本戦2日目
朝の柔らかい光が、宿屋『月光亭』の小さな木枠の窓を抜け、静かに室内を満たしていた。
ルートが瞼を開いた瞬間、真っ先に意識を向けたのは隣のベッドだった。
昨夜までの焼死しそうな体熱、喉を叩き割るような痛々しい喘鳴、そして呼吸すらまともにできず途切れ途切れに溢れていた悲鳴——それらの地獄のような悪夢が、頭の裏側で冷たく引きつっていた。
だが、網膜に映し出されたのは、あまりにも予想外で、けれど息が止まるほど愛おしい光景だった。
「……あ、おはよう、ルート」
ミナモが、ベッドの上にチョコンと体を起こしていた。
昨日までの土気色の顔色は嘘のように消え去り、白磁のような肌には健康的で柔らかな桃色が戻っている。
少し乱れた髪を細い指先で払いながら、彼女は小さな唇を綻ばせ、ルートへ向けて心底嬉しそうに微笑んだ。
昨夜、暗闇の中で見たあの死の影は、跡形もなく霧散している。ルートは身を起こし、吸い寄せられるようにミナモの傍らへと膝をついた。そっと伸ばした手のひらを彼女の額にあてる。
熱がない。
あんなにも体を焼き尽くしていた恐ろしいほどの熱気が綺麗に引き、手触りは驚くほどなめらかで、心地よい温もりだけが残っていた。
「……熱、下がったな」
「うんっ。すごく体が軽いの……! 胸のキュッとする痛さも全部消えちゃって……こんなにすっきり起きたの、すっごく久しぶりな気がする」
ミナモは両手を胸の前でギュッと握りしめ、自分の体の快調さを確かめるように小さく息を吐いた。そして、枕元に置かれていた、昨日チエリが運んでくれたおぼんへ視線を落とす。
「ねえ、ルート。チエリさんの作ってくれた朝ご飯……すごく美味しそう。なんだか今日はお腹が空いちゃった」
「……よかった。いっぱい食べな」
喉の奥から絞り出すように答えたルートの胸を、猛烈な安堵の波が突き上げていた。
生きていてくれた。
今日という朝を、こうして言葉を交わしながら迎えることができた。その事実だけで、全身の緊張がほどけ、崩れ落ちそうになるほどの感覚を覚える。
だが——安堵のすぐ裏側から、冷酷でどす黒い現実が顔を覗かせた。
(……効いている。だが……)
昨夜、闇市の惨溺たる診療所で、あのオオワシという女が吐き捨てた言葉が脳裏に蘇る。
『一時的な気休めに過ぎないよ。薬効が切れればまた発作が起きる』
今、ミナモが浮かべているこの可憐で眩しい笑顔は、本物の奇跡などではない。
単に、あの毒々しい紫色の『裏の薬』が、病魔の暴走を力任せに押さえつけているだけの過渡期なのだ。薬効が途切れれば、病魔は再び牙を剥き、ミナモの命を容赦なく食い散らかすだろう。
そして、その命の灯火を繋ぎ止めるための薬を手に入れるには、あのアブラムシのような闇医者に、莫大な金を支払い続けなければならない。
ルートの瞳の奥に、暗く燃え上がる焦燥の火が宿った。
(今日のうちに……1ゴールドでも多く稼がなきゃダメだ。次の薬の値段が、いくら跳ね上がろうと払えるように……)
心の奥底に渦巻く冷たい決意を隠し、ルートは昨晩磨き上げた愛剣を腰の鞘へと納めた。身支度を整える背中に、ベッドの上のミナモが不思議そうに声をかける。
「……ルート? 今日も……闘神迷宮にいくの……?」
「うん。今日も行ってくるよ」
ルートが振り返り、短く告げると、ミナモの表情が微かに曇った。
昨日テレビで流れていた、過酷化した闘神迷宮の凄惨な光景や、凶暴な猛者たちの姿が彼女の脳裏をよぎったのだろう。ミナモは布団の端を小さく握りしめた。
「そっか……。本戦…だもんね…。準備、大変なんだよね……」
「……心配いらない。ただの探索だ」
ルートはミナモの元へ歩み寄ると、不安そうに見上げる彼女の頭にそっと手を置いた。
指先から伝わる柔らかい髪の感触と、温かな体温。これを失うわけにはいかない。絶対に、何があっても。
「夕方には戻るよ。部屋で大人しく休んでて?」
「うん……!」
ミナモはルートの手の温もりにそっと身を寄せると、不安を押し殺すように健気な、満面の笑顔を浮かべた。
「いってらっしゃい、ルート! ……私、ルートが無事に帰ってこられるように、ずっとここでお祈りしてるからね。無理しちゃダメだよ?」
「……ん。行ってくるよ」
その笑顔を瞼の裏に焼き付け、ルートは一度だけ深く頷くと、部屋のドアを開けて朝の廊下へと足を踏み出した。背後で静かに閉まる扉の音を聞きながら、ルートの表情から温もりは消え去り、研ぎ澄まされた刃のような冷徹な剣士の顔へと戻っていた。
【宿1F】
ぎしみしと木床を軋ませて階段を降りていくと、朝の『月光亭』の食堂には、煮込まれたスープの香ばしい匂いと、本戦を間近に控えた冒険者たちのどこか刺々しいざわめきが充満していた。
ルートが食堂へ足を踏み入れた瞬間、カウンターの向こう側から凛とした通りの良い声が響いた。
「はい、そっちのテーブル! 朝食のおかわりならちゃんと順番待ちしなさい! 厨房を慌てさせないの!」
