※この作品はR-18です。

闘神都市Ⅳ   作:勇者パンスト

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本戦3日目(1回戦)

本戦3日目

 

 

朝の澄んだ冷気が、宿屋『月光亭』の小さな木枠の窓を抜け、静まり返った室内へと長い影を落としていた。

 

 

薄暗い部屋の中で、ベッドの端に腰掛けたルートは黙々と身支度を整えていた。

 

皮脂と汗が染み込んだ革の胸当てを胸元に当て、使い慣れたベルトをぐっと強く引き寄せる。

 

金具がカチリと硬い音を立てて固定されるたびに、体の内側にある神経がひとつずつ研ぎ澄まされていくようだった。

 

 

 

腰のホルダーに愛剣を差し込み、柄を握り直す。

 

鞘と刀身が擦れ合う微かな金属音が、静寂に響いた。

 

その一切の無駄を削ぎ落とした立ち振る舞いは、一見すれば探索へ向かう冒険者の日常そのものだ。しかし、ルートの全身から立ち上る雰囲気には、昨日までの迷宮探索とは明らかに異なる、刃物のように鋭利な緊張感が宿っていた。

 

 

 

 

 

今日から始まる、闘神大会の本戦。

 

 

 

 

そして、この街——自由都市地帯に君臨する『闘神都市』が課す、最も残酷で絶対的な掟。

 

 

 

『大会出場者は、試合当日に必ずパートナーの女性を会場の専用控え室へと同行させ、待機させなければならない』

 

 

 

そのルールの姿をこの街で知らぬ者はいなかった。

 

 

 

勝者には栄誉、富、そして敗者の持つすべてを奪い去る権利が与えられる。

 

 

対して敗者は、誇りも地位も失い、何より——自らの手で会場へ連れてきた愛するパートナーを、勝者にその場で引き渡さなければならない。

 

 

 

欲望と暴力が渦巻く闘神都市において、負けるということは単なる敗北を意味しない。

 

 

守るべき者を無残な戦利品として見知らぬ男の手に差し出し、地獄へ突き落とすことを意味していた。

 

 

一度リングに上がれば、退路も言い訳も一切存在しない。

 

 

 

 

(……負けられない。何があっても、絶対に)

 

 

 

 

喉の奥がカラカラに干からびていくような圧迫感が、ルートの胸を強く締め付ける。

 

 

ミナモの体を蝕む病、闇市で取引される怪しげな薬のタイムリミット、そして試合後に待ち受ける敗北の代償。

 

 

しかしいくら思考を巡らせようと、目の前の現実は何一つ変わらない。勝つことだけが、二人にとって唯一残された生存への道だった。

 

 

 

「……ミナモ、準備はいい?」

 

 

 

ルートは心を落ち着かせるように静かに息を吐き出し、振り返った。

 

 

 

ベッドの脇には、すでに外出用の衣装に身を包んだミナモが静かに立っていた。

 

 

 

昨夜、怪しげな薬の効能によって奇跡的に持ち直したその肌には、薄桃色の血色が戻っている。

 

 

だが、どれほど体調が回復していようとも、彼女の華奢な肩にのしかかっているプレッシャーの重さは、ルートの想像を遥かに超えているはずだった。

 

 

 

 

自分自身が何のためにコロシアムへ向かうのか、ミナモが理解していないはずがない。

 

 

もしルートの手が届かず、剣が砕け、膝をつくようなことがあれば——彼女は二度と同じ表情、思いでこの『月光亭』の部屋へ帰ってくることはできないのだ。

 

 

男たちの歪んだ視線と欲望が渦巻く選手控え室で、敗者の女としてどのような扱いを受けるか。その恐怖は、死そのものよりも重く恐ろしいはずだった。

 

 

 

にもかかわらず、ルートを見つめるミナモの大きな瞳に、怯えや揺らぎの色は一切なかった。

 

 

 

彼女は深く、優しく息を吸い込むと、小さな足で床をしっかりと確かめるように踏み締め、ルートの元へと一歩踏み出した。

 

 

 

「うん。……私、ちゃんと準備できてるよ、ルート」

 

 

 

かすかな鈴の音のように透き通った声だった。ミナモはそのままルートの目の前まで歩み寄ると、そっと小さな手を伸ばしてきた。

 

 

 

ルートの手を包み込むその手のひらは、とても小さく、ひどく温かい。

 

 

だが、その指先はルートの肌を通じてかすかに震えているのが伝わってきた。恐怖がないわけがないのだ。心臓が張り裂けそうなほどの不安を抱えながら、彼女は必死に脚を立たせ、こうしてルートの隣に立っている。

 

 

 

ミナモは自身の内にある震えを振り払うように、ギュッと両手でルートの指先を握りしめた。

 

 

そして、少しだけ背伸びをするようにしてルートの目をまっすぐに見つめ返すと、この上なく可憐で、けれど絶対に折れない強い意志を込めた微笑みを浮かべた。

 

 

 

「私…怖くないよ。……だって、ルートが負けるわけないもの。一緒に行こう? 私……ちゃんと見てるから」

 

 

 

その健気な言葉と、手から伝わる温もりは、極限の緊張で冷たく凍りつきかけていたルートの胸の奥へ、静かで絶対に消えない激しい熱を注ぎ込んだ。

 

 

 

言葉はいらなかった。いまこの瞬間、二人の間にはどんな誓いの言葉よりも重い確信が存在していた。

 

 

 

この手を絶対に放してはいけない。どんな強敵が立ち塞がろうと、どんな過酷な死闘が待っていようと、彼女を奪われることだけは——万が一にもあってはならない。

 

 

ミナモの命も、尊厳も、未来も、すべてはこの一振りの剣と自らの腕にかかっているのだ。

 

 

 

「……うん。一緒に行こう、ミナモ」

 

 

 

ルートは短く答え、握り返した手にしっかりと力を込めた。

 

ミナモの温もりをその掌に固く刻み込むと、彼は迷いを振り払うように静かに部屋のドアノブへ手を伸ばした。

 

 

 

重い木製の扉がギィと音を立てて開く。廊下の向こうから微かに届く階下の気配を感じながら、二人はしっかりと手を繋いだまま、決戦の待つコロシアムへ向かって一歩を踏み出した。

 

 

 

 

【宿1F】

 

 

 

木造の長い階段を一段ずつ降りていくたび、階下から漂う焼きたてのパンの香ばしい匂いと、朝の仕込みに追われるかすかな物音が大きくなってきた。

 

 

 

『月光亭』の1階食堂は、早朝の静けさの中に独特の温もりが満ちていた。テーブル席にはまだ他の客の姿はなく、朝日が木目の床を穏やかに照らしている。

 

 

 

カウンターの奥では、いつものように低い木製の踏み台にちょこんと乗り、背伸びをしながら仕込みの指示や備品の確認に追われているチエリの姿があった。小さな身体に大きなエプロンを締め、店を仕切る「看板娘」としての凛とした立ち姿。

 

 

 

階段を降りてきた二人の足音に気づくと、チエリはパッと顔を上げた。

 

 

「あ、ルート! ミナモちゃんも、おはよう――」

 

 

 

元気よく声をかけようとしたチエリの言葉が、ふっと途切れた。

 

 

 

彼女の視線が、ルートの身に帯びた武具の鋭さ、そして二人がしっかりと繋いでいる手に注がれる。闘神都市で宿屋を営み、数多の戦士たちの栄光と惨憺たる末路を見届けてきたチエリに、今日が何の日であるかを察せられないはずがなかった。

 

 

 

(あ……今日が、本戦の……)

 

 

 

ミナモがルートの隣に立ち、一緒に店を出ようとしている。それが何を意味するのか。

 

 

 

闘神都市の絶対のルール――敗北した瞬間に、控え室に待機させたパートナーの所有権が勝者へとその場で移るという、あまりにも残酷な惨劇。

 

 

チエリはその悪夢のような現実を何度も耳にし、見てきた。

 

 

一瞬だけ、チエリの大きな瞳が不安と胸を刺すような痛みに揺れた。

 

小さな眉根がキュッと寄られ、言葉にならない叫びが喉まで競り上がりかける。引き止めたい、そんな危険な場所へミナモを行かせたくない、と。

 

 

 

だが、チエリはすぐ唇を強く噛み締め、その動揺を力ずくで押し殺した。

 

 

 

ここで自分が不安を口にすれば、二人の背中に無用な重荷を背負わせることになる。一番恐ろしく、一番緊張しているのは当事者である二人なのだ。

 

 

 

チエリは踏み台の上でサッと背筋を伸ばすと、一瞬の曇りを拭い去り、いつもの威厳に満ちた「しっかり者のお姉さん」の顔を完璧に作り上げた。

 

 

 

「ふん、朝早くから気合が入ってるじゃない。……ちょっと待ちなさい」

 

 

 

チエリは素早く踏み台から飛び降りると、カウンターの奥から丁寧に竹皮と布で包まれた小さな包みを二つ、手に取って歩み寄ってきた。

 

ずっしりとした重みが伝わってくる、できたての特製弁当だった。

 

 

 

「これ、今日の分よ。試合の前でも後でもいいから、ちゃんと食べなさいね。お腹が空いてちゃ、出せる力も出なくなるんだから!」

 

 

 

パシッと勢いよくルートの胸元に包みを押し付ける。

 

そこには、言葉には出さない彼女なりの精いっぱいの気遣いと、無事に帰ってきてほしいという祈りが詰まっていた。

 

 

 

そしてチエリは、ルートの隣で静かに微笑むミナモへと視線を移した。

 

 

 

「ミナモちゃん」

 

 

 

語気は柔らかく、けれど大人としての真剣な眼差しで、チエリはミナモの目をまっすぐに見つめた。

 

 

 

「ルートは不器用で頼りないところもあるかもしれないけど……今日はあいつの背中、しっかり支えてあげてね。ミナモちゃんが側にいてくれるなら、このバカも余計な心配をせずに目の前の敵に集中できるはずだから」

 

 

 

不安を煽るような言葉は一言も口にしない。絶対に二人で帰ってくるのだという前提だけで、チエリは語りかけていた。

 

 

 

ミナモは繋いだルートの手にほんの少し力を込めると、まっすぐにチエリを見返し、深くうなずいた。

 

 

 

「うん……! ありがとう、チエリちゃん。私、ちゃんとルートの応援、頑張ってくるね」

 

「……よし! いい返事ね!」

 

 

 

チエリは満足そうに小さく胸を張ると、最後にルートの顔をジロリと睨みつけるように見上げ、腰に手を当てた。

 

