊下を足音もなく歩き、1階の酒場へと続く階段を降りていった。

 

 

 

 

 

 

 

【宿1F】

 

階段を降り切ると、普段の静まり返った朝の酒場とは一変して、地鳴りのような熱気がルートの肌を突いた。

 

 

宿泊客の男たちや非番の冒険者たちが、カウンター前に設置された巨大な『魔導モニター(闘神テレビ)』の前に黒山の人かりを作っている。

 

 

水晶で縁取られたガラス板が青白い光を放ち、大音量の喧噪と熱狂的な実況の声を吐き出していた。

 

 

 

 

「——さあご覧ください! 予選2日目を突破した猛者たちの映像です! 画面中央、大剣を一振りで魔物の群れを粉砕したのは『赤獅子』のゴルドフ! 恐ろしい速さで合格枠を奪い取っていきます!」

 

 

 

画面には、派手なエフェクトと共に群がるモンスターをなぎ倒す有名冒険者たちの姿や、凄惨な死闘のダイジェスト映像が次々と映し出されていた。

 

 

画面が切り替わるたびに、酒場の中に「おおっ!」「あいつ、マジで本戦に行きやがった!」と怒号に近い歓声が上がる。

 

 

 

 

「……ハッ、派手に見せることしか能のねえ道化どもが」

 

 

 

人ごみの端、カウンターの隅で朝から安酒のグラスを傾けていたガルドが、鼻で笑うように吐き捨てた。その視線が、階段を下りてきたルートに留まる。

 

 

 

 

「起きてきたか、若いの」

 

 

 

 

ルートがガルドの隣へ歩み寄ると、タイミングを合わせたかのように、モニターの映像が暗転した。ファンファーレのような甲高い効果音が響き渡り、重厚なナレーションが酒場全体を支配する。

 

 

 

 

『——挑戦者たちよ、刮目せよ! 本日、闘神大会本戦のトーナメント組み合わせ途中経過を順次発表! さらに! 本日只今をもって、予選迷宮地下3階(B3F)を完全解放!』

 

 

 

 

『最終階層B3Fには、これまで以上の凶暴な魔物と、合格を掴み取るための「本戦チケット」が眠っている! 己の力を証明し、闘神の栄光を掴み取れっ!』

 

 

 

 

「うおああああっ! ついにB3Fが開いたぞ!」

 

 

 

 

「今日が正念場だ! チケットをぶんどって本戦に出てやる!」

 

 

 

 

アナウンスが終わるやいなや、酒場は怒号と殺気に包まれた。男たちは酒杯を叩きつけ、血走った目で一斉に扉へと群がっていく。

 

 

 

 

渦巻く狂気を見送りながら、ガルドはグラスをコンとカウンターに置くと、どんよりとした目をルートに向けた。

 

 

 

 

「聞いたろ。B3Fの解放だ。……言っとくが、今日からはただの迷宮探索じゃねえ。本戦のチケットがかかった『殺し合いの領域』だ」

 

 

 

 

ガルドの声は低く、そして冷ややかだった。

 

 

 

 

「これまでは魔物を倒せばよかったが、B3Fじゃ『他の冒険者』が一番の敵になる。背中から刺されるのも、仕留めた獲物を横取りされるのも当たり前だ。生き残りたきゃ、人間を一番警戒しろ」

 

 

 

 

「……頭に入れておく」

 

 

 

 

ルートが静かに頷くと、横からドカドカと激しい足音が近づいてきた。大きなエプロンをつけたチエリが、両手に湯気の立つ紙包みを抱えて怒相で立っている。

 

 

 

 

「ちょっとガルドさん! 朝から不吉なこと吹き込まないでよ!」

 

 

 

チエリはガルドをひと睨みすると、強引にルートの胸元へ紙包みを押し付けた。焼きたてのパンと、濃いめのお肉の芳醇な匂いが鼻腔をくすぐる。

 

 

 

「はいこれ、今日の朝食と昼食分! ちゃんと全部食べなさいよ!」

 

 

 

「……ありがとう、チエリ。いつも助かる」

 

 

 

「かん、感謝されたくてやってるんじゃないんだからね! ちゃんと無事に帰ってきて、滞在費をまとめて払ってもらわなきゃ困るから言ってるの! ……いい? ガルドさんの言う通り、今日は街中がおかしくなってるんだから……絶対に無茶しないで帰ってきなさいよ!」

 

 

 

 

ツンと横を向きながらも、チエリの瞳には隠しきれない強い心配の色が浮かんでいた。

 

 

 

 

「ああ、約束する。必ず無事で戻るよ」

 

 

 

ルートは紙包みをしっかりと抱え直し、愛剣の柄に手を置いた。

 

 

一段落したところで、ルートはふと眉をひそめた。ガルドとチエリのやり取り、そしてモニターから流れたアナウンスの言葉を頭の中で反芻する。

 

 

 

「……ガルドさん」

 

 

 

「なんだ? まだ何か聞きてえことでもあんのか」

 

 

 

「さっきのアナウンスで言っていた『本戦チケット』というのは何? 予選迷宮の最深部に行けば、それで本戦に出られるじゃないの?」

 

 

 

ルートがごく自然な口調で尋ねた瞬間、酒場の空気がピキリと凍りついた。

 

 

 

酒をあおろうとしていたガルドの腕がピタリと止まる。

チエリもまた、雑巾でテーブルを拭く手の動きを止め、信じられないものを見るような目でルートを凝視した。

 

 

 

静寂の中、ガルドは深々とため息をつき、ガリガリと頭を掻きむしった。

 

 

 

「……おいおい、冗談だろ……? お前、予選3日目の……それも最終日の朝になって、そんなことを抜かしてんのか……?」

 

 

 

「………冗談?」

 

 

 

 

まっすぐで一点の曇りもないルートの瞳を見つめ、ガルドは呆れ果てたように天を仰いだ。

 

 

 

「はぁー……! マジかよ。お前、マジで何も知らずにここまで潜ってたのか……? 頼むから嘘だと言ってくれ……」

 

 

 

「ちょっとバカお兄さん!!」

 

 

 

横からチエリが飛んできて、ルートの肩を激しく揺さぶった。

 

 

 

「あんた正気!? 闘神大会の予選に出ておいて、突破条件を知らないで戦ってたの!? アホなの!? 死にたいの!?」

 

 

 

「静かにしろチエリ、頭が響く」

 

 

 

ガルドは頭を抱えながらグラスの酒を一気に煽ると、ドンとカウンターにグラスを置いた。

 

 

 

 

「いいか、よく聞けバカ……じゃなくて、世間の常識を知らねえ若造。予選迷宮ってのはな、ただ『最深部まで辿り着けば合格』なんて生ぬるいスタンプラリーじゃねえんだよ」

 

 

 

ガルドは太い指を1本立て、モニターの画面を指刺した。

 

 

 

「予選迷宮の地下3階(B3F)までに散らばっている特定の強魔物……あるいは迷宮に隠された宝箱の中にだけ、その『本戦チケット』って呼ばれる魔導のメダルが入ってる。本戦に出場できるのは、そのチケットを手に入れて地上に持ち帰った『限定された人数』だけだ」

 

 

 

 

「……なるほど。単にクリアするだけではダメで。だから奪い合いになるわけか……」

 

 

 

「そういうことだ! 予選の本当の恐ろしさはそこにあるんだよ!」

 

 

 

ガルドは低く唸るような声で言葉を続けた。

 

 

 

「チケットの数は最初から決まってる。つまり、自力で魔物を倒して手に入れるか……あるいは『他人が手に入れたチケットを殺して奪う』かだ。だから3日目の今日は殺し合いになるんだよ! 1日目や2日目にいくら魔物を倒してレベルを上げようが、最後にそのチケットを持っていなきゃ、お前がやってきたことは全部ただの徒労に終わるんだ!」

 

 

 

 

ガルドの説明を聞き、ルートは己の認識の甘さを静かに噛みしめた。

 

 

 

ミナモの薬代を稼ぐことと、目の前の魔物を倒して安全に探索を進めることだけに集中しすぎており、大会そのもののルールシステムについての調査が完全に抜け落ちていたのだ。

 

 

 

 

(チケットを持っていなければ、本戦には進めない…)

 

 

 

自分の冷や汗が出るような危うさを理解しつつも、ルートの表情に焦りの色は浮かばなかった。むしろ、やるべきことが明確になったことで、その瞳の奥にある静かな闘志がより一層鋭さを増していく。

