朝の市場
コパンドンCITYの朝は、王都のそれとは毛色が異なっていた。
王都の市場が整然とした秩序と高級感に彩られているとすれば、この街の市場は荒々しくも活力に満ちた生々しいエネルギーの渦だ。
朝靄がまだ建物の影に居座る時間帯から、各地から集まった行商人たちの怒号のような威勢の良い声と、仕入れにやってきた冒険者や料理人たちの足音が石畳を叩いている。
香辛料のツンとした匂い、焼きたてのパンの芳しい香り、そして獲れたての獣の肉や鮮魚の生臭さが交ざり合い、熱気となって鼻腔を刺した。
その喧噪の中を、イサミは欠伸を噛み殺しながら歩いていた。
「ふわぁ……眠いですねぇ。朝一番の市場は掘り出し物が多いとは言いますけれど、流石にこの時間帯は身にしみますよ……」
目元をこすりながら、イサミは腰のポーチの位置を確かめる。
今日の目的は、先日からの出店で底をつきかけている調合用の基本素材――特に、ムラサキから頼まれていた乾燥済みの『月光草』と、自身の仕掛けバクダンに使う特殊な『粘着樹液』の確保だった。
これらの素材は品質の差が激しく、少しでも目を離すと粗悪品を掴まされる。
だからこそ、イサミ自身がこうして早朝から足を運んでいたのだった。
「さて、まずは薬草専門の『ハックル屋』から……っと」
露店がひしめく大通りから一本脇に入った、比較的静かな路地へと足を向ける。
薬草の原材料を扱う店が集まる区画だ。
目的の露店の前に辿り着いたイサミは、店頭に並べられた乾燥ハーブの束に手を伸ばそうとして――ふと、先客の存在に気づき、足を止めた。
そこには、一人の女性が立っていた。
つややかな髪を綺麗に切り揃え、露出度の高い洗練された戦士衣装から覗く白磁の肌と、神秘的な美貌。
腰には美麗な装飾が施された細剣を携えている。ピンと張り詰めた凛とした気品を漂わせる彼女は、カラー族の戦士――プリモ・カラーだった。
プリモは、店頭に置かれた『月光草』の束を、紫水晶のような透き通った瞳で見つめていた。
細くしなやかな指先でそっと葉の表面をなぞり、冷徹なまでに鋭い観察眼で鑑識を行っている。
(おや……プリモさんじゃないですか。こんな朝早くから何をしてるんでしょう?)
イサミが声をかけようとしたその瞬間、プリモが店主に向けて静かで凛とした声を響かせた。
「店主さん。これ、採取されたのは昨日の夜ではないわね? 葉の乾燥具合にムラがあるし、根元の切断面がわずかに変色しているわ。満月の夜に摘まれた純度の高いものではなく、二日前の半月の夜に強引に乾燥で乾かしたものでしょう?」
「な、なんだとぉっ!? お嬢ちゃん、適当なコト言って商売の邪魔すんじゃないよ! うちの月光草は最高級品で通ってるんだ!」
店主が顔を赤くして怒鳴るが、プリモは微塵も動じなかった。彼女は澄んだ瞳でじっと店主を見つめ返す。
「嘘をついても無駄よ。私の目は、植物に残る微量な光の残滓を見逃さないわ。純度の高い月光草なら、朝の光の下でも微かに青みがかった銀の輝きを放つはず……けれど、これはただの『くすんだ緑』よ。粗悪品を高く売ろうとするのは、商人として感心しないわね」
「っ……! くそっ、買わないならさっさと行きな!」
店主は苦々しい顔で手をシッシッと振った。プリモは「失礼するわ」と優雅に一礼すると、流れるような所作でくるりと踵を返した。
その一連のやり取りを、イサミは目を丸くして眺めていた。
(相変わらず見事な観察眼と厳しさですねぇ……。まあ、言ってることは百パーセント正しいんですけれど)
感心しつつ、イサミもその店を素通りすることにした。
あんな見事な鑑識を見せられては、買い込む気も失せるというものだ。
♢
イサミは気を取り直し、少し離れた別の素材店へと向かった。次は『粘着樹液』の仕入れだ。
質の良い樹液は、固化するまでの時間と粘着力のバランスが絶妙で、イサミのトラップ作成には欠かせない。
「すみません、この『大樹の涙』、壺ごとひとつもらいたいのですが――」
イサミが声をかけると同時に、横からスッと硬貨の入った袋が差し出された。
「店主さん。この『大樹の涙』の壺をひとついただくわ」
「「あっ……」」
イサミとプリモの視線が、店頭に置かれた最後の『大樹の涙』の壺の上で交差した。
プリモは紫水晶の瞳を一瞬だけ驚きに揺らしたが、すぐにいつもの落ち着いた、気品ある表情に戻った。
「……イサミ? あなた、こんな朝早くから何をしているの?」
「それは僕のセリフですよ、プリモさん。おはようございます。こんなところで会うなんて奇遇ですねぇ。……というか、買い物先がこれで2度目ですよ?」
