【宿】
宿街にひっそりと佇む『月光亭』の扉を開けると、油の切れた蝶番がギィと嫌な悲鳴を上げた。
コロシアムの地下通路を抜け、泥と血に汚れたまま帰路につくルートの足取りは、まるで鉛の塊を引きずっているかのように重い。
死闘の直後に発動した固有能力『超回復』の過剰な反動が、時間差で少年の肉体を内側から苛んでいた。
全身の骨や関節が軋み、筋肉の繊維が一本ずつ熱した針で突かれるような鈍い痛みが走る。
だが、それ以上にルートの精神を重く押し潰していたのは、一回戦を終えた直後に叩き込まれた「敗北」の持つ凄惨な現実だった。
ガザックの首元を貫き、命を奪った瞬間の感触。
そして、この「闘神都市」において敗者が辿る無残な末路のリアルな光景。
(俺は……守り切れるのか。この手で……ミナモを)
薄暗い階段を一段、また一段と上がっていく。
二階の突き当たりにある『月光亭』の最安部屋。古びた木造建築の廊下は静まり返り、ルートの血に濡れたブーツの足音だけが、虚ろに響いていた。
部屋のドアの前で、ルートは足を止めた。
握りしめたポケットの中には、一回戦の勝利報酬として獲得したばかりの金貨五十枚。
これで明日闇市へ行けばミナモの自病を抑える薬が一瓶買えるはず。
そしてもう片方のポケットには、ガザックの腕から剥ぎ取った黒鉄の腕輪が、冷たく歪な重みとなって収まっていた。
ルートは深く息を吐き出し、胸の奥で渦巻く暗い熱と疲弊を覆い隠すように表情を作ると、ゆっくりとノブに手をかけた。
カチャリ、と静かな金属音が響いた瞬間——。
「ルート……!?」
室内のベッドの上から、弾かれたように跳ね起きる気配がした。
ドタバタと、覚束ない頼りない足音が床を叩き、勢いよく扉が開かれる。
そこにいたのは、今にも泣き出しそうな大きな瞳を潤ませ、胸の前で小さな両手を強く握りしめた少女——ミナモだった。
細い肩、病弱ゆえに透き通るほど白い肌、今にも折れてしまいそうな華奢な身体。
彼女自身、この『闘神都市』の過酷なルールは重々理解していた。
男性戦士の伴侶として登録され、もし敗北すれば勝者に一晩買い叩かれ、性的な奉仕を強いられるという惨絶な掟を。
それでも病を治す薬を。手段を手に入れるため、ルートを信じて伴侶となることを承諾し、この狂気の都市へ足を踏み入れたのだ。
本戦一回戦をルートが無事に突破したことで、保護名目で身柄を預かられていた管理区から無事にこの『月光亭』へと送り返されてきていた。
「ルート……! ルート……! おかえりなさい……っ!」
「ミナモ……」
ルートの顔を見た瞬間、ミナモの瞳から大きな涙の粒が溢れ落ちた。
彼女は自分が病弱であることも、足元が覚束ないこともすべて忘れたかのように、一直線にルートの胸へと飛び込んできた。
ドスン、と小さな衝撃がルートの胸に走る。
「よかった……! よかったぁ……ッ! ……私、怖くて……! もしルートが戻ってこなかったらどうしようって……ずっと、ずっと祈っていたの……っ!」
ルートの泥と血と汗に汚れた上着に、ミナモは顔を押し当て、小さな拳で彼の背中を必死に抱きしめた。彼女の全身が、安堵と恐怖の残り香で細かく震えている。
その小さな温もりが、彼女の体温が、直接ルートの胸へと伝わってくる。
(ああ……生きてるんだな)
ルートの腕が、勝手に動いた。
吸い寄せられるように、彼はミナモの華奢な背中に腕を回し、折れんばかりの力で彼女の身体を強く、強く抱きしめ返した。
「あっ……ル、ルート……?」
ミナモが息を詰まらせるほどの強い力だった。だが、ルートは腕の力を緩めることができなかった。
もし自分が負けていたら。
もしガザックの大鎚が、自分の頭首を叩き潰していたら。
いま自分の腕の中にいるこの可憐で儚い少女は、ガザックに全裸に剥がされ、欲望の赴くままに弄ばれていたのだ。
声が枯れるまで泣き叫び、救いを求めても誰一人として助けに来ない暗闇の中で、一晩中玩具として乱暴に抱かれていたのだ。
(渡さない……絶対に……ッ!)