 

 

 

「……教えてくれてありがとう、ガルドさん。知らなければ、せっかく見つけたチケットを放置して本戦に残れなかったかも」

 

 

 

 

「放置って……お前な……」

 

 

 

 

呆れを通り越して脱力したガルドは、へなへなとカウンターに肘をついた。

 

 

 

 

「はぁ……本当にお前、よくここまで無傷で生き残ってこられたな。運がいいのか、ただのバケモノなのか……」

 

 

 

「バカお兄さん! 呆れてる場合じゃないでしょ!」

 

 

 

チエリがルートの背中をバシッと力任せに叩いた。

 

 

 

「いい!? 相手が人間だろうが魔物だろうが、しっかりチケットをぶん取って、生きて帰りなさいよ! じゃないと、宿代の回収もできないんだからね!」

 

 

 

「うん。分かってる」

 

 

 

ルートは力強く頷くと、手入れされた愛剣の柄を握り直した。

 

 

 

目標は決まった。B2FやB3Fに潜みし魔物を倒し、あるいは立ちはだかる者を退け、必ず『本戦チケット』を掴み取って地上へ還る。

 

 

 

「……行ってくる」

 

 

 

背後で深くため息をつくガルドと、祈るように拳を握りしめるチエリに見送られ、ルートは狂気と欲望が渦巻く闘神都市の街へと足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

【予選迷宮入口】

 

 

 

朝の爽やかな空気など微塵も感じられない。闘神都市の北区画に聳え立つ予選迷宮の巨大な鉄門前は、まるで戦場そのものの熱気と殺気に包まれていた。

 

 

 

「予選最終日」という言葉が持つ重圧が、挑戦者たちの正気を根底から狂わせている。

 

 

 

互いを睨みつける目つきは鋭く、いつ抜刀沙汰が起きてもおかしくない緊張感が漂っていた。

 

 

合格枠である「本戦チケット」の数は限られている。隣に立つ者は皆、奪い合うべき敵なのだ。

 

 

 

そんな蠢く群衆の先頭で、変わらず隙のない鉄甲冑に身を包み、仁王立ちで周囲を牽制している男がいた。

 

 

 

警備隊長、シュマイゼンだ。

 

 

 

ルートが静かな足取りで近づいてくると、シュマイゼンは鋭い眼光を巡らせ、その視線をルートの全身でピタリと止めた。

 

 

 

「……ほう」

 

 

 

シュマイゼンの薄い唇から、感心したような短い声が漏れた。

 

 

 

彼は一歩前に踏み出出すと、ルートの装備を上から下へと値踏みするように見つめる。

 

 

 

初日に会った時のルートは、使い古された革の胸当てに、手入れも行き届いていない鈍い鈍色の剣を提げているだけの、どこにでもいる貧相な志願者の一人に過ぎなかった。

 

 

 

 

だが今のルートは違う。

 

 

 

初日と2日目の探索で手に入れた魔石や素材を確実に金に換え、装備を少しずつ補強している。身につけた革鎧のベルトはしっかりと締め直され、関節を守る金具は磨かれ、そして何より——腰に提げた愛剣は、昨日ミルキーの店でしっかりと研ぎ直されたことで、鞘に収まってなお研ぎ澄まされた冷たい殺気を放っていた。

 

 

 

 

「見違えたな、挑戦者よ」

 

 

 

 

シュマイゼンは重厚な兜の奥から、深く満足げな頷きを返した。

 

 

 

 

「忠告を無駄にせず、手に入れた成果をしっかりと己の防壁……装備への投資に回したようだな。身なりを見れば、その者がどれほど本気で生存を考えているかが分かる。今の貴様からは、死にに行く者の甘さは感じられん」

 

 

 

「……昨日は痛い目をみたからね」

 

 

 

 

ルートが淡々と答えると、シュマイゼンはフッと口角を上げた。

 

 

 

「素晴らしい心がけだ。……だが、知っての通り今日は最終日。そしてB3Fの解放日だ。ここにいる連中の目が血走っている理由も分かっているな?」

 

 

 

「ああ。『本戦チケット』の奪い合いになる、と聞いた」

 

 

 

「察しが良くて助かる。ここからは魔物だけでなく、追いつめられた人間の『狂気』が襲いかかってくるぞ。チケットを持った者を背後から刺し、奪い取るような真似が横行する。己の装備を信じ、研ぎ澄ました刃で立ち塞がる全てを退けろ。ルールを破らぬ限り、我々警備隊も迷宮内の殺し合いに口は挟まん」

 

 

 

 

シュマイゼンはそう言い捨てると、大剣の柄に手を置き、群がる挑戦者たちに向かって腹の底から響くような大声を張り上げた。

 

 

 

 

「全員、静粛にっ!! これより予選最終日、迷宮B3Fの開放を行うっ!」

 

 

 

 

シュマイゼンの怒号が、狂乱寸前だった広場の喧騒を一瞬で圧し折る。

 

 

 

 

「1にルール! 2にルール! 3、4とルールで、5にルール! 闘神都市の定めた規定を破りし者は即刻処分! だが……迷宮の闇の中に一歩足を踏み入れれば、そこは己の力のみが頼りの生存競争の場と知れ! 生きて本戦チケットを持ち帰り、この門をくぐり抜けてみせよ!」

 

 

 

「ウォオオオオアアッ!」

 

 

 

 

「チケットは俺のモンだぁぁぁっ!」

 

 

 

 

シュマイゼンの宣言が終わるやいなや、挑戦者たちから獣のような咆哮が上がった。

 

 

 

 

ギギギ……と地鳴りのような音を立てて、巨大な鉄門がゆっくりと開き始める。隙間から押し寄せてくるのは、B3Fの開放に伴って溢れ出てきた、これまで以上に濃密な血と湿気の匂い、そして不気味な魔力の波動だった。

 

 

 

 

「——開門っ! 挑戦者ども、往けいっ!」

 

 

 

 

シュマイゼンの鋭い号令とともに、欲望に目を眩ませた猛者たちが、雪崩となって暗がりの中へとなだれ込んでいく。

 

 

 

 

ルートはその狂乱の渦の中に身を置きながらも、心は至極冷静だった。

 

 

 

 

(本戦チケットを掴み取り、必ず本戦へ…)

 

 

 

腰の愛剣の柄を強く握りしめる。手入れされたばかりの刃が、鞘の中でカチリと心地よい金属音を立てた。

 

 

 

己の生存と、大切な約束を果たすため。ルートは一切の迷いを捨て、欲望と狂気が渦巻く黒い闇の中へと、力強い一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

【予選迷宮B2】

 

 

 

地下1階の青白い発光石の光はそこにはなく、壁一面に生い茂る仄暗い燐光苔が、湿った石壁を泥のように妖しく照らし出していた。

 

 

 

階段を降り切った瞬間、皮膚を刺すような重い空気と、饐えた血の匂いが鼻腔を突く。予選迷宮地下2階——B2F。昨日、ゲスリとの一戦、武器破損による帰還を優先したため踏み込まなかった領域に、ルートはついに足を踏み入れた。

 

 

 

 

(やっぱり地下1階とは気配の異様さがまるで違う……)

 

 

静まり返った通路に、自分の足音だけがかすかに響く。

 

 

 

B3Fの解放と「本戦チケット」の争奪戦が始まった今日、挑戦者たちの焦りと狂気はピークに達しているはずだった。

 

 

しかし、このB2Fの通路に人の気配はほとんど感じられない。

 

 

聞こえてくるのは、どこか遠くで響く肉が裂けるような嫌な音と、断末魔の叫びの残響だけだ。

 

 

 

「……なるほど」

 

 

 

ルートは短く呟くと、腰の愛剣の柄にそっと手を添えた。

 

 

昨日ミルキーの店で研ぎ直された刃は、静かな殺気を放っている。

 

武器の手入れをしておいて正解だった。

この階層の空気は、装備の不備がそのまま死に直結することを雄弁に物語っている。

 

 

 

石壁に沿って慎重に進み、曲がり角に差し掛かったその時——通路の奥から、けたたましい足音が迫ってきた。

 

 

 

「ハァ……ハァ……! くそっ、なんでこんなのがB2Fにいやがるんだよ!」

 

 

 

現れたのは、血に染まった鎧を纏った男だった。片腕を大きく負傷し、振り向く余裕すらない様子で狂ったように走ってくる。その直後、男の背後の暗闇から、巨大な影がヌッと姿を現した。

 

 

 

「ガルルルァッ!!」

 

 

 

それは、人の背丈を優に超える巨躯を誇る二足歩行の魔物——オークだった。

 

 

 

地下1階にいたイカマンや大グモとは比較にならない圧倒的な威圧感。手に握られた不格好な鉄塊のクラブには、先ほど別の冒険者を叩き潰したばかりと思われるフレッシュな血と肉片がへばりついている。

 

 

 

「た、助け——」

 

 

 

逃げてきた男がルートの姿を視界に捉え、すがるように手を伸ばしかけた、その瞬間。

 

 

 

ズガァンッ!

