朝の光が、部屋の隙間から細い筋となって差し込んでいた。
コパンドンCITYの街並みに朝の静けさが残り、遠くで朝食の仕度をする煙の匂いや、鳥たちの囀りがかすかに聞こえてくる。
宿。
イサミは部屋の天井を、彼はただボケーッと見つめていた。
(……はぁ)
ゆっくりと身体を起こし、ベッドの縁に腰を下ろす。
昨日の夕方のような、ボロ泣きして取り乱すほどの激しい感情の波はもう去っていた。
商人として、起きてしまった損失をいつまでも引きずってメソメソ泣き喚くのが一番の「無駄」であることくらい、頭では重々理解している。
だが——。
「……金貨10枚、ですかぁ……」
ぽつりと漏れた呟きが、静かな室内に虚しく響いた。
あの命がけの死闘の中で、クロエや仲間たちの命を救うためだったとはいえ、自慢の特注道具袋を丸ごと爆破し、予備の高級粘着ネット弾を機関銃のように投げまくった代償。
頭の中でどれだけ弾き直しても、弾き出される損失額は「金貨10枚」。
ホーム自体は金貨60枚という破格の報酬が入ったとはいえ、手元に残る利益からその金額を差し引いた時の、あの商人としての身を削られるような切なさは、一朝一夕で癒えるものではなかった。
(まあ……命があったんだから安いものですし、クロエさんも無事。……分かってはいるんですけどねぇ)
イサミは力なく笑うと、再びベッドへゴロンと横になった。
今日は、なんだかダメな日だった。
普段なら朝一番に跳び起きて、街の市場へ出向いて珍しい素材の相場をチェックしたり、道具袋の資材の仕入れ交渉へ向かったりするはずなのだが、今日ばかりは一切のやる気が湧いてこない。
別に絶望しているわけでも、ふてくされているわけでもない。
ただ、張り詰めていた糸がふっと切れたような、そんな脱力感。
「よし……今日はもう、このままベッドでダラダラ過ごす日にしましょう」
イサミは毛布を頭からすっぽりと被り、大きな欠伸を噛み殺した。
誰に責められるわけでもない。
昨日の死闘の活躍を考えれば、一日くらい部屋に引きこもってぐうたらしていたところで、クランの誰も文句なんて言うはずがなかった。
午前中が過ぎ、太陽が天頂を通り過ぎていく。
そうして、うとうとと微睡みの中を漂うような時間を過ごし——。
気がつけば、窓の外はすっかり朱く染まっていた。
夕刻の黄昏色の光が部屋の中に落ち、影を長く伸ばしている。
「……んあ〜……。流石に寝すぎましたかね……」
イサミが目をこすりながら身体を起こし、ボサボサになった髪を指で整えていた、まさにその時だった。
トントン、と。
部屋の木製のドアが、軽やかなリズムで小さくノックされた。
「はーい! どなたですか〜? ドア開いてますよー!」
イサミはすぐさま「いつもの明るくチャラい商人」の声音を作り直し、ベッドから下りて声を張り上げた。
ガチャリ、と静かにドアが開く。
そこに立っていたのは——大きな魔法使いの帽子を胸元でぎゅっと抱きしめ、どこか恥ずかしそうにモジモジと佇んでいる、ココだった。
「あ、ココさん! どうしたんですか、そんなところで立ち尽くして?」
イサミはお茶目な笑顔を浮かべ、首をかしげた。
「あのね……イサミくん」
ココは夕陽に照らされた部屋の中へ一歩足を踏み入れると、抱きしめていた大きな帽子の中から、大事そうに何かを取り出した。
それは、大きな竹籠に丁寧に入れられた、まだほのかに温かい湯気を立てている焼き立ての甘いパンと、色鮮やかな山果実のジュース。そして——綺麗にリボンで結ばれた、小さな革製の巾着袋だった。
「これ……ココから、イサミくんへのお詫びと……お礼!」
ココは真っ赤な顔をして、両手でその竹籠をイサミの前へ突き出した。
「お詫びと……お礼……?」
イサミが目をパチパチさせると、ココはぎゅっと目を瞑り、一生懸命に言葉を紡ぎ始めた。
「昨日のバトルで……ココの魔法があんまり効かなくって、イサミくんにすっごい無理させちゃったでしょ? イサミくんの大事な道具袋も、いっぱいのお金も……ココが不甲斐なかったから、イサミくんが吹き飛ばさなきゃいけなくなっちゃったんだもん……」
「ココさん、そんな……!」
「ううん! 聞いて!」
ココはパッと目を開けると、大きな瞳で真っ直ぐにイサミを見つめた。
「だからね! 今日、市場に行って、ココが一番おいしいって思ってるパン屋さんの焼き立てパンを並んで買ってきたの! それと……この巾着袋の中身!」
