プリモと同行
翌日
朝の光がギルドの重厚な扉を抜け、木床に長い影を落としていた。
喧騒の立ち込め始めた大広間には、早朝から討伐や採取の依頼を求めて集まった冒険者たちの熱気が充満している。
金属甲冑の擦れ合う音、大鎌や大剣を床に突く重い打撃音、そして昨夜の酒が抜けきらない荒くれ者たちの無骨な笑い声。
その人混みをすり抜けるようにして、イサミは軽快な足取りでギルドのカウンターへと向かっていた。
(……ふぅ、ココさんの件は一旦落ち着いたとはいえ、僕も男ですからね。今朝はなんだか少し照れくさくて、早々に宿を出てきてしまいましたよ)
昨夜の出来事を思い返し、イサミは歩きながらほんの少しだけ頬を緩めた。
泣きじゃくりながら自分にすがりつき、最後には幸福そうに涙を拭って笑ったココの愛くるしい姿。
指先に残る肌のぬくもりや、彼女が流した一途な恋心の熱っぽさが、いまも胸の奥にじんわりと残っている。
だが、そこは自称『歩く道具屋』兼冒険者である。
「恋も仕事も全力投球、これは僕の主義ですかね〜。さてさて、今日の出張道具屋の稼ぎはどうなることやら……」
イサミは担ぎ直した巨大な道具袋のベルトをきゅっと締め直した。
袋の中には、昨夜遅くまでかかって補充した高品質ポーション、特製煙幕玉、高粘性ネット弾、さらには魔物の習性に合わせた特殊な誘引香がぎっしりと詰まっている。
イサミの狙いはシンプルだ。
高難易度のクエストに挑むパーティに同行し、クロエたちホームのメンバーがこれから挑戦する難易度の下見をしておく。
そして、ポーター(荷物持ち)の負担を完全にゼロにしながら、現地で街の相場の約1.5倍という強気の『安心と快適の出張価格』で消耗品を売りさばくこと。
危険な前線には立たず、弱小非戦闘員のフリをして泥臭く立ち回りながら、ガッポリ稼いで安全に帰還する。
「イサミ!……イサミね!?」
ギルドの掲示板の前で手頃な依頼を物色しようとしたその時、背後から凛とした、どこか澄んだ鈴の音のような声が響いた。
「おや……?」
振り返ると、そこに立っていたのは一風変わった、だが息を呑むほど美しい容姿の女性だった。
青空を切り取ったかのように鮮やかで美しい青色の髪をきっちりと後ろでまとめ、透き通るような白い肌と、凛烈な意思を秘めた瑠璃色の瞳。
細身の身体には無駄のないしなやかな筋肉がつき、腰元には一筋の隙もない美しい装飾が施された細剣(レイピア)が吊るされている。異端の「カラー族」の戦士、プリモ・カラーだった。
「やっぱりあなたね。探したわよ、イサミ」
「これはこれは、プリモさん! 先日はどうもでした〜! まさかこんなに早くまたお会いできるとは思いませんでしたよ」
イサミは瞬時に商売人特有の親しみやすい笑顔を張りつめ、ひらひらと手を振った。
「ええ、私もよ。街に少し滞在する予定ではあったけれど、まさかギルドに入って一分であなたを見つけられるとは思わなかったわ。……相変わらず、その巨大な道具袋は健在のようね」
プリモはイサミの背中にある巨大な鞄をチラリと見やり、ふっと薄い唇に満足げな笑みを浮かべた。
前回の毒鋏蠍(ドクハサミサソリ)との戦闘で見せた、完璧すぎるアイテムサポートと機転。
彼女にとってイサミは、ただの怪しい道具屋ではなく、自身の研ぎ澄まされた剣技を何倍にも引き立ててくれる最高の『サポーター』として記憶に刻まれていたのだ。
「で、僕になにか用ですか〜? もしかして、高品質ポーションのまとめ買いですかね? 今なら『プリモさん再会記念』として、特製薬草オイルを一本オマケしちゃいますよ〜! お代は相場の1.5倍ですが!」
「商魂たくましいのは相変わらずね。……でも、今回は買い物じゃないの」
プリモは掲示板の方へイサミを促すと、一枚の討伐依頼書を指し示した。そこには『黒嶺山脈における大型魔物・狂乱大角鹿(バーサーク・ガルム)の討伐』と記されている。
「実は今日、このクエストに同行するはずだった仲間が一人いてね。……ミラ・カラーというのだけれど」
「あ」
『ミラ・カラー』という名を聞いた瞬間、イサミの笑顔がピクリと固まった。
(あの……弓の化け物みたいなお姉さん……!)
イサミの脳裏に、以前ミラ・カラーのクエストに同行した際の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
あの時の悪夢を、イサミは忘れていない。
ミラ・カラー。
カラー族の中でも屈指の弓術の使い手であり、遠距離からの超精密射撃と規格外の威力誇る矢で、獲物がイサミの投擲アイテムの届く範囲に入る前に次々と瞬殺していったのだ。
結果どうなったか。
『あ、イサミさん? 道具? いえ、傷も負ってないのでポーションもいりませんよ?』
『あ、荷物ですか? 弓と矢筒だけなので自分で持てます!』
——何も売れなかった。
それどころか、現地までの往復の拘束時間、消費した食糧、履き潰した靴の消耗を考慮すると、完全なる大赤字であったのだ。
(だ、だめですね……! カラー族の超人たちと同行するのはビジネス的にヤバい……! 彼女たちは強すぎる……! 強すぎて僕のアイテムを買う隙が一切生まれないんだ……!!)
冷や汗がイサミの首筋を伝う。
彼にとって「利益の出ない危険行動」は最大の禁忌である。
無駄な努力と怪我を嫌い、効率よく稼ぐのがモットーのイサミにとって、カラー族への同行は『ボランティア労働』と同義であった。
「……それでね」
プリモはイサミの表情の微小な変化に気づくこともなく、少し困ったように眉をひそめて続けた。
「そのミラが、宿で豪快に寝坊していてね。何度起こしても『あと五分……あと三時間は射撃のイメージトレーニングをする……』とか寝言を言って起きてこないのよ。あの子、弓の腕は確かなんだけど、朝と自己管理には本当にだらしなくて……」
「は、はあ……それは大変ですねぇ……」
イサミは引きつった笑みを浮かべながら、ゆっくりと後ずさりしようとした。
「ええ。だから、ミラを待っている時間が本当にもったいないの。今日の天候と風向きを考えると、午前中に黒嶺山脈の谷間に踏み込まないと狂乱大角鹿の足取りが追えなくなってしまう。だから……イサミ、あなたに一緒に来てほしいの」
「えっ」
「前回の戦闘で、あなたの立ち回りの素晴らしさは身をもって理解しているわ。あなたがいてくれれば、ミラの穴埋めどころか、それ以上の成果が出せる。……もちろん、同行者としての報酬もしっかり出すわ」
(で、出たーーー!! カラー族からの直接オファー!!)