 

 

 

「あがっ……!?」

 

 

 

オークが振り下ろした鉄塊が、男の背中を容赦なく叩き潰した。絶叫は骨の砕ける不快な音とともに途切れ、男の身体はペシャンコになって石畳に転がった。

 

 

 

「グハハハッ!!」

 

 

 

オークは豚のような鼻を鳴らして高笑いすると、血走った目をゆっくりとルートへ向けた。巨大な鼻穴から生温かい息を吐き出し、血濡れのクラブをルートへ突きつける。

 

 

 

地響きを立てて突進してくるオーク。その巨体から放たれる風圧だけで、普通の人間なら足がすくむほどの恐怖に支配されるだろう。

 

 

 

だが、ルートの瞳は至極静かだった。

 

 

 

 

(筋肉の密度、骨格の太さ……普通の斬撃では刃が通らん。狙うべきは——)

 

 

 

 

ルートは低く身構え、脚に力を込めた。

 

 

 

 

オークが間合いに入った瞬間、頭上から壊滅的な一撃が振り下ろされる。空間を割るような重音。

 

 

 

 

身を削るギリギリの紙一重——ルートは刃一枚分の差でその大振りをかわした。ドガァンと石畳が砕け散り、激しい破片と煙が舞う。

 

 

 

 

「!?」

 

 

 

 

オークが己の攻撃の空振りに驚愕したその刹那、ルートの身体はすでにオークの懐深くへと滑り込んでいた。

 

 

 

 

狙うは、甲冑の隙間。太い首筋の、脈打つ動脈の一点。

 

 

 

 

「ハッ!」

 

一閃。

 

 

 

 

手入れされたばかりの鋭利な刃が、オークの硬い皮膚を裂き、肉を断ち切り、太い頸動脈を正確に討ち抜いた。

 

 

 

 

「ゴボッ……!? ガ、ハ……っ!?」

 

 

 

 

噴き出す鮮血。オークは目を剥き出し、信じられないという表情で首を押さえたが、溢れ出る血を止めることはできない。

 

 

巨躯がグラリと揺れ、やがて地響きを立てて泥濘の中に倒れ伏した。

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

 

ルートはサッと剣についた血を払い、滑らかに鞘へと収めた。

 

 

 

 

手応えは悪くない。だが、同時に明確な危機感も芽生えていた。

 

 

 

 

(一撃の重みが地下1階の魔物とはまるで違う。かすり傷一つでも、戦闘不能に追い込まれる可能性がある……)

 

 

 

 

己の「超回復」の能力があれば、腕の一本や腹の傷程度なら再生する。しかし、肉体が繋がる時の劇痛は免れないし、首を落とされれば即死だ。

 

 

そして何より、どれだけの傷を負えば致命傷になるかルート自身にもわからない。

 

無傷での勝利こそが好ましい。

 

 

 

 

ルートは倒れたオークの消えゆく身体の残骸から、小さな魔石を拾い上げてポーチに収めた。

 

 

 

「まだB2Fの入口……気を引き締めていこう」

 

 

 

深くなる暗闇と、重苦しく立ち込める血の匂いの中へ。

本戦チケットを掴み取るための本当の試練が始まったことを確信しながら、ルートはB2Fの奥へと静かに足を進めていった。

 

 

 

 

 

オークを倒して魔石を回収したルートは、燐光苔の仄暗い光を頼りに、さらにB2Fの奥へと足を進めていた。

 

 

 

 

階層を下るごとに、通路の構造は複雑さを増していく。入り組んだ十字路や行き止まりが増え、足元には落とし穴や毒針が仕込まれた罠の痕跡が目立つようになっていた。

 

 

地下1階のようにわかりやすいレバーがあるわけでもない。一歩足を踏み外せば、それだけで命取りになる死域だ。

 

 

 

(焦るな……。危険なのは魔物だけじゃない)

 

 

 

 

ルートは呼吸を整え、耳を澄ませながら慎重に歩みを進める。

 

 

 

 

B3Fの開放と「本戦チケット」の争奪戦により、階層全体に嫌な緊張感が張り詰めていた。

 

 

自力でチケットを手に入れる能力のない者たちが、下層へ向かう実力者を待ち伏せし、背後から襲いかかって装備や物資を奪おうと息を潜めている気配が、通路のあちこちから漂ってくる。

 

 

 

 

しばらく進むと、開けた広場のような空間に出た。

 

 

 

 

その中央で、湿った気味の悪い音と、絶望に満ちた叫び声が響き渡っていた。

 

 

 

 

「嫌ぁっ!? 離して……離しなさいよっ!」

 

 

 

 

悲鳴をあげていたのは、軽甲冑を身に纏った若い女剣士だった。その身体には、ぬめりけのある不気味な触手が幾重にも絡みつき、抵抗する腕や脚を力任せに縛り上げている。

 

 

 

 

触手の主は、巨大な一つ目に無数の粘着質な腕を生やした不快な魔物——『ローパー』だった。

 

 

 

 

闘神都市や迷宮においては定番とも言える凶悪な怪異であり、捕らえた獲物の衣服を強酸で溶かしながら体力を奪う、冒険者、特に女性冒険者にとって天敵のような存在だ。

 

 

 

 

女剣士はすでに剣を弾き飛ばされ、強酸によって革甲冑がジュワジュワと惨めに溶かされていた。

 

 

 

露わになった肌に触手が容赦なく這い回り、じわじわと体力を削り取っていく。

 

 

彼女の瞳からは涙がこぼれ落ち、足元は恐怖と疲労で完全にガクガクと震えていた。

 

 

 

 

周囲には、彼女を助けようとしたのか、あるいは彼女を見捨てて逃げ遅れたのか、ローパーの触手に絡め取られてぐったりと動かなくなった他の冒険者たちの姿もあった。

 

 

 

ルートは壁の影に身を潜め、冷静にその光景を観察した。

 

 

 

 

(助ける義理はない……。だが)

 

 

 

 

広場の奥、ローパーが巨体を鎮座させている背後の通路の先に、下層であるB3Fへと続く堅牢な石造りの階段が見えていた。

 

 

B3Fへ向かうためには、どうしてもあのローパーを排除して広場を突破しなければならない。

 

 

 

 

「嫌……誰か……誰か助けてぇっ!」

 

 

 

 

女剣士の悲鳴が限界を迎えたその瞬間、一筋の冷たい閃光が空間を切り裂いた。

 

 

 

 

 

ズバァッ!