 

 

「いい? ルート。あんたが勝つのは当然として……ミナモちゃんに少しでも悲しい思いをさせたら、あたしが絶対に許さないんだからね! ちゃんと二人で、胸を張ってこの『月光亭』に帰ってきなさい!」

 

 

 

乱暴な口調の裏に隠された、痛いほどの温かい信頼。

 

 

 

ルートはその包みをしっかりと受け取り、胸の奥に熱い塊が込み上げてくるのを感じながら、力強く首を縦に振った。

 

 

 

「ああ……分かってる。必ず、二人で帰ってくるよ」

 

 

 

「当たり前でしょ! さあ、行った行った! 遅刻したらカッコ悪いわよ!」

 

 

 

チエリはシッシッと手を振って二人を追い出すような仕草をしてみせたが、その瞳には二人を温かく見守る深い光が宿っていた。

 

 

 

 

チエリの元気な声に背を押されるようにして出入口へと向かう二人の視線が、薄暗い壁際の円卓に吸い寄せられた。

 

 

 

そこには、大柄な躯を丸めるようにして一人腰掛け、静かに酒杯を傾けるガルドの姿があった。

 

 

 

テーブルの上に置かれた木杯からは、朝から芳醇で強い酒の香りがかすかに漂っている。

 

 

数々の死線を潜り抜け、この都市の光と影の双方を骨の底まで知り尽くしているベテランの戦士。

 

 

彼はチエリのように言葉で元気づけることも、声を張ることもない。ただ静かに、深海のような重苦しい佇まいでそこに居座っていた。

 

 

 

闘神大会の本戦という舞台の真価を、そして選手控え室に漂う独特の狂気とプレッシャーの恐ろしさを、ガルドは痛いほど理解している。

 

 

敗北した瞬間に待つ残酷な末路も、それを背負って戦う若者の胸の内に渦巻く葛藤も、すべて通ってきた道だからこそ知っていた。

 

 

 

だからこそ、彼は無用な脅しや安易な同情、説教の類いを一切口にしない。

 

 

今目の前にいる若い戦士に必要なのは、甘い慰めでも過剰な気負いでもなく、己の覚悟をただ鋭く研ぎ澄ますことだけだと知っているからだ。

 

 

 

二人が卓の脇を通りかかろうとした、その瞬間。

 

 

 

ガルドは静かに酒杯をテーブルへと置いた。トン、と低い木音が小さく響く。

 

 

 

彼は深く太い腕を組み、岩のように頑強な背を伸ばすと、重厚な眼光をゆっくりとルートへと向けた。

 

 

 

その瞳には、煽りや不安の影など微塵も存在しない。ただ静かに、一人の戦士として死地へと赴くルートの覚悟を見極めるような、静かな圧力が宿っていた。

 

 

 

ルートが立ち止まり、まっすぐその視線を受け止める。

 

 

 

数秒の沈黙の後、ガルドの髭面にわずかな皺が刻まれた。

 

 

 

「……行け」

 

 

 

低く、腹の底に響くような声だった。

 

 

 

「自分の戦いを、ただ貫いてこい」

 

 

 

余計な飾りのない、短く重い言葉。

 

 

 

そこには「勝て」という圧迫すらなく、ただ今日まで命を削って牙を研いできた一人の戦士に対する、最大限の敬意と絶対の信頼が込められていた。

 

 

言葉の裏にある「生きて帰れ」という静かな後押しが、ルートの皮膚をぴりと痺れさせる。

 

 

 

ルートは何も言わず、ただ深く、力強く頷いてみせた。

 

 

 

ガルドはそれ以上何も言わず、再び視線を酒杯へと戻すと、手酌で静かに酒を注ぎ足した。

 

 

その背中は、どんな言葉よりも強く二人の後図を引き受け、帰るべき場所を守る壁のように頼もしかった。

 

 

 

都市の狂乱が待ち受ける外の世界へ向けて、ルートとミナモは今度こそ迷いなく『月光亭』の扉を押し開けた。

 

 

 

 

【街】

 

 

『月光亭』の扉を潜り抜けた瞬間、朝のまだ冷たい空気を一瞬で吹き飛ばすほどの凄まじい熱気が、二人の全身を包み込んだ。

 

 

 

闘神都市——欲望と歓楽、そして一攫千金を夢見る命知らずたちが世界中から集まる巨大な悪夢の街。

 

 

 

本戦開幕の朝を迎えた街道は、普段の狂騒を遥かに凌ぐ異様な熱狂に包まれていた。

 

 

 

「おい見たか! 今日の第一試合、あのガザックが出るらしいぞ!」

 

 

「あの大鎚で何人が潰れるのな見ものだな! パートナーの女も上物らしいぜ!」

 

「売り子! 酒と肉をもっと持ってこい! 今日は朝から賭けで大儲けしてやる!」

 

 

 

あちこちの屋台から立ち上る肉の焼ける煙と酒の匂い、飛び交う罵声と下品な笑い声。

 

 

石畳を揺らす雑多な群衆の足音が地鳴りのように響き渡り、街全体が巨大なひとつの命を得たかのように脈打っている。

 

壁や街灯には、本戦出場者の名を連ねた色鮮やかな羊皮紙の告知が躍り、人々はその前で興奮気味に金貨を握りしめていた。

 

 

 

ここにあるのは、人間の生々しい欲望と、他者の破滅を蜜の味として楽しむ残酷なまでの娯楽心だ。

 

 

 

今日これから繰り広げられる血生臭い死闘も、奪われる女たちの絶望も、この都市においてはただの極上の見世物に過ぎない。

 

 

 

(これが……闘神都市の本戦……)

 

 

 

 

ルートは無意識のうちに愛剣の柄へと手を伸ばしかけ、その指を深く握りしめた。

 

 

 

雑踏の中を歩く自分の姿を、まるで己とは無関係な別世界の出来事のように遠く感じる。耳に飛び込んでくる下衆な噂話や観客たちの下品な歓声が、鼓膜を不快に刺激する。

 

 

 

彼らが求めているのは血と暴力、そして所有権を奪われた女たちの涙だ。

 

 

 

そして自分はいま、その残酷な見世物の主役として、最前線へと足を踏み入れようとしている。

 

 

 

過酷な現実が、重い鉄の枷のようにルートの肩に伸しかかる。

 

 

 

もし自分が敗れれば、この熱狂する群衆の面前でミナモを奪われるかもしれない。

 

 

彼女の悲鳴と涙は彼らの好好の酒の肴となり、自分は惨めな敗北者としてすべてを失って転がり落ちるのだ。

 

 

さらには、ミナモの体を蝕む病のタイムリミット——闇市で法外な値をつけられた薬を手に入れる術すら、永遠に潰えることになる。

 

 

 

背負っているものの重さに、息が詰まりそうになる。

 

 

 

押し潰されそうなプレッシャーの中、胸の奥で鼓動が早鐘のように打ち鳴らされていた。手に嫌な汗が滲む。

 

 

 

その時だった。

 

 

 

キュッと、右手に柔らかな圧力がかかった。

 

 

歩調を合わせるように隣を歩いていたミナモが、繋いでいた手を両手でしっかりと包み込むように握りしめてきたのだ。

 

 

 

ルートが思わず視線を落とすと、ミナモは歩みを止めることなく、静かにルートの横顔を見つめていた。

 

 

 

その瞳には、街の狂乱や下品な喧騒への恐怖など微塵も映っていなかった。

 

 

 

ただひたすらに、まっすぐな信頼と愛おしさだけを宿して、彼女はルートのことだけを見つめている。

 

 

言葉はなかった。過剰な励ましも、不安を口にする弱音もない。

 

 

ただ「私はここにいる」「ルートを信じている」という無言の意志が、繋いだ手のひらの温もりを通じて、静かに、けれど確かに伝わってきていた。

 

 

 

自分が恐怖や不安に呑まれそうになっていることすら、彼女はすべて察しているのかもしれない。

 

 

 

だからこそ、こうして自らの温もりを分けてくれているのだ。

 

 

 

(……何を弱気になっているんだ、俺は)

 

 

 

ルートは深く息を吐き出し、胸の内に渦巻いていた不純な雑念をすべて吐き捨てた。

 

 

 

見世物だろうが、悪夢だろうが関係ない。

 

 

 

この街がどれほど狂気に満ちていようと、目の前の敵がどれほど巨大だろうと、自分がやるべきことは最初からひとつだけだ。

 

 

 

勝つ。

 

 

 

目の前の敵を叩き斬り、生き残り、この手でミナモを守り抜く。

 

 

 

それ以外の道など、初めから存在しないのだから。

 

 

 

ミナモの温かな温もりが、ルートの全身の血を激しく滾らせていく。

 

 

 

不安やプレッシャーによって凍りつきかけていた心が、瞬時に猛烈な闘志へと塗り替えられていった。

 

 

冷徹で、けれどマグマのように熱い勝利への絶対的な執念が、胸の奥底で静かに、確実に燃え上がっていく。

 

 

 

「……ミナモ」

 

 

 

ルートは静かに声をかけ、繋いだ手をギュッと力強く握り返した。

 

 

 

「ん……?」

 

 

 

ミナモが可憐に首をかしげる。その唇のかすかな揺らめきに、ルートは力強くうなずいてみせた。

 

 

 

「行こう」

 

「うん!」

 

 

 

 

二人は再び歩みを進めた。

 

 

 

雑踏を押し分け、熱狂の渦を切り裂くようにして、二人は一直線に巨大な影を落とすコロシアムへ向かって歩んでいく。

 

 

 

繋いだ手から伝わる確かな熱量だけを道標にして、彼らは決戦の地へと足を踏み入れていった。

 

 

 

 

 

【コロシアム】

 

 

 

街の狂乱を切り裂くように進んだ先、ついに巨大な影が二人を遮った。

 

 

 

闘神都市の中心に鎮座する、コロシアム。

 

 

 

巨石を積み上げて造られたその古代の闘技場は、何千、何万という戦士たちの血と汗、そして敗北した者たちの絶望を吸い込んで黒ずみ、異様な威圧感を放っていた。

 

 

頭上からは、すでに超満員に膨れ上がった観客たちの地鳴りのような歓声と怒号が、物理的な圧力となって降り注いでいる。

 

 

 

熱気と興奮、そして血の匂いが充満するメインエントランスを抜け、選手およびパートナー専用の受付通路へ足を踏み入れると、外の雑音は少しだけ遠のいた。

 

 

 

