※この作品はR-18です。

闘神都市Ⅳ   作:勇者パンスト

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本戦1日目

【宿】

 

 

朝の薄明かりが、宿屋『月光亭』の小さな窓から静かに差し込んでいた。

 

 

 

小鳥のさえずりが微かに届く静寂の中、ルートはいつも通り、誰に起こされるでもなく静かに目を覚ました。

 

超回復がもたらす激しい肉体の熱は収まり、体に残っていた重い疲労感も綺麗に消え去っている。

 

 

 

身体を起こし、隣のベッドへ視線を向ける。

 

 

 

そこには、布団にくるまって規則正しい寝息を立てているミナモの姿があった。

 

昨日の疲労が残っているのか、その頬はほんのりと赤みを帯び、穏やかな寝顔を浮かべている。

 

 

 

(……今日から、本戦1日目だ)

 

 

 

ルートは無言で身支度を整えると、昨晩ミルキーの店でピカピカに磨き直された愛剣を腰に履いた。

 

 

 

「ん……ルート……?」

 

 

 

衣擦れの音に反応したのか、ミナモが長い睫毛を揺らし、ゆっくりと目を擦りながら身体を起こした。まだ頭が働ききっていないのか、ぽんやりとした瞳でルートを見つめている。

 

 

 

「起こしちゃった…?」

 

「ううん……おはよう、ルート」

 

 

 

ミナモは小さく欠伸を噛み殺すと、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。

 

その表情に、昨日の予選での凄惨な死闘の面影はない。ルートの心が、ほんのわずかに解れるのを感じた。

 

 

 

「今日は……トーナメントの組み合わせ発表、だよね?」

 

 

 

「ああ。朝の『闘神テレビ』で放映されるはずだ」

 

 

 

闘神都市が誇る魔導技術の結晶——魔力を用いて映像と音声を遠方へ届ける『闘神テレビ』。

 

大会期間中、街の至る所に設置された大型モニターや主要な宿屋の共有スペースでは、予選を勝ち抜いた猛者たちの顔ぶれと、栄光ある本戦1回戦の対戦カードが一番に発表されることになっていた。

 

 

 

「……私も見に…行く、ね…?」

 

 

 

ミナモはゆっくりと布団から出ると、身支度を始めた。

 

 

「ゆっくりでいいよ?」

 

「………うん」

 

 

そのミナモの姿に、ルートは言葉を返さず、ただ静かにドアを開けた。

 

「行くぞ」

 

「………うんっ」

 

 

 

二人は並んで部屋を出て、まだ朝靄の残る『月光亭』の階段を降り、賑わい始めていた1階の広場へと向かった。

 

 

 

 

【宿1階】

 

 

 

階段を降り切ると、普段は朝食をとる宿泊客で賑わう『月光亭』の1階食堂は、すでに独特の熱気と緊張感に包まれていた。

 

 

 

看板娘のチエリが忙しなく店内を駆け回り、ガルドが険しい顔で大柄な体を壁に預けている。

 

 

中央の壁に据え付けられた大きな魔導装置——『闘神テレビ』のモニター前には、殺気を漂わせた荒くれ者や冒険者たちが群がり、今か今かと画面を凝視していた。

 

 

 

熱気に満ちた食堂の雰囲気に、ミナモはルートの袖をキュッと固く握りしめた。

 

 

 

「あ、ルート! ミナモちゃん! おはよう!」

 

 

 

二人の姿に気づいたチエリが、トレーを抱えたまま駆け寄ってくる。

 

 

 

「おはよう、チエリさん……。もう、始まってるの……?」

 

 

 

ミナモは身を縮め、周囲の物騒な男たちを警戒するように上目遣いで尋ねた。

 

 

 

「ううん、今ちょうど特別番組のカウントダウンが入ったところ! ほら、席あけてあるからこっち来なよ!」

 

 

 

チエリに促され、二人はモニターがよく見えるテーブル席についた。ガルドがチラリとルートに視線を送り、短く頷いてみせる。ルートもまた、無言で頷き返した。

 

 

 

直後、魔導石が強い輝きを放ち、モニターに色彩豊かな映像が映し出された。

 

 

 

ファンファーレの大音響とともに、画面には色鮮やかなグラフィックと、アナウンサーの高加減な声が響き渡る。

 

 

 

『——お待たせいたしました! 闘神都市の誇る熱狂の祭典、闘神大会本戦! 激戦の予選迷宮を突破し、見事本戦への切符を手に入れた猛者たち……その全貌を、これより一挙発表いたします!』

 

 

 

食堂内が一瞬で静まり返る。誰もが息をのんで画面を見つめていた。

 

 

 

画面には、予選を突破した勇士たちの名前と、不気味な肖像画が次々と映し出されていく。各国で名を馳せた凄腕の剣豪、異形の巨躯を誇る重戦士、怪しげな魔導士——いずれも一筋縄ではいかない猛者ばかりだ。

 

 

 

モニターに映る恐ろしい形相の男たちを見るたび、ミナモは生唾を飲み込み、ルートの腕にしがみつく力を強めた。

 

 

 

 

 

(こんなに強そうな人たちばかりなんだ……。ルート、本当にこんな人たちと戦うの……?)

 

 

 

そして、トーナメント表がゆっくりとスクロールし、第1回戦の組み合わせ画面へと切り替わった。

 

 

 

『続きまして、注目の1回戦・Aブロック第3試合!』

 

 

 

ファンファーレとともに、二つの名前が画面中央に大きく表示された。

 

 

 

【猛攻の重戦士 ガザック】 VS 【孤高の剣士 ルート】

 

 

 

「あ……」

 

 

 

ミナモの喉から、小さな悲鳴のような声が漏れた。

 

 

 

画面にハッキリと刻まれた【ルート】の文字。そしてその隣に並ぶ、巨漢の肖像画と『猛攻の重戦士』という禍々しい二つ名。

 

 

 

「あった……。ルートの名前……本当にある……」

 

 

 

ミナモの声は震えていた。ルートが無事に予選を突破した凄さを実感すると同時に、これから始まる「本戦」という殺戮の舞台の恐ろしさが、どっと押し寄せてきたのだ。

 

 

抱きしめたルートの腕から、彼女の小刻みな震えが伝わってくる。

 

 

 

「見ろよ、本当に本戦のトーナメント表に載ってるぜ……あの若い兄ちゃん、予選を突破しやがったんだ」

 

 

 

「ガザックだと? あの『猛攻』のガザックかよ……いきなりえげつない相手と当たったな。あの巨体で潰されたら骨も残らんぞ」

 

 

 

周囲の客たちから漏れ出る、容赦のない死合の予想。ミナモは顔を青くし、不安そうにルートを見上げた。

 

 

 

「ルート……相手の人、すごく強そうだよ……。大丈夫……なのかな……?」

 

 

 

「ふん……上等な組み合わせじゃねえか」

 

 

 

壁際にいたガルドが、腕を組んだまま低く割り込んできた。

 

 

 

「ガザックは腕力任せの猪突猛進に見えて、場数を踏んだタフな戦士だ。生半可な斬撃じゃ響かんぞ、ルート」

 

 

 

「……大丈夫」

 

 

 

自分の名が大きく刻まれた画面を冷たい瞳で見つめながら、ルートは淡々と答えた。

 

そして、不安で震えるミナモの頭にそっと手を置き、軽く撫でる。

 

 

 

「誰が相手だろうと、…勝つよ」

 

 

 

その声には一切の揺らぎはなかった。ルートの手の温もりに触れ、ミナモは少しだけ安堵したように息を吐いたが、その瞳には依然として隠しきれない心配の色が残っていた。

 

 

 

 

 

熱気に包まれる『月光亭』の食堂で、画面に流れるトーナメント表を一通り映し終えた『闘神テレビ』の画面が、一転して重々しい暗転を見せた。

 

 

 

直後、画面には赤黒い魔力光を放つ巨大な鉄門の映像が映し出され、腹に響くような重厚な効果音とともにアナウンサーのトーンが跳ね上がった。

 

 

 

 

『——そして、本戦出場者諸君、並びに闘神都市の市民の皆様へ! 本日より、闘神大会の本戦舞台となる『闘神迷宮』の封印が解除され、完全解放されます!』

 

 

 

 

食堂のあちこちから「おおっ……!」とどよめきが湧き起こる。

 

 

 

 

だが、画面の隅に表示された迷宮のリアルタイム映像——澱んだ黒紫色の魔気が這い回り、奇怪な咆哮が木霊する地下洞窟の光景に、ミナモは小さく身を竦め、ルートの腕を握る手をさらに強めた。

 

 

 

アナウンサーの声が、どこか緊張を孕んだ異様な熱を帯び始める。

 

 

 

 

『……なお、大会運営委員会より緊急の注意喚起がございます。現在、本戦舞台となるこの大迷宮内部では、過去のいかなる大会と比較しても類を見ないほど異常な乱れが観測されております! 内部に生息するモンスター群は凶暴性を増し、仕掛けられた罠の危険度も跳ね上がっているとのこと! かつてない極限の死地と化した大迷宮……はたして、この過酷すぎる試練を生き残れる者が何人いるのか!?』

 

 

 

 

「過去に類を見ないほど非常に過酷、か……」

 

 

 

ルートの隣で画面を睨みつけていたガルドが、苦々しい表情で吐き捨てた。

 

 

 

 

「おいおいマジかよ……ただでさえ本戦用の迷宮は予選の比じゃねえ殺戮地帯だってのに、さらに危険度が増してるってのか?」

 

 

 

 

「冗談じゃねえぞ。チケットを手に入れた精鋭どもでも、初日で半分以上削られるんじゃねえか……?」

 

 

 

 

周囲の冒険者たちが顔を見合わせ、引きつった笑いを漏らす。

 

 

 

 

ミナモは青ざめた顔でルートを見上げ、震える声で囁いた。

 

 

 

 

「ルート……迷宮、そんなに危険なんだね……。テレビの人も、すごく危ないって言ってたよ……?」

 

 

 

「……だろうね」

 

 

 

ルートの表情はピクリとも動かない。だが、その瞳の奥には冷徹な計算の光が宿っていた。

 

 

 

危険度が跳ね上がっているということは、迷宮内で得られる素材や宝の価値も相応に跳ね上がるということだ。

 

そして何より、そんな極限状態の迷宮を探索することこそが、本戦1回戦までの貴重な研鑽となる。

 

 

 

「危険だからこそ、油断した奴から死んでいく。……それだけだよ」

 

 

「ルート……」

 

 

「大丈夫だ。ミナモ」

 

 

ルートは腕にしがみつくミナモの小さな手に己の手を重ね、短くそう言い切った。

 

 

 

画面の中では、アナウンサーが本戦開幕を告げる高らかな叫びを上げている。闘神都市全体が、さらなる狂気と熱狂の渦へと飲み込まれようとしていた。

 

 

 

闘神テレビの特別番組が終了し、画面が本戦の告知CMへと切り替わると、食堂を埋め尽くしていた冒険者たちの殺気立った喧噪が徐々に日常の雑多な話し声へと戻り始めた。

 

 

 

「……部屋に戻ろう」

 

 

 

ルートが短く声をかけると、ルートの腕にしがみついたまま固まっていたミナモは、ハッと正気に戻ったように顔を上げた。

 

 

 

「あ……うん。そうだね」

 

 

 

不安と緊張で身体をこわばらせていたせいか、ミナモの立ち上がりはどこかぎこちなかった。小さな手をぎゅっと握り締め、自分に言い聞かせるように何度も頷いてみせる。

 

 

 

「テレビ、すごかったね……。本戦に出る人たち、みんなすごく怖そうだったし、迷宮も大変なことになってるみたいで……」

 

 

 

「気にするな。俺のやるべきことは変わらない」

 

 

 

階段を上りながら、ルートは静かに答えた。

 

 

地下3階で死闘を繰り広げた怒ぶたバンバラの威圧感を思えば、テレビの向こうの猛者たちに怯える気など毛頭なかった。

 

ただひたすらに己の刃を研ぎ澄まし、立ちふさがる敵を叩き斬るだけだ。

 

 

 

だが、後ろをついてくるミナモの足取りが、一歩ごとに重くなっていることにルートは気づいていた。

 

 

 

(……疲れが出たかな?)

