コパンドンCITYを包む夜明けの霧は、薄桃色の朝焼けに溶けながら、静かに街の輪郭を浮き彫りにしていった。
中央広場を見下ろす大通りの一角。開店準備を始める露店の木組みの音や、石畳を叩く早起きな冒険者たちの靴音が響き始める中、イサミは宿屋の小さなベランダに佇んでいた。
瞳の下には、ほとんど眠っていないことを物語るうっすらとした影があったが、その表情には疲れの色どころか、冴え渡る研ぎ澄まされた知性が宿っていた。
手元の手帳には、びっしりと真新しい数字と図表が書き込まれている。
朝日を浴びながら、イサミの細い指先がソロバンの珠をパチ……パチ……と、規則正しい音を立てて弾いた。
(……睡眠時間は約一時間二十分。脳のパフォーマンスとしては八割五分といったところですが、計算に狂いはありませんねぇ)
イサミは手帳を閉じ、胸ポケットへ滑り込ませた。
昨夜、公園で崩れ落ちたエリスを極秘裏に高級宿屋へ匿い、スープを飲ませて眠らせるまでの経緯を脳内で反芻する。
彼女の極限状態——そして、イサミが与えた「辞める」という甘い毒が彼女の限界を前倒しにしてしまったという自身の失策。
(いや〜、本当に勉強になりました。人間の精神力は、極限状態になればなるほど、提示された『逃げ道』の甘さに比例して急激に脆弱化する……。今後のリスクマネジメントの変数として、しっかりと記憶しておかなければなりません)
イサミはお茶目に自嘲の笑みを浮かべたが、その瞳の奥にあるソロバンの珠は、すでに次の「最適解」を弾き出していた。
問題は、今朝の動きだ。
エリスを救い出し、自分たちの拠点となる「クランホーム」を獲得する。そのために不足している資金は金貨1.3枚。
イサミ個人の懐から出資(立て替え)すること自体は、何の問題もない。すでに決断したことだ。
だが——ここに、商人イサミとして絶対に譲れない**「一線」**が存在していた。
(僕が直接不動産屋へ出向き、僕の名義や僕の主導で物件を選んで契約してしまっては……ダメなんです)
イサミは顎に指を当て、静かに思考を深める。
(このプロジェクトの本質は、あくまで『クロエさんとココさんが主役のクラン設立』です。二人が自分たちの意思で悩み、自分たちの足で歩き、自分たちの手で鍵を勝ち取ったという【当事者意識】と【所有権の感覚】を持たせなければならない)
もし、イサミが万事を先回りして「家を買っておきましたよ〜♪」と鍵をポンと手渡してしまえばどうなるか?
二人はイサミを「頼れる仲間
の商人」ではなく、「一種のパトロン」として認識してしまうだろう。
そうなれば、彼女たちの精神的成長は止まり、イサミ自身も「対等なビジネスパートナー(ゲスト)」という心地よいポジションから押し出され、クランの責任者という面倒な泥船に引きずり込まれてしまう。
(僕はあくまで『歩く道具屋』……自由な外部サポートであり、都合の良いゲストでい続けなければなりませんからねぇ♪ 二人に『自分たちの城なんだ』という強い主体性を持ってもらうことが、巡り巡って僕の立ち位置と利益を守ることになるんです)
結論は出た。
イサミは背中の巨大リュックのベルトをキュッと締め直すと、爽やかな笑顔を仮面のように貼り直し、クロエとココが泊まる宿屋のロビーへと向かった。
「ふぁぁぁあ……。おはよ、イサミ……。朝早くから呼び出すなんて、一体どうしたのよ……?」
宿屋の一階食堂。眠たい目を擦りながら降りてきたのは、真っ赤な髪を寝癖で少し跳ねさせたクロエだった。
その隣では、大きな魔法帽を深くかぶり、今にも倒れそうな様子で船を漕いでいるココが、うとうとと首を揺らしている。
二人は昨日、Cランク上位の「岩鎧熊(アーマーベア)」との死闘を制し、人生最高額の報酬を手に入れたばかりだ。激戦の疲労と、大金を手に入れた興奮で、昨夜は遅くまで将来の夢を語り合っていたのだろう。
「やぁやぁ! クロエさん、ココさん! お二人とも、とっても可愛らしい寝顔……じゃなくて、爽やかなお目覚めですねぇ♪」
「適当なお世辞はいいわよバカ……。で? こんな朝一番から何の用? まさかもう今日のクエストの仕込み?」
クロエがテーブルの椅子を引き、どっかりと腰を下ろす。
イサミはニカッと眩しい笑顔を浮かべると、ポケットからずっしりと重い皮袋を取り出し、硬貨を取り出すとテーブルの中央へ『スッ……』と置いた。
チャリン、と硬質で気品のある金属音が響く。
「……え?」
