冒険者の朝は早い。
高級冒険者街に差し込む柔らかい朝陽が、新築の木の香りが残るクランホーム『陽だまりの翼』の白い外壁を優しく照らしていた。
二階の寝室から降りてきたクロエは、豪快に両腕を頭上に伸ばしながら「ふぁあぁ……」と大きな欠伸を漏らした。
鮮やかな赤い髪が朝の光を浴びて、まるで炎のように揺らめく。
「ん〜っ! やっぱり自分の家で寝る朝ってサイコーね! 宿屋の硬いベッドとは段違いだわ」
「クロエちゃん、朝から元気すぎる〜……。私はまだ眠いよ〜……」
クロエの後ろから、目をこすりながらトコトコとついてくるのは、天才魔法使いの少女ココだ。
大きめのナイトウェアの裾を引きずりそうになりながら、ココはリビングのソファーにふにゃりと倒れ込んだ。
だが、そんな二人の鼻腔を、香ばしいパンの焼きあがる匂いと、炒めたハーブと肉の旨味が溶け出した極上の香りがくすぐる。
「あ、クロエさん、ココちゃん。おはようございます! ちょうど朝食ができましたよ」
厨房から顔を出したのは、銀髪を後ろで一つに束ねたエリスだった。エプロン姿の彼女は、昨夜までの疲弊し切った様子が嘘のように、晴れやかな笑顔を浮かべている。
そして、そのエリスの後ろから、おずおずと、けれど背筋をピンと伸ばした少女が姿を現した。
あてがわれたクロエの予備の服は少々サイズが大きいものの、透き通るような白銀の髪と、アメジストのように美しく輝く紫の瞳。
洗いたての肌は陶器のように滑らかで、どれほど古びた服を着ていようと隠しきれない、本物の名門貴族——オルデンブルク家の気品が漂っていた。
「お……おはようございます、クロエ様、ココ様。……昨夜は、大変見苦しい姿をお見せしてしまいましたこと、お詫び申し上げますわ」
両手を膝の前で揃え、完璧な角度でおじぎをするメルティ。
「メルティちゃん! すごい、すっかり綺麗になって! 髪の毛サラサラじゃん!」
「ほんとだ〜、お姫様みたい〜」
ココが目を輝かせて駆け寄ると、メルティは少し照れたようにアメジストの瞳を泳がせた。
「ひゃあ……っ、お、お姫様などと……っ! 今の私めは、イサミ様と皆様に命と尊厳を救っていただいた、ただの身寄りのない居候……いえ、専属事務員でございますわ。どうぞ『メルティ』とお呼び捨てくださいませ」
「固い固い! あたしたちは仲間なんだから、そんな畏まらなくていいって! さ、ご飯ご飯!」
クロエが笑いながらメルティの肩を叩き、全員で大きな食卓を囲む。
朝早くにやってきた、イサミもいつの間にかリビングの隅でソロバンを弾きながら、お茶を啜っていた。
「やぁやぁ、皆さんおはようございます〜♪ 今日の朝食もエリスお姉さんの特製スープですねぇ。利益率と栄養価のバランスが完璧ですよ」
「もう、イサミくんったら食事の時まで損得勘定なんだから」
エリスがクスクスと笑い、賑やかな朝食が始まった。
メルティは上品にスプーンを運びつつも、一口食べるたびに「……美味しい……っ」と涙ぐみ、エリスとココに温かく見守られていた。
◆
食後、お茶を飲み終えて一息ついたところで、エリスの表情がキュッと引き締まった。
「さて……クロエさん、ココちゃん。早速なのですが、クランホームの『支配人補佐』として、お二人に本日のクエストのご相談があります」
「おお、来たわね! 待ってました!」
クロエが身を乗り出す。ココも目を目を丸くしてエリスを見つめた。
エリスは整頓された羊皮紙の束をテーブルの上に広げた。そこには、冒険者ギルドから引き抜いてきた本日分のクエスト依頼書が、完璧な難易度別・報酬別に分類されて並べられていた。