 

 

 

階段を上りきり、2階の廊下を進む。ミナモはルートの背中を見つめながら、健気にも口元に笑みを浮かべようと必死だった。

 

 

 

「ねえ、ルート。…今日から解放された闘神迷宮、これから早速行くんでしょ? 」

 

 

「うん。そのつもり」

 

 

 

「私…ルートが無事でいられるようにちゃんとお祈りしてるから」

 

 

 

健気に振る舞うミナモの声。しかし、その声は微かに擦れ、呼吸は階段を上っただけとは思えないほど浅く荒くなっていた。

 

 

 

部屋のドアの前に立ち、ルートは鍵を差し込んで扉を開けた。

 

 

 

「ついたよ」

 

「うん……——」

 

 

 

ミナモが部屋へと足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。

 

 

 

「つ……っ!?」

 

 

 

唐突にミナモの身体がピクリと大きく跳ね上がった。

 

 

 

言葉が途切れ、彼女は急激な苦悶に顔を歪めると、自分の胸元を両手で強く押さえた。

 

 

 

「ミナモ……?」

 

 

 

ルートが振り返るよりも早く、彼女の口から溢れ出したのは、今までの咳とは比べものにならないほど激しく、胸を削り取るような凄惨な湿った咳き込みだった。

 

 

 

「ガハッ……! コホッ、ゴホッ……ッ!?」

 

 

 

激しい咳とともに、ミナモの膝がガクガクと砕け折れた。

 

 

 

床に手をつき、荒い息を吐き出そうとするものの、胸の奥から押し寄せる苦痛の波がそれを許さない。喉の奥からヒューヒューと痛々しい喘鳴が漏れ、小さな体全体が目に見えて震えていた。

 

 

 

「ミナモッ!」

 

 

 

ルートは即座に身を投げ出し、床に倒れ込みそうになったミナモの華奢な体をすんでのところで受け止めた。

 

 

 

抱き上げた瞬間、腕から伝わってきたのは、服越しでもはっきりと分かる恐ろしいほどの熱気だった。

 

 

 

「熱い……!?」

 

 

 

まるで体内で火が焚かれているかのような灼熱。さっきまでほんのりと赤みを帯びていただけに見えた頬は、今や赤黒くのぼせ上がり、額には大量の不快な汗が滲み出ていた。

 

 

 

「ハッ……ハァ……ッ! ル……ート……胸が……苦し、い……っ」

 

 

「喋るな」

 

 

 

ルートはミナモを抱き上げ、慎重にベッドへと横たえた。

 

 

 

いつもなら、疲れや軽度の発作であれば、常備している抑止薬を飲ませてしばらく横にさせておけば落ち着くはずだった。

 

ルートは迷うことなく腰のポーチを漁り、街の薬局で買い溜めておいた瓶を取り出した。

 

 

水差しからコップに水を注ぎ、薬の錠剤をミナモの唇へと運ぶ。

 

 

 

「ミナモ。薬だよ」

 

「ん……つっ……ゴホッ!」

 

 

 

ミナモは弱々しく薬を飲み込もうとしたが、喉の猛烈な拒絶反応によって、水とともに吐き出してしまった。

 

 

 

激しい咳き込みが再発し、吐き出された液体がシートを濡らす。ルートは顔色ひとつ変えず、再び新しい錠剤を取り出し、今度は口移しに近い形で慎重に喉の奥へと押し込み、少量の水で流し込ませた。

 

 

 

ゴクリ、と小さな音が響き、薬は確かにミナモの胎内へと収まった。

 

 

 

ルートはミナモの胸元に手を当て、呼吸が整うのを待った。

 

 

 

一秒。十秒。一分。

 

——だが、何も変わらない。

 

それどころか、ミナモの顔色は刻一刻と土気色へと変わっていき、荒い呼吸は浅く速くなる一方だった。

 

いつもなら薬が胃に届けば、数分と経たずに体温が下がり始め、発作の波が引いていくはずなのだ。

 

 

 

(効いて……いない……?)

 

 

ルートの額に、冷や汗が伝った。

 

 

「ハァ……ハァッ……痛い……ルート、熱いよ……ッ」

 

 

ミナモの手が、ルートの服の袖をうわごとのように力なく掴む。その指先は氷のように冷たいのに、皮膚の表面は焼死しそうなほど熱い。

 

 

 

病魔が、ついにこれまでの薬に対する耐性を得てしまったのか。

 

ここで過ごした数日間の負荷、そして本戦というプレッシャーによる心身の疲労が一気に引き金となり、彼女の体を蝕む病が「次の段階」へと進行してしまっていた。

 

 

 

これまでルートが命がけで稼ぎ、買い与えてきた市販の薬すら、もはやただの気休めにすらならないという残忍な現実。

 

 

「……あ……あぁ……」

 

 

ミナモの瞳から、苦痛と恐怖の涙が零れ落ちる。

 

 

それを見つめるルートの冷徹な瞳に、かつてない焦燥の火が灯った。

 

 

 

「待ってろ、ミナモ。……すぐに戻る」

 

 

「ル……ト……っ」

 

 

 

背後で聞こえたうわ言のような悲痛な声に、振り返る猶予すら自分に許さなかった。一刻の猶予もない。

 

 

 

階段を駆け下り、騒がしい1階の食堂を疾風のように突き抜ける。

 

 

チエリが「えっ、ルート!? どうしたの!?」と驚きの大声を上げたが、応えることなく戸を押し開き、朝の陽光が眩しい街頭へと飛び出した。

 

 

 

(闘神迷宮へは後回しだ。まずはミナモの薬……!)

 

 

 

 

真っ先に向かったのは、この闘神都市で最高峰の施設と名高い『中央病院』だった。

 

 

 

 

過去、もしもの時のために視察へ訪れた際、院長のDr.マゼランが見せた冷酷な金亡者ぶりと「呪いなら治せん」という破廉恥な態度が脳裏をよぎる。

 

 

あのやぶ医者にミナモの命を預けるつもりなど毛頭なかった。

 

 

しかし、病院の薬局にある『最高級の処方薬』なら、あるいは今の発作を一時的に抑え込むだけの効き目があるかもしれない——その一縷の望みに賭けるしかなかったのだ。

 

 

 

 

重厚なオーク材の扉を乱暴に押し開ける。

 

 

 

 

強烈な消毒液の匂いと、無機質な白い空間。

 

 

奥からひたひたと床を鳴らし、サイズの合わないダボダボの白衣を着た人物——Dr.マゼランが薄笑いを浮かべて姿を現した。

 

 

 

「んん? なんだね君は。今朝は本戦の開幕で大忙しなんだ、冷やかしなら——」

 

 

「薬を出せ」

 

 

 

ルートはマゼランの言葉を遮り、胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。カウンターの木枠に強い手応えとともに両手を叩きつける。

 

 

 

 

「同行者の発作だ。熱が下がらず、今までの抑止薬が一切効かない。一番強い薬を、寄こせ!」

 

 

 

マゼランは気圧されるどころか、丸い瓶底眼鏡の奥で目を三日月のように細め、鬱陶しそうに手をシッシッと振った。

 

 

 

「ハッ! 何を言い出すかと思えば! だから以前も言ったろう? 我が中央病院の診察も受けず、病状の特定もなしに強力な薬だけ売れだと? 冗談じゃないねえ! 薬の無駄遣いだし、第一、金も払えんような闘士の身内に渡す薬など一粒もないよ!」

 

 

 

「金なら払う! 予選の戦利品を換金した金がここにある!」

 

 

 

ルートは革袋を叩きつけた。金貨と銀貨がジャラリと重い音を立てる。だが、マゼランはそれを鼻で笑った。

 

 

 

「甘いねえ、実に甘い! たかが予選の小銭程度で、我が病院の特効薬が買えるとでも思っているのかね? それに言ったはずだぞ。『薬が効かない』なら、それは病気ではなく進行した特有の『呪い』か『悪霊の類』だ! 現代医学の限界を超えたものに高級な薬を与えたところで、ドブに金を捨てるようなものだね!」

 

 

 

ケラケラと甲高い笑い声を上げるマゼラン。

 

 

 

「まあ、どうしてもと言うなら、気休めの高級ビタミン剤くらいならその小金で処方してあげてもいいがねえ! ハハハッ!」

 

 

 

ガタッ……!

 

 

 

ルートの手が、無意識に腰の愛剣の柄へと伸びた。強固な殺気が皮膚を突き刺すように静寂のロビーに満ちる。マゼランが一瞬で顔を引きつらせ、後ずさった。

 

 

 

(……ダメだ。斬ったところで、ここにミナモを救える薬はない)

 

 

 

殺気を極限まで押し殺し、握りしめた拳の爪が手のひらに深く食い込んで血が滲む。ルートは氷のように冷ややかな一言を吐き捨てた。

 

 

 

「……もういい」

 

 

「お、おい! ビタミン剤もいらんのかね!?」

 

 

 

背後で喚くやぶ医者の声を完全に無視し、ルートは病院を飛び出した。

 

 

 

照りつける朝の光の中、巨大な闘技場と闘神迷宮の影が絶望的にそびえ立っている。

 

 

 

頼れる者は誰もいない。正規の医療も、街の薬局も、ミナモの病の前には無力だった。

 

 

 

(……自分でどうにかするしかない。ミナモ……必ず薬を見つける)

 

 

 

ルートは血の滲む拳を固く握り締め、新たな薬の手がかりを求めて、狂乱と熱気に沸く街の広場へと足早に駆け出した。

 

 

 

 

 

【広場】

 

どれだけの時間、石畳を駆け巡っただろうか。

 

 

ルートは街の主要な薬局、怪しげな露店、果ては路地裏の胡散臭い薬種商に至るまで、手当たり次第に扉を叩き、金を提示して薬を求めた。しかし、帰ってくる返答はどこも惨椺たるものだった。

 

 

 

「そんな重度の発作に効く薬? うちには置いてないよ」

 

「急患なら中央病院へ行きな。この街で一番質の高い薬を抱え込んでるのは、あのマゼランの爺さんところだけだ」

 

 

 

行く先々で突きつけられる現実に、絶望の影が濃く重く覆いかぶさる。

 

 

 

(あの中央病院だけ……だって……?)