イサミの脳内ソロバンが爆速で弾かれ始めた。
[計算開始]
・カラー族の戦闘スペック:規格外(SS級)
・魔物の討伐速度:秒殺
・ポーション消費確率:0.001%
・煙幕弾・ネット弾の必要性:ほぼゼロ
・結果:出張道具屋としての売り上げゼロ。時間拘束分、実質赤字!!
(だめだだめだ! 断ろう! 『あ〜残念だなぁ! 今日はあいにく先客がいて〜!』とか言って適当に逃げよう!)
イサミが「いや〜、実は今日……」と辞退の口上を述べようとした、まさにその瞬間。
プリモが腰の細剣の柄にそっと手を置き、背筋をピンと伸ばした。
その全身から放たれる、研ぎ澄まされた刃物のような静謐な気迫。
無駄が一切削ぎ落とされた立ち姿。
光を反射する青色の瞳には、己の剣技に対する絶対の誇りと、純粋な武への探求心が宿っていた。
イサミの思考が、ふと止まった。
(……待てよ?)
イサミの頭の中に、前回の毒鋏蠍との戦闘シーンが鮮明に蘇ってきた。
あの時、プリモが見せたレイピアの刺突。
風を切り、空間そのものを穿つかのような、限界を超えた超高速の踏み込みと、極限まで無駄を削ぎ落とした緩急の切り替え。
イサミ自身、普段は「弱小な道具屋」を装って泥臭く逃げ惑っているが、裏の顔は母から叩き込まれた戦法を使うある程度の実力者だ。
『本当に自分の命が危ない時』や『確実に仕留める瞬間』に見せるイサミの爆発的な速度と緩急は、まさに武の真髄と言っていい。
だからこそ、イサミには分かるのだ。
プリモ・カラーの剣術が、どれほど異次元の域に達しているか。
前回のミラ・カラーの時もそうだった。ビジネスとしては大赤字で泣きを見たが、あの異次元の弓術——風を読み、空間を歪めるかのように射出される矢の軌道と体の使い方は、武術を嗜むイサミにとって鳥肌が立つほどの『学び』と『刺激』に満ちていた。
そして、プリモの剣技。
超近接戦闘における、あの緩急と視線誘導、重心移動の美しさ。
(……利益。商売としての利益は……確かにゼロどころか赤字だ。……だけど)
イサミの胸の奥で、闘神の血を引く者としての『眼』が静かに光った。
(あのプリモさんの剣術を、一番近くの特等席で観賞し、その体の使い方や踏み込みの技術を盗める……。これは、金銭には換算できない『戦闘の勉強』になるんじゃないか……?)
母から叩き込まれた技術に加え、カラー族という至高の武を誇る種の技を間近で観察し、己の「真の実力」の引き出しをさらに増やすことができる。
それは、将来的に自分の命を守るための何よりの投資になり得るのではないか。
イサミの口元が、無意識のうちにニヤリと歪みかけた。彼はすぐさまそれをビジネス用の「ちゃっかり笑顔」へと修正した。
「……ふーむ! なるほどですねぇ! ミラさんが寝坊でお困り、と!」
「ええ。断られてしまうかしら……? 急な誘いだし、迷惑なのは分かっているのだけれど……」
少し不安そうに上目遣いで見てくるプリモに対し、イサミはポンと自分の胸を叩いて見せた。
「なぁにを言ってるんですか、プリモさん! 困った時はお互い様ですよ〜! 頼れる冒険者兼、あなた専属の命の保険屋さんとして、このイサミ、喜んで同行させていただきますよっ!」
「本当……!? 助かるわ、イサミ! あなたならそう言ってくれると思ってた!」
プリモの美しい顔が一瞬でパッと華やぎ、嬉しそうにイサミの手をギュッと握りしめた。
カラー族にしては珍しいほど素直な感情表現に、イサミは一瞬ドキリとしながらも、持ち前の商売人スマイルを崩さない。
「ただしっ! 現地でのポーションや便利アイテムの購入代金は、通常通り街の相場の『1.5倍』ですからね! これだけは譲れませんよ〜?」
「ふふ、ええ、分かっているわ。……まあ、あなたにポーションを使わせるような無様は晒さないつもりけれどね」
「あはは! 言ってくれますねぇ! じゃあ早速行きましょうか、黒嶺山脈へ!」
イサミは道具袋をドサッと背負い直し、心の中で密かにニヤリと笑った。
(よし、決まりだ。商売としては一銭にもならないかもしれないけれど……プリモ・カラーの至高の剣術、じっくりと勉強させてもらいますよ……!)
