とある日
夜の帳がコパンドンCITYを静かに包み込んでいた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った大通りを、イサミはひとり、小さなランプの温かな灯りを頼りに歩いていた。背中にはいつもの巨大リュックがどっしりと鎮座している。
イサミが向かっているのは、コパンドンCITYの東区——いわゆる高級冒険者街と呼ばれるエリアだった。
街灯が規則正しく並び、警備の兵士が巡回するこの一角には、コパンドンCITYが誇るSランク・Aランクの巨大クランたちが本拠地(クランホーム)を構えている。
その中でも一際目を引く、白亜の石造りの豪奢な4階建ての館。
正面には大剣と盾を象った立派なエンブレムが掲げられている。
コパンドンCITYの最大大手クランの一つ——『黒獅子の盾』本部ホームだ。
時刻は既に深夜1時を回っている。
周囲の建物や商店の灯りはことごとく消えているというのに、この『黒獅子の盾』の1階事務所の窓だけは、まるで呪われたように煌々と明かりが漏れ出していた。
イサミは白亜の館を見上げ、フッと小さく溜息をついた。
(……やれやれ。予想はしていましたが、相変わらずのブラック環境ですねぇ。労働基準なんて概念は、この世界の巨大クランには存在しないようです)
イサミは身なりを整えると、裏口の脇にある業務用の勝手口へと回り込み、コンコン、と控えめに扉を叩いた。
「……はい……どなた、ですか……?」
内側から返ってきたのは、鈴を転がすような美声……だが、今にも消えてしまいそうなほど掠れた、弱々しい女性の声だった。
ガチャリと鍵が開かれ、重い木製ドアが少しだけ開く。
隙間から顔を覗かせたのは、20歳の女性——エリスだった。
艶やかな栗色の髪を後ろで一つに結び、かつてはビシッと着こなしていたであろう『黒獅子の盾』の受付制服を纏っている。
だが、その顔立ちは——あまりにも痛々しかった。
肌の血色は真っ白を通り越して土色。
その美しい瞳の周囲には、まるで隈取(くまどり)でもしたかのような深々と青黒いクマが刻まれている。
呼吸は浅く、今にもその場に膝から倒れ伏してしまいそうなほど疲弊しきっていた。
「……あら……? イサミ、くん……?」
エリスの焦点の合わない瞳が、イサミの姿を捉えた。
「やぁやぁ、エリスお姉さん! 夜遅くにすみません、歩く道具屋のイサミです〜!」
イサミはお茶目に手を振ると、すかさず隙間からぬるりと滑り込み、背中の巨大リュックを床にドサリと下ろした。
「い、イサミくん……どうしてこんな時間に……? 今日の受付業務はもう終わって……ううん、明日の朝の分書類整理がまだ山積みで……あはは、私、何言ってるんだろ……」
エリスは力なく笑おうとしたが、その身体がグラリと大きく揺れた。
「おっと! 危険ですよ〜っ!」
イサミは素早く手を伸ばし、倒れそうになったエリスの華奢な肩をしっかりと支えた。
手に伝わるのは、信じられないほどの軽さと、冷え切った体温。
(……ふむ。体力の限界に対して、現在の疲労率は98%といったところですか。あと2、3日この過酷な労働を続ければ、過労死か精神崩壊……確実に死線を越えますねぇ)
イサミは冷徹に状況を分析しながらも、表情は最高に愛嬌のある「心優しい心配性の少年」へと完璧に切り替えた。
「エリスお姉さん! だめですよ〜、こんなになるまで無理しちゃ! 僕が持ってきたスペシャル栄養ドリンクと、焼き立てのポカポカ肉まんを食べましょう!」
「え……? でも私、仕事が……」
「仕事より命です! はい、座って座って!」
イサミはエリスを無理やり事務所の応接ソファへと座らせると、リュックから手際よくポカポカと湯気を立てる肉まんと、自作の高級栄養ポーション(特製ハーブティーブレンド)を取り出した。
「はい、どうぞ! 旅の道具屋からの、夜食の差し入れです!」
香ばしい肉の香りと、甘く温かい薬草の香りが事務所内に広がる。
エリスはボケっとした頭でそれを見つめていたが、胃袋が限界を告げる音を立てると、吸い寄せられるように肉まんにかぶりついた。
「はふ……っ、美味しい……っ! すごく温かい……っ」
「ふふ、良かったです〜! ドリンクも飲んでくださいね、魔力と体力がじわぁっと回復しますから!」
エリスは促されるままドリンクを飲み干した。
特製ポーションの効果で、彼女の青黒かった顔色に、ほんのりと赤みが戻ってくる。
「……ふぅ……。ありがとう、イサミくん……。私、今日の昼から何も食べてなくて……生き返ったわ……」
エリスはソファの背もたれに深く体重を預け、心底ほっとしたような溜息をついた。
「本当に……イサミくんは……。前にポーションを売ってくれた時もそうだけど、どうしてそんなに私に良くしてくれるの……?」
エリスの紫色の瞳が、かろうじて生気を取り戻し、イサミをじっと見つめた。
イサミはニコッと可愛らしく微笑むと、エリスの向かいの椅子を引き抜き、チョコンと腰掛けた。
その瞳の奥で、ソロバンの珠がチャリ……と静かに音を立てる。