 

 

 

あの金亡者のやぶ医者が独占し、挙句「呪いだから効かない」と吐き捨てたあの場所だけにしか、ミナモの体を繋ぎ止める可能性のある薬が存在しないというのか。

 

 

 

太陽が徐々に昇り、闘神都市の中央広場は本戦開幕の熱狂に包まれていた。だが、交錯する観客や冒険者たちの喧騒も、今のルートの耳には一切届かない。

 

 

 

ルートは広場の隅にある古びた石造りのベンチに倒れ込むように腰掛け、両手で顔を覆った。

 

 

 

頭を深く抱え込み、項垂れる。

 

 

(何か……何か他に方法はないのか……。他に……何かないのか……!)

 

 

 

体内で強引に骨肉を繋ぎ合わせる超回復の痛みにすら耐え抜いてきた心が、今やミナモを失う恐怖という底なしの暗闇に呑み込まれそうになっていた。

 

 

自分の剣も、圧倒的な戦闘技術も、病魔の前には何の役にも立たない。己の無力さに、爪が皮膚を突き破るほど強く拳を握りしめた。

 

 

その時だった。

 

 

ベンチのすぐ近く、日陰の木の下で日向ぼっこをしていた二人の老人の、くだらない雑談が風に乗ってルートの耳に滑り込んできた。

 

 

 

「おい、噂に聞く『闇市』ってのは、マジでピッチピチのギャルが揃っとるんか?」

 

 

「バカ言え、お前さんみたいなスケベジジイが行く場所じゃねえよ! ワシはペニパンプレイをしにじゃな……いや違った、要するにピッチピチギャルのパンティがじゃな……」

 

 

「なんじゃあ!誰がジジイじゃ!」

 

 

 

ボケた老人の益体のない下世話な無駄話。いつもなら一蹴して聞き流すはずの会話だった。

 

 

 

——闇市。

 

 

 

雷に打たれたかのように、ルートの思考が跳ね上がった。

 

 

 

(闇市……!)

 

 

 

昨日、武具店のミルキーと頑固親父が言っていた言葉が、鮮烈な記憶となって頭の中に蘇る。

 

 

 

『あそこは安く強力な業物が手に入るかもしれないけど……』

 

『追いはぎや殺し屋が盗品をなんでも売りさばく肥溜めみたいな場所だ』

 

 

 

正規の流通には乗らない怪しい品々。危険で、不法で、光の当たらない地下の取引所。

 

 

 

市販の薬も、中央病院のまともな医療も役に立たないのだとすれば——そこにあるかもしれない。劇薬、違法な霊薬、あるいは病魔の進行を無理やりねじ伏せるような、危険な『裏の薬』が。

 

 

 

ルートは弾かれたようにベンチから立ち上がると、急に真顔になって老人たちへ向けて一直線に足を進めた。

 

 

 

「ひえっ……!? なんじゃ、この物騒な目の若者は……!」

 

 

 

突然、血走った冷たい殺気を纏った剣士に詰め寄られ、老人たちは腰を抜かしかけた。ルートはそんな二人の反応など意に介さず、老人の肩を強く掴み、切迫した低い声で問いかけた。

 

 

 

「……今、『闇市』と言ったな。あそこへの行き方を知っているのか?」

 

 

 

突然のことに、老人たちの顔からサーッと血の気が引いた。

 

 

 

「ひっ……! な、なんじゃい急に……! 若造、人を食い殺すような目をしとるぞ……!」

 

 

 

「わ、わしらはただ、昔の仲間と交わした下らねえ世間話を……げふん、ゲホッ!」

 

 

 

首根っこを掴まれそうになった老人は、恐怖で声を裏返させながら必死に腕をブンブンと振った。

 

 

 

だが、ルートの瞳に浮かぶ焦燥と狂気は、そんな怯えなどまったく目に入っていない。

 

ミナモの息が途切れるかもしれないという恐怖が、理性のタガを音を立てて外しかけていた。

 

 

 

「冗談で聞いてるわけじゃない。あの『闇市』の場所を知っているなら、今すぐ教えろ」

 

 

 

低い殺気を孕んだ脅迫に、老人はブルブルと小刻みに震えながら首を横に振った。

 

 

 

「し、知らん! 知らんぞ! 闇市なんてのはなぁ、都市の底を這いずり回るハイエナどもの溜まり場じゃ! ましてやワシらのよなボケた年寄りが、そんな危ねえ場所の行き方なんて知っとるわけが……!」

 

 

「……ちっ」

 

 

ルートが舌打ちし、さらに詰め寄ろうとしたその瞬間、もう一人の老人が冷や汗をダラダラと流しながら叫んだ。

 

 

 

「ま、待て待て待てぇ! 脅すな若者! 命まで取られる筋合いはないじゃろ!」

 

 

「なら、知っているんだな?」

 

 

「お、思い出す……! 思い出そうとするから、その血走った目をやめろ!」

 

 

 

老人は必死に頭を抱え、フーフーと荒い息を吐きながら記憶の糸をたぐり寄せようとしたが、途端に大きな溜息をついて首を振った。

 

 

 

「ダメだ、どうにも思い出せん……。最近物忘れが激しくてな。頭がすっかり真っ白じゃ」

 

 

 

「ふざけているのか」

 

 

 

ルートの剣の柄に置いた手が、ミリ単位で鞘から押し出される。

 

冷たい金属音がチン、と小さく鳴り響いた。老人は目の前で本物の死神が鎌を振り上げているような錯覚に陥り、文字通り腰を抜かして石畳にへたり込んだ。

 

 

 

「ち、違う! ボケて本当に思い出せんのだ! ……だが、そうじゃなぁ……

 

」

 

老人は命の危機を直感し、必死の形相で言い訳をひねり出した。

 

 

 

「腹が減っちまうと、どうにも頭が回らんでな。昔の記憶の引き出しも固く閉まっちまう……。そうじゃ、あそこの食堂で売ってる『いかなご』が食えたなら……! 旨い『いかなご』の料理を腹いっぱい食えば、脳の血の巡りも良くなって、闇市の場所も鮮やかに思い出すかもしれんのだがなぁ……!」

 

 

 

「……いかなご、だと?」

 

 

 

「そうだ! あの小ぶりで香ばしい『いかなご』をよ、甘辛く煮付けたやつか、あるいは天ぷらにしたやつを一口食えば……! きっと頭の霧が晴れるのになあ……!」

 

 

 

わざとらしく腹をさすりながら、すっとぼけた顔でねだる老人たち。

 

 

 

(くそ……! この期に及んで、ジジイの買い食いに付き合えって言うのか……!)

 

 

 

殺意と焦燥が胸の中で激しくぶつかり合う。今すぐこの場を離れて別の方法を探すべきか、それともこのボケ老人を文字通り脅し続けるべきか。

 

 

 

だが、これだけ必死にすっとぼけるということは、本当に何かを知っているからこその防衛本能かもしれない。他に手がかりのない現状、ここで時間を無駄にするわけにはいかない。

 

 

 

ルートは殺気を無理やりねじ伏せ、荒い息を一つ吐き出すと、氷のように冷え切った声で一言だけ言い放った。

 

 

 

「……わかった」

 

「へ……?」

 

「いかなごを用意する。それを食べて、確実に思い出せ」

 

 

それだけ言い残すと、ルートは二人の老人を一瞥もせず、踵を返して中央広場を走り出した。

 

 

 

背後で「ひえっ、あの兄ちゃん、マジで買いに行きやがったぞ……」と老人の震え声が聞こえたが、ルートの耳にはもう入っていない。

 

 

 

(いかなご……そんな料理、普通の店で売っていたか?)

 

 

 

都市の店を思い返す。高級な肉やワイン、迷宮で狩った魔獣のステーキを出す店はいくらでもあるが、そんな庶民的な小魚の料理など、大通りの一流店で見かけた覚えはない。

 

 

 

(いや……。『月光亭』の厨房なら……!)

 

 

 

看板娘のチエリがテキパキと料理を仕込んでいたあの宿の厨房ならば、あるいは手に入るかもしれない、あるいは作れるかもしれない。

 

 

 

ルートは全速力で石畳を蹴り抜け、ミナモの待つ『月光亭』へと、再び一直線に疾走した。

 

 

 

 

 

【宿】

 

 

 

息を切らし、足音荒く『月光亭』の扉を蹴るようにして押し開けると、店内には昼前の静かな時間が流れていた。

 

 

 

朝の激しい混雑が嘘のように引いた食堂で、看板娘のチエリがテーブルを拭いていたが、汗だくで血走った目のまま飛び込んできたルートの姿を見て、手にしていた布巾を落としそうになった。

 

 

 

 

「っ!? ル、ルート……っ!? 一体どうしたのそんな顔して……! 朝、急に出て行ったきり戻ってこないから心配してたんだよ!」

 

 

 

「チエリ、頼みがある」

 

 

 

ルートはチエリの肩を両手で強く掴んだ。切迫した声と、強烈な眼光。チエリは驚きに目を丸くしながらも、ルートのただならぬ雰囲気を察して真剣な表情へと変わる。

 

 

 

 

「な、なに……? 私にできることなら、何でも言って!」

 

「……『いかなご』という食べ物を知っているか。それを使った料理を、今すぐ作れるか」

 

 

「いかなご……?」

 

 

予想外の料理名に、チエリは思わず首を傾げた。

 

 

「いかなごって、あの小さくて細長い魚のことだよね? うん、知ってるよ! 甘辛く煮詰めた『釘煮』とか、天ぷらにするとすっごく香ばしくて美味しい庶民的な魚だけど……なんで急にそんなものを?」

 

 

「……詳しい事情を話している時間がない。ミナモの発作が起きた。薬を探すための手筈に、どうしてもその料理が必要なんだ」

 

 

「ミナモちゃんが……!?」

 

 

チエリの顔から一気に血の気が引いた。

 

彼女もミナモの病弱さは知っていたが、ルートがここまで死に物狂いになっているのを見るのは初めてだった。

 

ミナモの身に、どれほど恐ろしい事態が起きているのかを瞬時に理解したチエリの瞳に、強い決意が宿る。

 

 

 

「分かった! 作るよ、任せて! ミナモちゃんのためなら腕によりをかけて極上のいかなご料理を作ってみせる!」

 

 

「助かる。すぐに…」

 

 

 

ルートが胸を撫でおろそうとした瞬間、チエリは困ったように眉を下げ、厨房の奥をチラリと振り返った。

 

 

 

「……でもね、ルート。一つだけ大きな問題があるの」

 

 

「問題……?」

 

 

「うちの厨房、いま『いかなご』の在庫がひとつもないの。すごく傷みやすい魚だから、普段から作り置きしておけないのよ。市場に行っても、今日は本戦開幕の混乱で仕入れが止まってて、どこにも売ってないと思う……」

 

 

「な……」

 

 

ルートの顔が絶望に歪みかけた。せっかく掴みかけた手がかりが、食材の欠品などという下らない理由で潰えるのか。

 

 

 

だが、チエリは即座に首を振り、ルートの腕をぎゅっと握り返した。

 

 

 