ルートの胸の奥で、ドス黒く熱い感情が爆発するように広がった。
それは純粋な保護欲であり、守り抜くための執着であり、敗北に対する狂気的なまでの恐怖だった。少年の心に宿ったその「暗い熱」は、抱きしめる腕の強さにそのまま表れていた。
「ル、ルート……少し、苦しいよ……?」
ミナモが戸惑いがちに、ルートの胸の中で声を漏らした。
ルートはハッと我に返り、慌てて腕の力を緩めた。しかし、彼女の身体から完全に手を離すことはできず、肩を支えたまま、じっとミナモの顔を見つめた。
「ごめん……ミナモ。痛かった?」
「ううん……大丈夫。ただ、ルートがすごく……必死な顔をしていたから」
ミナモは涙を拭い、心配そうにルートの顔を見上げた。
血と泥に汚れた少年らしい顔立ち。だが、その青い瞳の奥には、今までに見たこともないような深く、暗い覚悟の光が宿っていた。
「ルート……怪我は? 血がたくさんついているわ……! これ、ルートの血なの……!?」
ミナモの震える手がか細く伸び、ルートの胸元や腕の血痕に触れようとする。ルートはそれを優しく手で制し、静かに首を振った。
「俺の血じゃないよ。超回復があるから、怪我はもう治っている。これは……相手の血だ」
「相手の……」
ミナモの表情が凍りついた。
相手の血。つまり、ルートが命を奪った男の血だ。この闘神都市のコロシアムで、ルートが生き残るために流した凄惨な対価。
ミナモは一瞬だけ息を呑んだが、すぐに首を振り、ルートの手を両手で包み込むように強く握りしめた。
「そう……よね。ルートは、私のために……戦ってくれたんだものね。ごめんなさい、変なこと聞いて」
「……勝ったよ。賞金の金貨五十枚も受け取ってきた」
ルートはポケットの上から、ずっしりと重い革袋の感触を確かめながら呟いた。
「また明日…薬を買ってくるよ」
「……ごめんね」
ミナモの顔に少しの安堵と不安の表情が浮かぶ。
明日になれば薬が手に入る。……が。
ミナモはルートの服が血と汗で泥み、酷く汚れていることに気づいて眉を痛めた。
「ルート、服を脱いで? お風呂はここにはないけれど……温かいお湯とタオルを頼んで、身体を拭いてあげるから」
「え……いや、自分でやるよ。ミナモは体が弱いんだから、横になって休んで——」
「ダメよ」
ミナモは珍しく強い口調で言った。譲らないという意志を込めて、ルートの目をじっと見つめる。
「私には、これくらいしかできないんだもん。ルートが命がけで戦ってきてくれたのに、私だけ休んでいるなんてできない……。お願い……拭かせて?」
ミナモのまっすぐな瞳に押し切られ、ルートは深くため息をついた。
「……わかった。じゃあ、お願いするよ」
「うん! すぐに準備するね!」
ミナモは小さく頷くと、部屋の隅にある呼び出し鈴を鳴らし、宿の給仕に温かいお湯の入った桶と清潔な布を持ってこさせた。
部屋の中央に置かれた木製の椅子に、ルートは静かに腰掛けた。
上衣を脱ぎ捨て、上半身裸になる。
少年らしい引き締まった肉体には、超回復によって塞がったものの、皮膚が引きつったような新しい傷跡が幾筋も残っていた。そして、胸元や肩にはガザックの返り血が黒くこびりついている。
ミナモは桶の温かいお湯でタオルを絞ると、ルートの背後にそっと立った。
「じゃあ……するね……?」
絞ったタオルが、ルートの肩に触れた。
温かい湿り気とともに、ミナモの優しい手つきが血汚れを拭い去っていく。
「痛くない……?」
「ああ、全然。気持ちいいよ」
「よかった……」
ミナモの手は小さく、温かかった。
タオルで背中を滑らせるたびに、ルートの身体から強張りが少しずつ解けていく。