クロエの目が一瞬で丸くなった。ココもハッと目を覚まし、帽子を持ち上げてテーブルを見つめる。
朝日を反射して眩い黄金の輝きを放つのは、間違いなくギルド発行の純金貨——それも**【金貨2枚(大銀貨20枚/約20万円相当)】**だ。
「なっ……! ちょっとイサミ!? これ……金貨2枚!? なんで!?」
「ふふふ。僕の個人的な蓄え(手元資金)ですよ〜♪」
イサミは両手を広げ、お茶目に首を傾げてみせた。
「クロエさん、ココさん。単刀直入に申し上げます。本日の予定を変更し……今すぐ、お二人で不動産屋へ行って、『クランホーム』を契約してきてください!」
「「えええええええええっっっ!?!?」」
二人の絶叫が、誰もいない朝の食堂に響き渡った。
「け、契約って……ちょっと待ってよイサミ!」
クロエが身を乗り出し、テーブルをバンッと叩いた。
「あたしたちの今の貯金は、昨日の岩鎧熊の報酬を合わせても『金貨3.7枚』よ!? 目標の金貨5枚まで、あと金貨1.3枚足りないじゃない! 今日もう一回高難度クエストを受けて、稼ぎ切ってから買う予定だったでしょ!?」
「うんうんっ! 私、今日も魔法撃つ準備してきたよ!?」
ココもぶんぶんと首を振る。
そんな二人に対し、イサミは人差し指をチチチと振って見せた。
「甘い! 甘いですよお二人とも! 商機(チャンス)というのは、熟すのを待っていたら他の誰かに横取りされてしまうものなんです!」
イサミは真顔を作り、二人の瞳をまっすぐに見つめた。
「実はですねぇ……僕が昨日から目を付けていた東区の極上物件——日当たり抜群、二階建て、庭付き、地下に防音仕様の作業部屋(書斎)があるという、お二人の夢を完璧に叶える格安物件(金貨5枚)に、別のパーティから内覧の申し込みが入ってしまったという情報を掴んだんです!」
「「っ!?」」
(もちろん、完全に僕の作った嘘(ハラフェイク)ですが♪)と、イサミは心の中でソロバンを弾く。
「今日、クエストに行って夕方に帰ってきた頃には、その物件は売れてしまっているかもしれません。ですが、今すぐ手付金と購入全額を支払えば……今日からその家はお二人のものになります!」
「で、でも……お金が足りないのは事実で……」
クロエが戸惑いながら、テーブルの上の金貨2枚を見つめた。
「だからこそ、です!」
イサミは胸を張った。
「不足している金貨1.3枚……そして、念のための予備費(家具の購入費や手続きの手数料)として金貨0.7枚、合わせて**【金貨2枚】を、僕からお2人にお渡しします!」
「イサミが……あたしたちに……!?」
「ええ! 昨日の戦闘で理解できたでしょう? お二人にはもう、金貨2枚や3枚をいつでも稼ぎ出せるだけの実力とポテンシャルがあります。僕にとって、この立て替えはリスクゼロの超安全な先行投資なんですよ〜っ♪」
イサミは革袋を、クロエの手にキュッと握らせた。
「ですから……クロエさん、ココさん。二人で不動産屋へ行き、自分たちの目と耳で確かめて、二人が一番『ここが私たちの家だ!』と思える場所を選んできてください」
「イサミさんは……一緒に来ないの……?」
ココが不安そうに首をかしげた。
イサミは一瞬だけ瞳を柔らかく細め、首を振った。
「ええ。僕が一緒に行くと、ついつい商人の癖で値切り交渉や条件面で口を出してしまい、お二人の『本当の好み』を邪魔しちゃいますからねぇ。あの家は、これからメンバーが増えるとしても。クロエさんとココさんの……これからの『二人が代表の城』なんです。二人が納得して選ぶことに、意味があるんですよ」
イサミの言葉には、嘘偽りのない誠実さがこもっていた。
クロエは手の中のズシリと重い革袋を見つめ、それからココと顔を見合わせた。
二人の瞳から不安が消え、熱い決意と未来への希望がフツフツと湧き上がってくるのが見えた。
「……分かったわ」
クロエは力強く革袋を握りしめた。
「イサミ。あんたの好意、ありがたく受け取るわ! 必ず、あたしたちが最高の家を見つけて、契約してくる! 帰ってきたら……真っ先にあんたを案内してあげるからね!」
「うんっ! 私、日当たりのいい書斎部屋がある家、絶対見つけてくるねっ!」
「ふふふ、期待して待っていますよ〜っ! それじゃあ、いってらっしゃいませ!」
元気に宿屋を飛び出していく二人の後ろ姿を、イサミは見送った。
二人が角を曲がり、姿が見えなくなった瞬間。