「ルート! 街で手に入らないなら、手に入る場所に行けばいいの! ……今日から解放された『闘神迷宮』のB1F。 あそこの地下水脈のエリアには、新鮮でピチピチした『いかなご』の群れが自生してるの!」

 

 

「闘神迷宮の……B1F……」

 

 

「そう! そこで獲れたての新鮮な『いかなご』を獲ってきてくれれば、私が最高に美味しく調理してあげる! だからルート、迷宮へ行って獲ってきて!」

 

 

 

開拓されたばかりの、過酷で危険だと噂される本戦用の大迷宮。

 

 

だが、そこに食材があるというのなら、たとえ地獄の底であろうと飛び込む理由としては十分すぎるものだった。

 

 

 

「……分かった。すぐに獲ってくる」

 

 

「気をつけてね、ルート! ミナモちゃんのことは私がちゃんと看病してるから、安心して行ってきて!」

 

 

チエリの力強い言葉に短く頷くと、ルートは一度も足を止めることなく、再び『月光亭』を飛び出し、解放されたばかりの闘神迷宮の巨大な赤黒い門へ向かって全力で疾走を開始した。

 

 

 

 

 

【闘神迷宮入口】

 

 

 

闘神都市の中央に鎮座する、闘神迷宮の巨大な赤黒い門。

 

 

 

本日からの本戦開幕に伴い、硬く閉ざされていた重厚な鉄門は解き放たれ、内部からは生ぬるい風とともに、澱んだ魔気と異形の咆哮が地上へと吐き出されていた。

 

 

 

門の周囲は、本戦出場を控えた猛者や、一獲千金を狙う命知らずの冒険者たちでごった返していた。

 

 

だが、その混迷を断ち切るようにして突き進むルートの全身からは、周りの荒くれ者すら自然と道をあけるほど、禍々しく切迫した殺気が溢れ出していた。

 

 

 

門の最前線、警戒に当たる警備兵たちを統率していた重甲冑の巨躯——警備隊長シュマイゼンが、殺気の主へと視線を向けた。

 

 

 

「……ルートか」

 

 

 

シュマイゼンは兜の奥の鋭い眼光をルートに向け、その異常なまでの身のこなしと、血走った瞳の奥にある焦燥を瞬時に見抜いた。

 

 

 

「本戦開幕と同時に来るとは感心な意気込みだが……少し焦りすぎではないか? 闘神テレビのアナウンスも聞いただろう。今回の本戦迷宮は、過去のいかなる大会とも比較にならんほど過酷だ。魔力の奔流によって内部のモンスターは凶暴化し、罠の危険度も跳ね上がっている」

 

 

 

重々しい脚音を響かせ、シュマイゼンがルートの進路を遮るように一歩踏み出す。

 

 

 

「今のお前からは、研ぎ澄まされた剣士の冷静さが感じられん。その状態で潜れば、B1Fの浅層とて足をすくわれるぞ。一息つき、態勢を整えてからでも——」

 

 

 

「……退いてくれ、シュマイゼン」

 

 

 

ルートの低い声が、シュマイゼンの制止を遮った。

 

 

 

その声には、一切の問答を拒絶する絶対の冷徹さと、触れれば即座に斬り捨てられそうなほどの刃の鋭さが宿っていた。

 

 

 

シュマイゼンは一瞬、言葉を失って息を呑んだ。

 

 

 

予選を突破した時のあの達成感や自制心は影を潜め、今のルートを突き動かしているのは、純粋でどす黒いまでの『執念』そのものだった。

 

 

 

「……何かあったな」

 

 

「話している時間はない。どいてくれ」

 

 

「……ふん」

 

 

 

シュマイゼンは深くため息をつくと、それ以上ルートを止める言葉を重ねるのをやめ、重い甲冑を鳴らしてゆっくりと脇へ退いた。

 

 

 

「止めはせん。……だが死ぬなよ。お前の初戦はまだ先だ。その命、病魔や迷宮の雑魚に奪われることなど許されんぞ」

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 

シュマイゼンとの会話をそこそこに切り上げ、ルートは一瞬の躊躇もなく、赤黒い魔気の渦巻く闘神迷宮の入口へと足を踏み入れた。

 

 

 

一歩跨いだ瞬間、地上とは隔絶された冷ややかな暗闇と、生臭い湿気が全身を包み込む。

 

 

 

「待っていろ、ミナモ……」

 

 

 

暗闇の中で愛剣の柄を固く握り締め、ルートは『いかなご』が棲息するというB1Fの水脈エリアを目指し、闇の深みへと疾走を開始した。

 

 

 

【B1F】

 

 

闘神迷宮B1F。重苦しい暗黒が支配していた入口付近の傾斜を下りきると、視界は唐突に、奇怪で幻想的な青白い光によって開けた。

 

 

 

天井や岩壁に群生する発光苔と、そこかしこから湧き出る地下水脈。水面が燐光を反射し、ゆらゆらと不気味な揺らめきを壁面に映し出している。

 

 

空気は湿り気を帯び、冷気が濡れた肌を刺すが、それ以上に肌を泡立たせるのは、地上とは比較にならないほど濃密で狂暴な魔気の匂いだった。

 

 

 

(ここが、闘神迷宮のB1F……)

 

 

 

ルートは速度を落とすことなく、水しぶきを上げて走った。

 

 

 

 

目的は『いかなご』の採捕。

 

チエリの言葉通りなら、この青く光る水脈の深場に群生しているはずだった。だが、一刻も早く地上へ戻らねばならないルートの前に、水面が激しく波打ち、複数の影が躍り出た。

 

 

 

「ガチャガチャッ!」

 

 

 

甲高い金属摩擦のような不快な鳴き声を上げて水中から飛び出してきたのは、ー——『ハニワ』たちの群れだ。

 

土器特有の虚ろな目と口を開けた二頭身の粘土人形たちが、不格好な手足で槍や棍棒を振り回しながら立ちふさがる。

 

 

 

「邪魔だ……!」

 

 

 

ルートは愛剣を抜き放ち、前傾姿勢のまま一閃させた。

 

 

 

研ぎ澄まされた刃は、先頭のハニワの首元を寸分の狂いもなく捉えた。予選迷宮の経験から言えば、この程度の雑魚、一撃で土塊へと砕け散るはずだった。

 

 

 

ガツンッ!

 

「……っ!?」

 

 

 

手首に伝わったのは、肉や柔らかな土を斬った手応えではない。まるで鍛え抜かれた鋼鉄を叩いたかのような、強烈な反発と痺れだった。

 

 

 

斬られたハニワは首元に浅い亀裂が入った程度で倒れる気配すら見せず、そのまま泥臭い狂気を孕んだ目から赤い光を放ち、ずっしりと重い棍棒を振り下ろしてきた。

 

 

 

(固い……!? 予選のハニワとは強度がまるで違う!)

 

 

 

間一髪、身体を捻って棍棒をかわす。

 

 

直後、棍棒が打ち付けられた石畳が、爆音とともに激しく破砕された。ただのハニワの腕力ではない。予選迷宮B3Fの怒ぶたバンバラすら彷彿とさせる、異常な筋力と密度だ。

 

 

 

アナウンサーの叫びが脳裏をよぎる。

 

『過去のいかなる大会と比較しても類を見ないほど異常な魔力の乱れ』——あの警告は真実だった。

 

 

同じ『ハニワ』という種族でありながら、この過酷化した迷宮の濃密な魔気を吸い上げた個体は、通常のモンスターとは比較にならない変異と強化を遂げている。

 

 

 

「ーーーッ!」

 

 

さらに水奥から、別のモンスターが滑り出してきた。

 

 

 

丸みのある愛くるしい姿とは裏腹に、大口を剥き出しにしたピンク色の悪魔——『うっぴー』だ。本来なら初心者冒険者の練習相手に過ぎない愛くるしい小型モンスター。

 

だが、ルートの前へ立ちはだかったその個体は、全身から禍々しい紫色のオーラを撒き散らしていた。

 

 

 

同じ階層、同じ種類の魔物の中に、通常の個体と、狂暴化した超強化個体が無差別に混在している。

 

 

 

一つ間違えれば、雑魚と踏んだ一撃が弾かれ、そのまま命を奪われかねない殺戮の罠。

 

 

 

「ハッ……ハッ……!」

 

 

 

ミナモの苦しむ顔が脳裏を焼き尽くす。時間をかけるわけにはいかない。

 

 

だが、油断すればここで命を落とす。ルートは殺気を極限まで引き上げ、血走った瞳で強化された異形の群れを見据えた。

 

 

 

「キシャアアアッ!」

 

紫色のオーラを纏った超強化個体の『うっぴー』が、愛くるしい見た目を完全にかなぐり捨て、裂けた大口を覗かせて飛びかかってきた。

 

目の前を踊るその躯体から放たれるのは、死線の放つ強烈な殺気だ。

 

 

 

ルートは地を蹴り、水しぶきを上げて横へと跳んだ。

 

 

 

直後、うっぴーが突進した先の石畳が爆音とともに激しく爆ぜ、砕けた岩片が弾丸のような勢いで周囲へ散乱する。

 

ほんの一瞬回避が遅れていれば、そのまま肉塊へと変えられていたであろう圧倒的な破壊力と速度。

 

 

 

(これが…本当に最初の階層なのか……!?)

 

 

 

通常個体であれば一瞬の閃光で切り伏せられる『ハニワ』や『うっぴー』。

 

だが、目の前の群れには、過酷な魔力を極限まで吸い上げて変異した「規格外」が当然のように混ざり込んでいた。

 

 

一見たダラけた表情の雑魚に見えても、その実、一撃で鉄の鎧すら噛み砕く死神かもしれないのだ。

 

 

 

「ガチャガチャッ!」

 

 

 

背後から、鋼鉄の皮膚を持つ変異種のハニワが槍を突きたてて迫る。

 

 

 

逃げ場のない狭い水脈の通路。迷っている時間も、一呼吸おく猶予すら存在しない。

 

 

 

 

(ここで…、こんなところで……ッ!)

 

 

 

ルートの胸の中で、焦燥と狂気が爆発した。

 

 

「消えろ……ッ!」

 

 

超回復の因子が暴走気味に全神経を灼熱で焼き焦がす。

 

 

 

ルートは迫るハニワの槍身を自らの左腕の肉で受け止めた。

 

ズスッ、と冷たい鉄が皮下組織を穿ち、激痛が脳髄を突く。

 

 

だが、ルートはその痛みを一切無視し、肉に刺さった槍を筋肉の収縮で強引に固定。驚愕に目を見開くハニワの懐へ踏み込んだ。

 

 

 

「ガッ……!?」

 

 

 

刃を逆手に持ち替え、鎧の隙間——首の接合部へ向けて最短距離で突き立てる。

 

 

 

ドスッ!

 

 

 

 

粘土と鋼鉄が組み合わさった強固な頸椎を、超回復の熱を帯びた力任せの一刃が穿ち抜いた。

 

 

高負荷に耐えきれなくなったハニワの首が内部から粉砕され、不気味な土煙を上げて崩れ去る。

 

 

 

だが、休む間もなく、巨体化したうっぴーが肉薄していた。裂けた大口が、ルートの首元を丸呑みにせんと死の影となって迫る。

 

 

 

 

「アッ……ガァッ!」

 

 

 

回避は間に合わない。ルートはまたもや左腕を楯にし、突き出された凶悪な顎を強引に受け止める道を選んだ。

 

 

 

バチッ、ガシュッ!