「現在の我がクランの財政状況ですが……イサミくんからの初期出資によってホームの獲得と基本備品の揃え付けは完了しています。しかし、毎月の固定維持費、食費、そして今後の装備拡充やメルティさんの雇有手当を考慮すると……正直に言って、手元資金には全く余裕がありません」
「うぐっ……相変わらず現実的な突きつけ方ね……」
クロエが冷や汗をかく。
「そこでです。今までのようにお二人が『余裕を持って達成できるD〜Cランクの下位クエスト』ばかりを受けていては、日銭稼ぎで終わってしまいます。クランとして大きく飛躍し、稼ぐためには……リスクを取りつつも、圧倒的に利益率の高いクエストに挑戦していただく必要があります」
エリスは束の中から、一枚の依頼書をスッと差し出した。
『【Cランク上位指定クエスト】コパンドン東部・魔の森外縁部における「アース・ベア」および「毒棘蜥蜴(ポイズン・リザード)」の討伐、ならびに希少ハーブ「月光草」の採取』
「アース・ベア……! Cランクモンスターの中でもトップクラスの怪力と耐久力を持つやつじゃない!」
クロエが目を輝かせる。
「報酬は、討伐部位の買い取りを含めて金貨3枚。さらに月光草の採取量に応じてボーナスがつきます。今までのクエストに比べて破格の報酬です。もちろん、相応の危険が伴います」
「いいじゃない!! 」
クロエは大剣の柄を叩き、ニヤリと不敵に笑った。
「ココ、ここは2人でいけるわよね!?」
「うんっ! 新しい杖の実験もしたかったし、がっぽり稼いでお肉いっぱい食べよう!」
「ふふ、頼もしいです。ですが無茶は禁物ですよ? イサミくんからポーションや特別製の煙幕弾を仕入れてありますから、危険を感じたらすぐに撤退してくださいね」
「分かってるわよ! よーし、早速ギルドで受注して出かけてくるわ!」
クロエとココは勢いよく立ち上がると、戦闘装備を整えに二階へと駆け上がっていった。
その様子を見送りながら、イサミはソロバンをパチパチと叩き、満足そうに頷いた。
「ふふ、素晴らしい判断ですね〜、エリスお姉さん。Cランク上位クエストの攻略実績ができれば、ギルド内での我がクランの評価点(ランクスコア)も跳ね上がります。これは実に筋の良い投資です!」
「ええ。ですが……イサミくん。実は、このクエストはただの稼ぎではありません」
エリスが少し声を潜め、知的な瞳を妖しく光らせた。
「……本命は、別にあるのですね?」
イサミがニヤリと笑う。
「はい。実は今朝一番で、冒険者ギルドの幹部ルートから『極秘の大口依頼』の打診が届きました。依頼主は……コパンドンCITYでも指折りの大貴族、ヴァルシュタイン家です」
「貴族……! お金の匂いがプンプンしますねぇ!」
「報酬はなんと、成功報酬だけで金貨50枚。さらに今後の優先納品契約付きです」
「「ご、金貨50枚……!?」」
部屋の隅で静かに待機していたメルティが、思わず息を呑んで声を上げた。
金貨50枚といえば、一般的なCランク冒険者が数年間必死に働いて稼ぐ額であり、小さな商会なら一つ買えてしまうほどの巨額である。
「ただし」と、エリスは表情を曇らせた。
「その分、条件が極めて厳しいのです。内容は『貴族の令嬢が患っている原因不明の奇病を治すための、極めて特殊な魔物素材と古代遺跡の薬草の調達』。そして……依頼を受注できるのは『ギルドランクB以上』、または『実績と信頼性が担保された注目のクラン』限定となっています」
「なるほど……。だからクロエさんたちに、今すぐCランク上位クエストを成功させて『実績』を作ってもらう必要があったわけですね」
「そういうことです。今日中にクロエさんたちがアース・ベアを討伐して帰ってくれば、私がその実績を持ってギルド長と伯爵家の代理人に交渉へ向かいます。今夜までに、この金貨50枚の大口依頼を我がクランで独占受注する……! これが私の本日の『仕事』です」