 

 

 

 

「グシャアッ!?」

 

 

 

 

激痛にのた打ち回ったのはローパーだった。女剣士を拘束していた分厚い触手が一本、鮮やかに切断され、青い体液を撒き散らしながら石畳へ落ちる。

 

 

 

 

束縛が緩んだ隙を見逃さず、女剣士は崩れ落ちるように地面へ倒れ込んだ。

 

 

 

 

突由として現れた新たな獲物に、ローパーは巨大な一つ目をギラリと光らせ、残る無数の触手を一斉にしならせて威嚇する。

 

 

ルートは倒れた女剣士を背中に庇う形で滑り込み、迷いのない所作で愛剣を身構えた。

 

 

 

 

「た、助けて……くれたの……!?」

 

 

 

 

呼吸を荒げ、服を破られた腕で必死に身体を隠しながら、女剣士が驚愕と安堵の混ざった声をあげる。

 

 

ルートは視線を目の前の不気味な巨体から外さないまま、低く冷たい声で返した。

 

 

 

 

「……階段の邪魔だから倒すだけ。動けるなら下がってて」

 

 

 

ルートの言葉に甘さはない。助けたのは正義感からではない。

 

道を開くため、そして余計な障害を減らすための合理的な判断だった。

 

 

 

 

「シュシュシュシュッ!」

 

 

 

 

奇怪な鳴き声をあげ、ローパーが無数の触手を槍のように突き出し、全方位から同時に襲いかかってきた。視界を埋め尽くす粘着質な触手の群れ。

 

 

 

 

一度捕まれば強酸で装備を溶かされ、自由を奪われる厄介な相手だ。だが、動き自体は単純で、範囲が広いだけに過ぎない。

 

 

 

 

(核は中央の一つ目……雑に切る必要はない)

 

 

 

 

ルートは低く身構え、襲い来る触手の隙間へと低く滑り込んだ。迫る触手が頬をかすめ、生臭い体液の匂いが鼻を突くが、瞳に一切の動揺はない。

 

 

 

 

最小限の動作で触手をかわし、一気に懐深くまで踏み込む。

 

 

 

 

「ハッ!」

 

一閃。

 

 

 

 

手入れされたばかりの鋭利な刃が、まっすぐにローパーの巨大な一つ目を貫いた。

 

 

 

 

「ギニャアアアアッ!?」

 

 

 

 

絶叫とともに、ローパーの巨体が激しく痙攣する。ルートは容赦なく剣をひねり、そのまま横一文字に引き抜いて核を完全に破壊した。

 

 

 

 

一瞬の沈黙の後、ローパーは力を失い、ヌチャリと音を立てて崩れ落ちると、そのままドロドロとした液体となって消え去っていった。

 

 

 

 

ルートはサッと剣についた青い体液を払い、滑らかに鞘へと収めると、息を整えて背後の女剣士へ向き直った。

 

 

 

 

「……動けない?」

 

 

 

「あ、え……な、なんとか…。……服はボロボロだけど、怪我は浅いから……本当になんてお礼を言ったらいいか……!」

 

 

 

 

女剣士は真っ赤になりながら必死に身なりを整え、立ち上がろうとした。

 

 

 

 

しかしその瞬間、ルートの耳が、背後の暗闇から忍び寄る「わずかな足音」を捉えた。魔物の足音ではない。人間の、忍び足の音だ。

 

 

 

 

「……へへっ、手際がいいねぇ、新顔さん」

 

 

 

 

物陰からヌッと姿を現したのは、見るからに質の悪そうな大柄な男二人組だった。

 

 

手に持った斧と短剣には、すでに乾いた血がべっとりとこびりついている。

 

 

 

 

「ローパーを一人で片付けるとは大した腕前だ。だが……倒した直後で疲れてるだろ?」

 

 

 

 

男の一人が薄汚い笑みを浮かべ、ルートと無防備な女剣士を品定めするように見下ろした。

 

 

 

 

「おいおい、そんな警戒するなよ。俺たちは『安全に』本戦チケットを手に入れたいだけの合理的になろうとしてる冒険者だ。……おいねえちゃん、その身なりじゃもう探索は無理だろ? 命が惜しけりゃ、持ってる魔石と装備の残りを全部置いていきな。そうすれば見逃してやるぜ?」

 

 

 

 

男たちの視線は、女剣士が腰に抱えているポーチと、無防備な身体に向けられていた。

 

 

 

 

女剣士は顔を蒼白にし、震える声で叫んだ。

 

 

 

「ふ、ふざけないで! これは私が命がけで集めた成果よ! それに本線チケットは持ってないわ!」

 

 

 

 

男たちは女剣士の叫びを鼻で笑い、斧を構え直した。

 

 

 

「ケッ、知るかよそんなもん! ここは予選迷宮だ、奪った奴が正義なんだよ! 嫌ならそこで死にな!」

 

 

 

 

男が斧を振り上げ、動けない女剣士へと襲いかかろうとした、その刹那。

 

 

 

「——そこを動くな」

 

 

 

 

ルートの声が響いた。それは静かでありながら、背筋が凍りつくような圧倒的な殺気を孕んでいた。

 

 

 

男たちの動きが、ピタリと止まる。

 

 

 

 

ルートは二人組の男に向かってゆっくりと歩み寄り、研ぎ澄まされた刃の柄に、そっと手をかけた。

 

 

 

「命が惜しければ、引き返せ。……俺の邪魔をするな」

 

 

 

 

 

静寂を突くルートの殺気は、男二人組の足を完全に竦ませていた。

 

 

 

「くっ……何なんだよ、コイツ……!」

 

 

 

強気な態度を崩さなかった斧の男だったが、額から冷や汗がダラダラと垂れ落ちる。

 

 

目の前の青年から放たれる空気は、そこらの駆け出し冒険者のそれではない。

 

 

何人もの命を奪ってきた人間か、あるいは感情を殺した暗殺者のような底知れぬ冷酷さだった。

 

 

ルートは一切の猶予を与えず、手入れされた刃を鞘からわずかに覗かせ、チリ……と刃鳴りを響かせた。

 

 

 

「……引き返せと言った」

 

 

「ち、ちくしょうが! ハタリ、逃げるぞ!」

 

 

 

圧迫感に耐えかねた斧の男が叫び、短剣を持った相棒と共に脱兎のごとく来た道へと逃げ出していく。

 

 

B3Fを目指して他の挑戦者から奪おうとしていた悪党どもだったが、本物の生命の危険を察知して獲物を諦めたのだ。

 

 

 

遠ざかる足音が完全に消え去ったのを確認し、ルートは構えを解いて刃を鞘へ滑り込ませた。

 

 

「……あ、ありがとう……!」

 

 

地面に座り込んでいた女剣士が、安堵のあまり涙を浮かべながら深々と頭を下げた。破れた衣服を必死に手で隠しながら、震える声で感謝を述べる。

 

 

 

「本当に助かったわ。私、ライラっていうの……。ローパーに捕まった時はもう駄目かと思った……」

 

 

 

「……言ったでしょ、俺は階段を通りたかっただけだ」

 

 

 

ルートは冷淡に返しつつも、チラリと彼女の足元に視線を落とした。

 

軽甲冑は酸でボロボロになり、武器である剣も遠くへ弾き飛ばされたままだ。

 

怪我自体は浅いとはいえ、この装備と状態でこれ以上の探索を続けるのは不可能なのは火を見るより明らかだった。

 

 

 

 

「これ以上進むのは無理だね。地上へ引き返した方がいいよ」

 

 

 

「……ええ、分かっているわ。B3Fの解放を聞いて来てみたけど……私の実力じゃ、ここで限界みたい」

 

 

 

レイラは苦笑いを浮かべながら、落ちていた自分の剣を拾い上げ、破れた服の上から腰布を固く巻き直した。

 

 

 

「あなた、B3Fに行くんでしょ? 私は街へ戻るわ。……これ、あの男たちに奪われなくて本当によかった」

 

 

 

彼女は腰のポーチから、青く輝く一粒の大きめな宝石を取り出し、ルートに向かって差し出した。

 

 

 

「これは……?」

 

 

「ローパーを倒してくれたお礼と、命を救ってくれたお返し。受け取って。B2Fの奥で手に入れた上質の宝石よ。きっと換金所で良いお金になるわ。……本戦チケット、手に入るといいわね」

 

 

 

ルートは一瞬躊躇したものの、レイラのまっすぐな瞳を見て、静かにその宝石を受け取った。手に伝わる重みと質感は、今後の大きな支えになる。

 

 

 

「……助かる。地上へ戻る道中も気をつけて」

 

 

「ええ、ありがとう。あなたも……無事でね!」

 

 

ライラは小さく手を振ると、B1Fへと続く安全なルートを目指して慎重に去っていった。

 

 

 

一人取り残された広場で、ルートはポーチに宝石を収め、深く息を吐き出した。

 

 

 

(人間同士の奪い合い、か……)

 

 

ガルドやシュマイゼンが言っていた言葉の意味を、あらためて肌で理解する。本戦チケットという限られた合格枠を巡り、迷宮内はすでに「魔物を倒す場」から「奪い合う戦場」へと変貌している。

 

 

 

(けど、俺のやるべきことは変わらない。確実にチケットを手に入れ、生き残る)

 

 

 

ルートは視線を広場の奥へと向けた。

 

 

 

そこには、暗がりの中に静かに佇む、重々しい石造りの階段が存在していた。階段の先からは、1階や2階とは比べものにならないほど濃密な不気味な魔力と、血の匂いが混ざり合った冷気が吹き上がってきている。