朝日を浴びながら、自称『歩く道具屋』のチャラい美少年と、白銀の髪をなびかせるカラー族の剣士は、ギルドの喧騒を後にして黒嶺山脈への道を踏み出し始めた。
♢
ギルドを出た二人は、早朝のひんやりとした風が吹き抜ける街道を抜け、目的の地である『黒嶺山脈』の麓へと足を進めていた。
街の喧騒が次第に遠ざかり、街道の両脇にはそり立つような巨木が立ち並ぶ深い森林地帯が広がり始める。
踏み固められた土の道から湿った落ち葉の敷き詰められた獣道へと変わるにつれ、周囲の空気は重く、そして静まり返っていった。
二人の歩調は極めてスムーズだ。
イサミは背中に大人一人が丸々入るほどの巨大な道具袋を背負っているにもかかわらず、足音をほとんど立てずに軽快な足取りでプリモの斜め後ろをキープしている。
プリモは前方を警戒しながらも、時折チラリと後ろのイサミに視線を送っていた。
「……不思議な歩き方をするのね、イサミ」
青色の髪を風に揺らしながら、プリモがふと口を開いた。
「ん? 僕の歩き方ですか〜? なにか変でしたかね」
「変というか……それだけの重量を背負っていながら、踏み込む足音がほとんど聞こえないのよ。重心の移動が滑らかすぎるというか。……やっぱりあなた、ただの道具屋じゃないわね」
澄んだ美しい青色の瞳でじっと見つめられ、イサミは「あはは」とチャラく頭を掻いておどけて見せた。
「やだなぁ、プリモさん。これでも毎日、街の相場の1.5倍のポーションや重い資材を担いで駆け回ってますからね! 伊達に『歩く道具屋』を名乗ってませんよ。長年の商売で身についた、荷物を楽に運ぶためのただのコツですよ〜」
「……そう? ならいいのだけれど」
プリモは追求を深追いはせず、再び視線を前方へと戻した。
だが、その背中からはイサミに対する確かな信頼と、どこか好奇心を孕んだ気配が漂っている。
やがて、林の奥からガサガサと笹藪を揺らす不穏な音が響き始めた。
「——来るわ」
プリモが立ち止まり、細剣の柄にすっと手を掛けた。
直後、鬱蒼とした茂みから飛び出してきたのは、三匹の『泥岩狼(クレイ・ウルフ)』だった。
全身が泥と強固な岩石で覆われた大型の魔物で、並の剣士の刃では弾かれてしまう硬度を誇る。
興奮状態で赤い目を光らせ、低く唸り声を上げながら二人を包囲するように散らばった。
「おや……。狂乱大角鹿(バーサーク・ガルム)の前哨戦にしては手頃ですか」
イサミは背中の巨大な道具袋から、手際よく二つの小さな丸薬を取り出した。
「プリモさん、ここはサクッと終わらせちゃいますよ。僕が足止めを——」
イサミがいつものように粘性ネット弾や煙幕玉を投擲しようとした、その時だった。
プリモはレイピアを抜くことなく、ふと足を止めてイサミの方へと振り向いた。
「ねえ、イサミ。あなた、前もそうやってアイテムで戦ってたけれど……もし手持ちの道具が尽きたり、アイテムが使えない状況になったらどうするの? あなた自身は、どうやって戦うの?」
「え?」
唐突な質問に、イサミは投擲姿勢のままパチクリと目を丸くした。
「どうやって、と言われましても……。見ての通り、僕は非戦闘員の弱小道具屋ですからね〜? 基本的には煙幕で目をくらませて逃げるか、強力なネットで相手の動きを止めて、前衛の皆さんに倒してもらうのが僕のスタイルですよ。アイテムこそが僕の最大の武器であり、命綱ですから!」
いつもの「弱者」を演じる完璧な営業用スマイルでそう答えたイサミだったが、プリモの青色の瞳はどこまでも澄んでおり、胡散臭そうにごまかされるのを許さない気迫を秘めていた。
イサミは一瞬、言葉に詰まる。
(……あ、ダメですね。いつもの癖で弱者ぶって誤魔化しちゃいましたけど……)
イサミは心の中で自分に苦笑した。
そもそも、今日自分がここに来た理由は何だったか。
商売としての利益はほぼ出ないと分かっていながら、なぜカラー族の凄腕であるプリモの依頼を受けたのか。
(そうでした。僕は今日、プリモさんの至高の剣術を一番近くで鑑賞して、その体の使い方や踏み込みの技術を盗む……つまり『戦闘の勉強』のために着いてきてるんでしたよねぇ)
ならば、あまりにもコソコソと嘘をつき続けて警戒されるよりは、多少の手札を見せて良好な関係を築き、より深い「武の話」を引き出した方が得策ではないか。
幼少期から叩き込まれた実力を全て明かす必要はないが、最低限の護身術が使えることくらいは伝えておいても損はないはずだ。
イサミはハァと小さく息を吐くと、苦笑いを浮かべながら姿勢を崩した。
「……ま、そうはお言いますけどね。僕だって伊達に危険な街道を行き来してるわけじゃないですよ。万が一、アイテムが全部切れたり、至近距離で跳びかかられたりした時のために……一応、短剣くらい使って最低限の自衛くらいはしますよ〜」
「短剣?」
プリモの眉がぴくりと動いた。
「ええ。剣士の方々みたいに格好よく斬り結ぶなんて無理ですけど、近寄られた時にサクッと突いて隙を作るくらいなら、まぁ少しは……ね」
それを聞いたプリモの表情が、目に見えて明るくなった。青色の瞳に、強い興味と期待の色が宿る。
「そうなのね! やっぱり、ただ逃げ回るだけじゃなかったのね。……ねえ、イサミ。次の戦闘、あなたがその短剣でどう戦うか、私に見せてくれないかしら?」
「え、僕がですか!?」
「ええ。前回の戦闘の時も思ったけれど、あなたの体捌きは絶対に素人のそれじゃないわ。私があなたの戦い方を見てあげれば、何かアドバイスできるかもしれないでしょう? 私の剣技の知識が、あなたの自衛の役に立つかもしれないわ」
(おや……? これは願ってもない展開ですかね……?)
