コパンドンCITYの夜は深い。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った大通りを、イサミはひとり、小さなランタンの温かな灯りを頼りに歩いていた。背中にはいつもの巨大リュックがどっしりと鎮座している。
夜風が少しだけ肌寒く、イサミは首元をキュッとすぼめた。
(……ふぅ。久しぶりにガッツさんとルーシーさんの依頼に同行しましたけど……やっぱりあの二人は相変わらずですねぇ)
イサミは苦笑いを浮かべながら、今日の昼間から夕方にかけての出来事を思い出していた。
イサミの本業は『歩く道具屋』だ。
クロエのクランホームの立ち上げや内政で多忙を極めていたここ最近だったが、今日は久しぶりに、お得意様であるBランク冒険者パーティ——巨漢の重戦士ガッツと、しなやかな体躯を持つ後衛弓闘士ルーシーの二人の討伐クエストに「専属商人兼ポーション補給役」として同行していたのだった。
二人ともBランクの実力者だけあって、魔物の討伐自体は極めて順調、かつ完璧だった。
ガッツの大剣が一閃すれば巨大な魔獣が破砕され、ルーシーの放つ精密な矢が遠方の隙を逃さず射抜く。
イサミが口を挟む隙もないほど洗練された連携だったのだが……問題は、戦闘と戦闘の間の「休憩時間」だった。
『んぁ……っ、ガッツ、ダメぇ……っ! 商人の坊やがすぐ近くにいるのよ……っ!?』
『ハハッ! いいじゃねえかルーシー! あいつはビジネスライクな奴だ、俺たちの「情事」にいちいち興味なんか持ちやしねえよ! ほら、足開け……!』
『んっ……あん……っ! も、もう……バカガッツ……っ! んはぁぁっ……♡』
薄暗い洞窟の陰、あるいは身を隠した草むらの奥から響いてくる、ルーシーの艶めかしく甘い嬌声と、肉体と肉体が激しくぶつかり合う情烈な音。
普段のイサミであれば、そんな声を聞いても「やれやれ、相変わらず盛りがついていますねぇ。まあポーションの消費が増えるなら商売繁盛ですが」と、完全に感情を無にしてソロバンを弾くか、商品の在庫チェックに没頭していたはずだった。
だが——今日のイサミは、違っていた。
(……可笑しいですね。いつもなら何とも思わないのに……)
脳裏に、あの時のルーシーの湿り気を帯びた喘ぎ声と、甘く熟した女の匂いが不意に蘇り、イサミの下腹部に熱い塊がズキリと疼く。
理由なら、分かっていた。
先日、クロエと初めて身体を重ね、彼女の情熱的な愛を全身で受け止めたこと。
そして昨夜は、名門貴族の令嬢であるメルティを救い出し、彼女からの溢れんばかりの崇拝と愛情を浴びたこと。
今まで「商人としての損得」だけで生きてきたイサミの心と身体の中に、男としての「性徴」と「欲望」の種が芽吹き、急速に開花し始めていたのだ。
他人の行為の気配と嬌声を聞いて、素直に身体が反応してしまった。
自分でも驚くほど、下半身が熱く、ムラムラと焦れるような欲情に支配されている。
(……いけませんね。これでは商人の面目丸潰れです)
イサミはふぅっと息を吐き出し、火照る顔を冷ますように夜風を吸い込んだ。
本来なら、このまま自分が借りている宿屋へ直行し、冷たい水でもかぶって寝てしまうのが正解だろう。
だが、足は無意識のうちに、高級冒険者街——自分が出資して立ち上げたクロエたちのクランホームへと向かっていた。
(……今日持ち帰った素材の概算見積もりと、明日エリスお姉さんが貴族の代理人と行う最終交渉の控え書類……一応、ホームのポストに入れておくか、リビングに置いておきましょう)
自分に言い訳をつくりながら、イサミはクランホームの門を潜った。
◆
カチャリ……。
重厚なオーク材の玄関扉をそっと開ける。
すでに時刻は深夜。新築の木の香りがほのかに漂う広いホールとリビングは、しんと静まり返っていた。
「……皆さん、流石にもう寝ていますよね」
ポツリと呟き、イサミはつま先立ちで静かにリビングへと足を踏み入れた。
日中は賑やかな声が飛び交う大きな食卓も、ふかふかのソファーも、今は薄暗闇の中で静かに佇んでいる。
クロエも、ココも、そして昨夜加入したばかりのメルティも、二階の寝室で泥のように眠っているのだろう。
今日一日のハードなクエストとデスクワークを思えば当然のことだ。