「ふふ、そうね。2度目だわ」
プリモは可憐で大人びたクスリという微笑を浮かべた。
「でも、奇遇でもなんでもないわよ。質の良い素材を求めれば、行き着く店が被るのは当然のことだもの。……それで、この樹液はあなたが買い求めるつもりだったのかしら?」
「ええ、まあ。うちの店で使うトラップの補充用でして。……でも、プリモさんがどうしても必要なら譲りましょうか? 」
イサミがニヤニヤしながらチャラついた笑みを浮かべると、プリモは呆れたように首を少し傾けた。
「そんな無茶なことは言わないわよ。……けれど、本当に譲ってしまっていいの? あなたにとっても仕事に必要な大切な素材でしょう?」
「僕は別の路地で探せばいいだけですからね〜。それに、朝からプリモさんのあの見事な鑑識を見せてもらいましたからね。その観覧料ってことで」
「観覧料だなんて、お調子者ね」
プリモはクスクスと笑い、自らの袋を引っ込めた。
「なら、今回はあなたに譲るわ。妥協のない仕入れをしようとする道具屋さんの邪魔をするつもりはないもの」
結局、樹液はイサミが買い取ることになった。店を離れた後も、二人の歩く方向は自然と並んでいた。
「……イサミ。あなたはこれからどちらへ行くつもりかしら?」
「んー、予定していた素材屋が全滅したので、次は中央広場の裏手にある『職人通り』の方まで足を伸ばしてみようかと。あっちなら、ちょっとマニアックな木工品や金属素材が手に入りますからね」
「職人通り……なるほどね」
プリモは納得したように頷き、腰の細剣の柄に軽く手を置いた。
「ちょうどいいわ。私も武具のメンテナンス用品を探していたところなの。……買い物の方向性が同じなら、一緒に行動しないかしら? お互いに目を光らせていれば、粗悪品を掴まされるリスクも減るでしょう?」
イサミは「ふふっ、いいですねぇ」とチャラく微笑んだ。
「頼もしい限りです。ではプリモ先生、僕の買い物もお供していただけますか?」
「先生だなんて変な呼び方はやめなさい。……行きましょう」
プリモは咎めるような仕草を見せつつも、その唇にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
職人通りに入ると、空気は一層濃密なものになった。あちこちから金属を叩くカンカンという音や、木材を削る香ばしい匂いが漂ってくる。
店先に並ぶ商品も、日常品というよりは冒険者の装備品や、職人が使う専門道具ばかりだ。
「イサミ、あなたは何を探しているの?」
「僕ですか? 僕は『からくり仕掛け』に使う高精度のギアと、頑丈な極細ワイヤーですね。あとは、短剣の鞘を補修するための特殊な革オイルがあれば最高なんですけれど」
「ワイヤーならあちらの『黒鉄工房』のものが優れているわね。引張り強度が通常の三倍以上あって悪くないわ。……ただ、あの店の店主は頑固で有名けれど」
「へえ、詳しいですねぇ! 流石プリモさんです」
「自分の命を預ける武具や道具の質を見極めるのは、戦士として当然の嗜みよ」
誇らしげに胸を張るプリモの佇まいには、カラー族の戦士としての揺るぎない自信と誇りが満ちていた。
イサミは彼女の案内に従い、いくつかの店を巡った。そして、武具や道具に対するプリモのこだわりは真にストイックなものだった。
「……待ちなさい、イサミ」
小さな木工露店の前で、プリモがイサミの肩を制した。
「この木製ギア、歯の噛み合わせにコンマ数ミリのズレがあるわ。高負荷がかかった瞬間に噛み合わなくなって破砕する危険性がある。仕掛けの精度を命とするあなたの道具には使えないわね」
「え、えぇ……僕の目には完璧に見えますけれど……」
「目に見えるものだけが全てではないわ。直接触れ、構造を感じ取れば分かります。……ダメなものはダメよ。道具に妥協は許されないわ」
「ひぇぇ……お姉さん、勘弁してくれよ……」
店主が苦笑いを浮かべ、イサミは「すみませんねぇ」と頭を下げて店を離れた。
♢
続いて、革製品の店へ。
プリモは小瓶を手に取り、太陽の光にかざして観察する。
「粘度は悪くないけれど、わずかに不純物が混ざっているわ。短剣の鞘に塗れば、最初は滑りが良くなるかもしれないけれど、経年劣化で革を傷める原因になるわね。……あなたのあの短剣は、もっと繊細なお手入れが必要なはずよ。このような適当なオイルを使っては価値が下がってしまうわ」
「ははは……プリモさん、僕の短剣のことまで気にしてくれてるんですか?」