豪華な装身具で飾られた受付カウンター。

 

 

その中央で、ひときわ華やかな存在感を放っていたのが、本戦総合受付嬢のシュリだった。

 

 

 

黒を基調とした露出度の高いバニーガール風の衣装に、抜群のプロポーション。

 

頭にはピンと立ったうさぎの耳、そして胸元を大胆に強調した装飾が、殺伐とした空間で一際異彩を放っている。まさにこの「闘神都市の顔」と呼ぶにふさわしい美女だ。

 

 

 

ルートとミナモの足音に気づくと、シュリは手にしていたペンを置き、カウンターに肘をついて頬杖をついた。そして、きゅっと口角を上げていたずらっぽくウインクしてみせる。

 

 

 

「はーい、ようこそコロシアムへ! 本戦一回戦の手続きですね。受付は私、シュリが承りまーす!」

 

 

 

先ほどまでの重苦しい雰囲気を一瞬で吹き飛ばすような、お茶目で通る声。

 

 

シュリは予選を突破して無事に戻ってきたルートと、少し体調の持ち直したミナモの顔を交互に見やった。

 

 

 

「ふむふむ……エントリーナンバー七七番、ルート選手ですね。そしてお隣には、パートナーのミナモちゃん! うんうん、やっぱり私の美少女センサーに狂いはなかったですね〜。今日もお綺麗で目の保養になっちゃいます!」

 

 

「……シュリさん、手続きを」

 

 

 

緊張の面持ちで促すルートに対し、シュリは「も〜、相変わらず固いんだから」とおどけてみせる。

 

 

しかし、彼女の手元はすでにプロフェッショナルそのものの手際で、本戦用の羊皮紙の確認をテキパキと進めていた。

 

 

 

「はいはい、分かってますよ。それでは本戦の基本ルールの最終確認です。予選と違って、ここからは一発勝負。ルール通り、パートナーのミナモちゃんは、試合終了まで選手パートナー専用の特等席……兼、控え室でお待ちいただくことになりますからね」

 

 

 

そこまで言うと、シュリは一転して少しだけ大人の余裕を感じさせる、複雑な笑みを浮かべた。お調子者の顔の裏にある、闘神都市の甘いも酸いも噛み分けてきた者特有のドライな視線だ。

 

 

 

「ルールはご存知の通り……勝てば賞金と栄誉、そして相手のパートナーの所有権! 負けちゃったら……うん、ミナモちゃんの所有権は勝った相手に移っちゃいます。ビジネスとはいえ、この都市のルールは本当に容赦がないですよねぇ」

 

 

 

シュリはカウンターから身を乗り出し、ルートの顔を覗き込んだ。そして、少しだけトーンを落とした優しい声で、遠回しな気遣いを混ぜ込む。

 

 

 

「……あまり無茶はしないでくださいね。予選から応援してるんですから、あなたが負けちゃうと……受付のお姉さん、ちょっと寂しくなっちゃいますから」

 

 

 

 

ちゃっかりとしたお姉さんの包容力と、煽るような言葉の裏にある確かな温もり。引き離される直前の張り詰めた空気を、彼女なりのやり方でほぐそうとしているのが伝わってきた。

 

 

 

「ミナモちゃん、こちらへどうぞ〜。大丈夫、控え室の中は安全ですし、私がしっかりエスコートしますからね」

 

 

「……はい!」

 

 

 

シュリの明るさに少し救われたのか、ミナモは繋いでいたルートの手をゆっくりと解いた。

 

 

そして、ルートの右手を両手でしっかりと包み込むと、まっすぐな笑顔を向けた。

 

 

 

 

「私、信じてるから。ルートが勝って、絶対に迎えに来てくれるって……ずっと信じて待ってるからね。いってらっしゃい、ルート!」

 

 

「……うん、すぐ戻る」

 

 

 

ミナモは深くうなずくと、シュリの差し出した手に導かれて小扉の向こうへと歩を進めた。

 

扉が入る間際、シュリはルートに向かって親指を立て、華やかな笑顔で見送ってくれた。

 

 

 

「健闘を祈ってますよ、ルート選手! パパッと勝って、カッコいいところ見せちゃってくださいね!」

 

 

 

バタン、と重い音を立てて扉が閉まり、二人の姿が完全に消える。

 

 

 

静寂が戻った受付で、ルートは残された自らの手のひらを強く握りしめた。

 

 

 

「……選手控え室は、そちらの通路の突き当たりですよ〜」

 

 

 

奥から響くシュリのプロらしい通る声を背に受けながら、ルートは研ぎ澄まされた刃のような冷徹な目つきを取り戻し、暗い廊下へと足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

【選手控え室】

 

 

重い鉄の扉が、背後で腹の底に響く不快な音を立てて閉ざされた。

 

 

 

その瞬間、外の喧騒がふっと遠のき、代わりに逃げ場のない濃密な死の気配がルートの全身にまとわりついた。

 

 

 

選手専用待機室——そこは、これから互いの命と大切な存在を賭けて殺し合う猛者たちが集う、冷たい石造りの檻だった。

 

 

 

室内には湿った血生臭さと、汗、そして男たちの剥き出しの殺意が重たく充満している。

 

 

壁際に並べられた粗末な長椅子には、思い思いの姿で出番を待つ戦士たちが佇んでいた。

 

全身に禍々しい刺青を彫り込んだ巨漢、血に塗れた大剣を研ぎ石で黙々と磨く剣士、不気味な歪んだ笑みを浮かべながらナイフの刃先を弄ぶ暗殺者——いずれも数々の修羅場を潜り抜け、相手を殺すことに躊躇のない生粋の殺人者たちだ。

 

 

 

ルートが足を踏み入れた瞬間、室内の視線が一斉に突き刺さった。

 

 

 

「……ケッ、なんだあのひょろい小僧は」

 

 

「あんなガキが予選を上がってきたのか? 運がいいだけの青二才が」

 

 

 

 

品性の欠片もない下衆な嘲笑、品定めするような粘着質な視線、そして隠そうともしない欲望。

 

 

この部屋を支配しているのは、人間としての倫理など一切存在しない、弱肉強食という暴力の理だけだった。

 

 

ルートは周囲の雑音を殺すように視線を下げ、壁際の誰もいないスペースへと歩みを進めると、深く背を預けた。

 

 

 

言葉は返さない。

視線も合わせない。

 

 

だが、一人になったその瞬間、抑え込んでいた感情の波が一気に溢れ出し、胸の奥で心臓が破裂しそうなほどの早鐘を打ち鳴らし始めた。

 

 

 

(……静まれ。息を整えろ……)

 

 

 

胸元に手を当て、深く呼吸を繰り返そうとする。しかし、吸い込む空気は冷たく血生臭く、肺を痛めつけるだけだった。

 

 

 

 

ミナモが、いない。

 

 

 

いつも隣で自分の服の袖を握り、静かに寄り添ってくれていた温もりが、今はこの手の中にない。シュリに導かれ、あの扉の向こう——パートナー専用控え室へと向かった彼女の姿が脳裏に焼きついて離れなかった。

 

 

 

(もし……俺が負けたら)

 

 

 

 

途端に、冷や汗が背筋を伝って落ちた。

 

 

 

負ければ、今のミナモは二度と自分のもとへは戻らない。

 

 

相手選手の手に引き渡され、尊厳も、心も、すべてを無残に踏みにじられる。

 

 

彼女の病を治すための薬代も永遠に手に入らなくなり、待っているのは地獄以下の絶望だけだ。

 

 

 

 

「負けられない」という当たり前の事実が、急激に足元から這い上がる巨大な蛇となってルートの全身に絡みつき、手足を冷たく痺れさせていく。指先が微かに震え、手元に不快な汗が滲む。

 

 

 

 

さらに、これから戦う相手の存在が、鉛のような重量感となって肩にのしかかっていた。

 

 

 

第一試合の対戦相手——重戦士ガザック。

 

 

 

 

身の丈二メートルを超える装甲の悪夢。

昨日のB1Fで見せた、あの圧倒的な破壊力。

 

あらゆる刃を弾き返す強固な重装甲と、一撃で石畳を粉砕する巨大な大鎚(ウォーハンマー)。

 

 

あれと正面から激突し、命を削り合わなければならないのだ。

 

 

 

 

自分の細い剣で、あの装甲を穿つことができるのか?

 

 

 

超回復の負荷に耐えながら、あの殺人的な一撃をかわし切ることができるのか?

 

 

 

過酷なプレッシャーと焦燥感が、脳髄をじわじわと侵食していく。

 

 

 

視界の端が明滅し、呼吸が浅くなる。

極限状態の緊張が、ルートの精神を極限まで摩耗させていた。

 

 

 

(……笑うな。怯えるな。俺が折れてどうする……!)

 

 

 

ルートは奥歯が砕け散らんばかりに噛み締め、両手で自らの顔面を強く張った。

 

 

 

パシィン! と重い打撃音が室内に響き、周囲の男たちが一瞬不気味に黙り込む。

 

 

 

頬に走る激痛と引き換えに、頭の中の霧がわずかに晴れた。

 

 

 

 

ミナモは去り際、恐怖に震える体を必死で抑え込みながら、自分に向かってまっすぐな笑顔を見せてくれた。

 

「信じてる」と言ってくれた。彼女が命がけで自分を信じて待っているというのに、当の自分が恐怖に呑み込まれてどうする。

 

 

 

(勝つ。勝って、勝ち続ける……それ以外に俺の行く道はない!)