イサミの顔から無邪気な少年スマイルが消え、冷徹で計算高い商人の顔が戻ってきた。
(よし……これで【主役二人の所有権と当事者意識】の担保は完了です。二人が自分たちの意思で家を選び、契約書にサインする。これで僕は見事なまでに『出資者兼ゲスト』という安全地帯を確保できました)
イサミはソロバンの珠をパチリと弾いた。
(さて……それじゃあ僕も、今朝のメインイベントに取り掛かるとしましょうか)
イサミはくるりと背を向け、街道の陰へと歩き出した。
向かうは——過労で倒れたエリスが待つ、極秘の高級宿屋だ。
♢
「あ……イサミくん……」
高級宿屋の最上階の一室。
温かいスープを食べ、清潔なベッドで数時間ほどの泥のような眠りを貪っていたエリスは、イサミが部屋に入ってくると、ハッと体を起こした。
昨日までの、ボロボロで生気のなかった表情に、ほんの少しだけ血色が戻っている。
だが、その瞳には依然として大きな不安と、これから行う「ある決断」への恐怖が揺れていた。
「やぁやぁ、エリスお姉さん。顔色が少し良くなりましたねぇ」
イサミは丸椅子を引き、エリスのベッド脇に腰掛けた。
「昨日の約束通り、クロエさんとココさんは今朝一番で不動産屋へ向かいました。今日中には、僕たちの新しい『クランホーム』の鍵が手に入りますよ」
「本当……に……?」
エリスの手が、シーツをギュッと握りしめた。
「ええ。ですので……次はお姉さんの番です」
イサミは懐から、一裁ちの綺麗な羊皮紙と、インク瓶を取り出し、小さなテーブルの上へ置いた。
そこには、流麗な文字でしっかりと書き込まれた書類——**『クラン退団および事務職辞任届』**と書かれた公式文書があった。
それを見た瞬間、エリスの身体が小さく跳ねた。
「……退団……届……」
「ええ。『黒獅子の盾』を正式に去るための書類です。これをこれから、クラン本部へ提出しに行きます」
「っ……!」
エリスの喉がヒックと鳴った。
大手クラン『黒獅子の盾』。
そこは、彼女が数年間、青春と体力を削り捧げてきた場所だ。
どれほどブラックに働かされ、理不尽に怒鳴られ、人間扱いされなかったとしても、一度刻まれた「組織への恐怖」と「執着」は、そう簡単に拭い去れるものではない。
「こ、怖い……よ……っ。クラン長に何を言われるか……『恩知らず』って怒鳴られて、ギルドに手を回されて……冒険者協会から追放されるんじゃないかって……」
エリスの肩がガタガタと震え出す。
組織の恐怖支配(マインドコントロール)の毒は、それほどまでに深く根を張っていた。
イサミはそんなエリスの震える手の上に、そっと自分の温かい手を重ねた。
「大丈夫ですよ、エリスお姉さん。一人で行けとは言っていません。僕が……『歩く道具屋』イサミが、同行しますから」
「イサミくんが……?」
「ええ。ですが……勘違いしないでくださいね?」
イサミの瞳が、妖しく、そして絶対に揺らぐことのない強固な光を放った。
「僕が代わりにあやまるわけでも、穏便に済ませるために頭を下げるわけでもありません。手続きは法とギルド規約に則り、完璧に、冷酷に処理します。引き止めなど、一切認めさせません」
イサミはエリスの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「エリスお姉さん。こういう手続き関係を、多少揉めてでもちゃんとしておくこと……それが、この厳しい冒険者社会で**『長生きするための最大の秘訣』**なんですよ〜?」
「揉めてでも……ちゃんとしておく……?」
「そうです」
イサミは指を立てた。
「うやむやに逃げ出せば、相手は『裏切り者だ』『損害賠償だ』と言って、後からいくらでも言いがかりをつけてきます。追撃の口実を与えてしまうんです。ですが……公式な手続きを踏み、法的に一切の瑕疵(不備)がない状態で退団届を叩きつければ、相手は手出しができません。ギルドの後ろ盾もこちらにつきます」
イサミはお茶目に微笑んだ。
「後くされを完璧に絶つこと。それが、次に進む人間が手にする最高の『防具』なんです。……さあ、ペンを持ってください。お姉さんの意思で、サインを」
エリスは息を呑み、イサミから差し出されたペンを受け取った。
手の震えは、まだ止まらない。
だが……イサミの放つ絶対的な自信と論理の光が、彼女の胸の奥にある「恐怖」を押し溶かしていく。
(そうだ……私は、もう奴隷じゃない……! イサミくんが……新しい居場所を用意してくれたんだ……!)