大きめのエプロンをキュッと結んだ小柄な少女——チエリが、踏み台の上から店内全体へ鋭い眼光を走らせ、荒くれ者の冒険者たちをテキパキと仕切っていた。小柄な体躯とは裏腹に、その堂々たるお姉さんぶりは『月光亭』の実質的な支配人そのものだ。
ルートの姿を見つけると、チエリはトレイを叩と置いた。
「あ、お兄さん! ちょっと、ミナモちゃんの様子はどうなのよ!? 朝一番で顔を見に行こうと思ってたのに、店の準備で手が離せなかったんだから!」
「おかげさまで、奇跡みたいに落ち着いた。熱も引いて、今は朝飯を食べられるくらいだ」
「えっ……ほんと!?」
チエリの表情が一変し、大きな目をさらに見開いた。胸の前で小さな両手をギュッと握りしめる。
「よかったぁ……! 昨日の夜はあんなに辛そうだったから、私、気が気じゃなくて……」
心底安堵したように胸を撫で下ろしたチエリだったが、ルートがじっと自分を見つめていることに気づくと、ハッと正気に戻ったように頬を微かに赤くし、そっぽを向いて小さく咳払いをした。
「……とにかく! ミナモちゃんの体調が戻ったならよかったわ!!」
「ああ、本当に感謝してる。あのいかなご料理を作ってくれたチエリのおかげだ。ありがとう」
ルートが真面目な顔で頭を下げると、チエリはふと視線を泳がせ、口元をキュッと結んだ。
「お、お礼なんていいわよ。私は宿の責任者として、客人の面倒を見ただけなんだから! 変に気を使わないで頂戴!」
しっかり者のお姉さんとして振る舞おうとするチエリ。しかし、そのやり取りを冷ややかな視線で見つめる陰影があった。
「——おい、若いの」
低い、地鳴りのような声が背後から落ちてきた。
振り返ると、食堂の壁際に身を寄せていたガルドが、太い腕を組んだままこちらを鋭く睨みつけていた。巨躯から漏れ出る圧迫感もさることながら、その鷹のような眼光が、ルートの全身を舐めるように検分している。
ガルドは重い足音を響かせて歩み寄ってくると、ルートの眼前に仁王立ちし、見下ろすように鼻で息を吐いた。
「……何?」
「何、じゃねえよ。お前、昨日から様子がおかしいぞ。……昨日の昼前、鬼みたいな顔して街中を駆け回ってたろ。おまけに今のその目だ。一見落ち着いてるように見えるが、内側で何かが焼き切れそうになってやがる」
ガルドの言葉には、幾多の修羅場を潜り抜けてきたベテラン特有の鋭さと重みがあった。
「おい。何に追われてる? 焦り、悲壮感、精神の余裕の無さ……全部顔に出てるぞ。言っておくがな、そんな状態で迷宮に入ってみろ。焦りと雑念がある奴から順番に、死体の山の一部になるんだよ。明日は本戦だっていうのに、何トチ狂ってやがる」
ガルドの詰問は完全に正論だった。だが、ルートにはミナモの病気のこと、昨日の夕方に地下闇市へ潜り『オオワシ』から高額な薬を買ったこと、そして手持ちの金が底をついた焦りを語る気は毛頭ない。
ルートが口を開くより早く、横からチエリが凛とした声を上げた。
「ちょっとガルドさん。うちの店内で客を威圧するのはやめてもらえる? ルートが本戦前でピリピリしてるのは当然でしょ。余計な口出しをして混乱させないで」
仕切り屋としてのチエリの毅然とした態度に、ガルドは苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「……へいへい、チエリ店主の言う通りだ。悪かったよ」
ガルドも彼女を一目置いているようで、それ以上は踏み込まず、ルートへ鋭い視線を残して引き下がった。
「…死ぬなよ、若いの」
「……心配いらないよ。明日の試合に向けて準備をしているだけだから」
ガルドが背を向けて離れていくのを見届け、ルートは宿を出るべく扉へ向かおうとした。すると、チエリがトタトタと歩み寄ってきて、ルートの前に立ち塞がった。
「……ガルドさんの言いたいことも分かるわ。無茶して怪我でもしてみなさい、承知しないんだからね」
チエリはお姉さんらしく腕を組むと、心配を隠すように少し眉をひそめてルートを見上げた。
「……はいこれ、今日の昼食分のパン。ちゃんと全部食べなさいよ。無事に帰ってきて、溜まってる滞在費をまとめて払ってもらわなきゃ困るんだからね。絶対に無茶しないで戻りなさい」
手渡された紙包みからは、焼き立ての香ばしい温もりが伝わってきた。
「……うん。行ってくるよ」
ルートは包みをしっかりと受け取り、短く頷いた。
「いってらっしゃい。ミナモちゃんには特製のお粥を作っておくわ!」
背後から飛び出すチエリのしっかりとした見送りの声を受け、ルートは『月光亭』の重い木製扉を押し開けた。朝の冷たい風が頬を叩いた瞬間、ルートの表情から柔らかさは消え去り、再び研ぎ澄まされた刃のような冷徹な剣士の顔へと戻っていた。
【闘神迷宮入口】
宿を出たルートを待ち受けていたのは、朝の冷気と、本戦を翌日に控えた街のどこか殺気立った喧騒だった。