イサミは言われるがまま、リボンをほどいて巾着袋の中身を手のひらにあけた。
ジャラッ……。
手のひらの上に落ちてきたのは、光を反射してキラキラと輝く、綺麗に磨かれた大小さまざまな『鉱石』と、ココがこれまでの冒険でコツコツと溜め込んでいたのであろう、数枚の銀貨と銅貨であった。
「ココね、あんまり難しいお金の計算とかは分からないけど……イサミくんが大事なアイテムをいっぱい失って、すごーく悲しんでたのは分かったから……! ココが持ってる一番綺麗な鉱石と、お金! イサミくんの新しい道具袋の足しにしてほしいの!」
「ココさん……っ」
イサミの手のひらの上で、夕陽を受けて輝く鉱石たち。
それらは金貨10枚という巨額の損失から見れば、決して届く金額ではないかもしれない。
だが、ココがイサミの悲しみを少しでも和らげようと、自分のできる精一杯の想いを詰め込んで持ってきてくれた、かけがえのない宝物であった。
「それにね……」
ココは照れくさそうにえへへと笑い、イサミの手をぎゅっと両手で包み込んだ。
「イサミくんがドカーンってやってくれたから……粘着ネットをいっぱい投げてくれたから、ココもクロエちゃんも、ムラサキちゃんも生きているんだよ。イサミくんは、ココたちの本当のヒーローなんだから!」
「……ヒーロー、ですか」
イサミは苦笑いを浮かべようとした。
だが、包み込まれたココの手の温もりと、その真っ直ぐな言葉が、胸の奥底の冷えていた部分をじんわりと温めていくのを感じていた。
「えへへ、そうだよ! 道具屋さんだけど、世界で1番かっこいいヒーロー!」
ココはニッコリと満面の笑みを咲かせると、竹籠を机の上へ置き、ポンポンとイサミの背中を叩いた。
「だからね、イサミくん! あんまり一人で悲しまないでね? ココたち、みーんなイサミくんのことが大好きなんだから!」
部屋を染める朱色の夕陽の中で、無邪気で温かい少女の笑顔が眩しく輝いていた。
イサミは手のひらの上の鉱石と銀貨をそっと巾着袋に戻し、それを胸元に大切にしまい込むと、いつものチャラくお茶目な、けれど心からの温かさを込めた笑顔を咲かせた。
「……降参です、ココさん。そんな素敵なプレゼントをもらっちゃったら、もうダラダラなんてしていられませんね」
「あ! 元気出た?」
「へへ、バッチリです! ココさんのパン、一緒に食べましょう! 僕、冷えたスープ温めてきますからね〜っ!」
「わーい! 食べる食べるー!」
少女の無邪気な歓声が、夕暮れの部屋に響き渡る。
「あ、それと……ね……」
竹籠を机の上に置き、一緒にスープを温めに行こうとイサミが腰を浮かせ掛けた、まさにその時だった。
ココが不意に足を止め、小さな声でポツリと呟いた。
夕陽の朱い光が差し込む静かな室内で、その声はどこか固く、緊張に震えているように聞こえた。
「ん? どうしました、ココさん? 何か忘れ物でも——」
イサミが振り返った瞬間、彼の思考は完全にフリーズした。
「コ……ココさん……ッ!? ななな、何をして……ッ!?」
イサミの叫び声が、喉の奥でひっくり返った。
ココは真っ赤な顔をして、耳の先から首筋までを果実のように熟れさせながら、両手で自分の上半身の衣服——旅装のケープと、その下に着ていた可愛らしいブラウスのボタンを、躊躇いもなくバサリと解除していたのだ。
ハラリと床へ落ちる布地。
夕陽の残光の中に露わになったのは、うっすらと赤みを帯びた、華奢で柔らかな少女の肌と、まだ膨らみ始めたばかりの小さく愛らしい胸元だった。
「ココさんッ!? 待っ、待ってくださいッ! なんで服を脱いで——ッ!?」
修羅場や死線を何度もくぐり抜けてきたイサミであったが、この想定外すぎる事態には、チャラい商人としての完璧な仮面も、冷徹な殺し屋としての思考回路も、一切合彩が吹き飛んでただただパニックに陥るしかなかった。
両手をかざして目を逸らそうとするイサミ。
だが——
「えいっ……!!」
「ぐおっ!?」
照れと緊張で破裂しそうな顔をしたココは、驚くほどの素早さでイサミの懐へと飛び込むと、彼の両腕をすり抜け、その首後ろへ力任せに小さな両腕を回した。
そのまま、ぎゅっ……と。
イサミの頭を、己の無防備な胸元へと抱き寄せたのだ。
「む、むぐっ……!? ココさんっ!?」
イサミの顔面が、ココの小さく柔らかな胸と、温かな肌の中に埋まる。
鼻腔をくすぐるのは、甘い山果実の香りと、お日様のような少女の体温、そしてドクドクと早鐘のように打っている彼女の小さな心臓の鼓動だった。