プリモからの思わぬ提案に、イサミは心の中で膝を打った。
自分から「技を見せてください」と頼むのではなく、プリモの方から「アドバイスしてあげる」と言ってくれたのだ。
自分の短剣術を見せることで、カラー族であるプリモの高度な理論や視点からのフィードバックが得られるかもしれない。それはまさに、イサミが求めていた『戦闘の勉強』そのものであった。
「なるほどですねぇ……! カラー族の凄腕剣士であるプリモさんから直々にアドバイスをいただけるなんて、光栄の至りですよ。じゃあ、ちょっと恥ずかしいですけど……僕の護身用の短剣、お見せしちゃいましょうかね」
「ええ、見せて頂戴」
プリモが期待に胸を膨らませ、身を乗り出す。
イサミは「大した物じゃないですよ〜」と言いながら、腰の道具袋の奥底、普段は滅多に露出させない隠しホルダーへと手を伸ばした。
そして、ジャラリと革紐を解き、一振りの短剣を鞘ごと引き抜いた。
それは、イサミが故郷を旅立つ際、母から渡された、年季の入った短剣だった。装飾は簡素で、鞘も経年変化で深く使い込まれた色合いをしている。
イサミは軽い動作で、鞘から刃をシャキインと数センチだけ滑らせて見せた。
「これですよ。僕が旅立つ時に母から貰った、ごく普通の短剣なんですけど——」
そこまで言った瞬間だった。
「……ッ!?」
突如として、隣にいたプリモから絶大な不快感と凍てつくような殺気が放たれた。
「え……?」
イサミが驚いてプリモの顔を見ると、彼女は先ほどまでの華やかな笑顔を完全に消し去っていた。
それどころか、まるでドブ川の泥水を無理やり口に押し込まれたかのような、あるいは最悪の天敵を目の前に突きつけられたかのような、あからさまに嫌そうで、不快感に満ち満ちた表情を浮かべていたのだ。
美しい青色の瞳はキュッと細められ、整った眉間には深々とシワが寄せられている。彼女の視線は、イサミの手元にある短剣に釘付けになっていた。
「プリモ……さん……?」
イサミが引きつった声をかけると、プリモは喉の奥から絞り出すような、底冷えする声でつぶやいた。
「なに……それ……」
「はい?」
「その短剣……嫌」
「は……!?」
プリモは本能的な拒絶反応を示すように、じりじりと二歩、三歩とイサミから距離を取った。細い肩を不快そうに震わせ、イサミの手元を睨みつけている。
「な、なにそれ……なんでそんなもの持ってるのよ……最悪……不快だわ……」
「え、えええええっ!?」
イサミは完全にポカンと口をぐうぐうに開けてフリーズした。
目の前の泥岩狼(クレイ・ウルフ)たちが唸り声を上げていることすら忘れるほどの、あまりにも予想外すぎるプリモのリアクション。
「ちょ、ちょっと待ってくださいプリモさん! なんですか突然!? 『嫌』って……え、この短剣がですか!?」
「見せないで……! 匂いというか……気配というか、存在するだけで寒気がするわ……! なんなのよその物騒で気持ち悪い鉄くずは……っ!」
「鉄くずってひどい!? これ、僕が旅立つ時に母からもらった、ごくごく普通の短剣なんですけど!?」
イサミは困惑の極みに達し、自分の手元とプリモの顔を何度も交互に見比べた。
母から渡された時も『そこらへんの鍛冶屋で作らせた、ただの頑丈な短剣ですよ〜』と言われていた代物だ。
特別な力が宿っている風でもなければ、呪われているような禍々しい装飾がついているわけでもない。
だが、カラー族の至高の感性を持つプリモ・カラーにとって、その短剣は**生理的な嫌悪感を激しく刺激する『何か』**を強烈に放っているようだった。
「普通の短剣なわけないでしょう……! どこが普通なのよそれ……! 早く収めて……お願いだから早く鞘に戻して……!」
「あ、はい! すみません!」
イサミは慌てて短剣を鞘へと押し戻し、カチリと音を立てて隠しホルダーへしまい込んだ。
短剣が視界から消えると、プリモは「はぁ……っ」と深く息を吐き出し、胸元を押さえながら壁に背を預けるようにして荒い息をついた。その顔色は心なしか少し青ざめてすらいる。
「ふぅ……ふぅ……。びっくりした……死ぬかと思ったわ……」
「死ぬかと思ったって……一体全体なにがどうなって……? 僕、何かマズいものでも出しましたかね……?」
短剣を隠した状態で、イサミは頭の上に山ほどの疑問符を浮かべながら、ただただ困惑するしかなかった。
プリモは胸元を押さえたまま荒い息を吐き、収められたイサミの腰元をまだ警戒するように見つめていた。
その青色の瞳には、先ほどまでの激しい不快感と嫌悪の余韻が色濃く残っている。
「ふぅ……はぁ……。ごめんなさい、取り乱してしまって。でも……本当になんなのよ、その短剣……。気配だけで背筋が凍りつくかと思ったわ」
「いえ、謝られてもですねぇ……。僕からしたら、旅立つ時に母から持たされたただの頑丈な短剣なんですけど……」
イサミは弱り切った顔で首を傾げた。
あらゆる気配や武の質に敏感なプリモにとって、その短剣が秘める「何か」は生理的な恐怖すら引き起こす代物だったのだ。
「……はぁ。でも……」
プリモは一度深く息を吸い込み、青色の髪をかき上げると、己の頬をパンと両手で叩いた。
その凛とした顔立ちに、剣士としてのプライドと意思が戻ってくる。
「……言った手前、引くわけにはいかないわね」
「え? 言った手前、とは……?」
「『あなたの戦い方を見てアドバイスしてあげる』って、私から言ったでしょう? カラー族の戦士として、一度口にした約束を自分の身勝手な都合で反古にするなんてできないわ」
プリモは腰のレイピアに手を置くと、イサミをまっすぐに見つめ返した。その青色の瞳には、恐怖をねじ伏せた武人としての強い覚悟が宿っていた。
「一度だけ……一度だけ使ってもいいから、その短剣での戦い方を見せてちょうだい。私が見てあげるわ」
「え、えええっ!? い、いいんですか!? 無理しなくてもいいんですよ、プリモさん! ほら、僕がいつも通りネット弾や煙幕で処理しても——」
「ダメよ。一度覚悟を決めたの。……それに、その気味の悪い短剣を扱うあなたが、一体どんな身ごなしを見せるのか……剣士として見届けておきたいのよ。ただし! 終わったらすぐに引っ込めてちょうだいね!」
「は、はあ……。分かい、分かりましたよぉ……」
プリモの強い意志に押され、イサミは半ば諦めたように苦笑いを浮かべた。
(……やれやれ、プリモさんも頑固ですねぇ。まあでも、せっかくカラー族の凄腕に戦いを見てもらえるチャンスです。ここで下手な真似は見せられませんね)
イサミは背中から、自身の体重ほどもある巨大な道具袋をドサリと足元に降ろした。
重厚な音が足元の落ち葉を揺らす。
道具袋という重重しい『枷』を外した瞬間、イサミの全身の筋肉がかすかに弛緩し、そして極限まで滑らかに研ぎ澄まされた。
(……さて。プリモさんに見せるのは、あくまで『道具屋の自衛術』ですからね〜)
イサミは腰の隠しホルダーから、再びあの短剣を引き抜いた。
「——ッ!」
プリモの身体がびくっと跳ね上がり、青色の瞳が不快感で歪む。だが、彼女は逃げ出さずにその場に踏みとどまり、じっとイサミの動きを注視した。
前方では、自分たちを無視して会話を続けていた二人に痺れを切らした三匹の『泥岩狼(クレイ・ウルフ)』が、唸り声を上げてじりじりと距離を詰めてきていた。岩石の皮膚を硬化させ、鋭い牙を剥き出しにしている。
「じゃあ……行きますよ〜!」
イサミはどこか間の抜けた声を上げると、短剣を両手で大上段に大きく振りかぶった。
およそまともな剣士であれば絶対にやらない、スキだらけで大振りな、絵に描いたような「素人全開」のフォーム。
そのまま「うわぁぁぁ!」と叫びながら、一番近くにいる一匹目の泥岩狼に向かって一直線に走り出した。
足取りはドタバタと重く、いかにも非戦闘員がパニックになって突撃しているようにしか見えない。
プリモは一瞬、拍子抜けしたように目を丸くした。
(な……なにあのフォーム……!? まったく軸が定まっていないわ! あんな大振りじゃ、泥岩狼のカウンターを受けて一瞬で噛み殺されて——)
プリモが叫び、制止のためにレイピアの柄へ手を伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。
——一匹目の泥岩狼まで、あと一歩。
泥岩狼がイサミの隙だらけの突進に対し、鋭い爪を振り上げて飛びかかろうとした、まさにその『あと一歩』のタイミング。
シュンッ。
空間の羽撃きのような音を残し、イサミの姿が忽然と消えた。
「——え!?」
プリモの思考がフリーズした。
残像すら残さない。
足音も、風を切る音すら発生しない。ただ目の前から、イサミという存在そのものが綺麗さっぱり掻き消えたのだ。
(消えた……!? どこへ——)
プリモの超人的な動体視力が、異次元の光景を捉えたのはそのコンマ一秒後だった。
泥岩狼の鼻先、空間の「死角」へと一瞬で潜り込んでいたイサミ。
素人全開だったはずの体勢は、極限まで低く沈み込んだ完璧な『抜即斬』の姿勢へと変化していた。
地面を蹴った爆発的な瞬発力。それによって生じた超絶的な加速を、イサミは寸分の狂いもなく「踏み込みの力」へと変換していた。
ドスッ! カカカカンッ!!