路地を抜け、闘神迷宮の巨大な入口へと向かって足を早める。
思考を支配するのは、ミナモの可憐な笑顔と、その後ろに潜む「裏の薬」のタイムリミットだけだ。
次の薬代としてオオワシがどれほどの金額を要求してこようと、抗う術はない。
今の自分にできるのは、1銅貨でも多く、1つでも多くの素材を今日のうちに稼ぎ出すことだけだった。
やがて視界が開け、不気味な圧圧感を放つ迷宮の巨大な鉄門が目の前に立ち塞がった。
門の傍らには、重厚な甲冑を身に纏い、腰の長剣に手をかけた男がたたずんでいた。迷宮警備隊長、シュマイゼンだ。
ルートが鉄門を潜ろうと足を踏み入れた瞬間、シュマイゼンの鋭い眼光がルートの全身を射抜いた。
昨日、血走り鬼気迫る形相で街と迷宮を幾度も往復していたルートの様子は、当然のようにこの警備隊長の記憶に強く刻み込まれている。
「……止まれ、ルート」
重々しい声が制した。シュマイゼンはゆっくりと歩み寄ると、ルートの顔をじっと検分するように覗き込んだ。
「……ふむ。昨日のような、今にも目の前の者を斬り捨てかねん狂気は薄れたようだな。少しは冷静さを取り戻したか」
シュマイゼンの言葉には、幾多の冒険者を見送ってきた者特有の重みが宿っていた。彼は腕を組み、警告するように音を立てて鼻で息を吐く。
「だが、調子に乗るなよ。目つきの奥に潜む焦りまでは消えておらん。迷宮は、そういう心の隙間を的確に突いてくる場所だ」
「……問題ないよ」
感情を殺したルートの短い返答に、シュマイゼンは不満げに眉をひそめた。
「何が問題ないだ。明日は本戦の初戦だろうが。貴様の相手は、あの力と老練さを兼ね備えた重戦士ガザックだ。本戦を目前にして、迷宮の雑魚相手に無駄な傷を負って命を落とすなど、興行としても反吐が出る」
シュマイゼンはそう吐き捨てると、固く閉ざされていた鉄門の脇にある重い扉を、ギギギと不気味な音を立てて引き開けた。暗く冷たい地下への階段が、口を開けた怪物の喉奥のように広がっている。
「無茶はするな。無事に地上へ戻り、明日の試合でその剣を見せろ」
警備隊長としての厳しさと、わずかな思いやりが混ざり合った言葉。ルートはシュマイゼンの視線を真っ直ぐ受け止めると、言葉の代わりに深く一度だけ頷いた。
立ち止まることなく、冷気と死臭が漂う地下階段へと足を踏み入れる。
背後で重い扉が閉まる音を聞きながら、ルートは腰の愛剣の柄にそっと手を伸ばした。暗闇の中、彼の瞳にはミナモを救うという冷徹で絶対的な執念の光だけが、静かに燃え上がっていた。
【闘神迷宮B1F】
湿り気を含んだ冷気と、腐臭の混じる獣臭が充満する闘神迷宮B1F。地下の階段を降り切った瞬間、ルートの意識は戦闘状態へと完全に切り替わっていた。
背後で地上の光が遮られ、暗がりが広がる。だが、ルートの視界は研ぎ澄まされていた。迷宮の深層へ向けて足を踏み出したその瞬間、前方からカチカチと乾いた足音が響く。
「……ッ!」
暗闇から姿を現したのは、土塊で作られた人形のような怪異『ハニワ』の群れだった。鈍重な外見に反し、その突進は鋭い。しかし、ルートの瞳にはその動作がまるで泥の中を泳ぐかのように緩慢に映っていた。
無言のまま愛剣を抜き放つ。
昨日の死線の中で掴みかけた、あの異質な感覚——世界から余計な雑音が消え去り、敵の動作の「繋ぎ目」が視覚的に浮かび上がる感覚に意識を集中させた。
(ここだ)
踏み込み一歩。ハニワが腕を振り上げる動作の頂点、硬い土の胴体に生じた魔力と強度の歪み。そこへ向けて、刃を滑り込ませる。
手応えは、あまりにも小さかった。
ガツンという硬い感触ではなく、紙を切り裂くような吸い込まれるような手ごたえ。
「——!?」
断末魔すら上げず、ハニワの巨体が斜め一閃に両断された。断面からは核となる魔石が転がり落ちる。
『会心の一撃(クリティカル)』。
狙撃のような一撃の手応えを腕に残しながら、ルートは余韻に浸る間もなく、崩れ去る土塊を蹴って次へと跳んだ。
「キシャアアッ!」
頭上から襲いかかってきたのは、素早い動きと鋭い突起を持つ『うっぴー』だった。空中で身を翻し、ルートの首元を狙って爪を突き出してくる。
ルートは体をわずかに捻り、紙一重でその攻撃をかわした。頬を掠める風切り音。すれ違いざま、うっぴーの胸元に浮かび上がる光の点——最もしなやかに動き、同時に最も無防備になる威力の結び目。
閃光のような突き。
「ガッ……!?」
正確に核を穿たれたうっぴーは、悲鳴と共に地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
(いける……! 感覚が手になじんでいく)
ルートは素早くかがみ込み、モンスターが残した高価なドロップ素材と魔石を拾い集めた。腰の革袋に放り込むたび、重みが増していく。
(まだまだ足りない。ミナモの薬代には……こんなものでは到底届かない)
闇医者オオワシのニヤついた顔が脳裏をよぎる。奴が要求してくるであろう絶望的な金額。