 

 

 

恐怖を力に変える。焦りを冷徹な殺意へと昇華させる。

 

 

 

胸の中で渦巻く絶望的な重圧を、静かで静寂な、青い炎のような闘志へと力ずくで塗り替えていった。腰の愛剣の柄を、指関節が白くなるほど強く握りしめる。研ぎ澄まされた冷たい鉄の感触が、手のひらを通じて荒だつ心拍を落ち着かせてくれた。

 

 

 

その時だった。

 

 

 

重い鉄の扉がギィと軋んだ音を立てて開き、進行を担当する女性スタッフが足早に入室してきた。

 

 

 

「第一試合の出場者! 『ルート』選手、ならびに『ガザック』選手! 準備を終えて闘技場へ入場してください!」

 

 

 

通る声で淡々と告げられた呼び出しの言葉が、室内を満たす殺気を切り裂いて響き渡る。

 

 

 

控え室内の男たちが、ニヤニヤと意地の悪い視線を一斉にルートへと向けた。

 

敗北と破滅を期待する悪意の視線。ルートはそれらを一切無視し、ゆっくりと壁から体を離した。

 

 

 

一歩、踏み出す。

 

 

 

瞳の奥にあった迷いや揺らぎは、すでに完全に消失していた。

 

 

そこに残っているのは、ただ目の前の敵を死線の中で叩き斬るためだけに研ぎ澄まされた、氷のように冷徹な剣士の眼光だけだ。

 

 

 

薄暗い通路の向こう、眩いばかりの陽光と、地鳴りのような歓声が渦巻く闘技場の出口が見える。

 

 

 

ミナモの未来を、自らの命を賭けた死闘の火蓋が、いま切られようとしていた。

 

 

 

 

 

 

【戦場】

 

薄暗い石造りの入場通路を抜けた瞬間、全身の皮膚を叩きつけるような猛烈な狂乱の渦が、ルートの視界と鼓膜を灼いた。

 

 

 

 

「——さあさあさあ! お待たせいたしましたぁぁぁ!! 闘神都市の命知らずな野郎ども、そして今夜の酒の肴を探しに来た観客の皆々様! ついに始まりました、闘神大会本戦一回戦、開幕の第一試合でございますッ!!」

 

 

 

闘技場中央に浮かぶ魔導拡声器を通じて、甲高い、けれど爆発的なテンションの女性の声が全席へと響きわたる。

 

 

 

 

大歓声の渦の中心、特設された実況席でマイクを握りしめているのは、露出度の高い衣装を身にまとった実況アナウンサー——ミミ・バ・ニガールだ。彼女は跳ね回るようなアクションで身を乗り出し、狂熱する超満員の客席を極限まで煽り立てる。

 

 

 

 

「勝ち残れば無上の栄誉と巨万の富! 敗北すれば愛するパートナーをその場で剥ぎ取られ、勝者の慰みものへと転がり落ちる地獄のデスゲーム! 今大会も不条理、過酷、そして最高にエキサイティングな血みどろの宴をお届けいたしますよ〜っ!」

 

 

 

万雷の拍手と、下衆な野次、そして地鳴りのような怒号がコロシアム全体を激しく揺らす。

 

 

 

「それではッ! 青コーナーより入場いたしますのは、予選迷宮を泥臭〜く這い上がってきた泥の執念! エントリーナンバー七七番——『ルート』選手だあぁぁぁっ!!」

 

 

 

 

実況のコールとともに、陽光が降り注ぐ中央リングへルートが足を踏み出す。

 

 

 

 

「ーの選手です!ーーーーーそして背負うは病床の可憐なパートナー、ミナモちゃん! 負ければ当然、あのかわいらしい少女は対戦相手の手に渡ってしまいます! 命のみならず、男の尊厳すべてを賭けた崖っぷちの一戦! 勝ち目ゼロの奇跡を起こせるかぁ!?」

 

 

 

客席からは「おいおい、あんなひょろいガキが残ってたのか!」「ハッ、女を置いてさっさと失せな!」「惨めになぶり殺されるところを見せてみろ!」といった残酷な罵声が容赦なく降り注ぐ。

 

 

 

ルートは一切の動揺を見せず、ただ静かに愛剣の柄に手を置いたまま、リングの中央へと進んだ。瞳の奥に燃える青い殺意は、周囲の雑音など端から視界に入れていない。

 

 

そして、対角線上の重厚な鉄格子が、ズズズ……と激しい地鳴りを立てて引き上げられた。

 

 

 

「——そして赤コーナー! 迎え撃ちますは、この第一試合の本命中の本命! 圧倒的な破壊力で相手を粉砕する動く要塞——『重戦士ガザック』選手だあぁぁぁッ!!」

 

 

 

ズシン、と足音がひとつ鳴るたびに、石畳のリングが微かに揺れた。

 

 

 

暗がりから姿を現したのは、身の丈二メートルを優に超える鉄の巨躯。

 

頭から足先まで全身を隙間なく覆う漆黒の重装甲。そしてその右腕には、大人の胴体ほどもある巨大な鉄の大鎚(ウォーハンマー)が握られていた。

 

 

 

「出ましたぁぁぁ! ガザック選手! 昨日の予選迷宮でも、立ち塞がる者を大鎚の一撃で肉塊へと変えてきた悪夢の重装甲! 観客の皆さん、彼の狙いは勝利の栄誉か、それとも敗者のパートナーか!? 圧倒的暴力が今、リングを支配いたします!」

 

 

 

 

ガザックが片腕で大鎚を持ち上げ、ドスンとリングの床へ叩きつけた。爆音とともに石畳が砕け散り、凄まじい衝撃波が観客席まで伝わる。

 

 

 

「うぉぉぉぉぉッ! やっちまえガザック!」

「一撃で破砕して肉の塊にしてやれ!」

「女をぶん取れぇぇぇっ!」

 

 

 

 

ミミ・バ・ニガールの過激で不条理な実況が、観客の歪んだ欲望に火をつけ、コロシアムの熱気は早くも沸点へと達していた。

 

 

 

「ルールは単純明快! どちらかが死ぬか、気絶して戦闘不能になるか、戦意を喪失して膝をつくまで終わらない完全無制限の殺し合い! 奪うか、奪われるか! 命と女を賭けた血生臭いショーの始まりですッ!」

 

実況席のミミが、興奮で頬を染めながら高く腕を突き上げる。

 

 

 

「——闘神大会本戦一回戦、第一試合! レディ……ふぁいっ!!」

 

 

 

合図の鐘が、高く、残酷に響き渡った。

 

 

 

 

「ふん……」

 

 

 

ガザックの兜の隙間から、地響きのような不快な吐息が漏れた。

 

 

 

鉄の巨躯がわずかに前傾姿勢をとり、その双眸が漆黒のバイザーの奥からルートを睨みつける。

 

大鎚(ウォーハンマー)の柄を握りしめる厚い鉄の手袋が、軋む音を立てた。

 

 

 

「昨日のB1Fで会った時たぁ、ずいぶんと顔つきが変わったじゃねえか……小僧」

 

 

 

重苦しく響くガザックの声は、観客たちの地鳴りのような歓声を容易く切り裂いてルートの鼓膜を揺らした。

 

昨日の予選で見せた一触即発の緊張感。

 

あの時、ルートの瞳の中に確かに存在していた迷いや焦燥が、今は綺麗に削ぎ落とされていることを、数々の修羅場を潜ってきたベテランの戦士は見逃さなかった。

 

 

 

ガザックは大鎚をゆっくりと持ち上げると、その凶悪な鉄の塊をルートの鼻先へと突きつけた。

 

 

 

「フン……背負ってるものの重さを理解して、腹を括ってきたって面だな。……だがな、ここでお互いの事情を語り合ったり、つまらねえ舌戦を繰り広げる気なんて、ハナからねえよな?」

 

 

 

敗者のパートナーを奪い、絶望へ叩き落とす場所。

 

 

ここコロシアムにおいて、お互いの過去や境遇に同情を寄せる余地など一寸たりとも存在しない。

 

互いの理由などどうでもいい。

あるのは、どちらが生き残り、どちらがすべてを奪われるかという単純で残虐な事実だけだ。

 

 

ガザックの言葉は、お互いが引き返すことのできない殺し合いの舞台に立っているのだという、残酷で静かな確認だった。

 

 

ルートは一切の身動ぎもせず、突きつけられた大鎚の先端を冷たい目で見つめ返した。

 

 

背中に背負う愛剣の柄へと伸ばされた指先には、微かな震えすら存在しない。

胸の奥で静かに燃え盛る殺意が、過剰なプレッシャーを冷たい集中力へと完全に昇華させていた。

 

 

 

「……同感だ」

 

 

 

ルートの口から漏れたのは、低く、刃物のように研ぎ澄まされた一言だった。

 

 

 

「……はじめよう」

 

 

 

言葉を交わす必要など、最初からどこにもなかった。

 

 

ルートの返答を聞いたガザックの口元が、兜の陰で歪な笑みを刻む。

 

 

 

「……上等だ!」

 

 

 

言葉が途切れた瞬間、二人の間に漂っていた空気が一変した。

 

観客の歓声すら遠のくほどの密密な殺気が爆発し、死闘の幕が静かに引き落とされた。

 

 

本戦3日目 試合開始〜

 

 

 

 

「——闘神大会本戦一回戦、第一試合!!なんとまだ動きがありません!!!」

 

 

 

実況席のミミ・バ・ニガールが高らかに叫び、コロシアムのピンと張り詰めた空気を真っ二つに引き裂いた。

 

 

 

その直後、すり鉢状の巨大な闘技場を包み込んだのは、超満員に膨れ上がった数万の観客が吐き出す、地鳴りのような大歓声と罵声の渦だった。

 

 

 

「やっちまえガザック!」

「一撃だろ一撃!」

「血だ! 血を見せろぇぇぇっ!」

 

 

 

欲望と狂気に満ちた観客席から降り注ぐ暴言と熱気は、物理的な圧力となって中央の石畳へ容赦なく叩きつけられる。

 

 

 

しかし、円形のリング中央にポツンと立つルートの耳には、それらの雑音はすべて遠い波音のようにしか聞こえていなかった。

 

 

 

全身の皮膚が粟立ち、胃の奥が雑巾のように絞り上げられる感覚。

 

 

 

全神経が、いま目の前に立ち塞がる絶対的な死の象徴——『重戦士ガザック』だけに固定されている。

 

「フン……ッ!」

 

 

 

ガザックが低く鼻を鳴らした。

 

 

身の丈二メートルを優に超える巨大な鉄の肉塊。頭部から指先、足元に至るまでを隙間なく覆う漆黒の重装甲は、これまでの死闘で擦りつけられた無数の傷と、返り血の痕を吸い込んで重々しく鈍い光を放っている。

 

 

そして、その太い右腕に握られているのは、大人の胴体ほどもある巨大な鉄の大鎚(ウォーハンマー)だ。

 

 

 

柄だけでもルートの全丈ほどがあり、先端に鎮座する黒鉄の重塊は、一撃で巨岩すら粉砕する圧倒的な暴力の結晶だった。

 

 

 

 

ズシン。

 

 

 

ガザックが一歩、前へ足を踏み出した。

 

 

 

それだけで、脚部の装甲同士が擦れ合う重厚な金属音がゴリ、と響き、足元の頑丈な石畳が不気味な悲鳴を上げてかすかに揺れる。

 

 

 

「……」

 

 

 

兜の奥、漆黒のバイザーの不気味な隙間から、血走った鋭い眼光がルートを射抜く。

 

 

 

ガザックは右腕の大鎚をゆっくりと持ち上げると、その凶悪な鉄頭を己の左胸の厚い装甲へ向けて、見せつけるように叩きつけた。

 

 

 

 

ガンッ!!