イサミはリュックから書類の束を取り出し、リビングの大きな中央テーブルの上にそっと置いた。
「さて……書類も置きましたし、あまり長居して皆さんの邪魔をしても悪いですからね。宿へ帰りましょう——」
そう言って身を翻し、玄関へと戻ろうとした、その時だった。
ギィ……と、二階へと続く階段がかすかな音を立てた。
「……あら? 誰かいるのですか……?」
上から降りてきたのは、柔らかい常夜灯の灯りを手にした人物だった。
ゆるやかに束ねられた銀髪が、ランタンの光を受けて優しく煌めく。
薄手のネグリジェの上に、羽織ものを一枚重ねた姿。包容力に満ちた柔らかな面立ちと、豊満な胸のライン——エリスだった。
「あ……エリスお姉さん。起こしてしまいましたか?」
イサミが声をひそめて尋ねると、エリスはパチクリと丸い瞳をまたたかせ、それから心底ほっとしたような、極上の笑みを浮かべた。
「イサミくん……! よかった、あなただったのね。二階で書類の整理をしていたら、下に気配がしたから……もしかして泥棒かとヒヤヒヤしてしまいましたよ」
「はは、すみません。深夜に忍び込むような真似をしてしまって。ガッツさんたちの依頼から戻ったので、明日の交渉用書類を置きに来ただけなんです。すぐに出ていきますから——」
「もう、何を言っているのですか」
エリスは階段をトコトコと降りてくると、イサミのすぐ目の前で立ち止まり、呆れたように、けれどどこまでも優しく微笑んだ。
「ここはイサミくんの『ホーム』でもあるのですよ? 自分の家に帰ってきて、すぐに遠慮して出ていこうとするなんて……冷たいではありませんか」
「いえ、でも……僕はゲスト出資者ですから」
「ふふ、相変わらずそういうところだけ頑固なんですから」
エリスはランタンをテーブルの上に置くと、丁寧にお茶を淹れる準備を始めた。
流れるような無駄のない動作。元・大手クランで長年鍛え上げられた気配りと、彼女自身が持つ根っからの「お母さん」のような包容力が、静かな部屋を満たしていく。
「ちょうど私も、メルティさんと作った契約書の最終チェックが終わって一息つこうと思っていたところなんです。せっかくですから、少しお茶でも飲んでいってくださいな。冷たい夜風を浴びてきたのでしょう?」
「……ありがとうございます、エリスお姉さん」
そう言われてしまっては、断る理由はなかった。
イサミはソファーに腰を下ろし、リュックを足元に置いた。
香ばしいハーブティーの香りがリビングに広がり、エリスが二つのカップを運んでくる。
対面のソファーではなく、エリスは当たり前のようにイサミのすぐ隣に腰掛けた。
「はい、どうぞ。温まりますよ」
「いただきます……ん、美味しいです。やっぱりエリスお姉さんの淹れるお茶は最高ですね」
「ふふ、お口に合ってよかったです」
エリスは胸元に手を当て、嬉しそうに目を細めた。
それから二人は、今日あった出来事を静かに語り合った。
メルティが昼間に発揮した驚異的な貴族法務の知識のこと。
それによってヴァルシュタイン家からの打診書に潜んでいた罠を完璧に排除し、逆に成功報酬を金貨60枚へと引き上げる無敵のカウンター契約書が完成したこと。クロエとココがアース・ベアを見事討伐し、無事に帰還して今は二階で爆睡していること——。
「本当に、メルティさんには驚かされました。あんなに可愛らしくて大人しい子なのに、書類を前にした瞬間、まるで戦場の指揮官のようになるのですから」
「ふふ、名門貴族の英才教育は伊達ではないということですねぇ。これで明日の交渉は勝ち確定です」
「ええ。すべては、あの極限状態のメルティさんを見つけ出し、救い出してくれたイサミくんのおかげですよ」
エリスは温かい眼差しでイサミを見つめた。
「メルティさんも……そして私も。みんな、イサミくんに救われて、ここでこうして温かい朝と夜を迎えることができているんです。……本当に、感謝してもしきれません」
「……そんな、僕はただ、自分の利益になると思って動いただけですよ」
イサミは照れくさそうに視線を泳がせ、ハーブティーを一口啜った。
だが——。
会話がひと段落し、部屋に再び静寂が訪れた時、エリスの知的な瞳が小さく細められた。
(……あれ?)