「……ええ。あなたのあの短剣は苦手だけど、道具屋としてのあなたの強いこだわりと『芯』を感じるもの。粗悪なお手入れで損なわれるのが耐えられないだけよ」
プリモは一切のブレもなく、澄んだ瞳で直視してそう言い切った。
彼女の指摘は驚くほど的確であり、その厳しさはイサミの道具と仕事を心から尊重しているからこそだと分かった。
(本当に、真っ直ぐで妥協がない人だなぁ……)
イサミは、自分以上に自分の道具の価値を真剣に考えてくれるプリモの横顔を見つめた。
細くしなやかな指先で刀身や素材を撫でる仕草、冷徹なまでに鋭い観察眼、そして納得のいく一品を見つけた時に見せる、どこか満足げで美しい微笑み。
自らの手で刃を交えることにこだわりを抱く孤高の戦士としての凛とした強さと、年下の自分に対して向けられる包容力。
その落差が、不思議と胸に響いた。
「プリモさん」
「なぁに?」
「ありがとうございます。プリモさんが一緒で良かったです。僕一人だったら、間違いなくさっきの粗悪なギアを買っちゃってましたよ」
イサミは偽りのない、柔らかい感謝の笑顔を向けた。
その笑顔を真正面から受け止めた瞬間――プリモの胸の奥で、静かに、けれど明確に何かが揺れた。
(……不思議な子ね)
プリモは紫水晶の瞳をわずかに細め、イサミを見つめ返した。
イサミという青年は、最初はただのチャラチャラした、掴みどころのない道具屋だと思っていた。
初見特化などと言って怪しげな仕掛けを作り、いつもヘラヘラと人を食ったような笑みを浮かべている。
だが――こうして共に時間を過ごし、彼の仕入れや仕事への姿勢を見るにつれ、彼の中にある「芯の通ったこだわり」が見えてきた。
彼はただの商人ではない。
道具に対して並々ならぬ誇りを持ち、他者の真価を見抜く目を持っている。
そして何より、どんな時も自分を真っ直ぐに認め、温かい言葉をかけてくれる。
先ほどの感謝の言葉も、お調子者の仮面の下にある彼の心からの本音なのだと分かってしまう。
(私……この子のことを……)
プリモは胸の奥に芽生えた甘い熱の正体を、ゆっくりと自分の中で咀嚼した。
自分より年下の、お調子者の道具屋。
けれど、一人の男として、職人として、確かに自分は彼を意識している。
彼が見せる芯の強さと温かさに、惹かれ始めている。
その自覚は、彼女にとって決して不快なものではなかった。むしろ、孤高の戦士として生きてきた胸の中に、心地よい温もりをもたらしていた。
「……ふふ」
プリモは可憐で大人びた微笑を浮かべると、ゆっくりとイサミへと一歩歩み寄った。
「な、なんですかー?」
イサミがパチパチと目を瞬かせると、プリモは細く美しい手を伸ばし、イサミの髪を優しく撫でた。
「なっ……!? プ、プリモさん!?」
不意の子供扱いと、大人の女性らしい柔らかな距離感に、今度はイサミの方が焦って顔を赤くした。
「感謝なんていらないわ、お調子者の道具屋さん。私はただ、あなたのこだわりを応援したかっただけなのだから」
プリモはクスクスと愉しげに笑うと、イサミの髪から手を離した。
「さて、買い出しも無事に終わったことだし……そろそろお腹が空かないかしら? あそかに良さそうなカフェがあるわ」
「あ、ええ……! 僕がお礼に甘いものでも奢りますよ!」
イサミが照れくささを誤魔化すように鼻をかくと、プリモは満足そうに目を細めた。
「ふふ、ごちそうになるわね」
二人はテラス席のある小さなカフェへと入り、運ばれてきたハーブティーの湯気を挟んで向かい合った。
プリモはカップを手に取り、一口。
口に含むと、優雅に息を吐いた。
「……良い香りね。市場の喧噪の後に飲むお茶は格別だわ」
「気に入ってもらえて良かったです」
向かい側でティーカップを傾けるイサミの姿を、プリモは見つめる。
胸の中に広がった甘い好意は、もう消えることはなかった。己の美学を貫く戦士として、自分のこの感情から逃げるつもりもなかった。
「イサミ」
「はい?」
「今日の買い物……とても楽しかったわ」
プリモはカップを置き、温かな微笑みをイサミへと向けた。
「ふふ、約束よ、お調子者の道具屋さん。またこの街で素材を探す時は……あなたの買い物に付き合ってあげるわ。……もちろん、私の買い物にも付き合ってもらうけれどね?」
大人びた包容力と、ほんの少しの悪戯っぽさを交えたその言葉に、イサミは一瞬呆気にとられ――それから、心底嬉しそうに、参ったというように笑った。
「ええ、喜んで! 次もよろしくお願いしますね、プリモさん♪」
コパンドンCITYの朝の光が、二人のテーブルを優しく包み込んでいた。