 

 

 

が革鎧ごと左腕の肉を深く抉り取る。骨が軋み、肉が噛み砕かれる絶叫ものの激痛。

 

 

しかし、その代償と引き換えに、ルートの右手の剣は、うっぴーの開かれた口腔——喉の奥深くへと根元まで突き刺さっていた。

 

 

 

 

「ガフッ……!? ギ……ッ!」

 

「死ねッ!」

 

 

 

 

柄を押し込み、内部で刃を大きく捻り回す。

 

狂暴化したうっぴーは血走った目を剥き出し、体内から大量の不快な濁血を吹き出しながら、激しい水音とともに水脈へと倒れ伏した。

 

 

 

左腕から、ダラダラと鮮血が流れ落ち、青白い水面を赤く染めていく。

 

 

 

 

だが、体内の「超回復」が即座に牙を剥き、抉られた肉芽を蠢かせながら強引に接合し始めた。

 

 

熱傷と噛み傷が合わさった、焼夷弾を打ち込まれたかのような劇痛がルートの全身を襲う。

 

 

 

 

「ハァ……ハァ……ッ、ハッ……!」

 

 

 

 

荒い息を吐きながら、血に濡れた剣を構え直す。

 

 

 

傷は塞がる。

だが、超回復を使えば使うほど、痛みで気力と精神は確実に削られていく。

水脈の奥からは、さらに怪しい水音と、新たな異形の気配が蠢き始めていた。

 

 

 

(急げ……『いかなご』を確保して、一刻も早く地上へ……!)

 

 

 

傷口から立ち上る湯気のような熱を振り払い、ルートは冷たい水脈のさらに深みへと足を進めた。

 

 

 

 

 

【B1F奥地】

 

超回復の熱を力任せに押し殺し、ルートはさらに深く青白い水脈の奥へと足を進めた。

 

 

 

切り伏せた異形どもの不快な肉臭さと鮮血の匂いが漂う中、通路は次第に開け、広い地下鍾乳洞へと行き当たった。

 

 

天井から垂れ下がる巨大な氷柱のような鍾乳石と、その隙間から降り注ぐ濃厚な燐光。

 

 

 

その中央に、まるで巨大な青い鏡のように静まり返った深い水たまりがあった。

 

 

 

(……あそこか)

 

 

 

ルートは膝まで冷たい地下水に浸かりながら、慎重に水面へ近づいた。

 

 

 

 

澄み切った地下水の深み。

 

青白い光を浴びて、無数の銀色に輝く細長い小魚たちが、幾重にも円を描くように身をよじらせて泳ぎ回っていた。

 

 

 

 

「……いた」

 

『いかなご』だ。

 

 

 

身の丈は掌の半分ほど。

透明感のある身体に、一本の銀色の筋がすっと通っている。水面近くに浮かんでは、光に反射してギラリと青銀色の輝きを放つその姿は、チエリから聞いた特徴と完全に一致していた。

 

 

 

(これで…………!)

 

 

 

安堵の吐息が漏れかけたその瞬間、水面が激しく波立った。

 

 

 

『いかなご』の群れの直下——水底の黒々とした暗がりから、不気味で滑稽な影が蠢きながら浮上してきたのだ。

 

 

「ーーーッ!」

 

 

 

水面を盛大に押し割って姿を現したのは、水棲モンスター——『イカ男』だった。

 

 

 

頭部がそのまんまイカで、首から下は妙に筋肉質な人間の体をした奇妙な亜人。だが、目の前の個体はただのコミカルなイカ男ではない。

 

 

 

ニュルニュルと蠢く十本の触手はどす黒い紫に染まり、ヌメつく体表からは強酸性のねっとりとした粘液が泡を噴き上げていた。

手に携えた竹槍の先端は、水面を照らすほど鋭利に見えた。

 

 

 

B1Fの過酷な力を極限まで吸い上げ、この水たまりに居座っていた超強化個体だ。

 

 

 

イカ男は頭部の大きな不気味な目をギョロリとルートへ向け、その足元で泳ぐいかなごの群れを遮るように立ちふさがった。

 

触手をワシャワシャと狂おしく蠢かせ、強酸の粘液が水面に落ちるたび、ジュッと激しい不快な蒸気と音があがる。

 

 

 

「……どけ」

 

 

 

ルートの瞳から、一切の温度が消え去った。

 

 

 

どれほど異様で滑稽な姿をしていようと、どれほど不気味な強酸を纏っていようと関係ない。

 

 

目の前の小魚は、ミナモの命を繋ぎ止めるためのたった一つの希望なのだ。それを邪魔する存在は、何者であろうと叩き斬るだけだ。

 

 

 

「邪魔をするなッ……!」

 

 

 

水しぶきを豪快に跳ね上げ、ルートは一瞬で間合いを詰めた。愛剣が、青白い燐光を切り裂いて走る。

 

 

 

イカ男は甲高い奇声を上げ、毒を塗った竹槍と強酸の触手を一斉に繰り出してきた。

 

 

 

ガァンッ!

 

 

 

水上で刃と竹槍が激突し、凄まじい衝撃波が水面を大きく揺らした。跳ね上がる水柱の中、ミナモの命をかけた最後の採捕劇が、極限の死闘となって始まりを告げた。

 

 

 

 

「イカッ、イカーーーッ!」

 

 

 

狂暴化したイカ男が甲高い奇声を張り上げ、強酸の粘液を撒き散らしながら十本の触手を一斉に突き出してきた。

 

 

 

「くっ……!」

 

 

 

ルートは即座に剣を叩きつけ、数本の触手を切り払った。

 

だが、切断面から飛び散ったどす黒い粘液が頬をかすめ、ジュッと皮膚を焼き焦がす。間髪入れず、毒が塗られた竹槍が鋭い風切り音を立ててルートの脇腹を狙い穿たれた。

 

 

 

浅い水場という悪条件。脚を取られ、踏み込みが鈍る。

 

 

 

(速い……! 動き自体は単調だが、この粘液とリーチが邪魔すぎる……!)

 

 

 

身体を捻って致命傷を避けるのが精いっぱいだった。

 

竹槍の尖角が革鎧の隙間を裂き、脇腹の肉を薄く抉っていく。すかさず体内の「超回復」が暴走し、灼熱の激痛とともに傷口を塞ぎ始めるが、その負荷が確実にルートの体力を削り取っていた。

 

 

 

イカ男は勝利を確信したように頭部の触手を狂わしくうねらせ、間合いを詰めてくる。大振りに振りかぶられる竹槍。

 

 

 

(時間をかけるわけにはいかない……。次で終わらせる……ッ!)

 

 

 

ルートは荒い息を吐き出し、血走った瞳でイカ男の動きを凝視した。

 

 

 

意識を極限まで研ぎ澄ます。

 

視界から水しぶきの音や地下洞窟の暗闇が削ぎ落とされ、目の前の敵の呼吸、体内の魔力の流れ、そして筋肉が収縮する微小な予兆だけが、まるでスローモーションのように鮮明に浮かび上がった。

 

 

 

イカ男が竹槍を突き出す、まさにその『起首』の瞬間。

 

 

 

頭部の異様な接合部——力が集中し、全体の動力を支えているわずか数ミリの「線の結び目」のような違和感が、ルートの脳裏に稲妻のように閃いた。

 

 

 

理由も理屈もなかった。ただ、体が勝手に動いていた。

 

 

 

(……ここだ!)

 

 

 

踏み込みの摩擦を打ち消すように、水面を滑る無音の踏み込み。

 

 

 

ルートの手元から、光の筋が走った。

 

 

 

ガキィンッ! と高らかな金属音が響くはずだった。強酸の粘液も、鋼より固い異形の肉体も関係ない。研ぎ澄まされた刃は、摩擦も抵抗も一切受けることなく、まるで空間そのものを切り裂くかのようにイカ男の首元——あの「結び目」を滑らかに通り抜けていた。

 

 

 

ドスッ……。

 

静寂。

 

 

 

 

イカ男の動きがぴたりと止まった。

 

次の瞬間、巨大なイカの頭部が、一切の血を流すことすら許されないほどの滑らかな切断面を描いて、胴体から滑り落ちた。

 

 

 

「ガ……?」

 

 

 

頭部を失った肉体が、激しい水しぶきを上げて水たまりへと倒れ伏す。

 

一瞬の出来事だった。あれほど苦戦し、強酸と重甲でルートを追い詰めていた変異種が、たった一撃——完全なる『必殺の一刃(クリティカル)』によって絶命したのだ。

 

 

 

「ハァ……ハァ……ッ!?」

 

 

 

ルートは血に濡れた剣を握りしめたまま、膝をつきかけた。

 

 

 

手首に残るのは、骨を断った手応えすら触れないほどの、気味の悪い「軽さ」と「断絶感」。

 

 

(今の……感覚は……?)

 

 

敵の弱点、魔力の節目を見極め、極限の集中下でそこへ過不足なく刃を滑り込ませる感覚。

 

偶然出た単なる一撃ではない。己の肉体と感覚に、新たな戦いの方程式——『会心の一撃(クリティカルヒット)』の真理が、深く刻み込まれた感触があった。

 

 

 

戸惑いと混乱が胸をかすめる。

だが、ルートはその感覚を思考の底へ強く押し込み、忘れないよう脳裏に深く記憶した。

 

 

 

(……覚えておこう…でも…)

 

 

 

今は、理由を熟考している暇などない。

 

 

ルートは荒い息を整えると、水面へと視線を落とした。イカ男が倒れたことで静けさを取り戻した水たまりの底で、驚いた『いかなご』の群れが、再び青銀色の美しい光を放ちながら泳ぎ回っていた。

 

 

 

「……捕まえた」

 

 

 

ルートは腰の革袋を取り出すと、水中に手を差し伸べ、鮮やかな手つきでピチピチと跳ねる新鮮ないかなごを惜しみなく掬い上げた。

 

 

 

手の中で生き生きと跳ねる銀の生命。ミナモの命を繋ぐ、たった一つの希望。

 

 

 

いかなごを慎重に袋へ収め、固く紐を結ぶと、ルートは一度も振り返ることなく、光の挿す地上へと向かって水脈を駆け上がっていった。

 

 

 

 

【広場、宿】

 

 

地下水脈を覆う暗闇を破り、ルートは猛烈な勢いで地上へと続く傾斜を駆け上がった。

 

 

 

片腕に深く刻まれた超回復がもたらす激しい肉体の熱。だが、そんな痛みに頓着している余裕など一秒たりともない。

 

胸元の革袋の中でピチピチと跳ねる『いかなご』の確かな手応えだけが、今のルートを突き動かす唯一の原動力だった。

 

 

赤黒い魔気が渦巻く闘神迷宮の巨大な鉄門を、弾みをつけるように飛び出す。

 

 

 

門の前では、警備隊長のシュマイゼンが依然として重甲冑の巨躯を佇ませ、鋭い視線を巡らせていた。無事に地上へ戻ってきたルートの姿を認め、その兜の奥の目を微かに見開く。

 

 

 

「……もう戻ったか、ルート! 無事だったか、一体迷宮の中で何を——」

 

 

 

シュマイゼンが声をかけ、制止しようと一歩を踏み出した。

 

 

 

しかし、ルートはその姿を一瞥すら(いちべつすら)しなかった。シュマイゼンの言葉を一切耳に留めることなく、風を切る音だけを残してその横を疾風のごとく通り抜ける。

 

 

 

「な……っ!? おい、ルート!」

 

 

 

背後でシュマイゼンの困惑と制止の声が響いたが、すでにルートの意識から切り捨てられていた。

 

 

 

日差しの照りつける闘神都市の大通りを、ルートは周囲の喧噪を薙ぎ払うようにして疾走した。買い物客や冒険者たちが驚いて飛び退き、怒号や罵声が背後から飛んでくる。だが、血走った瞳で見据える先には、チエリが待つ『月光亭』の看板しかなかった。

 

 

 

(…………ッ!)