エリスの完璧な戦略と先回りした立ち回りに、イサミは思わず手を叩いた。
「拍手! パチパチパチ! いやぁ、素晴らしい! さすがは元・大手クランの凄腕事務員さんです! 僕が手を出すまでもありませんねぇ!」
「ふふ、イサミくんに褒めてもらえると嬉しいです。……さあ、クロエさんたちが発つ前に、契約書類の最終確認と準備を終わらせてしまいましょう」
「あ、あの……っ!」
そこへ、おずおずとメルティが手を挙げた。
「エリス様、イサミ様……。私めにも、何かお手伝いをさせていただけないでしょうか……? タダでご飯をいただき、このような快適な場所に置かせていただいておきながら、手をこまねいているなど……オルデンブルク家の名が廃りますわっ!」
背筋をピんと伸ばし、切実なアメジストの瞳で訴えかけてくるメルティ。
エリスは優しく微笑むと、テーブルの上に山積みになっていた『過去3年分のコパンドンCITY市場価格推移表』と『ギルドの複雑な契約約款』の束を指差した。
「メルティさん。実は、この伯爵家との交渉にあたって、一つ大きな課題があるんです。貴族様側が提示してきている契約書には、貴族様特有の『法的罠』や、市場価格からかけ離れた『不当な割引条項』が巧妙に仕込まれている可能性が高いのです。私は冒険者ギルドの規約には詳しいですが、貴族様間の高度な法務や裏の外交文書には疎くて……」
それを聞いた瞬間——。
メルティのアメジストの瞳に、ギラリとした圧倒的な「知の光」が宿った。
今までの飢えに震えていた小動物のような姿は消え去り、そこには幼少期から英才教育を叩き込まれた、名門貴族の令嬢としての圧倒的なオーラが立ち昇っていた。
「……貴族の外交文書における『法的罠』、でございますね?」
メルティはすっと背筋を伸ばし、両手を胸の前で組むと、格調高いお嬢様口調で淀みなく語り始めた。
「貴族が下々の者や外部組織と契約を結ぶ際、必ずと言っていいほど使用する不当条項パターンは主に三つございます。第一に『不可抗力条項の恣意的な拡大適用による報酬減額』。第二に『納品物の品質鑑定権の独占による不合格判定の連発』。そして第三に『成功報酬の支払期日を「次回会計年度」まで先延ばしにする延滞トラップ』でございますわ」
エリスとイサミが、同時に目を見開いた。
「……っ! メルティさん、あなた……」
「エリス様。その貴族からの仮契約書案を見せていただけますでしょうか? オルデンブルク家に伝わる帝王学と法務知識……すべてを以て、その不当条項をあぶり出し、逆にこちらに圧倒的に有利な『絶対契約』へと書き換えてみせますわ!」
言葉と同時に、メルティは机の上の書類の山へ向かって美しく着席した。
その姿はまさに、戦場に向かう指揮官そのものであった。
◆
「いってきまーす!」
「行ってくるね〜!」
午前中。武装を整えたクロエとココが、元気にクランホームを飛び出していった。
イサミも「買い出しと情報収集に行ってきます〜♪」と巨大リュックを背負って街へ繰り出し、リビングにはエリスとメルティの二人が残された。
「……では、メルティさん。こちらの貴族様からの打診書と、過去の類似事例の書類ですが——」
「拝見いたしますわ」
メルティは羽ペンを手に取り、眼鏡(エリスが貸した予備のもの)をかけると、猛烈な勢いで書類に目を走らせ始めた。
カリカリカリカリ……っ!
部屋の中に、羽ペンが紙を滑る軽快で鋭い音だけが響き渡る。
その集中力、そして書類を読み解くスピードは、エリスの想像を遥かに超えていた。
(す……すごい……! ページを繰る手が止まらない……!?)