それを叩きつけて薬を奪い取るためには、このB1Fのモンスターを根こそぎ刈り尽くす勢いで稼がなければならなかった。
疲れを知らぬ機械のように、ルートは暗い坑道の中を走り出した。
B1Fのエリアを縦横無尽に疾走しながら、ルートは遭遇するすべてのモンスターを討ち果たしていった。
本来であれば、本戦を翌日に控えた冒険者が取るべき行動ではない。
体力を温存し、剣を休めるのが鉄則だ。しかし、今のルートを突き動かしているのは、自分自身の命ではなく、「ミナモを生かす」という冷徹で絶対的な執念だった。
「ガウッ!」
通路の曲がり角から飛び出してきたハニワの二頭立てが、同時に腕を振り下ろす。ルートは止まることなく直進し、交差する二本のアームの隙間へと滑り込んだ。
右のハニワの膝関節。左のハニワの首元。
一瞬の交差の中で繰り出された二連撃は、どちらも完璧な『会心の一撃』となって二頭の命を刈り取った。崩れ落ちる音を聞く前に、ルートは次の部屋へと足を踏み入れていた。
汗が目に入り、視界が滲む。
「超回復」を連用した影響で、全身の筋肉や骨、怪我は完治するが、その奥には灼熱のような倦怠感が渦巻いていた。
(……動け。もっと速く、もっと確実に斬れ)
己の肉体に冷酷な命令を下す。体力の限界など、自身には存在しない。あったとしても、ミナモの苦しみに比べれば取るに足らない小事だった。
襲い来るうっぴーの群れ。三頭、四頭と同時に飛びかかられるが、ルートの剣は一切の迷いなく最小限の動作でその急所を穿ち抜いていく。敵の攻撃を受け止める無駄な衝撃を排除し、すべてを紙一重のかわしと一撃必殺のカウンターに集中させることで、疲労した肉体の負荷を極限まで抑え込んでいた。
戦いというよりは、極めて洗練された作業。
殺戮の精度は上がる一方だった。
やがて、討伐したモンスターのドロップ素材で、ルートの背の包みと腰袋はパンパンに膨れ上がっていった。
高値で売れる硬質土や、うっぴーの希少な鋭爪。これだけの量を持ち帰れば、かなりの金になるはずだ。
荒い息を吐き出しながら、ルートは血に濡れた剣を振って脂を払い、鞘へと収めた。
肩を激しく上下させながら、手に入れた素材の重みを確かめる。
(よし……これなら次の薬の足しにはなる。だが、油断はできない。B1Fのさらに奥まで巡回して、集められるだけ集める)
肉体の悲鳴を無視し、冷たい眼光を宿したまま、ルートはさらに深く、モンスターの気配が濃い水脈エリアの方向へと足を進めた。
ハニワやうっぴーを瞬く間に刈り倒した後も、ルートの脚が止まることはなかった。
B1Fのさらに深く、湿り気と獣臭が濃くなる水脈エリアの手前。怪異の生息密度が跳ね上がる危険地帯へと足を踏み入れながら、ルートは一心不乱に獲物を捜索していた。
「キシャアアアッ!」
暗がりから飛び出してきたのは、B1Fでも屈指の凶暴さを誇る変異種の怪異たちだった。鋭利な岩肌のような角を持つ大角うっぴーが三頭、同時に左右から死角を突いて襲いかかってくる。
ルートの瞳は氷のように冷たく冴え渡っていた。
「……遅い」
一歩前へ踏み込み、右側の個体が突き出してきた角を愛剣の腹でわずかに受け流す。
刃と角が擦れ合い、火花が散る。その瞬間に生じた極小の隙——敵の首元に浮かび上がる魔力の結び目へ向けて、最速の刺突を叩き込んだ。
『会心の一撃(クリティカル)』。
吸い込まれるように核を穿たれた一頭が激しい悲鳴とともに崩れ落ちる。
着地の衝撃を利用して低く旋回し、残る二頭の突進を最小限の紙一重でかわすと、すれ違いざまに二連斬りを放つ。手応えすら感じさせない完璧な急所裁断。
「ガハッ……!?」
三頭の怪異は、ほぼ同時に肉塊となって地面に叩きつけられた。
ルートは荒い息を整える間もなく素早くかがみ込み、怪異の体内から高値で取引される『硬質大角』を手際よく切り出した。腰の革袋に押し込むたび、重みが心地よく手に残る。
(まだまだだ……。こんな程度じゃ、あのオオワシの言う『次の薬代』には遠く届かない)
体力を温存しようという迷いは一切なかった。B1Fで得られる最上級の素材を根こそぎ刈り取るため、ルートは血の匂いに引き寄せられて湧き出るモンスターの群れへ、自ら飛び込んでいった。
そうして圧倒的な手際で素材を稼ぎまくり、足元にモンスターの死骸の山を築き上げていた——その時だった。
ドォンッ!!
激しい地響きと金属音が、水脈エリアの広大な空洞から響き渡った。
(……この音は?)
ルートは手に入れた素材を背負い袋へ押し込むと、気配を殺して水脈エリアの闇へと足を踏み入れ、物陰からその光景を注視した。
水飛沫とともに、この階層でも屈指の巨体とタフさを誇る『イカ男』が、壁面へ激しく叩きつけられて粉砕された。肉塊へと変わるモンスターを見下ろすように立っていたのは——黒鋼の巨大な重甲冑を身に纏い、身の丈を超える大斧を担いだ男、ガザックだった。
(ガザック……!)