 

 

 

荒い息が喉を焼き、体内の超回復が酷使された肉体に悲鳴を上げさせる。

 

それでも脚を緩めることは許されない。いかなご料理を持って、老人に闇市の入口を聞き、薬を探す。

 

一歩遅れれば、彼女の命の灯火が途絶えてしまうかもしれないのだから。

 

 

 

石畳を蹴りつけ、路地を曲がり、ついに見慣れた『月光亭』の木造の建物が視界に飛び込んできた。

 

ダァンッ!

 

勢い任せに扉を蹴り開けると、乾いた衝撃音が店内に響き渡った。

 

 

 

「っ!? ルート!?」

 

 

 

客席の片付けをしていたチエリが、跳ね起きるように振り返る。

 

 

 

全身血と泥に塗れ、左腕からはいまだ超回復の湯気を立ち上らせているルートの凄惨な姿に、チエリは息を呑んだ。

 

だが、ルートはそのまま迷うことなく厨房のカウンターへと突進し、胸元からしっかりと結ばれた革袋を叩きつけた。

 

 

 

ズシリと重い音とともに、袋の中で元気に飛び跳ねる水音覚めやらぬ小魚たちの気配が伝わる。

 

 

 

「……持ってきたよ」

 

 

 

肩を激しく上下させ、血の混じった荒い息を吐き出しながら、ルートはチエリを直視した。

 

 

 

「新鮮な『いかなご』。……チエリ、よろしく。」

 

 

 

チエリは一瞬だけ呆然と袋とルートの顔交互に見つめたが、すぐにその瞳に力強い決意の火を灯した。革袋を両手でしっかりと受け止め、力強く頷いてみせる。

 

 

 

「……うん! 任せて、ルート! すぐに最高の料理にしてあげるから!」

 

 

 

チエリはすぐさまエプロンを締め直すと、いかなごの入った袋を抱え、一刻の猶予も惜しむように脱兎の勢いで厨房の奥へと駆け込んで行った。

 

 

 

数分後。

 

 

厨房から漂ってきたのは、醤油と生姜の甘辛く芳しい香りと、香ばしく揚げられた魚の匂いだった。

 

 

「待たせたね、ルート! 特製の『いかなごの釘煮』と『天ぷら』、できたよ!」

 

 

チエリが湯気の立ち上る箱を抱え、厨房から駆け出してきた。

 

壊れ物を扱うように慎重に、しかし素早くルートの手へと手渡される。

甘辛いタレの香りと香ばしい衣の匂いが、血生臭いルートの全身の体臭を一瞬で上書きしていった。

 

 

 

「……ありがとう、チエリ」

 

 

「お礼なんて後でいいから! ミナモちゃんのことは私が絶対についてるから、早く行ってきて!」

 

 

「ッ!…ありがとうッ!」

 

 

 

短く一言だけ返すと、ルートは重箱の蓋がずれないよう抱え込み、踵を返して『月光亭』の扉を蹴り開けた。

 

 

 

外は昼下がりの日差しが容赦なく降り注ぎ、本戦開幕の熱気に沸く大通りには無数の人々が行き交っていた。

だが、ルートはその人波を縫うように、風を切り裂いて疾走した。重箱から伝わるぬくもりが、ミナモの命を繋ぐタイムリミットを刻む時計のように感じられる。

 

 

 

(あのボケジジイども……もしこれで思い出さなかったら……!)

 

 

 

息を荒らげ、血走った瞳のまま中央広場へと飛び込む。

 

 

木陰のベンチを見やれば、案の定、先ほどの二人の老人が退屈そうに欠伸をしながら日向ぼっこを続けていた。ルートは石畳を激しく踏み鳴らし、二人の前へと文字通り躍り出た。

 

 

 

「ひえっ……!? ま、また来たぞあの死神みたいな兄ちゃんが……!」

 

 

「おい、ジジイ」

 

 

 

ルートはドサリと、二人の膝の上に温かい箱を叩きつけるように置いた。

 

 

 

パカッと蓋がずれ、中から甘辛く煮詰められたツヤツヤの『いかなごの釘煮』と、黄金色にカラリと揚げられた『天ぷら』が顔を覗かせる。

極上の香気が老人の鼻腔を激しくくすぐった。

 

 

 

「注文通りの『いかなご』だ。獲れたてをすぐに調理させた」

 

 

 

ルートは膝を折り、老人たちの顔を覗き込むようにして低く鋭い声を突きつけた。全身から溢れ出る圧倒的な殺気と焦燥が、二人の皮膚をジリジリと焼き焦がす。

 

 

 

「約束通り腹いっぱい食え。……そして、今すぐ思い出せ。『闇市』への行き方を」

 

 

 

「うひょーーーッ! これじゃ、これこれ! この甘辛い極上の香ばしさよ!」

 

 

 

「うひぃ〜ッ! 見てみろこのツヤ! 黄金色に揚がった衣の輝き! たまらん、たまらんぞい!」

 

 

 

箱の蓋が開いた瞬間、二人の老人は先ほどまでの怯えを綺麗さっぱり忘れたかのように、目を丸くして歓声を上げた。

 

 

 

喉をゴクリと鳴らし、行儀も気にせず骨ばった指で『いかなごの天ぷら』を掴み上げると、そのまま口の中へと放り込む。サクッ、と地下鍾乳洞の静寂を思わせる心地よい音が広場に響いた。

 

 

 

「う、うむあぁぁぁ……ッ! 衣の香ばしさと、中の身のふわふわ感が絶品じゃ! まるで汚れを知らん処女の肌のような、柔らかく可憐な歯ごたえ……! これは処女の味じゃあぁっ!」

 

 

 

「どれどれ、ワシも……ほおばッ!? この『釘煮』の煮詰め加減、生姜の効き具合がなんとも言えん! 最初は甘く、後からピリリと芯のある辛味が追いかけてくる……! いやはや、これを作った娘は間違いなくいい女になるぞい! いや、もうすでに極上の女に違いねえ!」

 

 

 

「間違いない! ワシの嫁にほしいくらいじゃ!」

 

 

 

「何を抜かすか、このスケベジジイが!」

 

 

 

老いた口をモグモグと動かし、旨味に身を悶えさせながら益体のない感想を言い合う二人。箸も使わずに重箱の中身を競うようにむさぼり喰らう姿は、見ようによっては微笑ましい老人たちの日常そのものだった。

 

 

 

だが、その目の前に立ちはだかるルートの全身からは、冷や汗が出るほどの暗い殺気がゆらゆらと立ち上っていた。

 

 

 

一刻を争うミナモの発作。体内で軋みを上げる超回復のダメージ。

 

 

 

(……処女の味? いい女……?)

 

 

 

今すぐこの二人の頭を掴んで石畳に叩きつけたい衝動を、ルートは拳を固く握りしめて必死に殺した。握りしめた爪が手のひらに深く食い込み、血の味が口の中に広がる。

時計の針が進む音だけが、ルートの頭の中で嫌み格別に大きく響いていた。

 

 

 

「……美味いのは分かったよ」

 

 

地獄の底から響くような低い声が、老人の能天気な舌鼓を断ち切った。

 

 

 

「食ったな。……なら、教えろ」

 

 

 

冷徹な殺気に当てられ、最後のいかなごを飲み込んだ老人が「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、喉をゴクリと鳴らした。

 

さすがにこれ以上引き延ばせば、冗談抜きで命がないと悟ったのだろう。老人は口元のタレを袖で乱雑に拭うと、真剣な——あるいは、ひどく重苦しい表情へと一変した。

 

 

 

「……ふぅ。ごちそうさまじゃった、若者。約束は約束じゃな」

 

 

 

老人は周囲を警戒するようにチラリと見回すと、声を極限まで潜め、ルートへ手招きをした。ルートが身をかがめると、老人の臭い息とともに、低く途切れ途切れの声が耳元へ届けられた。

 

 

 

「街の東側……裏路地の奥深くに、打ち捨てられた古い下水処理場の跡地がある。その最奥、枯れ井戸の底に敷かれた鉄板の裏に……地下へと続く隠し階段があるはずじゃ。そこが、ワシらの知る『闇市』の入口じゃよ」

 

 

 

ついに手に入れた、裏の取引所への道筋。ルートの瞳に、かすかな希望の光が宿る。

 

 

 

しかし、老人はそこで言葉を切り、深く刻まれた額のシワを寄せながら首を横に振った。

 

 

 

「……じゃがな、若者。言っておくが、ワシらがその場所を使ったのはもう数年も前の話じゃ。あの暗闇の街は、住み着くドブネズミどもによって頻繁に抜け道が変わる。……今でもその入口が生きているか、あるいは別の連中の殺し合いの場になって閉ざされているかは、ワシらにも分からん」

 

 

「……」

 

 

「それでも行くかね? もしハズレだったら、無駄足になるばかりか、怪しい連中に目をつけられて生きては戻れんかもしれんぞ。…それでも行くならこれを持っていけ」

 

 

 

老人の警告。そして手渡されるフード付きのボロいマント。

だが、ルートの心は1ミリたりとも揺るがなかった。

 

 

 

使われているか分からない古道。罠かもしれない暗がり。

 

 

 

それでも——そこにミナモの薬が存在する可能性が1%でもあるのなら、行かないという選択肢など最初から存在しない。

 

 

 

「……そこへ行く」

 

 

 

ルートはマントを受け取り、一言だけ残すと、老人たちに背を向け、街の東側——陰惨な裏路地が広がる廃墟区画へと向かって、迷うことなく力強く踏み出した。

 

 

 

 

【???闇市】

 

街の東側へ進むにつれ、陽光が降り注ぐ中央広場や闘技場の賑わいが遠のいていく。生臭いドブの匂いと腐敗した木片の臭気が立ち込め、太陽の光すら見捨てたかのような暗がりが広がっていた。

 

 

 

ルートは荒い息を殺し、マントの下で血に濡れた左腕の微かな疼きを無視しながら、薄暗い路地の奥深くに潜り込んでいった。

 

 

 

立ち並ぶ崩れかけた石造りの建物、壁の隙間から覗く不気味な黒ずみ。足元には割れた瓶や身元不明の骨くずが転がり、足音を立てるたび、湿った石畳が不快な音を立てた。

 

 

 

(東の最奥……打ち捨てられた下水処理場……)

 

 

 

老人から聞いた言葉を反芻しながら突き進むと、突き当たりに鬱蒼とした苔に覆われた、巨大な錆びた鉄扉がたたずんでいた。かつて都市の汚水を排出していた下水処理場の跡地だ。

 

 

 

ルートは躊躇することなく、重い鉄扉を力任せに押し開けた。ギーッ、と鼓膜を刺す甲高い金属摩擦音が静寂の空間に響き渡る。

 

 

 

 

中は、耳鳴りがするほどの静寂と、鼻を突く強力な腐敗臭に満ちていた。発光苔すら生えていない完全な暗闇。ルートは腰のポーチから小さな燐光石を取り出し、ほのかな灯りを頼りに奥へと足を進めた。

 

 

 

通路の最奥——打ち捨てられた機械類が山のように積まれた一角に、老人の言っていた『枯れ井戸』が存在した。

 

 

 

井戸の縁に手をかけ、中を覗き込む。底は深く、燐光石の光も吸い込まれて届かない。ルートは躊躇うことなく身を躍らせ、井戸の内部へと飛び降りた。

 

 

 

ズシンッ!