空間が炸裂するような乾いた音が響いた。
一匹目の泥岩狼の強固な岩石の皮膚が、豆腐のようにあっけなく切り裂かれる。
イサミが手にした短剣は、残像すら描かない一瞬の旋風と化していた。
一匹目の首を正確に刎ね飛ばすと同時に、イサミは回転するコマのように軸を滑らせ、その加速のまま二匹目の泥岩狼の懐へと滑り込む。
(な……に……それ……っ!?)
プリモの青色の瞳が、見開かれたまま硬直する。
ーーーーー速い。そんなレベルではない。
——ゼロから瞬時に最高速へと達し、そこから寸分の滞りもなく次の動作へと移行する、狂気的なまでの運動エネルギーの制御。
二匹目の泥岩狼が何が起きたかも理解できずに目を白黒させる中、イサミの短剣は既にその心臓部を三度穿っていた。
ガンガガンッ!
三匹目の泥岩狼が恐怖に咆哮を上げ、背後から跳びかかる。
だが、イサミは振り返りすらしない。
ぬめりつくような滑らかな重心移動。まるで背後にも目があるかのように頭上を通過する爪を紙一重でかわすと、すれ違いざまに逆手で短剣を振り上げた。
ズバァンッ!!
岩石の鎧ごと、三匹目の泥岩狼が縦真っ二つに叩き斬られ、上下に泣き別れて地面へと転がった。
静寂が、森林の中に舞い戻る。
残されたのは、瞬く間にバラバラの肉塊と化して絶命した三匹の泥岩狼と、血の一滴すら浴びずに佇むイサミの姿だけだった。
イサミは短剣についた血をパッパッと軽く払うと、何事もなかったかのようにチャラい笑みを浮かべ、カチリと音を立てて短剣を腰の鞘へと押し戻した。
「ふぅ〜! いやぁ、やっぱり短剣一本で戦うのは疲れますねぇ! アイテムで足止めするのが一番楽ですよ、やっぱり!」
イサミは足元に置いていた巨大な道具袋を「よっと」と軽快に背負い直すと、呆然と立ち尽くしているプリモの方へと振り返った。
「どうでしたかね、プリモさん? 僕の拙い自衛の短剣術は! カラー族のプリモさんから見て、何かアドバイスできる点とかありましたか〜?」
営業用の親しみやすい笑みを向けられたプリモは、しかし何の返答もできなかった。
青色の髪を風になびかせ、青色の瞳をこれ以上ないほど見開いたまま、口を半開きの状態で固まっている。
(……いまの、は……なに……?)
プリモの頭の中で、先ほど見た光景が何度も、何度もハイライトで再生される。
(素人の動きから……一瞬で消えた……? 泥岩狼の岩肌を、あの短剣で紙みたいに……? ううん、それ以前に……あの踏み込み、あの重心の消し方……! 緩急の付け方が、私より……速い……!?)
カラー族として、至高の剣を追求してきたプリモだからこそ理解できてしまう。
目の前の「自称・歩く道具屋」が見せた動きが、どれほど異常で、どれほど神域に踏み込んだ『武の真髄』であったかを。
「ぷ、プリモさん……? どうしました〜? 顔色が凄く悪いですけど……やっぱりこの短剣、嫌でしたかね……?」
おどおどと覗き込んでくるイサミに対し、プリモは喉をゴクリと鳴らし、かろうじて掠れた声を絞り出した。
「……あ……アドバイス……?」
「はい! 勉強のために同行させてもらったんですから、ぜひ厳しいご指導を!」
「……できるわけ……ないでしょう……そんなの…………っ!!」
プリモは顔を真っ赤に怒らせたのか、あるいは恐怖と困惑で混乱したのか、わなわなと震えながらイサミを指差し、絶叫したのだった。
プリモの絶叫が、静まり返った森の静寂を切り裂いて木々にこだました。
白く透き通るような肌を赤く染め、肩を激しく上下させながら、プリモは信じられないものを見る目でイサミを指差し続けている。
その青色の瞳は困惑と動揺、そして武人としての底知れぬショックに激しく揺れていた。
「あんな……あんな異次元の身ごなしを見せられて、一体私のどこからアドバイスなんて言葉が出てくるっていうのよ!? 一瞬で姿を消して、泥岩狼の硬い皮膚を短剣一本で紙みたいに切り刻んでおいて……『拙い自衛の短剣術』……!? あなた、私をバカにしているの!?」
「や、やだなぁプリモさん! バカになんてしてませんって! 本気で言ってますよ!?」
イサミは慌てて両手をブンブンと横に振り、弱り切った顔で弁明に入った。
(……まさかここまで取り乱されるとは……)
イサミは苦笑いを浮かべながら、背中の巨大な道具袋のベルトを軽く直した。このままプリモに過剰な警戒心を抱かれたり、変に誤解されたままでは、今日の『戦闘の勉強』どころではなくなってしまう。
彼はハァと小さく息を吐くと、頭の後ろで手を組み、いつものおどけた態度を少しだけ緩めて語り始めた。
「……あのですね、プリモさん。念のためにちゃんとお話ししておきますけど……僕のさっきの動き、そんな大層な魔法でも超能力でもないですよ?」
「……なによそれ。じゃあ、目の前であなたが消えたのは何だったというのよ」
プリモはまだ警戒を解かず、細い眉をひそめてイサミを睨みつける。
イサミは人差し指を一本立て、あっけらかんとした口調で説明を始めた。
「僕が利用しているのはですね……単純な『目の錯覚』と『体感時間のズレ』ですよ」
「目の錯覚と……体感時間のズレ……?」
「そうです。さっき僕、最初は素人全開で大振りに振りかぶって、ドタバタ走り出しましたよね? あれが種明かしの第一段階です。人間も魔物も、動くものを観察する時って、無意識に相手の『速度の予測ライン』を頭の中に作るんですよ。『あ、こいつはこのくらいのスピードで、この軌道で突っ込んでくるな』って」
イサミは自分の脚をぽんぽんと叩いてみせた。