「ルート……」
背後でタオルを動かしながら、ミナモがぽつりと呟いた。
「この都市のルール……私、分かっていて着いてきたけれど……やっぱり、ううん、すごく怖かった。もしルートが負けていたらって考えると……」
「ミナモ……」
「でもね、ルート。私は絶対に後悔なんてしてない。ルートが私を命がけで守ってくれていること、……伝わっているから。だから……私も、何があってもルートを信じる」
ミナモの声は細く震えていたが、そこには確かな覚悟が宿っていた。この狂った都市の残酷さを知っているからこそ、自分を守り抜いてくれたルートへの感謝と絆が深く刻まれているのだ。
ルートは前を向いたまま、ぎゅっと自分の膝の上で拳を握りしめた。
「……絶対、負けない。まずは勝ち進んで金を手に入れて。ミナモを『闘神区』に連れていって、治す手段を手に入れるんだ」
「うん……ルート……ありがとう」
ミナモはタオルを桶に落とすと、背後からルートの首にそっと両腕を回し、その背中に小さく顔を寄せた。
二人は薄暗い部屋の中で、言葉以上に強い信頼で結ばれていた。
ミナモの柔らかく、甘い匂い。壊れてしまいそうな儚い愛おしさ。
ルートはミナモの腕をそっと撫でながら、胸の奥で静かに、そして狂気的なまでに強い誓いを立てていた。
(俺は勝ち続けるよ。ミナモ。)
タオルの温もりで身体の汚れを拭き取り終えた頃には、夜はすっかり深まっていた。
部屋の窓の外からは、闘神都市の歓楽街が発する怪しい魔導光の残光と、遠くで響く酔客たちの喧騒がかすかに聞こえてくる。だが、『月光亭』の小さな一室だけは、世界の終わりから取り残されたように静まり返っていた。
ベッドは2つあった。
宿の部屋に置かれた、1つでは2人で横になるには少し小さすぎる木製のベッドだ。
「ルート……一緒に、横になって?」
ベッドの上に腰掛けたミナモが、不安そうにルートの袖を引っ張った。
一人で寝るのが怖いのだ。今日一日の恐怖と、いつ襲ってくるか分からない敗北という影が、彼女の心を苛み続けているようだった。
「うん………いいよ」
ルートは服を着直し、ミナモの隣へと横たわった。
ギシ、と古いベッドのマットレスが音を立てる。
狭いベッドの中で、二人の身体が自然と密着した。ミナモはルートの胸元にすっぽりと頭をうずめ、彼の服をぎゅっと指先で掴んでいる。
「ルート……あったかい」
「ミナモも……あたたかいよ」
ルートはミナモの身体を包み込むように、掛け布団を上から引き上げた。
少年の腕の中にある、あまりにも小さく、儚い命。
明日、闇市で無事に薬を購入できれば、まずはひと安心できる。
だが、この命を最後まで守り切るためには、自分はこれからも血みどろのリングへと上がり続けなければならないのだ。
ルートはミナモの細い肩を抱きしめた。
「おやすみ、ミナモ」
「おやすみなさい……ルート。……。」
ミナモのかすかな囁き声が、部屋の静寂の中に溶けていく。
やがて、彼女の規則正しい小さな寝息が聞こえ始めた。ルートを信頼しきった、安心しきった寝顔。
ルートはその寝顔を暗闇の中でじっと見つめながら、右手の拳を強く握りしめた。
明日手に入るはずの薬。
左ポケットの中にあるガザックの黒鉄の腕輪。
そして、自分の手に残る死闘の感触。
(二回戦も……絶対に勝つ。ミナモのために)
少年の青い瞳は、暗闇の中でも決して光を失うことなく、静かに、そして苛烈に燃え続けていた。
夜の静寂が、二人を優しく包み込んでいく。
明日訪れる闇市での出来事、そしてさらなる試練の前の、あまりにも短く、あまりにも愛おしい安らぎの刻(とき)が、ゆっくりと過ぎていった。