 

 

 

濡れた土の感触とともに着地する。足元を探ると、冷たい土の底に、確かに角張った『硬い手触り』があった。落ち葉や泥を手で払いのけると、そこには分厚く重厚な鉄板が敷き詰められていた。

 

 

 

(本当にあった……!)

 

 

 

取っ手に指を掛け、全身の力を込めて引き上げる。

 

 

 

ギギギ……ッ!

 

 

 

重い鉄板が持ち上がり、隙間からぬるりと吐き出されたのは、地上とは根本的に異なる、甘ったるく毒々しい香料と硝煙の匂いだった。そして、地下深くから漏れ聞こえてくる、低く響く狂乱のざわめき。

 

 

 

鉄板の先には、漆黒の闇へと続く急勾配の石段が伸びていた。

 

 

 

ルートは迷うことなく穴へと滑り込み、鉄板を頭上で閉じると、闇の階段を一段、また一段と下りていった。

 

 

 

階段を下りきるにつれ、生暖かい空気と喧騒が肌を刺すように濃厚になっていく。

 

 

 

やがて視界が開けた。

 

 

 

そこは、闘神都市の文字通り「胃袋」の底に広がる不法地帯——『闇市』だった。

 

 

 

天井の低い広大な地下空間。頭上をうねる巨大な下水管からは不気味な水滴が滴り落ち、道端には怪しげなカンドルや紫色の魔法光が点々と灯っている。

 

 

 

通路の両脇には、自分と同じように顔を深々とフードで隠した商人たちが露店を並べ、盗品と思われる血の付いた武具、出所のわからない怪しい魔獣の器官、不気味に蠢く小瓶を取り揃えていた。

 

行き交う人々もまた、訳ありの顔つきをした殺し屋、ならず者、不法投棄された奴隷商人ばかりだ。

 

 

 

法も秩序も、闘神都市のルールすら届かない、欲望と死の匂いが渦巻く肥溜め。

 

 

 

ルートは老人に渡されたボロいマントのフードをさらに深く引き直し、顔を影の中に隠しながら、ミナモの命を繋ぐ『裏の薬』を求め、暗がりの中に渦巻く異形の市場へと足を踏み入れさせた。

 

 

 

湿った熱気と毒々しい香料、そして腐敗した硝煙の匂いが混ざり合う『闇市』の喧騒の中を、ルートは深々と羽織ったマントのフードを揺らしながら進んだ。

 

 

 

通路の両脇には、血の痕がこびりついた刃物や、出所不明の妖しい骨、不気味に明滅する怪しい魔法薬品の小瓶を並べた露店が所狭しと軒を連ねている。

 

 

行き交う者たちは皆、殺気を隠そうともしないならず者や殺し屋ばかり。すれ違いざまに走る互いの視線には、いつでも刃を抜ける緊張感が張り詰めていた。

 

 

だが、ルートの求めるものは「道端の怪しげなガラクタ」ではない。

 

 

この地下都市の暗がりに深く根を張り、本物の『裏の医療』へと繋がる確かなパイプ筋だ。

 

 

 

あてもなく露店を流していたルートの足が、ふと立ち止まる。

 

 

 

賑やかな大通りから一歩外れた、路地裏の薄暗い行き止まり。壊れた木箱の山に腰掛け、小さく足をぶらぶらさせている人影があった。

 

 

 

低い身長。子供と見紛うほどの小柄な体躯。油の染みたダボダボの革ジャンを羽織り、頭には深く目深にキャスケット帽を被っている。

 

 

 

(あいつ……?)

 

 

 

ルートが距離を詰めると、その人物は緩やかに顔を上げた。

 

 

 

帽子の庇(ひさし)の陰から覗いたのは、若々しい少女の顔立ちだった。

 

しかし、その瞳には一切の光——ハイライトが存在しない。まるで精巧に作られたガラス玉のように落ちくぼみ、光を吸い込む漆黒の眼光。

 

感情の起伏すら一切感じさせない無機質な面持ちで、少女はルートの全身を舐めるように見つめた。

 

 

「……何か用? 兄さん」

 

 

平坦で、高低差のない少女の声が路地裏の不快な湿気に溶ける。

 

 

彼女こそ、この地下世界『闇市』の網の目を牛耳り、あらゆる危険なブツと情報を手中に収める闇商人——『モグラ』だった。

 

 

一見た小柄な子供に見えるが、その身のこなしには一切の隙がない。

 

外套の下に忍ばせた刃の気配、そして何より、この凶暴なならず者どもが巣食う闇市で一目置かれ、生き残っているという事実そのものが、彼女の異様な戦闘能力と情報網の恐ろしさを物語っていた。

 

 

 

ルートは無言のまま、マントの裏から一枚の重厚な硬貨を取り出した。予選の戦利品を換金して得た、貴重な金貨だ。

 

 

チャリン、と乾いた金属音が静寂の路地裏に響く。

 

 

ルートは一切の躊躇なく、その金貨をモグラの足元へ放り投げた。

 

 

金貨は泥で汚れた石畳を転がり、モグラの履いた分厚いブーツのつま先に当たって止まった。

 

モグラは視線だけをゆっくりと下ろし、感情の消えた瞳で足元の金貨を見つめると、小器用にブーツの先でそれを跳ね上げ、素早く小さな手の中で受け止めた。

 

 

「……羽振りがいいんだね、地上から来た闘士さん。血の匂いと、焦げた匂いがプンプンするよ」

 

 

指先で金貨の感触を確かめながら、モグラは依然として無表情のまま呟いた。

 

 

「いいよ。お金を払う客には親切にするのが私のモットーだから。……で、その高い金貨で、私から何を買いたいの?」

 

 

ルートは深く被ったフードの影から、血走った執念の宿る瞳を覗かせ、低く切り出した。

 

 

「……腕の立つ『医者』だ。この闇市で、どんな重病や発作でも抑え込める、裏の薬を持っている奴を探している」

 

 

 

モグラは手の中の金貨を指先で一回、二回と滑らかに弄ぶと、感情の失われたガラス玉のような瞳をルートへ向けた。

 

 

「医者……ね」

 

 

高低差のない平坦な声。彼女は膝の上で弄んでいた金貨を革ジャンのポケットへ落とし込むと、壊れた木箱からトンと軽やかに飛び下りた。小柄な体が無音で着地する。

 

 

 

「普通の病気なら、地上の立派な病院でマゼランに大金を払えばいい。……でも、君が求めているのはそういうんじゃないんでしょ。市販の薬が効かなくなった特異な病か、あるいは誰かに掛けられた呪いか」

 

 

モグラはルートの全身から漂う焦燥と、過剰なまでに研ぎ澄まされた殺気を瞬時に見抜いていた。外套の下で握りしめられたルートの拳が、僅かに震える。

 

 

 

「……いるのか、いないのか。それだけを答えろ」

 

 

「いるよ。この地下のドブ底にも、腕だけは確かな『医者』がね」

 

 

 

モグラはそう呟くと、迷いなく薄暗い路地の奥へと足を進め始めた。だぼだぼの革ジャンの裾を揺らしながら、まるで己の庭を歩くかのように、迷路のように入り組んだ闇市の裏道を通り抜けていく。

 

 

 

「ただし、覚悟しておきなよ。あの女は地上を追われた身だけど、腕と薬の質だけは本物だ。……その代わり、性格はあのマゼランよりも始末が悪い」

 

 

 

「……構わない。ミ……。救える薬があるなら、相手が悪魔だろうと関係ない」

 

 

「ふうん」

 

ルートの迷いのない即答に、モグラは振り向きもせず、ただ小さく鼻を鳴らした。

 

 

湿った地下通路を幾度も曲がり、下水管の破裂した水音がひときわ大きく響くエリアへと辿り着く。

 

怪しげな紫色の灯すら届かない漆黒の路地裏の突き当たりに、錆びついた鉄格子と、赤黒い塗料で雑に描かれた十字のマークが浮かび上がっていた。

 

 

『闇診療所』。

 

 

 

法も倫理も存在しない、闇市で唯一の医療行為が行われる惨劇の館。

 

 

モグラは鉄格子を小さな拳でコンコンと規則正しく叩いた。重苦しい金属音が響き、やがて内側からギギギと不快な音を立てて小窓が開く。

 

 

「……誰だ。アタシの睡眠を邪魔する命知らずは」

 

 

小窓の奥から聞こえてきたのは、ハスキーでどこか人を食ったような、低い女の声だった。

 

 

 

「私だよ、オオワシ。上から威勢のいい鴨……じゃなくて、客を連れてきた。重度の発作に効く特効薬を求めてる」

 

 

 

モグラが淡々と告げると、小窓の奥からギラリと光る鋭い眼光がルートを射抜いた。猛禽類を思わせる、冷酷で肉食的な視線。闇医者『オオワシ』だ。

 

 

 

視線はルートの身なり、マントの隙間から覗く血痕、そして握りしめた革袋の厚みを瞬時に見定めた。

 

 

「……ほう。本戦出場の闘士様かい。血とカネの匂いがぷんぷんするねぇ」

 

 

 

ガチャリと解錠の重い音が響き、鉄格子の扉がゆっくりと内側へ開かれた。

 

 

 

「いいよ、入りな。地上のへぼ医者どもには作れない、極上の『薬』を見せてやる」

 

 

 

開かれた鉄格子の先は、強烈な腐敗臭と薬品の混ざり合った、生暖かい部屋だった。

 

 

 

壁棚には怪しげな液体が満たされた小瓶や、魔獣の臓器を漬けた瓶が所狭しと並んでいる。奥の執刀台には赤黒い血痕がこびりつき、部屋のただならぬ惨状を物語っていた。

 

 

 

診察机に腰掛け、細い煙草の煙を燻らせていたのは、白衣を崩して羽織った背の高い女——通称『オオワシ』だった。鋭い目つきと唇に刻まれた薄冷たい笑みは、まさに獲物を狙う猛禽そのものだ。

 

 

「で? アンタが患者じゃないね。どんな症状だ?」

 

 

「……同行者の女性。原因不明の発作で熱が下がらず、市販の発作抑止薬が一切効かなくなった。息も途切れ途切れで……」

 