 

 

 

 

耳を刺すような爆音がリング全体に炸裂した。強烈な金属の衝撃波が空気の波となって押し寄せ、ルートの前髪を激しく吹き散らす。

 

 

 

 

「俺の大鎚の一撃を受ければ、お前のその細い骨など一瞬で砕け散る。皮膚も、肉も、すべてがすり潰されて平らな肉片になるだけだ。そしてお前が息絶えた後、控え室で震えているあの可憐な娘は、俺の新しい玩具になる」

 

 

 

大鎚を再び打ち鳴らす。

 

 

 

ガンッ! ガンッ! ガンッ! と、コロシアム全体に規則的に響き渡る重金属の打撃音。

 

 

 

 

それは観客の血生臭い歓声を煽り立てると同時に、対峙する者の精神を内部から確実に破壊していくための、計算し尽くされた殺気による圧迫だった。

 

 

常人であれば、この地鳴りのような咆哮と全身を押し潰すような威圧感だけで膝を折り、剣を落として失禁してしまうだろう。

 

 

 

ガザックの放つ「圧倒的な死」の存在感が、重い空気の塊となってルートの肺を圧迫する。

 

 

 

(くっ……圧倒的な圧力だ……!)

 

 

 

息が詰まる。一歩踏み出すことすら躊躇われるほどの圧倒的な質量の壁。

 

 

 

昨日のB1Fで見たとき以上の殺気が、皮膚から刺さるように全身を痺れさせていく。

 

 

だが、ルートの身体は微動だにしなかった。

 

 

 

(…気持ちで負けるな…。……ミナモが待ってる)

 

 

去り際に見せてくれた、あのまっすぐで可憐な笑顔。恐怖に震える手をギュッと握りしめ、「信じてる」と言ってルートを送り出してくれた彼女の温度が、今も右手のひらに確かに残っている。

 

 

 

 

ここで自分が気圧されれば、あの笑顔は二度と見られなくなる。ミナモの尊厳も、未来も、命も、すべてがこの男の無残な足元に踏みにじられるのだ。

 

 

 

 

「……口喧嘩がしたいのか?」

 

 

 

ルートの口から漏れたのは、氷のように冷ややかな一言だった。

 

 

 

腰の愛剣の柄に置かれた指先に、余計な力みはない。脱力し、呼吸を深層まで整え、全身の筋肉をいつでも爆発的に伸縮できるよう研ぎ澄ませていく。

 

 

 

 

「……ミナモには、指一本触れさせない」

 

 

 

サァン、と澄んだ金属音が響き渡り、ルートは静かに刃を抜いた。

 

 

 

使い古され、幾度も研ぎ直された鉄剣の刀身が、上空の太陽光を反射してシャープに煌めく。

ガザックの巨大な大鎚に比べれば、あまりにも頼りなく、細く、儚く見える一振りの剣。

 

 

 

「そうかよ……なら、その強がりごと一瞬で肉塊にしてやる!!」

 

 

 

ガザックの地鳴りのような咆哮が炸裂した。

 

 

 

巨躯からは到底想像もつかない、爆発的な踏み込み。

 

 

 

ドォン! と足元の石畳が砕け散り、一瞬にして二人の間の空間がゼロになる。

 

 

 

ガザックが両腕で掲げた大鎚が、太陽の光を遮る巨大な影となってルートの視界を真っ黒に覆い尽くした。

 

 

 

「死ねぇぇぇッ!!」

 

 

 

必殺の威力を秘めた大鎚が、空気を激しく引き裂く重低音とともに、ルートの頭上へと振り下ろされた。

 

 

 

暴風が吹いた。

 

 

 

大鎚が空気を押し潰しながら振り下ろされるその瞬間、発生した極大の風圧がルートの顔面を容赦なく叩きつけ、髪と衣類を狂ったように激しくなびかせる。

 

 

 

(速い……! そして重い!)

 

 

 

正面から受け止めれば、剣など木切れのように折れ、両腕の骨は粉砕され、頭骨ごと叩き潰される。

 

 

 

選択肢は「回避」以外に存在しない。

 

 

 

ルートは寸前で右斜め前へと体を沈め、石畳を滑るように踏み込んだ。

 

 

 

 

ドゴォォォォンッ!!

 

 

 

 

直後、ルートが直前まで立っていた石畳が爆発した。

 

 

 

 

一撃のもとに砕け散った巨大な岩の破片が、弾丸のような速度で四方八方へと飛び散っていく。その一片がルートの左頬と肩を激しくかすめ、ブツリと皮膚を切り裂いて鮮血を散らした。

 

 

 

 

だが、ルートは痛みに眉一つ動かさず、視線を一瞬たりともガザックから外さない。

 

 

 

大鎚が地面に激突した瞬間、コロシアム全体を揺らすほどの激しい振動が走り、強烈な衝撃波が周囲の空気を歪ませた。石畳には直径数メートルに及ぶ巨大なクレーターが穿たれている。

 

 

 

「ぬッ!?」

 

 

 

ガザックの兜の奥から、驚愕の声が漏れた。

 

 

 

一撃で平らな肉片に変えるはずだった鼠が、あろうことか大鎚の死角となる己の右脇腹の懐深くへと滑り込んできていたからだ。

 

 

 

「はぁぁぁッ!」

 

 

 

ルートは鋭い呼気とともに、ガザックの脇の下——重装甲の隙間から覗く関節の補強パーツへ向けて、電光石火の突きを繰り出した。

 

 

 

ガキンッ!!

 

 

 

 

甲高い金属音がリング上に響き渡る。

 

 

しかし、手応えは固く、あまりにも重かった。

 

 

 

(くっ……弾かれた……!?)

 

 

 

ガザックは寸前のところで巨躯を力ずくで捻り、最も厚い胸甲の側面で刃を受け止めていたのだ。ルートの鉄剣は黒鉄の表面に浅い白い傷をつけるにとどまり、肉に届く前に虚しく滑り弾かれた。

 

 

 

「小賢しいッ!」

 

 

 

ガザックが即座に左肘を大きく振り払う。

 

大木のように太い鉄の腕が、丸太のような横薙ぎとなってルートの胴体を襲う。

ルートは咄嗟に剣の腹を添えて受け流そうと試みたが、あまりの質量差に体ごと真横へ吹き飛ばされた。

 

 

 

ズザザザザッ!

 

 

 

石畳の上を激しく転がり、数メートル後方へ滑っていく。

 

 

 

なんとか態勢を立て直して立ち上がるが、左腕の骨が嫌な音を立てて軋み、内臓が強く圧迫されて口から血の泡が吐き出された。

 

 

 

「ゴホッ……!」

 

 

 

実況席のミミ・バ・ニガールが跳ね上がるようにマイクへ叫ぶ。

 

 

 

「出たあぁぁぁッ! ガザック選手の一撃必殺の振り下ろし! リングの石畳が跡形もなく吹き飛びましたッ! ルート選手、間一髪で回避したものの、衝撃波と追撃の腕払いで大ダメージだぁッ!!」

 

 

 

観客席から野獣のような大歓声が沸き立つ。

 

 

 

「殺せ! 殺せ!」

「そのまま踏み潰せ!」

「ハッ、所詮はガキだな!」

 

 

 

 

ガザックは大鎚を軽く持ち上げ、太い首の上の肩に担ぎ直すと、血を吐くルートを見下ろして不敵に笑った。

 

 

 

「ハハッ! どうした小僧、ノミの刺したような攻撃じゃあ、俺の黒鉄の装甲には傷一つつけられんぞ! お前の細い剣など、俺の肉に届く前にへし折れて終わりだ!」

 

 

 

ルートは肩で荒い息をつきながら、ゆっくりと身体を起こした。

 

 

 

左腕に走る強い鈍痛。吐き気をもよおす内臓の損傷。だが、ルートの視線は死んでいない。むしろ、その瞳の奥の青い火花は、より深く、より冷徹に研ぎ澄まされていく。

 

 

 

(落ち着け……焦るな。ガザックの防御は完璧に見えるが、無敵じゃない)

 

 

 

あの大鎚という極端な重量武器を振るう以上、旋回運動や重心移動の瞬間に必ず大きな慣性が働き、関節部にはわずかな「歪み」が生じている。

 

 

 

問題は、ガザックの放つ絶望的な圧迫感に飲まれず、その一瞬の隙に刃を滑り込ませるだけの死線の踏み込みができるかどうかだ。

 

 

 

 

 

ガザックは休む間もなく、重装甲の足音を響かせて前進を再開した。

 

 

 

ズシン、ズシン、ズシン。

 

 

 

一歩近づくごとに、押し潰されるような威圧感が倍増していく。

 

 

 

ただ立っているだけで石畳を砕き、周囲の空気を重く湿らせる巨大な死の壁。ガザックは挑発するように大鎚の頭を地面に擦り付けながら歩を進めてくる。

 

 

 

ガリガリガリ……ッ!

 

 

 

鉄と石が擦れ合い、大量の火花が飛び散る嫌な音がリングを満たす。

 

 

 

「どうした? 逃げ回るだけか? 」

 

 

 

ガザックが大鎚を大きく一閃させた。

 

 

 

ブウンッ! と空気を切り裂く重低音が響き、真空の波がルートの頬を切り裂く。

 

 

 

(くっ……!)

 

 

 

ガザックの一挙一動が、リング全体の空間を狭めていく。

 

 

 

巨体と大鎚の到達範囲(リーチ)が広すぎるため、間合いの外にいるつもりでも、一瞬で攻撃範囲に呑み込まれてしまうのだ。

 

 

 

「逃げ場などねえんだよッ!」

 

 

 

ガザックが再び踏み込み、大鎚を横薙ぎに全開で振り抜いた。

 

 

 

薙ぎ払われた鉄の塊が、ルートの腰の高さを水平に引き裂いて迫る。

 

 

 

ルートは間一髪で跳躍し、頭上を通過する大鎚の風圧で身体を激しく煽られながらも、ガザックの頭上を飛び越えるように着地した。

 

 

 

ドォン!