エリスは歯を喰いしばり、羊皮紙の最下部へ、自身の署名をしっかりと書き走らせた。
『エリス・フォン・ミルフィユ』
カリカリと音を立てて刻まれたその署名は、彼女が過酷な過去と別れを告げる、最初の一歩だった。
「完璧です!」
イサミは乾いた書類を丁寧に折りたたみ、胸ポケットへ舞い込ませた。
「それでは……参りましょうか。『黒獅子の盾』本部へ!」
♢
コパンドンCITYの高級冒険者街に構える、大手クラン『黒獅子の盾』の豪華な本部ビル。
普段なら、大勢の冒険者や商人たちが行き交い、活気に満ちているはずのロビーは、今朝に限って恐ろしいほどの重苦しい空気に包まれていた。
「おい……エリスの奴はどこ行った!?」
「受付の書類が山積みだぞ! 今日のCランククエストの発注書はどうなってんだ!」
「おい、誰か帳簿読める奴はいねえのか!?」
怒号が飛び交う受付カウンター。
たった一人で全ての事務、帳簿管理、クエスト受発注、素材の買取計算をこなしていた「エリス」という過労死寸前の歯車が一つ抜けただけで、この大手クランの機能は完全に麻痺していた。
その混乱の渦中へ——
ギィ……と、分厚いオーク材の正面扉が開いた。
光を背にして入ってきたのは、背中に巨大なリュックを背負った少年イサミ。
そして……その少し後ろで、しっかりと背筋を伸ばして歩く、元・受付嬢エリスの姿だった。
「あ……! エリス……!?」
「おい! エリスが戻ってきたぞ!!」
ロビーにいたクラン員たちが一斉にざわめいた。
カウンターの奥から、ドスン、ドスンと重い足音を立てて現れたのは、『黒獅子の盾』のクラン長である大男——バーンズだ。
身の丈二メートルを超える巨体に、豪奢な鎧を纏ったBランク冒険者。その顔は怒りで真っ赤に染まっていた。
「エリス!! てめえ、昨日の夜からどこで油売ってやがった!!」
バーンズの怒声がロビー全体に響き渡り、天井のシャンデリアが小刻みに震えた。
「連絡もなく穴をあけやがって! おかげで今朝のクエスト手配が全部めちゃくちゃだぞ! 自分がどれだけクランに迷惑をかけてるか分かってんのかこの給料泥棒が!!」
威圧感に、エリスの身体が一瞬だけすくんだ。
だが——彼女の前に、すっと小さな影が割り込んだ。
「やぁやぁ! お邪魔しております〜っ! 『黒獅子の盾』の皆様、今朝も活気があって素晴らしいですねぇ♪」
場の空気に一切そぐわない、軽快で爽やかな声。
巨大なリュックを背負ったイサミが、ソロバンをチャリ……と鳴らしながら、バーンズの前に立ち塞がった。
「なんだてめえは!? ガキが、すっこんでろ! 今はエリスのお説教の最中だ!」
バーンズが殺気を剥き出しにしてイサミを睨みつける。
だが、イサミの笑みは一ミリも崩れない。
その瞳の奥にあるソロバンの珠が、冷たく、妖しく明滅した。
「おやおや、お説教ですか? ですが、それは『雇用関係』が成立している間だけの特権ですよ〜?」
イサミは胸ポケットから、先ほどエリスが署名した一枚の羊皮紙を取り出し、パッとバーンズの目の前で広げた。
「こちらは、エリス・フォン・ミルフィユさんの正式な**『退団および辞任届』**です。本日、いまこの瞬間をもって、彼女はおたくのクランを辞めさせていただきます♪」
「……は……?」
ロビー全体が、しん……と静まり返った。
バーンズの顔が、驚きから徐々に激毒の赤へと変わっていく。
「ふ、ふざけるな……っ! 辞めるだぁ!? 勝手な真似ができると思ってんのか!! エリス! てめえ、うちのクランがいくらかけて育ててやったと思ってんだ! 途中で投げ出すなら損害賠償を払ってもらうぞ! ギルドに通報して冒険者ライセンスを剥奪してやる!!」