明日の本戦初戦を控え、B1Fに乗り込み、モンスターを乱獲していたらしい。
ガザックの大斧が一閃するたび、周囲に群がっていたモンスターたちがまとめて肉塊へと変わっていく。
一見すると、その圧倒的な腕力に任せた力任せの破壊に見えた。だが、観察眼を冷徹に研ぎ澄ませたルートの瞳には、その挙動の恐ろしい真価が見えていた。
大斧の風切り音、無駄のない重心移動、そして相手の攻撃を重甲冑の最も分厚い部位で完璧に殺す絶妙な間合いのコントロール。
荒々しい挙動の裏には、幾多の死線を潜り抜けてきた老練な戦士の技が隙なく組み込まれている。
(……強い。力だけじゃない)
自らも直前まで激しい討伐で素材を稼いでいたからこそ、ガザックの圧倒的な討伐スピードと隙のない強みがより鮮明に理解できた。
ガザックが大斧を振り下ろす瞬間の間隙、鎧の継ぎ目——『会心の一撃(クリティカル)』を叩き込める「線の結び目」を探ろうと、ルートは眼光を鋭くした。
その時だった。
ガザックが最後の一頭を叩き潰すと、ゆっくりと首を巡らせた。バチン、と空間が爆ぜるような勢いで二人の視線が真っ向から激突する。
「……ふん」
ガザックは大斧を肩に担ぎ直すと、血と水滴に濡れた顔で不敵に口の端を吊り上げた。昨日街ですれ違った時のような言葉の挑発すら投げてこない。
ただ、冷たく眼前の「獲物」を定めるような鷹の目でルートを一瞥すると、巨躯を翻して奥の暗がりへと消えて行った。
残されたのは、粉砕されたモンスターの残骸と、肌を刺すような重々しい余圧だけだった。
(あの巨躯……あの装甲を突破して一撃を叩き込むには、寸分の狂いも許されない)
自身の手で刈り取った大量のドロップ素材の重みを背中に感じながら、ルートはガザックが消えた闇を静かに見つめた。
どれほどの圧迫感があろうと、逃げる選択肢などない。あの男を倒さなければ、ミナモの未来が潰える。絶対に、勝ち切る。
思考を冷たく研ぎ澄ませ、ルートは手に入れたドロップ素材の包みを背負い直し、地上への階段を目指して歩き出した。
【闘神迷宮入口】
「戻ったか」
重い鉄門を押し開けて地上へ戻ったルートを、警備隊長のシュマイゼンが出迎えた。その視線は即座に、ルートが背負っているパンパンに膨らんだ袋へと注がれる。
「……随分と荒稼ぎしてきたようだな。無駄な怪我はないか?」
「……ああ。問題ないよ」
ルートが短く答えると、シュマイゼンはルートの全身を一瞥し、深く息を吐き出した。
「ふん……入る前より目つきが冴えているな。いい顔になった。……明日の本戦1回戦、期待しているぞ。死んで興行に水を差すことだけは許さんからな」
「……言われなくても、勝つよ」
シュマイゼンに背を向け、ルートは賑わいを見せる夕暮れの街へと足を進めた。
まずは、集めた大量の素材を換金所に持ち込み、1銅貨残らず金に変えなければならない。そして、闇医者オオワシに叩きつけるための「次の薬代」の蓄えを1ゴールドでも多く作るのだ。
西日に照らされる街並みを歩きながら、ルートの胸の中には、静かで青い炎のような闘志が燃え上がっていた。
(待っててくれ、ミナモ。俺が絶対に……全部勝ち取ってみせる)
愛剣の感触を確かめるように強く握り締め、ルートは愛剣のメンテナンスを行うため、武器屋へと向かって足を進めた。
西日に照らされる街並みを抜け、愛剣のメンテナンスのために武器屋へ向かって歩いていたルートだったが、ふと足を止めた。
(……待てよ。そういえば、レベルを上げていなかったな)
B1Fで絶え間なくハニワやうっぴーを刈り尽くし、さらに奥の水脈エリア手前で怪異の群れを討伐しまくっていたため、体内には十分すぎるほどの経験値(EXP)が満ち引きしているはずだった。
明日の本戦初戦、相手はあの重戦士ガザックだ。寸分の狂いも許されない死闘を前に、引き出せる潜在能力をそのままにしておくわけにはいかない。
ルートは腰のポーチから再び「呼び出しのスクロール」を取り出した。
スクロールを開き詠唱を呟くと、前回の再現のように路地の片隅へ淡い紫色の光が溢れ出した。
光が収まるとそこには、空間を歪めて現れた豪華なデスクと、相変わらず深いスリットからスラリと伸びる生脚を組んだ少女——レベル神のカリンの姿があった。
「はぁーい! レベルアップのお時間……って、あら? またアンタね、ルート!」
カリンは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつものあざとい営業スマイルを作り直した。
組み替えた脚の位置をわずかにずらし、青白い光の中で自慢の脚線美をこれ見よがしに主張させてくる。
「ふふっ、前回の『予告』がそんなに効いたのかしら? ほんと、男の人ってわかりやすいんだから。……まあいいわ! 今回も頑張ってEXPを稼いできてくれたみたいだし……約束通り、もうちょっと『近く』で見せてあげようかしら?」
あざとく微笑みながら、デスクの上でさらに脚を組み替えてアピールするカリン。しかし、ルートの瞳は前回と変わらず至って冷静だった。
「……今回もレベルアップの手続きを頼む。明日の試合のために、もっと力が必要なんだ」
「〜〜〜っ!? ちょ、ちょっと! 少しは反応しなさいよバカ! 普通『ありがとうカリンちゃん!』とか鼻下伸ばすところでしょ!?」
誘惑を完全にスルーされたカリンは、必死に作っていた営業スマイルを派手に崩し、真っ赤になって机をバンバンと叩いた。