(……よし。栄養補給によって最低限の思考能力を取り戻させつつ、極限状態の精神的隙間(弱み)を突く……『交渉』のベストタイミングです)
「エリスお姉さん。今日はね、ただの差し入れに来たわけじゃないんですよ?」
「え……? 差し入れじゃないの……?」
イサミは膝の上で手を組み、お茶目な笑みをスッと引っ込め、真摯でどこか切なさを含んだ表情を作ってみせた。
「エリスお姉さんを……引き抜きに来ました」
「……え……? ひ……引き抜き……?」
エリスはポカンと口を開けた。言葉の意味が頭に浸透するまでに、数秒の時間を要した。
「引き抜きって……私を……? どこに……?」
「僕たちの……いえ、近々立ち上がる新しい小さなクランの『支配人(管理人)』としてです!」
イサミは堂々と胸を張った。
「エリスお姉さん。正直に言いますね。この『黒獅子の盾』の受付業務……あなたを人間として扱っていません。幹部たちの我儘、冒険者たちの身勝手なクレーム、終わりのない書類仕事……。このままここにいたら、お姉さん、本当に死んじゃいますよ?」
「死んじゃう……」
「はい! 死んじゃいます! 冗談抜きで、あと数日で倒れてそのまま起き上がれなくなります! 僕の商人としての眼は誤魔化せません!」
イサミは立ち上がり、エリスの手をキュッと両手で包み込んだ。
「そんなの……僕、絶対に嫌です! こんなに優しくて、仕事ができて、美しいエリスお姉さんが、こんなブラックな場所で使い潰されて死んじゃうなんて……絶対に許せません!」
(情に訴えかける(人中術)。人間の精神が限界を迎えている時、最も効果的なのは『自分を正当に評価し、本気で心配してくれる存在』の提示です)
「イサミ…くん……」
エリスの瞳に、ポロポロと大きな涙が溢れ出した。
今まで、誰も自分の苦労を労ってなどくれなかった。
幹部たちは「代わりはいくらでもいる」「受付の分際で」と怒鳴り散らし、冒険者たちは無理難題を押し付けるだけ。
そんな泥沼のような日々の中で、この15歳(自称)の可愛い道具屋の少年だけが、自分の限界を完璧に見抜き、こうして夜中に本気で心配して駆けつけてくれたのだ。
エリスの心が、激しく揺れ動く。
「私……私だって……もう嫌……っ。毎日毎日、寝る時間もなくて、怒鳴られて……っ! でも……でもね、イサミくん……」
エリスは涙を拭いながら、力無く首を振った。
「……私、ここを辞めるなんてできないわ……。だって……新しいクランって……給与とか、待遇はどうなの……? 私はこのクランから出るわけには……」
イサミの冷徹な思考回路が、エリスの懸念を瞬時に弾き出した。
(ふむ。『転職の現実的リスク』に対する不安ですね。ここが最大の山場です)
イサミは包み隠さず、あえて「厳しい現実」をストレートに突きつけた。
「エリスお姉さん。嘘をついても意味がないので、本当のことを言いますね」
イサミは真っ直ぐにエリスの目を見つめた。
「新しいクランホームは、今ちょうどクロエさんたちが資金を溜めて買おうとしている段階です。……つまり、現時点では給与の保証はまだできません」
「え……?」
「それだけじゃありません。最初は専属のスタッフもいません。お姉さん一人で、小さな古民家ホームの管理や事務を一から組み立ててもらうことになります。……実績も、大手のような安定も、今の僕たちには何一つありません!」
エリスは驚きに目を見開いた。
普通、引き抜き交渉といえば「今より高い給与」「良い条件」を提示するものだ。
それなのに、イサミは「給与の保証なし」「人手もなし」と、全く魅力的ではない条件を堂々と口にしたのだから。
「イサミくん……それじゃあ、私……生活が……」
「ですが!!」
イサミは言葉を強めた。
「給料はすぐには出せませんが、食費と住居(ホームの一室)は完全に保証します! 僕が美味しいご飯と、最高品質のポーションを毎日提供します! 睡眠時間だって、最低8時間は絶対に保障します!」
イサミはニカッと、少年らしい眩しい笑顔を弾けさせた。
「何より……ここにはない**『自由』と『尊重』**が、あっちにはあります! みんなエリスお姉さんのことが大好きです! 誰もお姉さんを怒鳴ったり、使い潰したりしません! 僕たちが大きくなれば、お姉さんの給与だって大手の幹部並みに支払ってみせます!」
「……っ!」
「死にそうになりながら他人のために書類を打つ毎日と……貧しいけれど、温かい仲間と一緒に夢を見る毎日。……エリスお姉さん、どちらが本当の『あなたの人生』ですか?」
イサミの言葉が、エリスの胸の奥深く、一番柔らかい部分を強く撃ち抜いた。
食費と住み込みの部屋の保証。
温かい食事と、たっぷりの睡眠。
そして何より、自分を必要とし、愛してくれる仲間たちの存在。
それは、今の『黒獅子の盾』でどれだけ金を稼ごうが(実際はすずめの涙ほどの手当しか出ていないが)、絶対に手に入らない、喉から手が出るほど欲しい「幸福」だった。
「……あ……」
エリスの口から、掠れた吐息が漏れる。
(……行きたい……っ! イサミくんのところへ行きたい……! こんな地獄みたいな場所を捨てて、あの温かい場所へ行きたい……っ!)