エリスは息をのんでメルティの横顔を見つめた。
普通なら内容を理解するだけで数時間はかかる難解な貴族ラテン語の法律文書を、メルティはまるで絵本でも読むかのような速度で精読していく。しかも、ただ読むだけではない。
「……ふふっ、やはりありましたわね」
メルティはクスリと可憐に笑うと、羽ペンの先で特定の条項を赤インクで激しく囲んだ。
「エリス様、こちらをご覧くださいませ第14条第3項。『納品された素材の純度が当家お抱えの鑑定士の定める基準に達しない場合、報酬は半額とする』……これは完全な罠でございますわ。お抱え鑑定士の主観一つで、いくらでも報酬を削られてしまいます」
「っ……! 本当だわ……! 私、見落としていました……!」
「さらにこちら、第22条。『本依頼により得られた副産物および討伐部位の権利は、すべて当家に帰属する』……名目上は『奇病の薬草調達』ですが、アース・ベアやポイズン・リザードの希少部位は、闇市で金貨10枚以上で取引される超高級素材ですわ。これをタダで巻き上げようという腹づもりでございます」
メルティは次々と、巧妙に隠された不当条項を指摘し、修正案を余白に書き込んでいく。
「……メルティさん、あなた……すごいですね……!」
エリスは思わず本音を漏らした。
エリス自身、大手クラン『黒獅子の盾』で何百件もの事務や契約を一人でこなしてきた超優秀な事務員である。
だが、メルティの持つ『貴族社会の裏の裏まで知り尽くした法務・外交能力』は、エリスの専門外の領域を見事に補完していた。
「エリス様にお褒めいただけるなんて、光栄でございますわ……っ」
メルティはアメジストの瞳を潤ませ、少し照れくさそうに微笑んだ。
「私めなど……一度は家を追われ、泥の中で死にかけた身。ですが、イサミ様が……あの温かいパンと、この『価値』を認めてくださった契約書を下さった……。私にできることなら、命を賭してでもイサミ様と皆様のお役に立ちたいのです……!」
メルティの手が、ぎゅっと胸元で握りしめられる。
「イサミ様は……私に『復讐の力』と『生きる尊厳』を下さった、私の生涯の救世主(ひかり)でございます。イサミ様が『このクランホームを巨大組織にする』とおっしゃるのなら……私めはオルデンブルク家のすべての知恵を絞り、このクランを世界一の財力を持つ組織へと押し上げてみせますわ……!」
その瞳に宿る、純粋で、どこまでも重厚な恩義と情熱。
エリスは一瞬、その強い想いに圧倒されそうになりながらも、心からの温かい親愛を込めてメルティの手を包み込んだ。
「ありがとう、メルティさん。……ふふ、イサミくんって、本当に不思議な人ですよね。私たちみたいな、どん底にいた人間を……こんなにも惹きつけてしまうんですから」
「ええ……っ! イサミ様は……世界で一番、素晴らしく、尊いお方でございますわ……!」
二人の美少女が、イサミへの深い信頼と愛着を共有し、絆を深めていく。
「さあ、メルティさん! 貴族様をギャフンと言わせる『最強のカウンター契約書』を完成させましょう!」
「はい、エリス様! 相手の足元を見て、逆に成功報酬を【金貨60枚】に引き上げさせる特約条項を盛り込みますわ!」
二人の優秀すぎる事務タッグによる、怒涛の契約書改訂作業が加速していった。
◆
一方、その頃——コパンドン東部の『魔の森外縁部』。
ドォォォォン!!
激しい打撃音が森に轟き、樹齢数百年を越える大木がドサリと倒れ伏した。
「グオォォォォンッ!!」
咆哮を上げたのは、体長4メートルを超える巨躯を誇る魔獣『アース・ベア』だ。
岩のように硬い岩石質の皮膚と、丸太のように太い前足を振り回し、立ち塞がる者を粉砕しようと暴れ狂っている。
「ははっ! さすがCランク上位、いいパワーしてるじゃない!」
その破壊的な一撃を、真っ赤な髪の少女——クロエが身の丈ほどもある大剣の腹でガチリと受け止めていた。
ズズズ……と足元の大地が削れるが、クロエの足腰はピクリともブレない。昨夜、イサミと深く結ばれ、心身ともに愛で満たされた彼女の動きは、普段以上に冴え渡っていた。
「ココ! 足止め頼むわよ!」
「任せてクロエお姉ちゃん! イサミに買ってもらったこの新しい杖……すごい魔力効率なんだから!」
後方に控えるココが、イサミから支給された最高級の魔導杖を掲げた。杖の先端に埋め込まれた青い魔石が眩い光を放つ。
「駆け巡る氷の精霊よ、その足を凍てつかせよ!!」
ココが呪文を唱え終えた瞬間、アース・ベアの足元から巨大な氷の結晶が爆発的に発生し、その太い両足を完璧に凍りつかせた。
「グオっ!?」
「ナイス、ココ! 隙だらけよ!!」
クロエが大地を強く蹴った。
真っ赤な髪を風になびかせ、鋭い踏み込みとともにアース・ベアの懐へと滑り込む。
大剣の身に、イサミから購入した『魔力付与オイル(爆炎)』が塗布されている。クロエが気合いと共に大剣を振り抜いた。
「ハァァァァッ!! !」
ズバァァァァンッ!!