「相手が僕のノロノロした動きに視界と意識を固定した『その一瞬』——あと一歩の間合いに入った瞬間に、つまづいて転ぶように、その身体の落下のエネルギーを……溜めていた全筋力を解放して、一気に最高速へ加速するんです。そうするとですね、相手の脳の処理が追いつかなくて、視界から僕がパッと消えたように『錯覚』するんですよ。これが一つ目のカラクリです」
プリモは息を飲み、イサミの言葉を一字一句聞き漏らすまいと耳を傾けた。
「で、二つ目の『体感時間のズレ』ってのは、武術でいう『拍子(タイミング)』の破壊ですね。人間が『攻撃が来る!』と身構えるコンマ数秒前の、一番気が緩んでいる一瞬……あるいは息を吐ききった瞬間。そこに『消える加速』と『角度を変えた踏み込み』を同時に叩き込んでいるだけです。……ね? 種明かしをしてみれば、なーんだって感じでしょう?」
イサミは「ねぇ〜?」と親しみやすい笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振ってみせた。
「更にいえば……、最高速度だけで言えば……多分、プリモさんとそんなに変わらないですよ〜? むしろ、純粋な突きの踏み込みの鋭さやスピードなら、プリモさんの方が上じゃないですかね」
「私と……変わらない……?」
プリモはその言葉に、ハッとしたように己の手元——細剣(レイピア)の柄へと視線を落とした。
「ええ。……前の戦闘では僕はプリモさんを目で追えませんでしたし……。……僕の戦い方っていうのはですね……平たく言えば**『初見に特化した』戦い方**なんです」
イサミの目が、一瞬だけ鋭い光を帯びた。だがすぐにいつものちゃっかりした笑みに戻る。
「僕が教わってきた戦い方は、相手が僕の強さや癖を知らない『一番最初の最初の一撃』に全ての賭け金をぶち込む戦法なんですよ。相手に油断を生ませて、錯覚を起こさせ、初見の初撃で確実に命を奪う、あるいは無力化する。……でもこれ、一回種が割れて警戒されたり、長期戦になったりしたら、途端に通用しなくなる泥臭い奇襲術なんですよ〜」
イサミは肩をすくめてみせた。
「だからこそ、僕はアイテムを使うんです。ポーションで引き伸ばしたり、煙幕やネットで相手の視界と意識をかき乱して、常に『初見の状態』を作り出す。……ね? 僕は正真正銘、道具に頼り切りの弱小道具屋なんですよ」
イサミの説明を聞きながら、プリモは静かに長考へと没入していった。
(目の錯覚……体感時間のズレ……初見への特化……)
プリモの脳内で、イサミの言葉と、先ほど彼が見せた神業のような身ごなしが、猛烈な勢いで再構築されていく。
(……確かに。確かにあの時、泥岩狼はイサミの『大振りな突撃』に完全に意識を奪われていたわ。相手が予動作を起こす前に攻撃するのではなく、相手が『間違った予測』を立てた瞬間に、極限の緩急でその予測の隙間へ滑り込む……)
それは、プリモたちカラー族が追求してきた「鍛え上げられた技術と速度で正面から相手を圧倒する」という至高の剣法とは、全くベクトルが異なるものだった。
相手の心理、視界、脳の処理速度の限界すらも「道具」として利用し、相手を嵌めるために完璧に計算し尽くされた殺陣(たて)。
(最高速度自体は自分と変わらない……そう言っていたけれど、それは本当かもしれない。でも……あそこまで完璧に己の気配と動作を消し、ゼロから一〇〇へと一瞬で出力を叩き込める身体制御……それを『ただの奇襲』の一言で片付けられるわけがないでしょう……!)
プリモはゴクリと唾を飲み込んだ。
イサミが「母から教わった」と言っていたその戦法。
そして、あの生理的な不快感を放つ短剣。
イサミ本人は「ごく普通の自衛術」だと言い張り、心底そう信じている節すらある。だが、カラー族として至高の武を見続けてきたプリモの直感は、鋭く警鐘を鳴らしていた。
(この人は……イサミという男は……一体どんな環境で、どんな怪物に育てられたというの……?)
初見特化の奇襲術。だが、その一撃の精度と完成度は、もはや芸術の域に達している。
もし、自分が初見でこの男と敵対していたら——。
プリモの背筋を、ヒヤリとした冷たい汗が伝った。
「……プリモさん? 大丈夫ですか〜? なんか固まっちゃってますけど……」
不思議そうに顔を覗き込んでくるイサミの顔は、先ほどまでの恐ろしい戦いぶりとは打って変わって、いつものお調子者で親しみやすい美少年のそれに戻っていた。
「……ふぅ」
プリモは深く息を吐き出し、胸に手を当てて乱れた心を整えた。
(……いいわ。理由はどうあれ、イサミが私の味方であり、最高のサポーターであることに変わりはないんだから。……それに)
プリモの青色の瞳に、不屈の武人としての静かな炎が宿った。
(『初見に特化した戦い方』……。相手の意識を誘導し、錯覚を利用して間合いを狂わせる技術。……私の細剣(レイピア)の踏み込みにも、応用できる部分があるかもしれない。……この同行、私にとっても大きな学びになるわね)
プリモはイサミに向き直ると、ふっと口元に挑戦的な、そして誇り高い笑みを浮かべた。
「……よく分かったわ、イサミ。あなたの『からくり』については理解したわ」
「おっ、分かってくれましたか! さすがプリモさん、理解が早くて助かりますよ〜!」
「ええ。アドバイスは……そうね、私からあなたに言えることは何もないわ。でも……感謝するわ。今のは、私にとっても非常に興味深い『武』の一片だったわ」
「へ? 感謝だなんて、そんなそんな! 僕はただ、依頼のために着いてきてるだけですからね!」
イサミは謙虚に手を振りながらも、心の中で密かにニヤリと笑った。
(よしよし、なんとか誤魔化し切れましたね。……さて、これでプリモさんの『武』に対する思考も一段深まったはずです。ここから先の『狂乱大角鹿(バーサーク・ガルム)』戦……一体どんな凄い剣術を見せてくれるのか、楽しみですねぇ!)
