昨夜の「親衛隊副隊長からの逃亡劇」という悪夢のような災難から一夜が明けた。
東の空から昇る朝陽が街の街道を優しく照らし、クラン拠点には、いつもと変わらぬ穏やかで温かな朝の空気が漂っていた。
「はぁ……。生きているって、本当に素晴らしいですね……」
店舗のカウンターで、イサミは深々と溜息を吐きながら熱い紅茶を啜っていた。
昨夜、命からがら逃げ帰ってきた彼を待っていたのは、エリスとムラサキ特製の温かな野菜シチューと、クロエたちの賑やかな笑顔だった。
茶髪の男の災厄の幻影から無事に逃げ延びた安堵感からか、イサミの顔にはどこか悟りを開いたような脱力感が漂っている。
そんなイサミの傍ら、店舗の奧にある大きな事務デスクでは――二人の美しい女性が、山のように積み上がった書類の山を前にして、深刻な表情で頭を抱えていた。
ひとりは、優秀な事務員であり、包容力あふれる最年長のお姉さん――エリス。
もうひとりは、没落した元貴族の再興を胸に秘め、格調高い美しさと冷徹な法務知識を併せ持つ令嬢――メルティ。
二人とも、普段の完璧な佇まいからは想像もつかないほど、眉間に深々としたシワを寄せていた。
「……はぁ。イサミくん、少しよろしいでしょうか……?」
エリスが羽ペンを置き、豊満な胸元を小さく揺らしながら、困り果てたような吐息をついた。
「おや、エリスお姉さん、メルティさん。どうしたんですか、そんなに難しい顔をして? もしかして昨日の引き落としで、計算の合わないクランでもありましたか?」
「いえ、イサミ様。逆……逆ですわ」
メルティが眼鏡のつるをそっと指で押し上げ、溜息交じりに手帳を開いて見せた。
「計算は完璧……どころか、我がクランの財務状況は、いまや王都の中小クランの中でも群を抜いて『完全な黒字運営』を達成しておりますの。前回の防衛戦での物資回収と治療費の回収、そしてイサミ様の出張道具屋の売上によって、金庫は金貨で溢れんばかりですわ」
「えっ、それって最高じゃないですか! 儲かって何よりですよ〜!」
イサミは目を「¥」の形にしてニカッと笑った。だが、エリスの顔色は晴れない。
「黒字運営できるようになったらなったで……別の、とても深刻な『悩み』が発生してしまったのです」
「悩み……ですか?」
「ええ……。一言で申し上げますと、圧倒的な『人手不足』ですわ!!」
メルティがバサッと手帳のページを叩いた。
「イサミ様の持ち込む大量の高品質ポーションや便利アイテムの在庫管理、各クランとのツケの回収・債権管理、ギルドへの素材提出手続き、さらには『歩く道具屋』の出張補助……。これだけの規模の業務を、私とエリス様のたった二人で回すのは、もはや物理的な限界を超えておりますのよ!」
「なるほど……」
「それにね、イサミくん」
エリスが優しく、しかしどこか切実な眼差しでイサミを見つめた。
「業務だけではありません。クロエさんやココちゃん、ムラサキちゃん、そしてあなた……前線で戦うみなさんを安全にサポートするための人や、現地での素材の一次解体を任せられる信頼できる戦闘補助員が、圧倒的に足りていないのです。このままでは、せっかくのビジネスチャンスを逃すどころか、イサミくんたちの安全にも関わりますわ」
イサミはうーんと腕を組んだ。
確かにエリスとメルティの言う通りだった。
イサミのビジネスモデルは「現場での圧倒的な機動力と物資供給」がキモだ。
しかし、事業規模が大きくなればなるほど、裏方の事務処理や現地での雑務の量は跳ね上がる。
クロエは貴重なメイン前衛だし、ココは火力の要、ムラサキは調合に専念させたい。
エリスとメルティにこれ以上の負担をかければ、二人とも倒れてしまうだろう。
「うーん……信頼できる人手、ですか。ですがクロエさんたちは皆、少数精鋭が売りですし、ヘタな新人を入れて情報や技術が漏洩するのも困りますからねぇ……」
イサミが困り顔で首を傾げていた、まさにその時だった。
ガタンッ!