エリスの心が、完全に「引き抜き」へと傾いた。
しかし——
長年、組織の「奴隷」として思考を縛り付けられてきた恐怖と呪縛が、土壇場でエリスの手足をすくませた。
(でも……私がいなくなったら、この事務所の書類はどうなるの……? 幹部の人たちにバレたら、何をされるか分からない……。急に辞めるなんて、そんな度胸、私にある……?)
震える手で自分のスカートをキュッと握りしめるエリス。
イサミはその心理的な葛藤を、完璧に察知していた。
(ふふ……焦らせてはいけませんね。人間、追い詰められた土壇場では『保留』という選択肢を与えることで、より確実に『変化への決断』を熟成させることができます)
イサミはスッと立ち上がると、エリスの手を優しく離し、自分の巨大リュックをひょいと担ぎ直した。
「……今日は、ここまでにしましょう!」
「え……? イサミくん………?」
エリスが驚いて顔を上げる。
「今すぐ答えを出さなくて大丈夫です! エリスお姉さん、頭も体も疲れていて、正常な判断ができない状態ですからね」
イサミはお茶目に片目を瞑ってみせた。
「だから……**『考えてみて』**ください」
「……考えて……?」
「はい! あと3日だけ、考えてみてください。僕たちが無事にホームの購入資金を溜め合算し、鍵を手に入れるまでの3日間……。その間に、自分の心が本当に望んでいる答えを出してください」
イサミはポケットから、小さな「通信用の魔導呼び出し鈴」を取り出し、エリスの手にそっと握らせた。
「決心が触れたら、あるいは限界だと思ったら、いつでもこの鈴を鳴らしてください。僕がいつでも、夜中でも、あなたを泥沼から救い出しに飛んできますから!」
「イサミ……くん……」
エリスは握りしめた鈴の温もりを感じながら、溢れる涙をぽろぽろと零した。
「……ありがとう……。本当に……ありがとう……。私……ちゃんと考えさせて……。イサミくんの言葉……ちゃんと、考えるから……っ」
「はい! 期待して待っていますね、エリスお姉さん♪」
イサミは最高に愛嬌のある笑顔を残すと、勝手口の扉を開け、夜の静寂の中へとスッと姿を消していったのだった。
◆
白亜の館を離れ、夜風が吹き抜ける大通りを歩くイサミ。
その顔から、「心優しい少年」の表情が消え去り、月光に照らされた瞳には、冷徹で完璧な「勝利の計算」が宿っていた。
(ふふふ……! 完璧です……! 完璧すぎるプロセス(手はず)ですよ!)
イサミは手帳を取り出し、ペンで軽快にチェックを入れた。
(極限状態での栄養補給と精神的ケアによる依存度の最大化。現状の悪環境(ブラック)と、理想の未来の提示。給与保証なしというリスクをあえて開示することで『誠実さ』を演出し、土壇場で『考えさせて』と保留させることで、自発的な決断(呪縛からの脱却)を促す……!)
イサミの頭の中で、ソロバンの珠が爽快な音を立てて弾けた。
(エリスお姉さんは、あの圧倒的な事務処理能力と包容力、そして僕に対する深い恩義と信頼。彼女を僕たちの『支配人』として据えることができれば、今後のクラン経営の自動化は完成します!)
「くすっ……。クロエさんたちがホームの資金を稼ぎ終わるのと、エリスお姉さんが限界を迎えて鈴を鳴らすの……どちらが先でしょうかねぇ?」
夜空に浮かぶ満月を見上げながら、歩く道具屋イサミは、お茶目に、そしてどこまでも腹黒く口角を吊り上げるのだった。