「さて、イサミ。無駄話はここまでよ。黒嶺山脈の谷間はもうすぐそこ……本番はここからよ!」
「はいはい、分かりましたよ〜! 命の保証と完璧なサポートは、この出張道具屋にお任せあれ!」
青色の髪を風になびかせるプリモと、巨大な道具袋を背負ったイサミ。
二人は互いへの信頼と、それぞれの密かな「探求心」を胸に秘め、深い山林の奥へと再び歩みを進めていった。
♢
静まり返った樹海を抜け、二人はついに目的の地である『黒嶺山脈』の深い谷間へと足を踏み入れていた。
切り立った岩壁が両脇に聳え立ち、太陽の光すら遮る重苦しい影が谷底を覆っている。
地面には巨大な蹄の跡が深く刻まれ、荒々しくなぎ倒された巨木や、岩肌を鋭く抉った痛々しい痕跡が至る所に残されていた。
周囲に漂うのは、鼻を突くような強い獣臭と、狂気に満ちた濃密な魔力気配。
「……いるわね。すぐ近くに」
プリモが立ち止まり、静かに息を潜めた。青色の髪が谷間を吹き抜ける冷たい風にさらさらと揺れる。
その青色の瞳は、すでに狩人のそれへと研ぎ澄まされていた。
イサミは足音を一切殺してプリモの背後に並び、背中の巨大な道具袋から目立たないように観察用の単眼鏡を取り出した。
「谷の奥、巨岩の影ですねぇ……。噂通りの巨体ですよ、あれは」
イサミの視線の先——崩れた岩山の前に、その怪物は鎮座していた。
『狂乱大角鹿(バーサーク・ガルム)』。
一般的な鹿の倍以上の巨躯を誇り、全身を覆う漆黒の毛並みは鋼鉄のような鈍い光沢を放っている。
何より異彩を放っているのは、頭部に生えた巨大かつ複雑に枝分かれした二本の角だ。
その先端は研ぎ澄まされた槍のように尖り、周囲の空間を威嚇するように不気味な赤い魔力を帯びていた。
「……そうね」
プリモはふっと、薄い唇に凛とした笑みを浮かべた。その青色の瞳が、イサミをまっすぐに見つめる。
(……『初見に特化した戦闘術』……)
プリモの脳裏に、先ほどの泥岩狼との戦闘と、イサミの言葉が蘇る。
イサミがあの異次元のからくりを包み隠さず明かしてくれたこと。それはプリモにとって、一つの明確なメッセージとして受け取れていた。
(あの身ごなしを私に見せ、そしてカラクリを種明かしした……。それはつまり、『私はあなたにこの技を使うつもりはない』『あなたと敵対する意思は一切ない』と、私を完全に信頼して手の内を明かしてくれたということ……)
カラー族の戦士として、その信頼と誠意に応えないわけにはいかなかった。
イサミが最高の「手札」を見せてくれたのだ。
ならば、自分もまた、カラー族の至高の武を誇る者として、全力を以てそれに応えるのが筋というものだ。
「イサミ」
「はいはい、なんでしょう〜?」
「さっきはあなたの技を見せてもらったわ。……だから今度は、私の番よ」
「え?」
プリモは腰の細剣(レイピア)の柄にそっと手を重ねた。
静まり返る谷間に、カチリと澄んだ金属音が響く。
「私の本気を……カラー族の至高の剣術というものを、あなたに見せてあげる。特等席でしっかりと焼き付けなさい」
「お、おお……! それは願ってもない『勉強』の機会ですねぇ! 期待してますよ、プリモさん!」
イサミが呑気に頷いた瞬間——プリモの全身から放たれた気配が、一瞬で変貌した。
——ドツンッ!!
谷底の空気が、目に見えて重縮する。
先ほどまでの静謐な気迫は霧散し、まるで研ぎ澄まされた無数の刃が空間そのものを埋め尽くしたかのような、寒気のするほどの「極致の殺気」が膨れ上がった。青色の髪が圧力でふわりと浮き上がり、瑠璃を思わせる深い青色の瞳が、神聖なまでの光を放つ。
(……うわ、すご……ッ!?)
背後にいたイサミの肌が、一瞬で鳥肌立った。
普段のイサミなら、危険を察知して即座に三歩後ろへ退くほどの異常な威圧感。
闘神の血を引き、数々の死線を潜り抜けてきたイサミの鋭い直感が、激しい警鐘を鳴らしていた。
「——行くわ」
プリモの影が揺れた。
次の瞬間、爆音とともに地表が破砕した。
踏み込みの衝撃だけで谷底の岩盤が放射状にヒビ割り、プリモの姿が文字通り「光の筋」となって消失する。
『グォオオオオオンッ!!』
異変を察知した狂乱大角鹿が狂乱の咆哮を上げ、巨体を揺らして迎え撃つ。
鋼鉄をも上回る巨大な角を振り上げ、正面から突進してくる「蒼い閃光」を突き殺さんと振り下ろした。
重力すら無視した巨角の振り下ろし。掠めるだけで岩山が崩壊するほどの暴威。
だが——プリモは止まらない。避けない。
シュバッッッ!!
甲高い金属摩擦音が響いた。
回避ではない。プリモは超高速で交錯する直前、レイピアの極細の刃先で、狂乱大角鹿の巨大な角の「力の支点」を正確に突いたのだ。
点と点。一ミリの狂いもない完璧な威力の受け流し。
狂乱大角鹿の山をも穿つ突撃のエネルギーが、たった一本の細剣によって空しく側面の岩壁へと逸らされる。
ドガァアンと盛大な音を立てて狂乱大角鹿の角が岩壁へ深々と突き刺さり、隙だらけの巨躯が剥き出しになった。
(な……に……っ!?)