爆炎を伴う一閃が、アース・ベアの硬い首元を鮮やかに断ち切った。
巨獣は悲鳴をあげる暇もなく、どさりと大地に倒れ伏し、動かなくなった。
「ふぅ……! 討伐完了ね!」
クロエは大剣を背中に担ぎ直し、爽やかな汗を拭った。
「すごーい! クロエお姉ちゃん、一撃だよ!」
「ココのサポートが完璧だったからよ! さ、次はポイズン・リザードの狩場に行って、月光草を回収するわよ! エリスとメルティが待ってるんだから、サクッと終わらせてご馳走食べなきゃ!」
二人は抜群の連携で、次々と高難易度の獲物を狩り集めていくのだった。
◆
夕暮れ時。
コパンドンCITYの高級冒険者街に位置するクランホーム『陽だまりの翼』のリビングには、完璧な戦果と成果が揃い踏みしていた。
「ただいま〜! 言われた獲物、全部狩ってきたわよ!」
血を綺麗に拭い去り、誇らしげに巨大な素材袋をどさりと置くクロエとココ。
「お帰りなさい、お二人とも! 素晴らしい成果です!」
エリスが二人を温かく出迎え、冷たいお茶を差し出す。
そして、リビングのテーブルの上には、二枚の羊皮紙が並べられていた。
一つは、クロエとココが持ち帰った『Cランク上位クエスト完全達成証明書』。
そしてもう一つは——。
「ふふ…見事なものですねぇ……」
イサミがソロバンを弾きながら、うっとりとその羊皮紙を見つめていた。
それは、メルティとエリスが一日かけて完成させた『ヴァルシュタイン家向け・極秘大口依頼受託契約書(改訂完全版)』であった。
そこには、貴族側が仕込んできた罠がすべて解体された上で、逆に『陽だまりの翼』側に圧倒的に有利な条件——成功報酬・金貨60枚、前払い金・金貨10枚、討伐副産物の完全所有権が盛り込まれていた。
「メルティさん……あなた、本当に凄いわね。ギルドの審査官も、この契約書を見た瞬間『完璧すぎてぐうの音も出ない』って白旗を上げていたわよ」
クロエが感嘆の声を上げると、メルティは少し照れたようにアメジストの瞳を伏せ、背筋をピンと伸ばした。
「い……いいえっ! 私など……エリス様のご指導と、イサミ様が下さったこの機会があったからこそでございますわ……! 私の知識など、イサミ様のお役に立てて初めて価値を持つもの……っ」
メルティはイサミに向かって深くおじぎをした。
「イサミ様……! 明日、この契約書を持って伯爵家の代理人と最終交渉に臨みます。必ずや、金貨60枚の大口案件を勝ち取ってみせますわ!」
イサミは満足そうにソロバンをパチリと弾くと、ニヤリと不敵に笑った。
「ええ、期待していますよ、メルティ様。我がクランホームの『最優秀頭脳』として……存分にその腕を振るってください」
「は、はいっ……! イサミ様……っ!!」
イサミに認められ、名前を呼ばれただけで、メルティの白銀の頬がポッと赤く染まる。アメジストの瞳には、愛おしさと尊崇の情がなみなみと溢れていた。
それを見たクロエは、呆れたように、けれどどこか嬉しそうにクスッと笑った。
(……ふふ、やっぱりね。メルティも、もうすっかりイサミにメロメロじゃない)
クロエはそっとイサミの隣に寄り添い、誰にも気づかれないように彼の腰をツンツンと突いた。
(あんた、罪な男ね。……でも、良いわ。みんなでこの家を大きくして、全員で幸せになりましょう)
「さあ! 今夜はお祝いよ! エリス、メルティ、ご馳走作りを手伝うわ!」
「はい! 今夜は奮発して肉料理にしましょうね!」
「わーい! お肉お肉〜!」
夕闇が迫るコパンドンCITYの中、灯りがともるクランホーム『陽だまりの翼』からは、賑やかで温かい笑い声がいつまでも響き渡っていた。
金貨60枚の大口依頼、そしてメルティの復讐とクランの大躍進に向けた足音が、確実に近づいていた。