 

 

 

 

予選迷宮最終階層——地下3階(B3F)への降り口。

 

 

 

 

「……行こう」

 

 

 

ルートは愛剣の柄を固く握り直し、躊躇うことなく暗い階段へ向かって足を踏み出した。本戦チケットを手に入れ、ミナモの待つ地上へ生きて還るために。

 

 

 

 

 

【予選迷宮B3F:第3話】

 

 

 

階段を一段降りるごとに、足元から這い上がってくる冷気が肌を刺すように強まっていく。

 

 

 

青白い発光石の灯りも、ほの暗い燐光苔の光すらも、ここには届かない。壁面にぽつり、ぽつりと埋め込まれた不気味な赤い魔導石が、血のように暗い朱色の光を放ち、迷宮の輪郭を不吉に浮かび上がらせていた。

 

 

 

 

予選迷宮最終階層——地下3階(B3F)。

 

 

 

 

 

階段を降り切ったルートの耳に真っ先に飛び込んできたのは、重苦しい静寂……ではなく、壁の奥から伝わってくる地鳴りのような咆哮と、金属が激しくぶつかり合う凄惨な戦闘音だった。

 

 

 

(気配の密度が、これまでの階層とは段違いだ……)

 

 

 

 

ルートは低く身構え、息を殺して壁の影に滑り込んだ。

 

 

 

鼻腔を突くのは、生臭い血の匂いと、焦げ付いた鉄の臭い、そして濃密な魔力の残り香。

 

1階や2階のような「探索の場」の面影はどこにもない。ここは完全に、本戦への切符である『本戦チケット』を奪い合うための殺戮場と化していた。

 

 

 

石壁に沿って静かに足を進めると、すぐに通路が開け、不気味な赤光に照らされた巨大な大広場へと出た。

 

 

 

「ギャァァァアッ!?」

 

 

 

凄惨な悲鳴が広がりに響き渡る。

 

 

 

見れば、広場の中央で一人の冒険者が、丸っこい巨躯を揺らす巨大な怪獣に激しく踏み潰されていた。

 

 

 

地下1階や地下2階で見かけた「るろんた」とは比較にならない巨体と凶暴性——『あばれるろんた』だ。見た目の愛くるしさに反して凶悪な爪と圧倒的な質量で冒険者たちを肉塊に変えてきた、B3Fの強敵だった。

 

 

 

だが、真の異常さは魔物の存在そのものではなかった。

 

 

 

あばれるろんたの踏みつけた足元、倒れた冒険者の懐から転がり出たのは、赤光を受けて怪しく輝く一枚の『金属製のメダル』——それこそが、本戦出場を約束する『本戦チケット』だった。

 

 

 

「チ、チケットだ……! 本戦チケットが出たぞぉぉぉっ!」

 

 

 

周囲の物陰から、目を血走らせた数人の挑戦者たちが一斉に飛び出してきた。

 

 

 

彼らはあばれるろんたという危険な大魔物を目の前にしながら、魔物を見ることもなく、互いを殺し合わんばかりの勢いで一枚のメダル目掛けて群がり始める。

 

 

 

「邪魔だ引っ込んでろ! それは俺が最初に見つけたんだ!」

 

 

「死ねぇっ! チケットは俺の物だ!」

 

 

 

言葉よりも先に刃が交錯する。あばれるろんたの狂乱の咆哮が響く中で、人間同士が背中を刺し合い、切っ掛けを作り、血煙を巻き上げて倒れていく。

 

 

 

魔物の猛威と、人間の狂気。その二つが渦巻く混沌とした惨状を、ルートは壁の暗がりから至極冷徹な瞳で見つめていた。

 

 

 

(……群がれば、魔物の餌食になるだけだ)

 

 

 

チケットの現出に目を眩ませた挑戦者たちが互いを切り刻んでいる隙に、暴走状態の『あばれるろんた』が太い腕と爪を振り回し、群がる人間ごとまとめてなぎ倒していく。絶叫と鮮血が赤い石畳を濡らし、広場はまさに地獄絵図と化していた。

 

 

 

狂乱の渦から静かに視線を外し、ルートは腰の愛剣の柄にそっと手を添えた。

 

 

 

昨日ミルキーの店で研ぎ直した研ぎ澄まされた刃。自分を送り出してくれたガルドとチエリの言葉。

 

 

そして何より、宿のベッドで静かに自分の帰りを信じて待っているミナモの儚い笑顔。

 

 

 

(混戦に飛び込む必要はない。狙うべきは、確実な一瞬……)

 

 

 

本戦チケットを手に入れ、ミナモの待つ地上へ生きて還る。

 

 

 

己の目的を胸の中で強く再確認すると、ルートの瞳に宿る冷たい闘志が、赤い闇の中で研ぎ澄まされた刃のように鋭く光った。

 

 

 

ルートは呼吸を完全に殺し、狂気と死が支配するB3Fの深部へ向かって、滑らかな足取りで踏み出していった。

 

 

 

 

 

あばれるろんたと狂乱する冒険者たちが血みどろの潰し合いを繰り広げる大広場を背に、ルートは気配を消したまま、広場の端に伸びる細い側道へと滑り込んだ。

 

 

 

 

(…あの乱戦に巻き込まれれば、無駄に体力を削られる上に後ろから刺されるリスクが高すぎる)

 

 

 

赤い魔導石の光すら届かない、入り組んだ細い坑道。

 

 

 

広場のようなド派手な喧騒からは遠ざかったものの、だからといってこのコースが安全というわけではない。

 

 

むしろ、人の立ち入らない死角だからこそ、待ち伏せや隠れた怪異の危険度が跳ね上がる場所だ。

 

 

 

ルートは右手を愛剣の柄に置いたまま、左手で壁の突起を探り、一歩一歩の足音を殺して静かに進んだ。

 

 

 

その時、暗闇の奥から湿った水音と、空気を腐らせるような強烈な生臭さが漂ってきた。

 

 

 

ぬめりを帯びた赤い影が、壁の影からヌッと姿を現す。

 

 

 

地下1階で見かけたイカマンの同種でありながら、体皮が禍々しい赤色に変異した上位種——『あかいイカマン』だ。

 

 

通常種とは比較にならない巨躯と、岩をも溶かす強力な強酸の体液を体内に溜め込んだ、B3Fの難敵である。

 

 

 

「ヌチャアァァッ!」

 

 

 

あかいイカマンは目玉をギラつかせると、こちらの立ち上がりを待たずに太い触手をムチのようにしならせて襲いかかってきた。

 

 

 

「くっ……!?」

 

 

 

 

速度が1階の個体とはまるで違う。重く鋭い触手の横薙ぎを、ルートはとっさに剣の腹で受け止めた。

 

 

 

 

ガキィンッ! と金属音が響き、手首に痺れるような衝撃が走る。

 

 

 

 

次の瞬間、触手の先端からブシュッ! と勢いよく撒き散らされたのは、ドロリとした赤い強酸の体液だった。

 

 

 

「しまった……!」

 

 

 

 

間一髪で体を捻って後ろへ跳躍したが、飛沫の一部が左肩の革鎧をかすめた。

 

 

 

ジュワッ!