イサミの目が、驚愕で見開かれた。
(あの巨体の突進を……あの細いレイピア一本で完全にななめへ受け流したんですか……!? 力で勝てるはずがないのに、相手の力の方向を完璧に読み切って、零コマのズレもなく点と点を合わせたんですか……!?)
だが、驚愕はそれだけに留まらなかった。
体勢を崩した狂乱大角鹿に対し、宙で一回転したプリモの着地。
着地した瞬間に、彼女の「全開の剣」が解き放たれる。
「——ハァァァッ!」
静かな呟きとともに放たれたのは、もはや刺突の概念を超えた「光の濁流」だった。
一瞬の間に繰り出される、連撃。
突きがあまりにも速く、あまりにも多すぎるため、空間に無数の青い光の線が網目のように固定されて見える。風を切る音すら置き去りにし、衝撃波だけが遅れて谷間に轟いた。
ズバババババババババババババババババババンッッッ!!!!
「ギャオオオオオオンッ!?」
狂乱大角鹿の鋼鉄の毛並みが、岩石の皮膚が、肉が、骨が——文字通り「目に見える速度で崩壊」していく。
ポーションも、誘引香も、粘性ネットすら挟む余地もない。完全に孤高で、完璧なまでの超火力と超絶技巧。
狂乱大角鹿が反撃の動作を起こそうとするたびに、その関節や筋肉の起点へ正確無比な刺突が叩き込まれ、運動そのものが強制的にキャンセルされる。
相手に一切の抵抗を許さず、ただ一方的に切り刻む殺戮の舞。
ほんの数秒。
たった数秒の間に、あれほど猛威を振るっていた大型魔物・狂乱大角鹿は、原形を留めないほどに解体され、断末魔を上げる暇すらなく地面へと崩れ落ちた。
……ドサリ。
静寂が、再び谷間に訪れる。
舞い散る青い血の残光の中、プリモは静かにレイピアを振り払い、カチリと美しい音を立てて鞘へと収めた。
乱れた髪をふわりと整え、青色の瞳を和らげながら、振り返る。
「……こんなものかしらね。イサミ、怪我はない?」
「……」
イサミは言葉を失い、ポカンと口を開けたまま硬直していた。
冷や汗が、背中をダラダラと伝い落ちていく。
(……マジですか……? なんなんですかあの怪物……っ!?)
イサミの頭の中で、爆音のような警報が鳴り響いていた。
イサミ自身、母から叩き込まれた実力と「初見特化」の奇襲術を誇っている。泥岩狼を瞬殺したあの動きなら、並のランクの冒険者程度なら一瞬で首を飛ばせる自信があった。
だが——目の前のこの青髪の美少女、プリモ・カラーは次元が違った。
(勝てない……! まともにやり合ったら、絶対に勝てない……!!)
イサミの脳内シミュレーションが、一瞬で敗北の未来を数百パターン弾き出した。
もし自分がイサミの「消える加速」で接近したとしても、プリモはあの常軌を逸した動体視力とパリィ技術で、イサミの短剣を完璧に弾き返すだろう。
そして、あの「光の濁流」のような無数の刺突を叩き込まれ、一瞬で蜂の巣にされて終わる。
初見の奇襲すら、あの圧倒的な絶対速度と精密さの前には無力化されるかもしれない。
それほどまでに、プリモ・カラーという戦士の完成度は「完璧」だったのだ。
(あ、危なかったぁぁぁぁぁぁ……っ!!!!)
イサミは心の中で、滝のような冷や汗を流しながら激しく安堵した。
(さっき……さっき素直に自分の種明かしをしておいて、本当に良かった……! 『僕の技は初見特化ですよ〜』『もうプリモさんには通用しませんよ〜』って、敵意がないことをアピールしておいて心の底から大正解だった……!!)
もし下手に隠し事をしたり、プライドを出して張り合おうとしていたら、こんなバケモノと爪を隠し合ったままギクシャクした関係になるところだった。
弱者(のフリをした道具屋)として安全圏を確保し、彼女の圧倒的な強さを素直に称賛するポジションに収まったのは、まさに神判断と言ってよかった。
「イサミ……? どうしたの、そんなに固まって……。もしかして、私の戦い方、何か変だったかしら?」
不安そうに青色の瞳を揺らし、首をかしげて覗き込んでくるプリモ。
先ほどまで空間を刻んでいた死神のような気迫は綺麗に消え去り、そこにはただの可憐な少女が立っている。このギャップすら恐ろしい。
イサミは一瞬でビジネス用の「ちゃっかり&大感動の笑顔」を顔面に張りつかせた。
「ひ、変だなんてとんでもない!! すっっっごいですプリモさん!! 感動しました!! 鳥肌が止まりませんよ!!」
イサミは大袈裟に両手を広げ、絶賛の言葉をまくし立てた。
「あの突進を完璧にさばく剣! そしてあの光のような連続刺突! いやぁ〜、やっぱりカラー族の剣術は世界一ですねぇ! 勉強させていただくどころか、目の保養になりすぎちゃいましたよ!」
「ふふ……そんなに褒めてくれるの? 嬉しいわ」
イサミの素直な(そして恐怖に裏打ちされた)大絶賛を受け、プリモは嬉しそうに頬を緩め、青色の瞳を細めた。
「でも、これもあなたがいてくれたからよ。あなたが後ろで完璧に控えていてくれたから、私は余計な心配をせずに全力で踏み込むことができたんだもの。やっぱり、あなたは最高のサポーターね、イサミ」
「あはは! そう言っていただけると光栄です〜!」
イサミは笑いながら、心の中で胸を撫で下ろした。
(ふぅ……完璧だ。これでプリモさんの中での僕は『役に立つ、敵意のない優秀なサポーター』として完全に固定された……! 安全確保、そして最高峰の剣術観賞……今日の目標は二重の意味で大達成ですね!)
「さて! 討伐も終わりましたし、ちゃっちゃと解体して街へ帰りましょうか! 帰り道も安全第一でサポートしますからね〜!」
イサミは元気いっぱいに声を張り上げ、道具袋から解体用ナイフを取り出した。
冷や汗を拭いながらも、ちゃっかりと「勉強」の成果を噛み締めるイサミと、どこか満足げに彼を見守るプリモ。
二人の妙に噛み合った(?)異色のペアは、こうして黒嶺山脈での依頼を見事に完遂したのだった。