怒狂うバーンズ。
並の駆け出し冒険者なら、その威圧だけで腰を抜かすところだ。
だが——イサミは、くすっと可愛らしく笑った。
「損害賠償? ギルド通報? ふふふ、どうぞどうぞ! ……ふふっ、最近労働者にも優しい社会になってますよねぇ〜……?むしろこちらからギルドの『労働管理委員会』へ不服申し立てを行いましょうか〜?」
イサミはリュックのサイドポケットから、分厚い二冊目の手帳を取り出し、バシッと開いた。
「ここに記されているのは、エリスお姉さんが過去三日間にわたって記録していた『業務日誌』および『勤務時間証明』の写しです」
イサミの通る声が、ロビー全体へと響き渡る。
「平均睡眠時間:1時間45分。直近一ヶ月の連続勤務日数:31日。基本給与の未払いおよび残業手当の未払いが計金貨4枚相当。さらに、クラン長であるあなたからの言語的暴力(モラハラ)の言動記録が、計42件!」
「な……なに……!?」
バーンズの顔から血の気が引いた。
「冒険者ギルドの規定第12条第4項におきまして、『著しい人権侵害および過酷な労働環境が認められた場合、団員は即時の無条件退団権を有する』と明記されております。これを不服としてギルドに訴え出るのはご自由ですが……その場合、おたくのクランは『Cランク以上の営業停止処分』および『未払い給与の即時一括返済』が命じられますが、よろしいですか〜?」
「ぐ……ぐぬぬぬぬ……っ!!」
バーンズの巨大な拳が、ミシミシと音を立てて震える。
言葉が出ない。イサミの提示した論理と突きつけられた法的な証拠は、ぐうの音も出ないほど完璧だった。
ロビーにいた他のクラン員たちも、顔を見合わせ、引きつった表情を浮かべている。
イサミはお茶目にソロバンの珠を弾いた。
「さて! そこでご提案です!」
イサミはニコッと満面の笑みを向けた。
「エリスお姉さんは、過去の未払い給与金貨4枚の請求を『全て放棄』します。その代わり、あなた方はこの退団届を今すぐ受理し、今後一切、彼女および彼女の新しい所属先に干渉しないという【誓約書】にサインする。……これなら、お互いに損害ゼロのWIN-WINですねぇ♪」
「っ……! ふざけ……ふざけるな……っ!! エリスがいなくなったら、うちの事務はどうなるんだよ!!」
バーンズが悲鳴のような怒号を上げた。
イサミは冷たい瞳で、バーンズを見下ろした。
「それは……あなた方が、優秀な人間を大切に扱わなかった自己責任ですよ」
その一言は、氷のように冷たく、ロビー全体を射抜いた。
「さあ。ギルドの裁判所でクランの全財産を失うか……今ここで誓約書にサインして穏やかに終わらせるか。……選んでください」
イサミはペンを差し出した。
バーンズは歯が折れるほど噛み締め、悔し涙を浮かべながら、奪い取るようにペンをひったくった。
そして、ガタガタと震える手で誓約書にサインを叩きつけた。
「……出て行けっ!! 二度とツラ見せるな!!」
「毎度あり〜っ! 完璧な取引、ありがとうございました♪」
イサミはサイン済みの誓約書を回収し、胸ポケットへ丁寧に仕舞い込んだ。
そして、固まっていたエリスの肩をそっと抱きよせた。
「行きましょうか、エリスお姉さん。お掃除の時間です!」
「あ……うん……っ! はいっ!!」
エリスの返声は、澄み切った秋の空のように、どこまでも高く、晴れやかに響き渡ったのだった。
♢
『黒獅子の盾』の本部ビルを出ると、外は眩しいほどの午後の陽光に包まれていた。