「コホン! ……も、もういいわよ! ったく、色気より強さなワーカーホリックなんだから……。えーっと、ルート様ね。……うわ、もうこんなに溜まってるの!? ちゃんと無茶しないで戦ったんでしょうね……?」
手元の水晶を操作しながら、予想以上のEXPに驚きつつも、どこか心配そうな視線を向けてくる。
「よし、規定値は余裕でクリアよ。それじゃあ……レベルアップの儀式を行うわね」
カリンはデスクから立ち上がると、ゆっくりとルートの目の前へ進み出た。
「じゃあ……前と同じように頭を下げて。……す、すぐ終わるからっ」
強がってはいるものの、一対一の距離まで近づくと、カリンの足取りはあからさまにぎこちない。前回の記憶が蘇っているのか、すでに耳たぶがほんのりと赤くなり始めている。
ルートが静かに姿勢を低くすると、カリンの細く柔らかな手が、少し震えながら彼の肩に触れた。
「ん……っ……レベルアップの祝福を……」
小さな手からあふれ出す温かな光。前回のレベルアップ時よりも密度の濃いエネルギーがルートの身体を駆け巡る。それと同時に、カリンの甘い香りと、薄い布地越しに伝わる吐息の熱さがダイレクトにルートの肌を撫でた。
ルートの息がかすかに乱れ、カリンの肩がびくっと跳ね上がる。
「っ……! ちょ、距離! 吐息がかかって……じゃなくて、変な意識しないでよね! これは効率よく精素を伝達するための、ただの業務! 業務なんだからっ!」
カリンはパニックになったように言葉を捲し立てると、真っ赤になった顔を誤魔化すように、慌ただしく数歩後ろへと引き下がった。
「ふ、ふん! 無事にレベルはまた上がったわ! これで文句ないでしょ!?」
乱れた胸元を押さえ、上がった息を必死に整えながらプイッと横を向くカリン。
「……ありがとう、カリン。おかげで助かるよ」
ルートが前回同様、直球でまっまっすぐなお礼を口にすると、カリンはチラリと視線だけをこちらに向け、赤みが引かない頬のまま照れくさそうに顎を上げた。
「……べ、別にあんたのためにやってるんじゃないんだから。私が優秀なシステム管理者だから当然の処理をしただけ! ……でも、まあ……無事でよかったわよ」
最後は消え入りそうな声でつぶやくと、誤魔化すようにパンパンと両手を叩いた。
「とにかく! 次もちゃんと無事にEXP溜めて呼び出しなさいよね! じゃあねっ!」
光の粒子とともに、カリンはデスクごと神界へと送還されていった。
路地に一人残されたルートは、握りしめた拳を見つめる。身体の奥から湧き上がる新たな力とともに、神界の担当官が魅せた不器用な優しさが、確かな温もりとして残っていた。
「よし……次は本当に武器屋だ」
気合いを入れ直すと、ルートは愛剣のメンテナンスのため、再び武器屋へ向かって足を進めた。
夕闇が本格的に街を包み込み始める頃、ルートは『鋼の拳亭』の重い木扉を押し開けた。
店内に足を踏み入れた瞬間、香ばしい鉄とメンテナンス油の匂いが鼻腔をくくぐる。
「いらっしゃい! ……あ、お兄さん!」
カウンター越しに乗り出すようにして声をかけてきたのは、看板娘のミルキーだった。
ショートパンツに革のエプロンを纏い、片手に油布を握った彼女は、ルートの姿を認めるとパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「ふふっ、またその愛剣のメンテナンス? 本当にお兄さんは武器を大切にするよね!」
「うん、……ミルキー、よろしく」
ルートが腰から愛剣を抜いてカウンターへ置くと、ミルキーの目つきがサッとプロの職人のそれに変わった。
ハニワの土塊を破り、怪異の骨を砕き続けた刃は、肉眼でも分かるほど各所が刃こぼれし、銀色の輝きを失いかけている。
「……ちょっと、お兄さん!?」
ミルキーは驚いたように眉をひそめ、顔を覗き込んできた。
「どんだけ無茶な戦い方してきたのさ! 刃がこんなに傷んでるじゃない! もうっ、自分の身体だけじゃなくて、剣のことも少しは労わってあげなよ!」
腰に手を当ててぷんぷんと怒るミルキー。だが、傷口を検分するその手指は極めて繊細で手際が良かった。
「なにごとだ、ミルキー。喧しいぞ」
奥の作業場から、豪快な足音とともに大柄な男が現れた。鍛え上げられた分厚い胸板に丸太のような腕、厳めしい髭を蓄えた店主のオヤジだ。肩に大きな金槌を担ぎ、仁王立ちでルートを見下ろす。
「… なんだルート、またその愛剣を痛めつけてきたのか! 職人泣かせな野郎だぜ、まったくよぉ!」
オヤジは笑うと、ルートの肩を外れるほどの力でバシバシと叩いた。そしてカウンターの剣へ視線を落とすと、低い声でフンと鼻を鳴らした。
「……だが、良い傷だ。ただ無闇に叩きつけた傷じゃねえ。」
「……分かる?」
「当たり前だろ! 俺とミルキーが手入れしてきた業物だぞ、誤魔化せると思うなよ!」
オヤジがニッと笑うと、ミルキーも手際よく研ぎ石とメンテナンス用品を並べ始めた。
「本当にもう……。でも、刃のラインは崩れてないから、私がバッチリ研ぎ直してあげる! 明日は本戦初日なんでしょ? 相手はあのガザックだって噂、街でも聞いてるよ」
ミルキーは真剣な眼差しで砥石に刃を滑らせ始めた。
シャリッ、シャリッ、と心地よい研ぎ音が店内に響く。ミルキーの確かな腕前によって、刃こぼれは見る見るうちに消え去り、鏡のような美しさと恐ろしいほどの切れ味が蘇っていく。
仕上げの油を塗り終えたミルキーは、満足そうに息を吐くと、磨き上がった剣をルートに手渡した。