エリスは、イサミの横顔をじっと見つめた。
イサミはいつも通り、どこか飄々とした笑みを浮かべている。
しかし……距離が近いからこそ、気づく違和感があった。
イサミの吐息が、普段よりもほんの少しだけ荒く、熱を帯びている。
首元や耳たぶが、うっすらと赤く染まっている。
そして何より……イサミの視線が、時折泳ぐようにエリスの胸元や太ももへ向かい、慌てて逸らされていることに。
エリスは包容力溢れる苦労人であり、大人の女性だ。
伊達にブラッククランで荒くれ者の冒険者たちをあしらってきたわけではない。
(イサミくん……熱があるのかしら? いえ……この目の泳ぎ方、耳の赤さ……それに、微かに漂う、この緊張した空気……)
エリスはピンと来た。
これは病気の熱ではない。もっと生々しく、青く、そして甘い——「男の子の熱」だ。
「……イサミくん?」
エリスはそっと声を落とし、イサミの顔を覗き込んだ。
「は、はい!? な、なんでしょうか、エリスお姉さん!?」
あからさまにビクッと肩を跳ねさせ、動揺を露わにするイサミ。
エリスはクスッと可愛らしく笑うと、すっと顔を近づけ、自らの額をイサミの額へそっと押し当てた。
「ふぁっ……!? え、エリスお姉さん……っ!?」
視界いっぱいに広がる、エリスの美しく優しい顔。
至近距離から注がれる、蕩けるような甘い瞳。
そして、額を通して伝わってくる、エリスの柔らかく温かい体温。
イサミの心臓が、ドクン!と跳ね上がった。
「……んー……。お熱があるわけではなさそうですね?」
エリスは額を離すと、イサミの動揺しきった瞳をじっと見つめ、どこまでも愛おしそうに、悪戯っぽく微笑んだ。
「……ねえ、イサミくん。今日、ガッツさんとルーシーさんのご依頼に同行されたと言っていましたね?」
「え……? あ、はい。それが何か——」
「ふふ……あの二人、討伐の最中や休憩中……少し『激しいこと』をしていませんでしたか?」
「〜〜〜〜っ!?」
図星を突かれたイサミの顔が、一瞬でリンゴのように真っ赤に染まった。
その反応を見た瞬間、エリスはすべての事情を理解した。
いつもは冷静沈着で、損得勘定と商人魂の塊のような可愛い年下の主が、大人の男女の生々しい情事の気配にあてられて、毒気にあてられたようにムラムラと欲情してしまっているのだと。
「……やっぱり」
エリスはクスクスと、母性溢れる温かな声を漏らした。
「可哀想に……。いつもなら聞き流せるのでしょうけれど、最近のイサミくんは……ふふ、色々と『大人』の階段を登り始めたところですものね。あんな声や気配を間近で聞かされたら、毒気が毒になって身体に残ってしまっても仕方ありませんわ」
「う………っ」
イサミは真っ赤になった顔を両手で覆い、ソファーの上で小さくなった。
商人としてのプライドもへったくれもない。完璧に見破られ、甘やかすような言葉を投げかけられ、恥ずかしさで消えてしまいたい気分だった。
「す、すみません……っ! 僕としたことが、そんな不純なことで……ッ! すぐに帰ります! 冷たい水でもかぶって頭を冷やしてきますから——」
イサミが逃げ出そうと立ち上がろうとした、その瞬間。
ぎゅっ。
柔らかく、包み込むような温もりが、イサミの背中から抱きついてきた。
「っ……!? エ、エリスお姉さん……!?」
エリスが、ソファーの上で立ち上がりかけたイサミの背中に、後ろから優しく抱き着いたのだ。
背中に押し当てられる、圧倒的な柔らかさと豊かな弾力。
首筋にかかる、エリスの甘く温かい吐息。
「ダメですよ、イサミくん。そんな身体のまま夜道に出て行かせるなんて……このクランホームの一員として、許せるはずがありません」
エリスはイサミの首元に腕を回し、耳元で優しく、囁くように囁いた。
「辛かったでしょう? 身体が火照って、ムラムラして……どうしようもなかったのでしょう?」
「あ……う……っ」
「いいのですよ、イサミくん。あなたはいつも、私たちのために無理をして、一人で全部抱え込もうとするのですから……」
エリスの手が、優しくイサミの胸元を撫で下ろし、真っ赤になった頬にそっと触れた。
「私に……思いっきり、甘えてくださいな?」
その言葉は、欲情と照れで破裂しそうだったイサミの心を、解きほぐすのに十分すぎるほど優しく、そして甘かった。