あまりにも密着した距離感と、ダイレクトに伝わってくる生身のぬくもりに、イサミの脳内は大爆発を起こしそうになる。
「こ、ココさん……っ! これ、あの……」
暴れようと思えば、いくらでもココの腕を振りほどく力はある。
だが、無防備な肌を露わにしている少女を乱暴に押しのけるわけにもいかず、イサミは身体をカチコチに硬直させたまま、慌てふためいて叫ぶことしかできない。
すると、頭上から——イサミの頭を力いっぱい抱きしめているココの、震える小さな声が落ちてきた。
「……ココね……小さいころ……見たことあるの……」
「え……?」
「お父さんがね……お仕事で失敗して……すごーく落ち込んで、悲しそうにしていたとき……」
ココはイサミの頭を撫でるように、その小さな手に力を込めた。
「お母さんがね……こうやって、お父さんの頭を胸にぎゅーって抱きしめて……『大丈夫だよ、頑張ったね』って、撫でてあげてたの……」
「……っ」
「そうするとね……お父さん、最初は泣いてたんだけど……最後は元気になって、またニコニコでお仕事に行けたの……!」
ココの鼓動が、イサミの耳元で激しく脈打っている。
恥ずかしさで死んでしまいそうなほど顔を真っ赤にしながら、それでも彼女は、一切の不純な下心もなく、ただ愚直に、ただ必死にイサミを慰めようとしていた。
「イサミくん……いっぱいお金なくなっちゃって……大事なアイテムもなくなっちゃって……すごーく悲しいでしょ……? ココ、難しいことは良く分からないけど……イサミくんに、元気になってほしいの……っ!」
胸元に押し当てられたイサミの耳に、ココの必死な声が直接響く。
「イサミくんは……頑張ったよ……っ! クロエちゃんも……ココも……みんなを助けてくれたんだもん……っ! だから……だからね……っ! ココの前では……我慢しないで、元気になって……っ!」
純粋無垢な、あまりにも真っ直ぐな想い。
イサミを励ましたい。悲しみを半分背負ってあげたい。
その一心だけで、少女は恥ずかしさを全て投げ打ち、昔見た母の真似をして、幼い全身全霊で少年を抱きしめていたのだ。
その必死で、あまりにも愛らしく、健気すぎる姿。
イサミの身体から、スーッと余計な力が抜けていった。
パニックになっていた頭が冷め、代わりに胸の奥底から込み上げてきたのは、呆れでも困惑でもなく——胸がギュッと締め付けられるような、愛おしさと温かさだった。
(……参りましたね)
イサミは心の中で、ぽつりと呟いた。
商人としての損失の計算も、正体を隠して戦った疲弊も、そんな冷たいものを全て溶かしてしまうほど、この小さなぬくもりは温かかった。
「……ココさん」
イサミは無理に暴れるのをやめ、固くなっていた身体の力を抜いた。
「……もう、十分ですよ」
「ふえ……?」
イサミはそっと両手を伸ばすと、ココの華奢な腰の後ろに回し、優しく抱き返した。胸元に顔を埋めたまま、小さな声でくすくすと笑い声を漏らす。
「ありがとうございます。……すごく、元気が出ました」
「ほんと……? ココのおっぱい……効いた……?」
「はい。世界で一番効く、最高の特効薬でした」
「えへへ……よかったあ……」
ココは安堵したように大きな息を吐くと、抱きしめる力を少しだけ緩めた。
夕陽が沈みかけ、部屋の中が少しずつ深い紫色の影に包まれていく。
「……ココさん」
イサミはココの肩をそっと押し、彼女の胸元から顔を離すと、照れくさそうに明かりの灯った瞳でココを見つめた。
「すっごくえっちです……」
「ふえ? ……あぁぁぁ……」
改めてイサミに言われて、自分が今どんな姿をしているかを正しく認識したココは、顔面を爆発させたように真っ赤にして叫んだ。
「や、やっぱりすごーく恥ずかしいよぉぉぉぉっっ! 観ないでイサミくんっ! バカバカっ!!」
慌てて床に落ちていた服を拾い上げ、胸元を隠しながらパタパタと部屋の隅へ逃げていくココ。そのあまりにも微笑ましいパニックぶりに、イサミは心の底から楽しそうに「あはは!」と声をあげて笑った。
「ほら、ココさん! 服着るのお手伝いしますから、こっち来てください!」
「う、うう〜……イサミくんのいじわるーっ!」
夕闇が迫る部屋の中で、二人の賑やかで温かい笑い声が弾ける。
金貨10枚の損失は確かに大きかった。
けれど、この小さな「ヒーロー」の元には、どんな金銀財宝をも上回る、温かな絆と笑顔が溢れていたのだった。