 

嫌な音とともに、買い直したばかりの装備が瞬く間に煙を上げて溶けていく。皮膚に焼けるような激痛が走り、ルートは小さく歯を喰いしばった。

 

 

 

(酸の範囲が広すぎる……受けるのは危険だ)

 

 

 

あかいイカマンは勢いに乗り、無数の触手を槍のように連続で突き出してくる。

 

一本一本が重く、かすり傷一つでも酸によって行動を制限される悪循環。

 

暗く狭い坑道という地形も相まって、回避の動作が制限されていた。

 

 

 

 

だが、ルートは痛みに意識を奪われることなく、冷静に相手の動きを観察した。

 

 

 

触手を放つ直前、あの赤い巨躯がわずかに収縮する。酸を体内で圧縮させるための予備動作だ。

 

 

 

(間合いを詰めるなら、その瞬間しかない)

 

 

 

あかいイカマンの胴体が大きく膨らんだ。次の瞬間、全方位へ強酸のブレスが放たれる——。

 

 

 

 

「ハッ!」

 

 

 

 

ルートは退くのではなく、死地である正面へと低く踏み込んだ。

 

 

 

 

頭上を大量の強酸がかすめ飛び、背後の石壁を激しく溶かしていく熱気が首筋を焼く。

 

 

ギリギリの紙一重で酸の射程孔をくぐり抜けたルートは、あかいイカマンの懐深くへと滑り込んでいた。

 

 

 

狙うは、触手の根元に隠された中心の核。

 

 

 

 

 

「うぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

一閃。

 

 

 

 

 

手入れされたばかりの鋭利な刃が、あかいイカマンの肉皮を断ち切り、核を一気に貫いた。

 

 

 

「グチャ……ッ!? ガ、ア……」

 

 

 

 

激痛に身をよじらせたあかいイカマンだったが、核を破壊されたことで体液の供給が止まり、そのまま力なく倒れ込んでドロドロとした泥状になって消えていった。

 

 

 

 

「ハァ……ハァ……っ」

 

 

 

 

ルートは膝をつきそうになるのを踏みとどまり、荒い息を整えた。

 

 

 

 

左肩の革鎧は酸で惨めに溶け落ち、焼けた皮膚が赤く腫れ上がっている。己の能力による再生の熱を感じつつも、ルートは顔をしかめた。

 

 

 

 

(地下1階や地下2階の魔物とは、殺傷能力の桁が違う……。一瞬の判断ミスが死につながるな)

 

 

 

手入れした装備のおかげで斬撃の通りは良かったが、防御面でのヒヤリとする敗北感を味わされていた。

 

 

ルートは消え去った魔物の跡から転がり出た上質の素材を拾い上げ、噛み締めるようにポーチへ収めた。

 

 

 

肩の痛みを耐えながら、さらに慎重に細い坑道を奥へ奥へと進んでいく。

 

 

 

(チケットを持つ魔物、あるいは宝箱……。リスクを冒してこのルートを選んだんだ、必ず何かあるはずだ)

 

 

暗闇の中で研ぎ澄まされた感覚が、前方の曲がり角の先から「違和感」を捉えた。

 

 

 

人の気配はない。だが、微かに漏れ出る異様な魔力の波動と、硬質な金属が擦れ合うような重々しい音。

 

 

 

ルートは壁に身を潜め、角からそっと覗き込んだ。

 

そこにあったのは、行き止まりの小部屋だった。

 

 

 

部屋の中央には、古びた、しかし重厚な彫刻が施された宝箱が一つ。そして、その宝箱を守るように蠢く、不気味な影——。

 

 

 

ルートの瞳が、痛みを忘れたかのように、赤い闇の中で鋭い光を帯びた。

 

 

 

(見つけたか……)

 

 

 

ミナモの待つ地上へ生きて帰るための鍵。そして本戦への切符。

 

 

 

ルートは傷ついた肩を軽く回して痛みを逃すと、愛剣の柄を固く握り直し、暗闇の中から静かに死線へと踏み出していった。

 

 

 

 

 

行き止まりの小部屋の中央。重厚な宝箱の前に鎮座していたのは、二足歩行の豚のような巨躯に禍々しい威圧感を纏わせた異形の魔物——『怒ぶたバンバラ』だった。

 

 

地下1階や地下2階で見かける通常のぶた系モンスターとは比較にならない巨体と圧倒的な筋力。

 

 

地下3階のモンスターの中でもトップクラスの攻撃力と凄まじい突進力を誇る、冒険者泣かせの強敵だ。

 

 

 

だが、ルートの視線が固定されたのは魔物そのものではない。

 

怒ぶたバンバラが足元に転がしている宝箱の隙間から、赤い魔導石の光を反射して怪しく輝く一枚のメダル——間違いなく『本戦チケット』だった。

 

 

 

(……宝箱の中身か、あるいはあの魔物自体が所有しているのか)

 

 

 

左肩の強酸による激痛の感覚の残りを意識の奥底へ押し込め、ルートは呼吸を殺して愛剣を静かに抜き放った。

 

 

あかいイカマンとの戦闘で鎧は傷つき、気力も削られている。万全ではない。だが、退くという選択肢はなかった。

 

 

 

「ブモォォォッ……!!」

 

 

 

怒ぶたバンバラが豚特有の不気味な鼻鳴らしとともに目を血走らせ、侵入者であるルートへと向き直る。

 

 

丸太のように太い腕が振り上げられ、空気を激しく押し潰す重苦しい風圧が押し寄せてきた。

 

 

 

 

(正面から打ち合えば、こちらの手首か剣が砕ける。狙うべきは、肉の隙間と関節部……!)

 

 

 

 

「ハッ!」

 

 

 

ルートは低く地を這うような踏み込みで間合いを詰めた。直後、怒ぶたバンバラの丸太のような拳が容赦なく振り下ろされる。

 

 

 

 

ドガァンッ!

 

 

 

 

激しい破砕音とともに、石畳が力任せに砕き割られた。間一髪、左へ身を躍らせてかわしたルートは、砕けた石の破片を浴びながらも、怒ぶたバンバラの側面に滑り込む。

 

 

 

 

(そこだ……!)

 

 

 

 

分厚い肉の隙間、露出した頸動脈へ向けて、研ぎ澄まされた刃を突き立てる。

 

 

 

 

ガリィンッ!

 

 

 

 

手首に激しい痺れが走った。手入れされた刃は通ったものの、分厚い脂身と強靱な筋肉に阻まれ、深部までは届かない。想像以上の異常なタフさだ。

 

 

 

 

「ブガァァァッ!」

 

 

 

 

激痛に怒り狂った怒ぶたバンバラが、血走った目でルートを睨みつけ、巨体ごと地響きを立てて横薙ぎに腕を振るった。

 

 

狭い小部屋、回避のスペースはない。

 

 

 

 

ルートはとっさに剣の腹を滑らせ、直撃を避けるように斜めに受け流そうと試みた。

 

 

 

 

しかし——重さが違いすぎた。

 

 

 

 

ズガァンッ!

 

 

「グハッ……!?」

 

 

 

 

受け流しきれなかった凄まじい衝撃が全身を襲い、ルートの身体は弾け飛んだ。

 

 

生半可な受けでは殺しきれない質量。

 

 

ルートは壁際まで吹き飛ばされ、石壁に背中から激しく激撃した。

 

 

 

 

肺から一気に空気が押し出され、視界が真っ白に染まる。

 

 

 

「カハッ、ガハッ……!」

 

 

 

 

背骨が鳴り、肋骨に亀裂が入る不快な感覚。

 

間髪置かずに超回復の能力が働き、体内で肉体と骨が強引に繋ぎ合わされていく。

 

だが、それに伴う激烈な痛覚が、容赦なくルートの神経を焼き尽くす。

 

 

 

「う、あぐッ……!」

 

 

 

 

痛みに膝をつきかけるルート。だが、怒ぶたバンバラは追撃の猶予など与えてはくれない。

 

 

 

「ブモォォアアアッ!」

 

 

 

 

巨体を前傾させ、短く太い足を激しく踏み鳴らしながら、怒ぶたバンバラが猛然と突進を開始した。

 

 

狭い行き止まりの部屋の中、壁に追い詰められたルートへ向かって、巨大な肉の塊が壁ごと押し潰さんと迫ってくる。

 

 

 

あかいイカマン戦での消耗、砕けかけた身体、そして逃げ場のない狭隘な空間。

 

 

 

絶望的な死線の中、ルートは痛む身体を無理やり威圧し、激痛に歪む顔で必死に剣を構え直した。

 

 

 

 

(耐えろ……! ここで倒れるわけには……いかない……!)

 

 

 

血の混ざった息を吐き出しながら、ルートは迫り来る死の突进をまっすぐに見据えた。

 

 

 

視界のすべてを埋め尽くす怒ぶたバンバラの肉の壁。

 

 

背中には冷たい石壁。退路は完全に塞がれ、激突までの猶予は一秒にも満たない。

 

 

 

(ここで終わるわけにはいかない……! 俺が倒れれば、ミナモはどうなる……!)

 

 

 

 

死の恐怖が脳裏をかすめた瞬間、ルートの頭火は恐ろしいほど冷たく研ぎ澄まされた。

 

 

 

背骨の亀裂と肋骨の痛みを強引に修復しようとする「超回復」の強烈な熱が、全身の神経を灼熱の針で刺すように苛む。

 

 

だがルートはその激痛を叫びへと変えることなく、奥歯が砕けんばかりに噛み殺した。

 

 

 

激突の直前、ルートは壁を蹴り、死地である「魔物の真下」へ向けて己の身体を滑り込ませた。

 

 

 

 

ズバァァァンッ!