 

 

ルートが切迫した声で告げると、オオワシは煙草の煙をふぅと吐き出し、三日月のように目を細めた。

 

 

「ふん……典型的な『魔力侵食』に伴う急性拒絶反応みたいだけど、どうだろうねぇ。地上のやぶ医者どもじゃ、せいぜい『呪い』なんて片付けておしまいさ。だが、アタシの特製薬なら……ほら」

 

 

 

オオワシは棚の奥から、禍々しい紫色の液体が満たされた一本の小瓶を取り出し、指先で弄んだ。

 

 

 

「これを使えば、どんな激しい発作だろうと一発で収まる。……ただし、一時的な気休めに過ぎないよ。薬効が切れればまた発作が起きる。症状を完全に治す『根本治療』じゃない」

 

 

 

「……いくらだ」

 

 

 

ルートは即座に革袋を突き出した。予選で稼いだ金貨と銀貨。だが、オオワシはその革袋を一瞥すると、鼻でせせら笑った。

 

 

 

「甘いねぇ、お兄さん。そんな小銭じゃ、この小瓶の半分も買えないよ。……この薬の精製には、迷宮の危険な素材が山ほど必要なんだ」

 

 

 

オオワシは立ち上がり、ルートの胸元へ顔を近づけた。殺気立つルートの鼻先に、煙草の煙を吹きかける。

 

 

 

「金が足りないなら、稼いでくればいい。幸い、お前さんは明日から本戦に出場する闘士だろ。……試合に勝ち進み、賞金を手に入れるたびに、アタシのところへ通いな」

 

 

 

「……なっ」

 

 

 

「薬が切れれば、その娘は死ぬ。娘の命を繋ぎ止めたいなら、死ぬ気で勝ち上がってアタシに金を払い続けることだねぇ。クハハッ!」

 

 

 

ゲスな笑い声を上げるオオワシ。

 

 

 

彼女は最初から、ルートを「定期的に大金を運んでくる上客」として喰い物にするつもりなのだ。ミナモの発作を完全に治す気などなく、薬を小出しにして賞金を絞り尽くす気なのだ。

 

 

 

怒りでルートの拳から血が滲む。腰の剣に手が伸びかけたが、オオワシは冷ややかな瞳でそれを制した。

 

 

 

「アタシを斬れば、薬の調合方は永遠に失われ、その娘も死ぬ。……どうする? 買うのかい、買わないのかい?」

 

 

 

圧倒的な理不尽。だが、今のルートには、この悪魔の要求を呑む以外の選択肢は存在しなかった。

 

 

「……買う。全額、払う」

 

 

 

ルートは血の滲む手で革袋をテーブルに叩きつけ、オオワシから紫の小瓶をひったくるように奪い取った。

 

 

「毎度あり。……せいぜい明日からの本戦、勝ち残ってくれよ? お前さんが死んだら、あの娘も後を追うことになるんだからねぇ」

 

 

 

背後で響くオオワシの嘲笑を振り払い、ルートは薬を胸元に深く抱きかかえ、ミナモの待つ地上を目指して闇診療所を飛び出した。

 

 

 

 

【本戦1日目】

 

 

 

 

闇診療所の惨憺たる空気とオオワシの濁った嘲笑を背に受け、ルートは闇市を抜け出した。

 

 

 

ボロいマントのフードを深く被り直し、胸元に抱いた紫の小瓶——ミナモの命を繋ぐ『一時しのぎの薬』の冷たい感触を確しかめながら、枯れ井戸の暗い階段を駆け上がる。

 

 

 

打ち捨てられた下水処理場を通り抜け、ようやく日差しの残る地上へと這い出たとき、皮膚を刺す地下の湿気は消えたが、ルートの心に漂う重苦しい暗雲が晴れることはなかった。

 

 

(明日からの本戦……勝ち続けなければならない。ミナモの命を繋ぐために……いくらでも金を稼ぐ)

 

 

 

血走った瞳を覆い、急ぎ足で『月光亭』へと向かう裏路地を通り抜けようとした、その時だった。

 

 

 

「……おいおい、どこの命知らずかと思えば、明日からの大会に出る同業者じゃねえか」

 

 

 

重厚な石畳をズシンと揺らす、地響きのような足音。

 

 

 

曲がり角から姿を現したのは、身の丈をゆうに超える巨大な両手斧を背負い、全身を黒鋼の重甲冑で固めた筋骨隆々の巨漢だった。

 

 

 

本戦出場者の一人——『猛攻の重戦士』ガザック。

 

 

 

その巨躯から放たれる圧倒的な威圧感と無骨な面構えは、数々の戦場を潜り抜けてきた熟練の戦士そのものだった。ガザックはルートの前で足を止め、獰猛な肉食獣のような鋭い瞳で、フードの隙間から覗くルートの顔を見下ろした。

 

 

 

「ハッ、なんだその面は。目の下に濃い隈を作りやがって、おまけに全身から血と泥の臭い……。試合前だというのに、随分と追い詰められた顔をしてやがるな」

 

 

 

ガザックは鼻で嘲笑うと、豊かな髭を蓄えた顎を擦りながら、ルートの精神的な疲労と焦燥感を瞬時に見抜いて挑発するように足元へ痰を吐き捨てた。

 

 

 

「そんな青白い面で明日、俺の前に立てるのか? 斧の一振りに耐えかねて、最初の十秒で肉塊にしてしまいそうだぜ」

 

 

 

ルートは無言のまま、ガザックを凍りつくような冷徹な眼光で睨みつけた。

 

 

 

挑発に乗る気も、言い返す気すらない。今の一秒すらミナモのために使いたいルートにとって、目の前の男はただの路傍の障害物に過ぎなかった。腰の愛剣の柄に手がかかりかけるが、体内の超回復の残り香が熱く疼く。

 

 

 

「……ガザック、やめなさいよ! 格好悪いわよ!」

 

 

 

緊迫した二人の間に、透き通った制止の声が挟まった。

 

 

 

ガザックの背後から駆け寄ってきたのは、愛らしさと凛とした気品を併せ持った女性戦士——ガザックのパートナーであり、世話好きで優しい気質を持つ『ミレイ』だった。

 

 

 

ミレイはガザックの肘を軽く小突き、ルートの痛々しい姿へと視線を向けた。ボロいマントの隙間から覗く傷跡や、隠しきれないほどの極限状態の疲弊。彼女の瞳に、明らかな心配の色が浮かぶ。

 

 

 

「大丈夫ですか……? すごく顔色が悪いですよ。何か手伝えることがあれば……」

 

 

「……余計なお世話だ」

 

 

ルートは掠れた声で短く突っぱねると、ミレイの差し伸べかけた手を遮るように一歩引いた。

 

 

 

「おいおいミレイ、そんな死にぞこないを気遣う必要はねえよ。戦う前から精神が摩耗して潰れかけてる奴なんざ、放っておけ」

 

 

 

ガザックは鼻を鳴らすと、ミレイの肩を強引に抱き寄せるようにして引き戻した。

 

 

 

「行くぞ。明日、舞台の上でそいつが息絶えていなけりゃ、俺が引導を渡してやるだけの話だ」

 

 

「ちょっと、ガザック……! あんなに辛そうなのに……」

 

 

ミレイは不満そうに振り返り、何度もルートを気遣う視線を送っていたが、ガザックに促されるまま大通りの喧騒の中へと消えていった。

 

 

 

ルートは去り行く二人の背中を一瞥することすらなく、胸元の薬を強く握り締め直すと、ミナモの待つ『月光亭』へ向けて再び走り出した。

 

 

【宿】

 

 

 

ダァンッ!

 

 

 

『月光亭』の扉を押し開け、ルートは息を弾ませながら階段を駆け上がった。

 

 

 

2階の奥にある静かな客室。扉を開けると、そこにはチエリが看病をしてくれていた。

濡れたタオルを手に心配そうな面持ちで立ち上がった。

 

 

 

「ルート……! 無事だったのね!?」

 

 

「ミナモは……!?」

 

 

「発作が……さっきからどんどん酷くなって、息をするのも苦しそうなんだ……!」

 

 

ベッドへ視線をやると、ミナモの顔は死人のように蒼白で、唇は紫色に変色していた。荒く浅い呼吸を繰り返すたび、細い身体が痛々しく痙攣している。一刻の猶予もない。

 

 

 

ルートはポケットから、オオワシから手に入れた禍々しい紫色の小瓶を取り出した。

 

 

 

「これを……飲ませる」

 

「それって……!」

 

「………医者から手に入れた特効薬だ。……チエリ、手伝ってくれ」

 

 

 

ルートはミナモの華奢な体を優しく抱き起こし、彼女の乾いた薄い唇へ小瓶の縁をあてがった。チエリが慎重にミナモの顎を支え、紫色の液体を少しずつ喉の奥へと流し込んでいく。

 

 

ゴク、と小さな嚥下音。

 

 

薬が体内に流れた直後、ミナモの全身がビクンと大きく跳ね上がった。

 

 

 

「ミナモ……ッ!?」

 

 

 

ルートの心臓が凍りつく。しかし、直後に起きたのは死の苦悶ではなかった。

 

 

ミナモの荒く途切れ途切れだった呼吸は、次第に深く、穏やかな寝息へと変わっていく。

 

 

蒼白だった頬にはかすかな赤みが差し、苦痛に歪んでいた眉間のシワが綺麗に伸びていった。

 

 

「あ……すごい……! 呼吸が……発作が収まっていく……!」

 

 

チエリが安堵の声を漏らし、胸の前で手を合わせた。

 

ミナモは穏やかな表情のまま、ルートの手にそっと触れるように小さな指先を丸め、深く温かな眠りへと落ちていった。

 

 

 

(きいた……。あの女の言った通りだ……)

 

 

 

熱を持ったミナモの手のひらの温もりが、ルートの指先に伝わってくる。

 

 

 

生きている。ミナモは、今夜を乗り越えられたのだ。

 

 

 

崩れ落ちるようにベッドの傍らに膝をつき、ルートはミナモの額にそっと自分の額を寄せた。張り詰めていた緊張が切れ、全身の筋肉が激しい疲労感とともに崩壊しそうになる。

 

 

 

だが、安堵と同時に、冷酷な現実が頭をよぎる。

 

 

 

これは根本的な治療ではない。オオワシの言った通り、一時的に症状を抑え込んでいるだけに過ぎないのだ。薬効が切れれば、再びあの地獄のような発作がミナモを襲う。

 

 

 

(オオワシ……。だが……今はそれしかない)

 

 

 

ミナモの命を繋ぎ止めるための命の期限。それを買い続けるための唯一の手段が、闘神大会の本戦に勝ち続けること。

 

 

 

どれほど身体が壊れようと、どんな過酷な対戦相手が立ちふさがろうと、自分には勝ち続ける以外の道など残されていない。ガザックの挑発も、超回復の代償も、すべてはこの少女の笑顔を取り戻すための糧でしかなかった。

 

 

 

「……ゆっくり休んで、ミナモ」

 

 

 

ルートはミナモの髪を愛おしそうに撫で下ろすと、暗い決意を宿した瞳で窓の外、これからの戦場となる巨大な闘技場を見つめた。

 

 

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