「ふぅ……。終わりましたねぇ」
イサミは両手を広げ、大きく背伸ばしをした。
隣を歩くエリスは、信じられないというように自分の手を見つめていた。
数年間、自分を縛り続けていた重く冷たい鎖が、跡形もなく消え去っている。
「私……本当に……辞められたんだ……。あの地獄から……抜け出せたんだ……っ」
エリスの目から、ぽろぽろと涙が溢れ出た。
だが、それはもう恐怖の涙ではない。光に満ちた、自由の歓喜だった。
「イサミくん……ありがとう……っ! ありがとう……っ!!」
エリスは涙を拭いながら、何度も何度もイサミに頭を下げた。
イサミは優しく微笑み、首を振った。
「お礼なら、これから作っていく僕たちの新しい『ホーム』で返してください。これからは、過労死するような働き方ではなく……適正な労働と、適正な報酬、そして美味しいご飯が待っていますからねぇ♪」
「うん……! うんっ!! 私、何でもするよ……っ!」
その時——
「イサミ〜〜〜〜っっっ!!!!」
遠く街道の向こうから、元気いっぱいの呼び声が響いてきた。
振り向くと、走ってくる二つの影があった。
真っ赤な髪をなびかせたクロエと、大きな魔法帽を被ったココだ!
二人とも息をハァハァと切らせながら、顔を真っ赤にして駆け寄ってくる。
「イサミ! やったわよ! やったのよ!!」
クロエが弾けるような笑顔で、手に持った黄金の鍵を掲げて見せた!
「不動産屋に行って、一番良い物件を買ってきたわ! 日当たり最高で、2階建てで、裏庭があって……地下にココの調合部屋もある、最高の家よ!!」
「イサミちゃん! 私たちの家だよ! 私たちの『クランホーム』が手に入ったんだよ〜っ!」
ココもピョンピョンと跳ねながら、嬉しそうに叫んだ。
「おやおや! それは素晴らしい!」
イサミは手を叩いて喜んだ。
(ふふふ……二人とも、本当に誇らしげで良い顔をしていますねぇ。これで『所有権と当事者意識』の植え付けは完璧です)
そこで、クロエがふとイサミの隣に立つエリスに気づいた。
「あれ……? イサミ、その綺麗な人は……?」
イサミはお茶目に胸を張り、二人に向かってエリスを紹介した。
「クロエさん、ココさん! 紹介します! 今朝『黒獅子の盾』から正式に引き抜いて参りました、僕たちの新しいクランの初代・専属支配人(管理人)——エリスお姉さんですっ!」
「「えええええええええっっっ!?」」
驚愕するクロエとココ。
エリスは少し照れくさそうに、だが晴れやかな笑顔で深々と頭を下げた。
「はじめまして! エリス・フォン・ミルフィユです! 今日から、皆さんのホームの管理や帳簿、ギルドの手続きを全力でサポートさせていただきます! よろしくお願いしますね!」
「す、すごーいっ! こんな綺麗で優秀そうな事務員さんまでいるの〜!?」
ココが目を輝かせる。
クロエも驚きつつ、すぐにニカッと頼もしい笑顔を浮かべた。
「へへっ、歓迎するわ、エリス! あたしたち、まだまだ駆け出しだけど……これから最高のクランにしていくからね!」
「はいっ!」
澄み渡る秋の空の下、四人の笑い声が心地よく溶け合っていく。
過労死寸前だった受付嬢の救出。
出資による立ち位置の確保。
そして、少女たちが自らの手で掴み取った夢のマイホーム。
イサミの脳内で、ソロバンの珠がパチ……と、最高の利益を告げる音を立てた。
(さあ……先行投資は完了しました。これからが本格的な『収穫期』の始まりですねぇ♪)
歩く道具屋イサミと、その仲間たちの新しい物語が、いま新居の扉とともに大きく開かれようとしていた。