 

 

 

ガザックの振るった大鎚が、後方の防護壁の角に直撃し、巨大な巨石のブロックを丸ごと一つ粉砕した。

 

 

 

「ハハハハッ! いいぞ、よくかわす! だがなぁ、いつまでその足が持つかな!?」

 

 

 

ガザックは反動を利用して瞬時に旋回し、崩れ落ちる瓦礫の中から大鎚を再び頭上高く掲げた。

 

 

 

その佇まいは、まるで山そのものが動いているかのようだった。

 

 

 

死角のない重装甲、一撃離脱を許さない破壊的な攻撃範囲、そして何より、相手の存在そのものを恐怖で縮み上がらせる圧迫感。

 

 

 

ルートの額から、不快な汗がだらだらと垂れ落ち、顎の先から床へと落ちていく。

 

 

 

息が荒い。心臓が胸の裏側を激しく叩いている。

 

 

 

だが、ルートの心は折れていなかった。

 

 

 

(見ろ……観察しろ。絶対に隙はある。あの圧迫感の裏に、必ず「継ぎ目」が存在する……!)

 

 

 

愛剣の柄を固く握り締め直し、ルートは再びガザックの凶悪な眼光を正面から見据えた。

 

 

 

第一試合、死線の攻防は、まだ始まったばかりだった。

 

 

 

 

ーーーーーーと、ガザックの足が止まった。

 

 

 

 

ダァン、と崩れ落ちた防護壁の瓦礫を踏み砕き、再び大鎚を引きずりながら歩み寄ろうとしたその瞬間、漆黒のバイザーの奥で彼の双眸が歪に大きく開かれた。

 

 

ガザックの見据える先——十数メートル離れた位置で、身を低く沈めて剣を構え直すルートの全身に、異様な変化が起きていた。

 

 

 

「……あ……?」

 

 

 

ガザックの口から、困惑と疑念の混じった掠れ声が漏れる。

 

 

 

先ほどの大鎚の一撃。

 

 

回避したとはいえ、初撃で砕け散った石畳の破片が弾丸となって顔面をかすめ、頬は切れ肩を切り裂いていたはずだ。

 

 

さらに、直後に追撃として放たれた左腕の払いが直接ルートの体幹を捉えていた。

 

 

数十メートルも吹き飛ばされ、石畳の上を不様に転がった少年。左腕の骨は不自然な方向に折れ曲がり、口からは吐血とともに内臓の破片すら混じった血の泡が吹き出していた。

 

 

誰がどう見ても、左腕は死に体となり、激痛と内傷で立つことすらままならない重症であるはずだった。

 

 

 

だが、今のルートの姿はどうだ。

 

 

 

「ゴキッ……ゴリッ……」

 

 

 

静まり返りかけたコロシアムの片隅で、不気味な骨鳴りが響く。

 

 

 

ぶらりと力なく垂れ下がっていたはずのルートの左腕。

 

 

その皮膚の内部で、折れた骨と断裂した筋繊維が生き物のように蠢いていた。

 

 

肉が不自然に盛り上がり、赤黒い内出血の痕が急速に肌の奥へと吸収されて消えていく。

 

 

 

それだけではない。

 

 

 

初撃の激突で弾け飛び、彼の左頬に刻まれていた生々しい切り傷——血が滲み出ていた肉の裂け目すらも、まるで巻き戻される映像のようにみずみずしい皮膚へと埋め戻され、綺麗さっぱり塞がっていた。

 

 

 

 

次の瞬間、ルートは何事もなかったかのように左手の指をゆっくりと握り、開いてみせた。

 

 

 

「……よし」

 

 

 

短く呟き、左腕で剣の刀身をすっと拭うルート。

 

 

 

 

傷が消えた平滑な頬に触れることもなく、口元に付着していた血液を拭い去ると、乱れていた呼吸は深層の肺活によって急速に整えられていく。

 

 

内臓を苛んでいた激しい激痛も、細胞の死滅と爆発的な新生の濁流によって塗り替えられ、消え去っていた。

 

 

 

ルートが固有で持つ絶対の生存能力——『超回復』。

 

 

 

損傷を受けた瞬間から、通常では考えられない速度で細胞が活性化し、あらゆる致命傷から掠り傷に至るまでを短時間で修復する異常な体質。

 

 

 

「な……んだ、それは……!?」

 

 

 

 

ガザックの声に、初めて明らかな狼狽の色が混じった。

 

 

 

「腕が……折れていただろうが! 頬の傷だって、俺の一撃で飛び散った石片が確かに切り裂いたはずだ! なぜ普通に動いている!? なぜ傷一つ残っていないんだ!?」

 

 

 

 

実況席のミミ・バ・ニガールも、あまりの現象に目を剥き、拡声器へ向かって狂ったように叫び声を上げる。

 

 

 

「な、なんとぉーーっ!? いま確実に重傷を負い、頬を裂かれ左腕を潰されたはずのルート選手! なぜか何事もなかったかのように左腕を回し、顔の傷すら完治させておりますっ! 魔法か!? 薬か!? それともこれが彼の隠された能力なのかーっ!?」

 

 

 

観客席からも、どよめきと戸惑いの声が伝染病のように広がっていく。

 

 

 

「おい、マジで傷、塞がったぞ……」

 

「なんだあのガキ、化け物か?」

 

「腕の折れ骨まで治ってやがる……!?」

 

 

 

 

ガザックは噛み潰した煙草の灰を吐き捨てるように、激しく吐息を漏らした。

 

 

「チッ……気味が悪いマネを……! どんなからくりか知らんが、タフなだけのガキがッ!」

 

 

 

威勢のいい言葉とは裏腹に、ガザックの額には不快な汗がじわりと滲み出ていた。

 

 

 

超回復——その能力の本質をまだ理解していないガザックにとって、どれほど重い打撃や傷を与えても次の瞬間には何事もなかったかのように立ち上がってくるルートの姿は、心理的な不気味さとなって確実に精神を削り始めていた。

 

 

 

だが、ルート自身も決して余裕があるわけではなかった。

 

 

 

(……超回復の反動が来ている)

 

 

 

見た目の傷は消え去り、骨も繋がった。だが、超回復は魔法の無から体力を生み出す能力ではない。

 

 

傷を治すたびに、己の肉体が蓄えられた生命力とスタミナを削り取り、激しい痛みの「記憶」だけは脳髄に焼き付いて離れないのだ。

 

 

 

 

度重なる再生により、体内のエネルギーが猛烈な勢いで消費されている。視界の端が微かに明滅し、筋肉が熱病に冒されたように熱い。

 

 

 

(長引けば……俺の体力が底を突く。超回復が追異追いつかなくなる前に、決着をつけなければ……!)

 

 

 

ルートは瞳の奥の青い火花をさらに強く燃やし、愛剣を固く握り直した。

 

 

 

 

「変細工が通用するか試してみるかッ!」

 

 

 

 

ガザックの咆哮とともに、二節目の死闘が幕を開けた。

 

 

 

ガザックは大鎚を風車のようにぶんぶんと大回転させながら、猛然と踏み込んできた。

 

 

 

ズシン! ズシン! と石畳を砕く重厚な足音。大鎚が巻き起こす真空の暴風が、リング上の瓦礫や血煙を巻き上げて竜巻と化す。

 

 

 

 

「死ね死ね死ねぇぇぇッ!!」

 

 

横薙ぎ、振り下ろし、斜め跳ね上げ——。

 

 

 

大鎚の連続攻撃。一撃一撃が地響きを伴い、当たれば人間など肉片すら残らない絶対の暴力。

 

 

 

ルートは身を極限まで沈め、髪の毛一筋の差でその殺戮の軌道をかわし続けた。

 

 

 

ブウンッ! ドゴォン!

 

 

 

大鎚が空を切るたびに石畳が爆散し、飛び散る石片がルートの皮膚を切り裂く。

 

 

 

だが、切り裂かれた端から『超回復』の赤い肉芽が盛り上がり、瞬く間に傷を塞いでいく。ルートは痛みに意識を奪われることなく、全神経をガザックの「動作」へと集中させていた。

 

 

 

(探せ……見極めろ……!)

 

 

 

敵の巨体が動くたび、黒鉄の重装甲が擦れ合い、微かな接合部の隙間が露出する。

 

 

 

右腕を振り上げた瞬間の、脇の下。

 

 

 

大鎚を旋回させた瞬間の、太腿の関節部。

 

 

 

そして、首元を守る厚い喉甲(ゴルゲット)が、激しい運動の呼吸に合わせてほんの数ミリ上下する瞬間。

 

 

 

 

ガザックの攻撃は凄まじい。だが、あの巨体と過剰な重量の武器を振り回し続けている以上、その運動量は膨大だ。

 

 

 

 

ガザックの息が、わずかに荒くなり始めていた。

 

 

 

「ハァ……ハァ……ッ! このすばしっこい鼠が……ッ!」

 

 

 

 

漆黒のバイザーの奥から噴き出す息が、白い蒸気となって大気を白く染める。

 

 

 

どれほど分厚い重装甲を誇ろうと、どれほど強力な腕力を持とうと、中身は生身の人間だ。

 

 

重装甲の内部は熱が籠もり、全身を締め付ける重量は徐々にガザックのスタミナを蝕んでいく。

 

 

 

何より、「いくら打撃を与えても、初撃の傷すら残らず再生して立ち上がってくる」という絶望的な事実が、ガザックの攻撃に微かな焦りと力みを生じさせていた。

 

 

 

(攻撃が……重くなっている。だが、大雑把にもなっている……!)

 

 

 

ルートは見逃さなかった。

 

 

 

ガザックの振るう大鎚の軌道が、先ほどよりもわずかに大きくなり、旋回後の隙(硬直時間)がコンマ数秒、伸びていることを。

 

 

 

「死ねぇッ!」

 

 

 

ガザックが痺れを切らしたように、両手で大鎚を高く掲げ、大振りの振り下ろしを放つ。

 

 

 

「今だ……!」

 

 

 

ルートは逃げなかった。

 

 

後方へ下がるのではなく、斜め前方——大鎚の柄の内側、ガザックの胸元へ向かって滑り込むように踏み込んだ。

 

 

 

 

ドカンッ!

 

 

 

 

大鎚がルートのすぐ背後の石畳を粉砕する。

 

 

 

その衝撃波を背中に受けながら、ルートは下方から斜め上へと、電光石火の突きを繰り出した。

 

 

 

ターゲットは、ガザックの右太腿の関節部——装甲の継ぎ目!

 

 

 

 

 

ガキンッ!!