店舗の重厚なドアが勢いよく開かれ、朝の爽やかな光とともに二人の人影が店内へと入ってきた。
「おーい! 道具屋! 居るかー!?」
豪快で野太い声とともに現れたのは、巨大な身の丈ほどもある大剣を背中に担いだ、野人ような野性味溢れる大柄な男――ガッツだった。
そしてその隣には、軽装の革甲冑を身に纏い、腰に短い投擲用ナイフをいくつも吊るした、すばしっこそうな赤髪の少女――ルーシーが、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら続いていた。
「おや……? ガッツさんに、ルーシーさんじゃないですか!」
イサミは目を丸くした。
イサミが同行してきた中小冒険者たちの中でも、特に腕の立つ「フリーのコンビ」であった。
「どうしたんですかお二人とも? 朝早くから……」
「…バカ道具屋!」
ルーシーが顔を真っ赤にして叫んだ。
「あたしたちはな……あんたに頼みがあって来たんだよ!」
「頼み……? ガッツさん、一体何のお話です?」
ガッツは頭をガリガリと掻きながら、どっかとカウンター前の椅子に腰掛けた。その表情には、不器用な男特有の照れくささと、固い決意が混ざり合っていた。
「……単刀直入に言うぜ、道具屋。俺とルーシーを……お前らのクランで『雇って』くれねぇか?」
「「「え……!?」」」
イサミだけでなく、奥にいたエリスとメルティも思わず声を上げた。
「雇う……って、ガッツさんたち、どこのクランにも属さない気ままなフリーランスじゃなかったんですか?」
「ああ、そうだったさ」
ガッツは腕を組み、深く頷いた。
「どこかのクランに縛られるのは性性に合わねぇと思ってた。……だがよ、前回の防衛戦。俺たちも本体にゲストで参加してたんだ。……俺たちは死にかけた。大手クランの奴らに捨て駒にされて、泥の中で腐るはずだった」
ガッツの目が、真剣な光を帯びてイサミを見つめる。
「俺は背中の大剣で敵を散らすことしか出来ねぇ。ルーシーは目ざとく足跡を追って、チマチマ攻撃することしか出来ねぇ。……だが、俺たちのこの力を、お前らのビジネスと安全のために使わせてくれねぇか? 護衛でも、解体作業でも何でもやる!」
「ガッツ……」
ルーシーも気まずそうに視線を泳がせながら、小さな声で付け加えた。
「……あたしも、あんたのやり方は認めてるわよ。それに……あんたの事ならよくわかってるしね」
思いがけない申し出に、店内が一瞬の静寂に包まれた。
エリスとメルティが顔を見合わせる。
ガッツとルーシー。二人の腕前と実績は折り紙付きだ。
ガッツは力仕事や重装護衛として申し分なく、ルーシーは敏捷性と観察眼に長けた優秀なスカウト兼ポーターになれる。
何より――何度もイサミが同行したことがあるため、二人の人柄と義理堅さは十分に証明されていた。……義理堅さは。
イサミは顎に手を当て、商人としての計算を頭の中でパパッと弾いた。
(……人件費、固定費、現場での搬送能力の向上、エリスお姉さんたちの負担軽減……。うん、条件としては完璧すぎるほどですね!)
だが、イサミはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、あえて意地悪く問いかけた。
「うーん……魅力的な提案ですねぇ。ですがガッツさん、うちのクランのルールは厳しいですよ? ホームでの共同生活になりますし、毎朝の朝食は全員で食べなきゃいけませんし――」
「あ、それなんだけどさ!」
ルーシーが慌てて手を挙げ、イサミの言葉を遮った。
「あたしたち……クランホームには住まないから!」
「え……? 住まないんですか?」
「当たり前でしょ!」
ルーシーは顔を赤くして、イサミを指差し叩いた。
「あんたのクランのホーム……女子の比率が高すぎるのよ! クロエさんに、エリスさんに、メルティさんに……みんなあんたにベタベタ甘くて、見てるこっちが恥ずかしくなるわよ! あたしたちは街の宿屋に部屋を借りて、仕事の時だけ集まる『契約メンバー』として働かせてちょうだい!」
「ガハハハ! そういうこった!」
ガッツも豪快に笑った。
「俺みてぇな厳つい野郎が、お前らの甘い甘いクランホームに寝泊まりしてみろ? クロエの嬢ちゃんに『邪魔だ!』ってぶっ飛ばされるのが落ちだからな!」
「なるほど……!」
イサミはぽんと手を叩いた。
住み込みではなく、外部雇用の「専属契約コンビ」。
これならば、プライベートな生活空間を脅かされることもなく、純粋な『ビジネスパートナー』として割り切った最高の協力関係が築ける。
「メルティさん、法務・契約の観点から見てどうでしょう?」
メルティは素早く手帳をめくり、羽ペンを走らせると、完璧なお嬢様スマイルを浮かべた。
「完璧ですわ、イサミ様! 居住コストを削減しつつ、必要な時にだけ優秀な戦力を確保できる『専属業務委託契約』……! 我がクランの人手不足を一気に解消する最高の案件ですわ!」
「ふふ、私も賛成ですよ」
エリスも優しく微笑み、二人に温かい茶を差し出した。
「ガッツさん、ルーシーさん。事務手続きや物資の運搬、イサミくんの護衛……これからよろしくお願いしますね?」
「おう! 任せときな、エリスの姐さん!」
「チッ……よろしく頼むわよ、道具屋!」
こうして、人手不足に悩んでいた『陽だまりの翼』に、強力で頼もしい「契約メンバー」のガッツ&ルーシーコンビが新たに加わることとなった。
黒字運営の波に乗り、ますます拡大していくイサミの『歩く道具屋』ビジネス。
「あっ……僕もここのクランのメンバーではないので、僕のクランではないんですよ〜」
「「はぁっ!?!?」」
新たな仲間を巻き込んで、彼らの賑やかでちゃっかりとした日常は、さらに加速していくのだった。