 

 

 

 

頭上を怒ぶたバンバラの巨体がすれすれで通り過ぎ、背後の石壁に激しい地響きとともに叩きつけられる。

 

 

崩落する石塊と白煙が狭い部屋に充満する中、突進の勢いを殺しきれず体制を大きく崩した魔物の足元——完全に無防備となった下腹部が、ルートの目の前に露わになった。

 

 

 

 

「おおおぉぉぁぁッ!」

 

 

 

 

全身の超回復の熱を力に変え、下から突き上げる起死回生の一閃。

 

 

 

昨日ミルキーの店で研ぎ直された鋭利な刃が、怒ぶたバンバラの唯一の弱点である柔らかい下腹部を深々と穿ち、そのまま力任せに横一文字へ引き裂いた。

 

 

 

「ブギャアァァァッ!?」

 

 

 

部屋中に撒き散らされる不快な鮮血。絶叫を上げた怒ぶたバンバラは半狂乱となり、太い腕を振り回して暴れ出した。

 

 

 

丸太のような拳のかすり傷がルートの頬を深く裂き、強烈な衝撃で壁際へと弾き飛ばされる。だが、骨までは届かない。

 

 

 

「……終わりだ!」

 

 

 

回転しながら着地したルートは、激痛を上げる膝を無理やり威圧し、間髪入れずに再踏み込みを見せた。

 

 

 

腹部を押さえてのたうち回り、姿勢を崩した魔物の隙。狙うはただ一つ、太い首筋——脈打つ致命の動脈。

 

 

 

 

ズドッ!

 

「ブゴ……ッ、ガ……ッ……」

 

 

 

 

手応え十分。刃が深く、根元まで首筋へと突き刺さる。

 

 

 

怒ぶたバンバラは血走った目を剥き出し、信じられないという表情でルートを睨みつけた。

 

しかし、溢れ出る血を止める術はなく、巨体はグラリと揺れると、地響きを立ててその場に倒れ伏した。

 

 

 

そのまま泥のように崩れ去り、魔物の気配が消えていく。不気味な静寂が、狭い小部屋を再び支配した。

 

 

 

「ハァ……ハァ……ハァ……っ」

 

 

 

 

ルートは血と汗に塗れた剣を地面に突き立て、それを杖代わりにしながら、力なく膝をついた。

 

 

 

左肩の痛熱傷、背中と肋骨の激痛が限界を超えて暴れていたが、体内で肉体が強引に繋ぎ合わされていく熱を感じる。決して無傷の勝利ではない。

 

だが、この惨状の中で生き残ったのはルートだった。

 

 

消え去った魔物の残骸の先。

 

 

転がった宝箱の傍らに、ぽつんと落ちている一枚の金属メダル。

 

 

 

ルートは荒い息を吐きながらゆっくりと立ち上がり、重い足取りで歩み寄ると、それを拾い上げた。

 

 

 

 

朱色の光を弾く、冷たい金属の質感。表面に深く刻まれた、闘神都市の特別な刻印。

 

 

 

『本戦チケット』——間違いなく、予選突破を証明する唯一の証だった。

 

 

 

「……獲ったぞ」

 

 

 

 

握りしめた手のひらに、ずっしりとした重みが伝わる。

 

 

 

過酷で理不尽な予選迷宮を生き抜き、ついに本戦への切符をその手に掴み取ったのだ。これで、ミナモの病気を治すための舞台に立つことができる。

 

 

 

 

ルートはサッと剣の血を払い、滑らかな動作で鞘へ収めた。腰のポーチにチケットを固くしまい込むと、ミナモの待つ地上へ還るため、暗い迷宮の出口へ向けて確かな一歩を踏み出した。

 

 

 

 

【予選迷宮入口】

 

 

 

迷宮の闇を抜け、地上へと連なる重厚な傾斜を登り切った瞬間、ルートの肌を冷たい風が撫でた。

 

 

 

地下3階の朱い光と血生臭い空気とは対照的な、開けた空。だが、予選最終日の熱気を帯びた広場は、未だ混迷と殺気の中にあった。

 

 

 

傷つき疲弊した者、仲間を失い立ち尽くす者、そしてチケットを手に入れられず絶望に打ちひしがれる者たち。

 

 

そんな狂乱の混雑を押し分けるようにして歩くルートの全身からは、隠しきれない死線の匂いと、傷が塞がりかけた生々しい血の跡が漂っていた。

 

 

 

門の傍らに立ち、引き揚げてくる者たちの品定めをしていた警備隊長シュマイゼンが、鋭い眼光をルートに向けた。

 

 

 

重甲冑の脚音を響かせ、シュマイゼンがルートの前へと立ちふさがる。

 

 

 

「……戻ったか、挑戦者よ」

 

 

 

シュマイゼンは兜の奥から、低く響く声で呟いた。その視線は、ルートの体に刻まれた凄惨な戦闘の痕跡——特に強酸で焼き切られた左肩の革鎧と、血に濡れた衣類に注がれる。

 

 

 

「地下3階の洗礼は並大抵ではなかったようだな。……だが、その面構え。ただ打ちのめされて逃げ帰ってきた者の顔ではない」

 

 

 

ルートは脚を止め、シュマイゼンと正面から視線を交わした。

 

 

 

「……なんとか生きて戻れたよ」

 

 

「生き戻っただけか? 貴様のその腰のポーチ、ずっしりと重みが増しているように見ゆるが」

 

 

 

シュマイゼンがフッと口角を上げる。ルートは無言のまま、ポーチの口をわずかに開き、中に収められた青く輝く『本戦チケット』の金属光沢を、シュマイゼンだけに覗かせた。

 

 

 

シュマイゼンの瞳が一瞬、目を見開かれる。

 

 

 

「……見事だ」

 

 

 

警備隊長は深く、誇らしげに頷いた。

 

 

 

「魔物か、あるいはあの狂乱の人間どもか……何を退けて手に入れたかは問わん。そのチケットこそが、貴様が修羅場を潜り抜けた絶対の証。予選突破、実におめでとう」

 

 

 

 

「……ありがとう。…助言のおかげかな」

 

 

 

ルートが淡々と告げると、シュマイゼンは重々しく首を振った。

 

 

 

「助言を生かしたのは貴様自身の生存本能だ。……だが、浮かれるなよ。本戦は予選の比ではない。街の猛者、異国の剣豪、さらには怪物めいた闘士どもが牙を研いで待っている」

 

 

 

シュマイゼンの視線が、ルートのボロボロになった装備へと落ちる。

 

 

 

「まずはその身を休め、得た戦利品を金に変えろ。その傷んだ鎧と刃では、本戦の一回戦すら持ちこたえられんぞ。中央通りの換金所へ行き、それから武器店へ向かうといい。」

 

 

「ああ、そうするつもりだ」

 

 

「行け、挑戦者。本戦の舞台で、再びその力を見せつけてみせよ」

 

 

 

シュマイゼンの力強い言葉に見送られ、ルートは予選迷宮の門を後にした。

 

 

 

広場を抜け、活気と喧騒が渦巻く闘神都市の中央通りへと足を進める。

 

 

 

全身の骨や肉が「超回復」によって強引に接合されたことによる熱と脱力感が、じわじわと気力と精神力を奪っていた。

 

 

だが、胸の中に灯る確かな手応えが、ルートの脚を前へ前へと動かしていた。

 

 

 

(まずは換金所…。地下二階でライラに貰った宝石と、地下3階の戦利品……。これらを全て金に変える)

 

 

 

ミナモに飲ませる薬の費用や宿代、そして本戦を勝ち抜くための新たな武具の購入費。

 

 

手の中にある本戦チケットの冷たさを感じながら、ルートは目的の換金所、そしてその先にあるミルキーと武具屋の待つ路地裏へと、力強い足取りで向かって行った。

 

 

 

 

 

【商業区画・武具店『鋼の拳亭』】

 

 

換金所で魔石や戦利品を黄金に換え、幾分か重みを増した財布を懐に放り込んだルートは、その足で路地裏に佇む武具店『鋼の拳亭』の暖簾をくぐった。

 

 

 

店内に一歩足を踏み入れやす否や、カウンターの向こうからけたたましい甲高い声が飛んできた。

 

 

 