 

「ぐっ……!?」

 

 

 

 

鋭い金属音とともに、ルートの鉄剣がガザックの太腿の隙間へと突き刺さった。

 

 

 

 

完全な貫通には至らない。

 

だが、黒鉄の装甲を押し分け、内部の鎖帷子を破り、ガザックの太腿の肉へと刃が確かに数センチ深々と食い込んだ。

 

 

 

「ぬあああッ!?」

 

 

 

 

ガザックが苦悶の声を上げ、咄嗟に左脚を引いて距離を取る。

 

 

 

 

彼の右太腿からは、鮮赤の血がダラダラと垂れ落ち、石畳を赤く染めた。

 

 

 

実況のミミが叫ぶ。

 

 

 

 

「入ったぁぁぁッ! ルート選手、ガザック選手の猛攻を紙一重でかわし、隙を突いて初クリーンヒットだぁッ! あの無敵の重装甲に、ついに血が滲みましたッ!!」

 

 

 

 

観客席がどよめく。

 

 

 

 

「おい……ガザックが押されてるぞ……?」

 

「あのガキ、本当にあの装甲を刺しやがった!」

 

 

 

ガザックは右太腿の激痛に顔を歪め、血の溢れる足元を信じられない思いで見つめた。

 

 

 

「この……ガキが……ッ!ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」

 

 

 

ガザックの荒い呼吸が、リング上に重く響く。

 

 

 

太腿の傷自体は、彼の巨体から見れば決して命取りになる深手ではない。

 

だが、その傷が与えた精神的ショックは絶大だった。

 

絶対の防御を誇るはずの黒鉄の装甲が破られたという事実。そして、その傷から溢れ出る痛みが、右脚の踏み込みを確実に鈍らせていた。

 

 

 

「なぜだ……なぜ……!?」

 

 

 

ガザックが血走った目でルートを睨みつける。

 

 

 

目の前の少年は、全身泥と汗と自分の血に塗れている。着ている服はボロボロで、吐き出した血の痕が胸元を黒く染めている。

 

 

 

それなのに、体躯のどこにも「傷」がないのだ。

 

 

 

初撃にかすめた頬の傷も、折れたはずの腕も元通り。内臓の損傷も癒え、皮膚の微小な擦り傷すらも『超回復』によって綺麗に塞がっている。

 

 

 

ガザックの体に溜まる一方のダメージと疲労。

 

 

 

対して、傷を負うたびに再生し、鋭さを増していく少年の眼光。

 

 

 

「化け物が……ッ!」

 

 

 

ガザックの口から、吐き捨てるような不快な言葉が漏れた。

 

 

 

お互いの攻撃が交差するたび、損害を被っているのは自分だけなのだ。

 

どれほど強力な一撃を叩き込もうと、相手を一瞬で死に至らしめない限り、次の瞬間には完全に回復された状態で反撃が飛んでくる。

 

 

 

「めんどくせえ……! めんどくせえ体質をしてやがるッ!!」

 

 

 

ガザックは苛立ちを露わにし、太腿の痛みを紛らわすように強く踏みつけた。

 

 

 

 

ガザックの頭脳の中で、不吉な計算が弾き出されていた。

 

 

 

このまま削り合いの消耗戦を続ければ、倒れるのは自分だ。

 

太腿を奪われ、膝を突かされ、装甲の隙間を次々と穿たれて、じわじわと血を抜かれて殺される。

 

 

 

(まともに付き合っていられるか……! チョロチョロと逃げ回りやがって……!)

 

 

 

ガザックの胸中に渦巻いていたベテランゆえのプライドと余裕が、完全に粉砕された。

 

 

 

残されたのは、生存への本能と、目の前の小僧に対する剥き出しの殺意だけだ。

 

 

 

「小僧……認めついでに、教えてやる」

 

 

 

ガザックが低く、地の底から響くような声で呟いた。

 

 

 

彼は大鎚の柄を握り直すと、右太腿の痛みに耐えるように、ゆっくりと自らの体勢を深く沈め始めた。

 

 

 

「お前のその気味の悪い再生能力……確かに凄まじい。大したおまじないだ。……だがなぁ!」

 

 

 

ガザックの全身から、これまでとは桁違いの不気味な圧迫感が膨れ上がっていく。

 

 

 

黒鉄の装甲の隙間から、彼の体温によって限界まで熱せられた汗と蒸気が、まるで蒸気機関のようにシューシューと白い煙を吹き出し始めた。

 

 

 

 

「再生する暇すら与えねえほど……頭からつま先まで、一瞬で跡形もなく叩き潰されたらどうなると思う……!?」

 

 

 

 

ガザックの漆黒のバイザーの奥で、瞳が狂気じみた光を放つ。

 

 

 

「一撃だ。一撃で、お前を二度と再生できねえ平らな肉片に変えてやる!!」

 

 

 

ガザックが五歩、ゆっくりと後退した。

 

 

二人の間に、約十メートルの距離が生まれる。

 

 

 

ガザックは両手で大鎚の柄を限界まで深く握り締め、右脚を引き、体を深くねじり込んだ。

 

 

 

足元の頑丈な石畳が、彼の体内に溜め込まれていく異常な密度と威力の殺気に耐えかねて、ズズズ……と音を立てて網目状の亀裂を広げていく。

 

 

 

 

消耗戦の完全な破棄。

 

 

 

 

自身の持つすべての筋力、重装甲の重量、そして命を削るほどの気力を一点に集中させ、相手の存在そのものを領域ごと消滅させる「一撃」の準備。

 

 

 

 

実況席のミミ・バ・ニガールが、興奮と恐怖で声を裏返らせて絶叫した。

 

 

 

 

「来ました、来ましたぁぁぁッ! ガザック選手、距離を取っての全力チャージ! あの構えは、彼の持つ最大の必殺技の溜め動作だぁーっ! ルート選手、どうするーっ!?」

 

 

 

観客席の狂乱が沸点へと達する。

 

 

 

「やれぇぇぇガザック!」

 

「一撃で消し飛ばせ!」

 

「肉片にしろぁぁぁっ!」

 

 

 

 

死の暴風が、リング中央を吹き荒れる。

 

 

 

ガザックの放つ「絶対の一撃」の予兆は、観客すら息を呑むほどの絶対的な破壊の気配を孕んでいた。

 

 

 

対峙するルートは、一歩も引かなかった。

 

 

深く、深く、肺の底まで息を吸い込む。

 

 

 

(……一撃で殺す、か)

 

 

 

ルートの胸の中で、静かな確信が芽生えていた。

 

 

ガザックの判断は正しい。

超回復を持つ自分を倒すには、再生の隙を与えない超火力で一瞬で潰すしかない。

 

 

 

だが——完璧な破壊を目指して全力を叩きつけようとすればするほど、そのモーションは大きくなり、全身の筋肉と装甲の「結び目」はより一層、鮮明に浮かび上がるのだ。

 

 

 

脳の奥が、超回復の反動と極限の緊張で焼き切れそうに熱い。

 

 

 

視界が青く澄み渡り、周囲のあらゆる音が遠のいていく。

 

 

 

観客の怒号も。

 

実況の悲鳴も。

 

ガザックの荒い呼吸音すらも。

 

ルートの頭裏に蘇るのは、ただ一つ。

 

 

 

控え室で、己の恐怖を押し殺し、自分を信じてまっすぐな笑顔で見送ってくれたミナモの姿。

 

 

 

『私、信じてるから。ルートが勝って、絶対に迎えに来てくれるって……ずっと信じて待ってるからね!』

 

「……ああ」

 

 

 

ルートは胸の中で、静かに言葉を返した。

 

 

 

(待っててくれ、ミナモ。俺は絶対にお前を……あんな奴らの手には渡さない)

 

 

 

負けられない。折れられない。

 

 

 

不治の病に侵された可憐な少女の命を救い、このイカれた都市から二人で生きて抜け出すために。

 

自分には、ここで踏みとどまり、目の前の化け物を叩き斬る以外の道など存在しないのだ。

 

 

 

ルートは身を低く沈め、足の指先で壊れかけた石畳を強く踏みしめた。

 

 

 

右手に握られた愛剣。鉄剣が、ルートの生命力と呼応するように、氷のように冷たく、研ぎ澄まされた青い光を宿す。

 

 

 

ガザックが大きく息を吸い込み、その胸甲が限界まで膨らんだ。

 

 

 

「勝負だ……ガザック」

 

 

 

ルートの静かな呟きと同時に、ガザックの咆哮がコロシアムの天頂を突き破った。

 

 

 

「オオオオオォォァォォォッ!!!!」

 

 

 

地鳴りを立てて、漆黒の要塞が踏み出した。

 

 

 

 

死と破壊を孕んだ、運命の「一撃」が解き放たれようとしていた。

 

 

 

 

地鳴りを立てて、漆黒の要塞が踏み出した。

 

 

 

——ガザックの放つ全開の突進は、ただの攻撃ではなかった。二メートルを超える鉄の巨躯、数十キロの重装甲、そして右腕に握られた大鎚の質量。それらが超密度の殺意とともに一体となり、リング上の空気を押し潰しながら一直線にルートへ肉薄する。

 

 

 

 

ドォォォォンッ!!

 

 

 

 

ガザックが踏み出す足音一つごとに、足元の石畳が爆散し、クレーターが穿たれていく。生じた衝撃波が円形リングの全域へ伝播し、観客席の最前列に陣取る者たちの髪を激しく吹き散らした。

 

 

 

 

回避は不可能。直撃すれば肉体は一瞬で挽き肉と化し、超回復の余地すらなく即死する。

 

 

 

「やっちまえぇぇぇッ!」

 

「消し飛ばせ!」

 

 

 

観客たちの狂乱した叫びがコロシアムを揺らす。実況席のミミ・バ・ニガールもマイクを握りしめ、身を乗り出して叫び声を上げていた。

 

 

 

 

「出たあぁぁぁッ! ガザック選手、全霊を込めた必殺のチャージ!! 避けることも受け止めることも不可能な圧倒的暴力の濁流だぁーッ! 絶体絶命のルート選手、砕け散るか、それとも——っ!?」

 

 

 

迫る鉄の嵐。

死の直感がルートの脳髄を突き刺す。

 

 

 

(落ち着け……研ぎ澄ませ……)

 

 

 

ルートの意識は、極限の集中によって外界の雑音を完全に遮断していた。観客の怒号も、ミミの絶叫も、風の音すらも聞こえない。

 

 

 

世界が、遅延する。

 

 

 

迫り来るガザックの巨躯。頭上高く掲げられた凶悪な大鎚。

 

 

 

ガザックの全身の筋力が限界まで収縮し、大鎚を叩きつけるために右肩の装甲が大きく跳ね上がる。

 

 

 

見えた。

 

 

 

死線の中で、ルートの網膜に鮮明に浮かび上がったのは、ガザックの運動軌道が描く『線の結び目』だった。

 

 

 

巨体を前傾させ、全威力を前方に集中させたその瞬間——首元を守る黒鉄の喉甲(ゴルゲット)が、呼吸と動作の連動によってわずかに上方へ浮き上がる。装甲の継ぎ目と、ガザックの生命がむき出しになる唯一の点。

 

 

 

(そこだ……ッ!)