「はい、完璧! 」
「俺が仕上げを確かめた業物だ、そう簡単に折れるんじゃねえぞ!」
オヤジも胸の前で腕を組み、鋭い眼光の奥に親心を覗かせながら言った。
「明日、無事に勝って帰ってこい! 死んでその剣をドブに捨ててみろ、化けて出て引きずり回してやるからな!」
「ふふっ。 ……はいこれ、特製の砥石! 無事に帰ってきたら、またお店に顔を出してよね!」
ミルキーは特製の小砥石をルートの手へ握らせ、少し照れくさそうに、けれど本気で心配そうな瞳で見つめてきた。
「絶対……絶対に、無事で戻ってきてね!」
受け取った愛剣を鞘に納め、ルートは二人に向かって深く頷いた。
「うん…ありがとう……必ず勝って、戻ってくるよ」
二人の温かい声援を背に受けながら、ルートは『鋼の拳亭』をあとにした。
夜の冷たい風が頬を撫でる。腰に差した愛剣は、これまでで最も軽く、そして力強く手になじんでいた。
(待ってろ、ガザック……)
ミナモの未来を切り拓くため、ルートは静かな闘志を胸に宿し、宿屋『月光亭』への道を歩み出した。
【宿】
宿の重々しい木造のドアを開けると、どこか懐かしく温かな匂いが鼻腔をくすぐった。
「おかえりなさい、ルート!」
弾むような声とともに迎えてくれたのは、ミナモだった。
ここ数日は熱を出して寝込むことも多かったミナモだが、今夜は幾分体調が安定しているらしい。
頬には柔らかな朱が差し、その瞳にははっきりと生気が宿っていた。
その笑顔を見た瞬間、迷宮の暗闇と静寂の中で強張っていたルートの肩の力が、すっと抜けていくのがわかった。
「ただいま、ミナモ。顔色が良さそうで安心した」
ルートが息を吐き出しながら微笑むと、ミナモは嬉しそうに裾を少し持ち上げて、パタパタとルートのもとへ駆け寄ってきた。
そして、彼の手から泥と汗の匂いが染み付いた外套を受け取ると、丁寧に向かいの椅子へと掛けた。
「うん! 今日はすごく体が軽いの。だから、ルートが帰ってくるのをずっと待ってたんだよ」
部屋の中央に置かれた小さな円卓には、まだ温かいスープの入った鍋と、少し焼きすぎたカチカチのパンが並べられていた。
チエリが気を利かせて運んでくれたものだろう。二人は並んで木製の椅子に腰を下ろし、静かに夕食を摂り始めた。
「それでね、ルート。今日は街の窓から外を見ていたんだけど、広場の方から賑やかな音楽が聞こえてきたの。吟遊詩人さんが新しい英雄の歌を歌っていたみたい」
「そうか。明日の本戦を控えて、街全体がお祭り騒ぎになっているからな。露店もたくさん出ていて、普段は見かけない珍しい物や、遠方の珍味が売り出されていたよ」
「へえ、いいなぁ……。本当はルートと一緒に歩きたかったな」
少しだけ残念そうにスープの匙を動かすミナモに、ルートは優しく目を細めた。
「ああ。試合が終わったら、体調の良い日を選んで一緒に行こう。美味そうな果物を売っている店を見つけたんだ。お前が好きそうな味だった」
「本当!? 絶対約束だよ?」
パッと表情を明るくするミナモ。その無邪気な反応に、ルートの心は温かな灯火で満たされていく。
二人はそれから、今日迷宮(ダンジョン)の浅層で起こった出来事を語り合った。
途中で出くわした奇妙な行動をする魔物の話や、新しく調達した防具の具合、あるいは通りで見かけたおかしな看板の話など、取るに足らないような日常の会話。
しかし、過酷な探索と生死を分ける戦いを潜り抜けてきたルートにとって、このミナモとの他愛もない語らいの時間こそが、魂を癒やす何よりの薬だった。
外では夜風が窓枠をコトコトと揺らし、遠くで祭りの残響のような喧騒がかすかに響いている。
部屋の中のランプの灯りは柔らかく二人を包み込み、まるで世界の残酷さから切り離された小さな温室のようだった。
食事が終わり、器を片付けた後、二人はベッドの脇にある小さなソファに並んで腰掛けた。
会話の合間に訪れる、短い沈黙。
いつもなら、このまま穏やかな眠りへと向かう時間だった。しかし、ミナモの運んでいた言葉の速度が、次第に遅くなっていく。
「ルート……」
ミナモの声のトーンが、わずかに低くなった。
ルートが隣を見やると、先ほどまでの明るい笑顔は消え去り、彼女は小さな唇をキュッと結んで、膝の上で両手を強く握りしめていた。ランプの光を受けるその瞳には、深い不安の影が揺れている。
「どうした、ミナモ?」
「……あのね。今日、お昼頃にチエリちゃんが持ってきてくれた映像(テレビ)を、少しだけ見ちゃったの」
ミナモは躊躇するように言葉を切りながら、おずおずとルートの顔を見上げた。
「明日の……トーナメントの予習だって、街の人たちが騒いでいて。そこに……すごく大きな鉄の鎧を着た人が映っていたの」
ルートの胸が一瞬、うっと詰まった。
明日、三日目を迎える闘技大会の大一番。その対戦相手の顔が脳裏に浮かぶ。
——ガザック。
大物喰いの巨漢だ。身の丈は二メートルの巨躯を誇り、全身を厚い鋼の重装甲で固め、人間業とは思えない巨大な戦鎚(ウォーハンマー)を軽々と振り回す。
予選でも対戦相手の骨を粉砕し、容赦なく叩き潰す凄惨な戦いぶりで観客を恐怖と狂乱に叩き落としていた。
ミナモはその映像を見てしまったのだ。
「あの人……ガザックさんって言ったかな。すごく……すごく強そうだった。画面越しなのに、なんだか息が詰まりそうなくらい恐ろしいオーラが出ていて……」
ミナモの声が細く震え始める。彼女の手が伸びてきて、ルートの右腕をギュッと抱きしめた。