「ちょっとちょっとお兄さん! なにその格好!? 泥と血でドロドロなのは百歩譲るとして、その肩の鎧なんて酸でドロドロに溶けてるじゃないのさ!」

 

 

 

看板娘のミルキーが、目を丸くしてルートへ駆け寄ってくる。彼女の視線は、ルートの腰に下がった愛剣へと一直線に注がれた。

 

 

 

 

「……はあぁぁ、やっぱり! 剣の刃がガタガタのボロボロじゃないの! 研ぎ直したばっかりなのに、一体どんな無茶な使い方したらこうなるわけ!?」

 

 

 

 

呆れ果てたように腰に手を当てるミルキーに、ルートは静かに刃を鞘ごと外して差し出した。

 

 

 

 

「ちょっと強い魔物と殺し合ってきた。……手入れをお願いできる?」

 

 

「ちょっと!? どんな化け物とやり合ったの!? 無茶苦茶だよもう……」

 

 

 

 

ミルキーはブツブツと文句を言いながらも、手際よく剣を受け取ると、職人の真剣な目つきで刃の歪みや細かな刃こぼれをチェックし始めた。

 

 

 

「剣の手入れなんて、その辺の砥石で適当に擦るだけじゃ限界があるんだからね。目に見えない金属疲労をちゃんと職人が調整しなきゃ、次はいざって時にポッキリ折れて命を落とすよ!」

 

 

 

 

手慣れた手つきで叩き、角度を微調整し、丁寧に刃を研ぎ澄ましていくミルキー。その滑らかな仕事ぶりを眺めながら、ルートは小さく息を吐いた。

 

 

 

「……頼みに来てよかった。武器の質の差と手入れの大切さは。…前の探索で痛いほど痛感したからね」

 

 

 

「ふふん、分かればよろしい! 腕がいいのは認めるけど、いい武器を使えばそれだけ戦いだって楽になるんだからね」

 

 

 

ミルキーは自慢げに鼻を鳴らしたあと、ふっと声を低くして、どこか戒めるような真面目な顔つきでルートを見つめた。

 

 

 

 

「……だからって、あの危険な『闇市』みたいな怪しい場所には、絶対に行こうなんて思わないでよね!」

 

 

 

「……闇市?」

 

 

 

聞き覚えのない単語に、ルートの眉が微かに動いた。ミルキーは真剣な眼差しで頷く。

 

 

 

「そう、街の地下深くにある裏の市場! あそこなら運が良ければ安く強力な業物が手に入るかもしれないけど……出品者はろくでもない悪党ばかりだし、ウチみたいにアフターケアやメンテナンスまで面倒見てくれるわけじゃないんだから! 巻き込まれて殺されるのが落ちだよ!」

 

 

「おいミルーッ!!」

 

 

 

突如、店の奥の工房から雷のような怒声が響き渡った。

 

 

 

ドカドカと激しい足音を立てて現れたのは、頑固一徹を絵に描いたような巨漢の親父だった。親父は一直線に近づくと、ミルキーの頭を拳骨でペシッと軽く小突いた。

 

 

 

「いたっ!…っ痛いなぁ、何するの!親父!」

 

 

「バカ野郎が! 余計な口を滑らせてんじゃねえ! 闇市なんてろくでもない危険な場所の名前を、見込みのある客に吹き込んでどうすんだ!」

 

 

 

親父はミルキーを一喝すると、腕組みをして威圧感たっぷりにルートを睨みつけた。

 

 

 

「いいか小僧! 闇市なんてのは、追いはぎや殺し屋が盗品をなんでも売りさばく肥溜めみたいな場所だ。安さや強力な効能に目が眩んで足を踏み入れた奴で、ロクな死に方をした奴を見たことがねえ。変な考えは捨てて、素直に街の正規店で品を揃えな!」

 

 

 

「……ああ、肝に銘じておく」

 

 

 

ルートは短く返答した。しかし、彼の胸の奥深くには、親父たちの警告とは裏腹に『闇市』という言葉が力強く刻み込まれていた。

 

 

 

(なんでも売りさばく、か……)

 

 

 

本戦の猛者たちと渡り合うためには。

ミナモの薬代や宿代を確保しつつ、さらに上を目指すならば。

いずれ避けては通れない選択肢になるかもしれない——そう直感していた。

 

 

 

 

「……ほら、できたよ! 今度は大事に使ってよね!」

 

 

 

 

ミルキーが差し出してきた愛剣は、先ほどまでの惨状が嘘のように歪みが正され、冷たい殺気を孕んだ美しい光沢を取り戻していた。

 

 

 

「…ありがとう。はい。代金」

 

 

 

しっかりと研ぎ澄まされた愛剣を腰に納め、ルートは提示された硬貨をカウンターに置いて店をあとにした。

 

 

 

背中にミルキーの「無茶しちゃダメだからねー!」という叫び声を聞きながら、ルートは本戦チケットの入ったポーチの重みを感じ、ミナモの待つ宿『月光亭』へ向かって静かに歩き出した。

 

 

 

 

 

【宿】

 

『月光亭』の裏手にある井戸端で、ルートは手早く全身の血と泥を洗い流した。冷たい水が、強酸で焼けた左肩の傷跡と、超回復の熱が残る肉体を心地よく冷やしていく。

 

 

 

真新しい衣服に着替え、ボロボロになった革鎧を部屋の隅に置くと、ルートは静かに部屋のドアを開けた。

 

 

 

「あ……ルート!」

 

 

 

ベッドの上で身体を起こしていたミナモが、ぱっと表情を明るくさせた。

 

 

 

夕暮れの柔らかい光が差し込む部屋の中、彼女は小さく安堵の息を漏らす。

 

だが、ルートの身に纏うほのかな血の臭いを察すると、その瞳に心配の色が広がった。

 

 

 

「おかえり……! すごく大変な戦いだったんだね。怪我……本当に大丈夫?」

 

 

「ん…大丈夫だよ」

 

 

 

ルートは静かに椅子を引き、ミナモのベッドの脇に腰を下ろした。

 

 

 

腰のポーチから取り出したのは、朱色の光を跳ね返す一枚の青い金属メダル——『本戦チケット』だ。それをミナモの小さな手のひらに優しく載せる。

 

 

 

「……獲ってきた。これで、本戦に出られる」

 

「これ、が……本戦のチケット……」

 

 

 

ミナモは両手で小さなメダルを包み込み、まるで宝物でも扱うかのように愛おしそうになぞった。その瞳から、ポロポロと大きな涙が溢れ落ちる。

 

 

 

「ありがとう、ルート……! 私のために、そんな危険な思いをしてまで……」

 

「…俺が勝つと決めたから、そうしているだけだよ」

 

 

 

淡々と答えるルートだったが、その声の響きには、迷宮の中では決して見せない微かな温もりが宿っていた。

 

 

 

ルートは今日一日の出来事を静かに語って聞かせた。B2Fで出会った女剣士のこと、あかいイカマンの強酸、そしてB3Fの奥で死闘を繰り広げた『怒ぶたバンバラ』との激戦。

 

さらには、武具店のミルキーたちから聞いた『闇市』という危険な場所の噂まで。

 

 

 

 

ミナモは息を飲み、時に胸の前で手を強く握りしめながら、ルートの言葉一つひとつに真剣に耳を傾けていた。

 

 

 

「……闇市、か。すごく危険そうな場所だね。ルート、あんまり無理はしないでね……?」

 

 

「分かっているよ。勝算のない危橋は渡らないし」

 

 

 

語り終える頃には、部屋の窓の外は深い群青色の夜に包まれていた。

 

 

 

「超回復」の反動による激しい精神的な疲労感が、どっとルートの全身に押し寄せてくる。

 

 

骨や肉が強引に繋ぎ合わされた肉体は、強烈な休息を求めていた。

 

 

 

 

「ルート……今日はもう、ゆっくり休んで。本当にお疲れさま」

 

 

ミナモはベッドの中で柔らかく微笑むと、布団を掛け直した。

 

 

 

「うん…。おやすみ、ミナモ…」

 

 

 

ルートは短く燭台の火を吹き消すと、壁に立てかけた愛剣の柄を一度だけ確かめ、自身のベッドへと身を横たえた。

 

 

 

暗闇の中、胸のポケットにある本戦チケットの重みと、隣から聞こえるミナモの規則正しい寝息を感じながら、ルートは静かに深く、明日からの本戦へ向けた眠りについた。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。