 

 

 

ルートは逃げなかった。引かなかった。

 

 

 

頭上から振り下ろされる大鎚の打撃面——その死角となる寸前の隙間へ向けて、自ら死の懐深くへと踏み込んだ。

 

 

 

「ハッ……!?」

 

 

 

ガザックの漆黒のバイザーの奥で、瞳が驚愕に揺れる。

 

 

 

少年が、死へ向かって自ら飛び込んできたからだ。

 

 

 

大鎚の風圧がルートの髪を巻き上げ、服を破く。しかし、ルートの身体は既に大鎚の破壊域の内側へ滑り込んでいた。

 

 

 

右手に握られた愛剣。

 

 

 

幾度も研ぎ直された一振りの鉄剣が、無駄な力を一切削ぎ落とされ、一筋の青い閃光となって突き出される。

 

 

 

 

 

『会心の一撃』——。

 

ズバンッ!!

 

 

 

 

静けさと爆音が同時に弾けた。

大鎚がルートの背後の石畳を捉え、リングの半分を吹き飛ばす重低音が響き渡る。

 

 

 

しかし、その打撃が完了するよりもコンマ数秒早く——ルートの放った電光石火の一線は、浮き上がった喉甲の隙間を寸分違わず貫いていた。

 

「ガ……ッ、あ……?」

 

 

 

ガザックの動きが、凍りついたように止まる。

 

 

 

装甲の継ぎ目を突破した鉄剣の刃は、ガザックの喉ぐえを深く穿ち、首の裏側へと完全に突き抜けていた。鮮赤の血が、喉元から大量に溢れ出し、黒鉄の胸甲を濡らしていく。

 

 

 

手元に伝わる、柔らかな肉と器官を断ち切った感触。

 

 

 

ガザックの手から大鎚が力なく滑り落ち、ドスンと重い音を立てて転がった。

 

 

 

「な……ぜ……また…隙間……を……」

 

 

 

バイザーの奥から溢れ出る血とともに、掠れた声が漏れ出す。

 

 

 

ガザックは信じられない思いで、懐に飛び込んできた少年を見下ろしていた。完璧な防御、完璧な破壊。そのすべてを破られた理由が理解できないまま。

 

 

 

「……強かった。ガザック。」

 

 

ルートは静かに、刃を引き抜いた。

 

 

ブシュッ! と噴き出す血飛沫の中、ルートは膝を折ろうとする巨漢を見つめ、低く言葉を紡いだ。

 

 

 

ガザックの巨躯が、ゆっくりと斜めに傾ぐ。

 

 

 

ズドォォォォンッ!!

 

 

 

 

激しい地鳴りを立てて、闘神都市の本命であった重戦士ガザックが、リングの上に横たわった。

 

 

 

二度と動くことのない漆黒の要塞。その口から最後に漏れたのは、静かな不快の吐息だけだった。

 

 

沈黙。

 

 

 

 

万雷の狂乱を上げていたコロシアム全体が、まるで時が止まったかのように凍りついた。

 

 

 

 

誰もが言葉を失っていた。圧倒的な重装甲を誇るガザックが、ボロボロの装備をした無名の少年に、たった一閃の突きで倒されたという事実に。

 

 

 

 

数秒の恐ろしい静寂の後、実況席のミミ・バ・ニガールが跳ね起き、マイクを握りしめて喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。

 

 

 

 

「決まったあぁぁぁぁぁッ!!!! 奇跡! 奇跡ですッ!! 圧倒的な破壊と防御を誇る重戦士ガザック選手が、喉元一閃で沈んだあぁぁぁッ!! 勝者……エントリーナンバー七七番、『ルート』選手だあぁぁぁッ!!」

 

 

 

 

ワーッ!! とコロシアム全体を揺らす地鳴りのような大歓声を、ルートは背中に受けた。

 

 

 

 

先ほどまでの罵倒は消え去り、観客たちは興奮の渦の中で圧倒的な強者へと成り上がったルートの名を叫び始める。

 

 

 

 

ルートは血に濡れた剣を静かに鞘へと収めた。

 

 

 

 

超回復の過剰な反動が全身を襲う。視界が激しく揺れ、膝が折れそうになるのを、彼は歯を食い破るほどの噛み締めによって耐えた。

 

 

 

 

勝ったのだ。

 

 

 

 

最初の壁を越え、ミナモの待つ場所へ戻る権利を掴み取った。

 

 

 

 

ルートは荒い息をつきながら、静かに拳を握りしめた。

 

 

 

 

 

【試合後】

 

コロシアムを埋め尽くす狂乱の大歓声を背に、ルートはゆっくりと地下通路への重い鉄扉をくぐり抜けた。

 

一歩、踏み出すごとに膝が笑う。

 

超回復の連続使用による猛烈な倦怠感と、全身の細胞が悲鳴を上げるような熱病の痛みが、遅れて脳髄を苛んでいた。それでも彼は壁に手をつき、歯を食い破りながら前へ進む。

 

 

 

薄暗い石造りの通路の先、控え室の前でバニー風の華やかな衣装に身を包んだ女性が、受付カウンターのように壁へ寄りかかり、いたずらっぽく頬杖をついていた。

 

 

 

闘神都市のコロシアム総合受付嬢——シュリだ。

 

 

 

「は〜い、お疲れ様でしたっ! 見事な勝利でしたよ、ルートさん!」

 

 

 

パチ、パチ、とウインクを交えながら手際よく手を叩くシュリ。

 

露出度の高い抜群のプロポーションを揺らし、パッと華やかな笑顔を咲かせたかと思えば、すぐに人差し指をあごに当ててキュートに首をかしげる。

 

 

 

「まさかあの『重戦士ガザック』さんを、喉元一閃で撃破しちゃうなんて! 正直、受付のお姉さんもハラハラしちゃいましたからね? 負けちゃったら寂しいな〜って思ってたので、無事で本当によかったです♪」

 

 

 

シュリはそう言って大人の包容力を感じさせる笑みを浮かべると、腰の後ろからズッシリと重い革袋を取り出した。

 

袋の口からは、上質な金貨が擦れ合う重厚な金属音がチャリン、と響く。その瞬間、シュリの瞳が一瞬だけ輝いたように見えたのは気のせいではないだろう。

 

 

 

「はいっ! こちらが本戦一回戦の勝利報酬、金貨五十枚になりまーす! ビジネスはプロですからね、ちゃんとお約束通りの満額ですよ?」

 

 

「……うん」

 

 

 

ルートは短く答え、重い革袋を受け取った。この金があれば、ミナモの病を一時的に抑えるための高価な霊薬を手に入れることができる。

 

 

手のひらに伝わるズシリとした重みが、死線を潜り抜けた実感をわずかに与えてくれた。

 

 

 

ルートがシュリの脇をすり抜け、ミナモの待つ控え室のドアノブに手をかけようとした、その時だった。

 

 

 

「あらあら? そっちのドアに行っちゃうんですか?」

 

 

 

シュリが人差し指をチチチと横に振り、お茶目にからかうような視線をルートに向けた。

 

 

 

「勝利の報酬は、金貨だけじゃないんですよ? 闘神都市の伝統……そして、敗者からすべてを奪う本戦のルール、忘れちゃいました?」

 

 

 

ルートの手が止まる。怪訝そうに振り返るルートに対し、シュリはバニーの耳を揺らしながら、通路の奥にある豪華な特別室の方向を指さした。

 

 

 

「もう一つの『とっておきの報酬』が、お部屋でお待ちかねですよ?」

 

 

「……どういう意味?」

 

 

 

「負けた人は金も名誉も、連れてきたパートナーさんまで勝者に全部奪われちゃう……それがこの街のルールなんです。ガザックさんが連れてきていた女パートナー、ミレイさんのお部屋へご案内しちゃいますね!」

 

 

 

シュリの言葉に、ルートの眉根が深く寄せられた。

 

 

 

「俺にそんな趣味はないよ。俺にはミナモが——」

 

「ふふっ、受け取るも捨てるも、どうしちゃうかも勝者であるルートさんの自由ですよ? そこは私からは何も言えませんしね」

 

 

 

シュリはお姉さんぶった余裕の微笑みを浮かべつつ、ルートの手首を軽く取ってスムーズに歩き出した。商魂たくましい受付嬢らしく、トラブルを防ぎつつ進行を滞らせないプロフェッショナルな誘導だ。

 

 

 

「でもでも、一応会っておくのが男の嗜みってやつですよ? 彼女も敗者のパートナーとして、覚悟を決めて待ってますからね。……さ、こちらです!」

 

 

 

シュリは重厚な木製の扉の前で立ち止まると、ウインクしながら静かにドアノブを回した。

 

 

 

「ミレイさ〜ん。本日の勝者、ルートさんをお連れしましたよ〜」

 

 

 

室内は、薄暗い魔導ランプの橙色の光に包まれていた。豪奢な調度品が並ぶ部屋の中央、大きなソファーの上に一人の女性が静かに腰掛けている。

 

 

 

ガザックのパートナー——ミレイ。

 

 

 

亜麻色のセミロングの髪を背中に流し、肌の露出が多い艶やかなドレスを身に纏った美しい女性だった。しかし、その瞳には光がなく、まるで己の運命を完全に諦めきったかのような、冷たく悲痛な色が宿っている。

 

 

 

彼女の視線が、ドアの前に立つ血塗れの少年——ルートへと向けられた。主人であったガザックを殺し、新たな所有者となった少年を前に、ミレイの白い肩が微かに跳ね、震える。

 

 

 

「それじゃあルートさん、ごゆっくりどうぞ? なにかあったら受付の私を呼んでくださいねっ♪」

 

 

 

シュリはちゃっかりした笑顔を残し、背後で静かに扉を閉めた。

 

 

 

パタン、と重い閉鎖音が響き、静寂が部屋を支配する。

 

 

 

金貨の入った袋を握り締めたまま、ルートは目の前で身を硬くするミレイと、張り詰めた空気の中で向かい合うこととなった。

 

 

 

 

 

 

 

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