彼女の小さな手から、体温とともに伝わってくる細かな震え。
「ねえ、ルート……明日、あの人と戦うんだよね……?」
「……ああ。まだ本戦の一回戦だ」
「やめられないの……? 辞退することだって、できるんじゃない……?」
ミナモの言葉には、なりふり構わぬ必死さが滲んでいた。
ルートがどれほど強いか、彼女自身よく知っているはずだった。
だが、それ以上にガザックという存在の放つ暴力の匂いが、幼い彼女の心を恐怖で支配してしまったのだ。
「私、ルートが勝ち進むのは嬉しいよ? 私のためだっていうのもわかってる…。でも……でもね、あんな凄い人と戦ったら、ルートが無事じゃいられないかもしれない……。手足を折られたり、命に関わるような大きな怪我をしたら……私、私……どうしたらいいか分からないよ……!」
ミナモの瞳から、こぼれ落ちた一筋の涙が、ルートの袖に小さなシミを作った。
彼女はルートの腕に額を押し付け、声を殺して泣き始めた。
「怪我、しないで……お願いだから、ひどい目に遭わないで……。私を置いていかないで……!」
ルートは静かに息を吸い込んだ。
自分を案じる彼女の純粋な愛おしさと、背負うべきものの重さが、ルートの胸の中で熱く燃え上がる。
逃げるわけにはいかない。この大会で勝ち上がり、賞金を得ること、手段を手に入れること。
それこそが、ミナモの難病を治すための特別な霊薬を手に入れる唯一の道なのだから。
ガザックがどれほど恐ろしい壁であろうと、打ち砕いて乗り越えなければならない。
だが、そんな重圧や理由を、今この場でミナモにぶつける必要はなかった。彼女に必要なのは、揺るぎない安心と、確かな希望だけだ。
ルートは抱きしめられた右腕を優しく解くと、両手でミナモの小さな肩をしっかりと抱きかかえた。
そして、彼女の涙に濡れた顔をまっすぐに見つめる。
「ミナモ。俺の目を見てく」
ミナモはしゃくりあげながら、潤んだ瞳をルートに向けた。
ルートは左手を伸ばし、彼女の柔らかい茶色の髪に触れた。そして、愛おしさを込めて、ゆっくりと、そっとその頭を撫でた。何度何度も、彼女の不安を拭い去るように。
「心配させてごめん。けど……大丈夫」
ルートの声は、低く、しかし驚くほど穏やかで力強かった。部屋の空気を一瞬で塗り替えてしまうほどの、絶対的な確信に満ちていた。
「ガザックがどれだけ巨大で、どんなに重い鎚を振るおうと関係ない。俺には、ミナモがいる」
「ルート……」
「俺はミナモに『おかえり』と言ってもらうために、必ず勝ってここへ戻ってくる。怪我ひとつせず……とはいかないかもしれないけど、ミナモを一人にするような真似は絶対にしない。約束する」
ルートはミナモの目元に残った涙を、親指の腹で優しく拭った。
「俺の強さは、誰かを叩きのめすためのものじゃない。ミナモを守り、ミナモとの約束を果たすためのものだ。だから……俺は負けないよ」
その言葉は、まるで魔法のようにミナモの心に染み渡っていった。
ルートの瞳には、一切の迷いや恐怖の色がなかった。ただまっすぐに自分だけを見つめ、未来を見据えている。その強い光に触れ、ミナモの胸を満たしていた黒い不安の霧が、少しずつ晴れていく。
「……本当に? 絶対に、勝って戻ってきてくれる……?」
「ああ。絶対だ。俺がミナモに嘘をついたことがあったか?」
ルートがフッと優しく微笑むと、ミナモも涙で濡れた唇をほころばせ、小さく首を横に振った。
「ううん。一回もない……」
「なら、明日も信じていてくれ。ミナモがここで無事を祈ってくれていれば、俺はどんな敵にだって負けない」
「うん……! わたし、ずっと待ってる。ルートが勝って帰ってくるの、ずっと祈ってるから……!」
ミナモはもう一度ルートの胸に飛び込み、今度は暖かさに満ちた抱擁を交わした。
ルートも彼女の小さな背中をしっかりと抱きかえし、その温もりを胸に刻み込んだ。
この温もりこそが、明日の戦場で己を支える最大の盾であり、最も鋭い剣となるのだと確信しながら。
しばらくして、落ち着きを取り戻したミナモの瞼が、とろりと重くなり始めた。病み上がりの体に、感情の起伏と涙が重なり、急激な眠気が襲ってきたのだろう。
「ふぁ……なんだか、急に眠くなっちゃった……」
「ああ、ベッドへ行こう。明日は朝が早い」
ルートはミナモを優しく抱き上げ、ベッドへと横たえた。柔らかい掛け布団を胸元までかけ、枕元を整える。
ミナモは布団の中から手だけを少し出して、ルートの指先をちょんと摘んだ。
「ルート……明日、頑張ってね」
「ありがとう。ゆっくり休むんだぞ」
ランプの灯りを細めると、部屋の中に柔らかな闇と橙色のほの暗い光が広がった。
ミナモは安心しきった顔で静かに目を閉じ、規則正しい寝息を立て始めた。
ルートはその寝顔をしばらく見つめた後、静かに自らのベッドへと向かった。
壁に立てかけられた愛用の剣。暗闇の中で、その刃が冴え冴えとした光を放っている。
明日——闘神大会初戦。
闘技場を包む狂乱と、強敵ガザックの凶拳。そして、大会の裏で蠢く予期せぬ波乱の予感。
これから待ち受ける戦いが、どれほど過酷なものになるかは想像に難くない。
だが、ルートの心は静水のように澄み渡っていた。
守るべきものがある男の足取りは、決して揺らぐことはない。
「おやすみ、ミナモ」
暗闇に向かって小さく呟き、ルートもまた、明日の決戦に向けて静かに目を閉じた。
静寂に包まれた小さな部屋で、二人の穏やかな息遣いだけが、夜が明けるまで寄り添うように響き続けていた。