暗く重い光の回廊を、二人はひたすらに進んでいた。
言葉はなかった。お互いに無言のまま、ただカツン、カツンと響く自分たちの足音だけを聞いていた。
先ほどの『記憶』――館の中で起きたあまりにも凄惨な敗北と、絶望的な死の記憶。その強烈な情景と胸を刺す悲壮感は、二人の心を重く押し潰していた。
しかし、無言で歩く二人の間を繋ぐ『手』だけは、違っていた。
記憶の回想を重ねるごとに強くなり、前回で絶望に打ちひしがれそうになった時もお互いを引き止め合った手。
今、互いの指はしっかりと固く噛み合わされ、一度たりとも離れまいとする強い意思を持って強く繋がれていた。
その手のひらから伝わる確かな温もりと、一定のリズムで刻まれる脈拍だけが、暗闇の中で互いの存在を証明し、魂を支える唯一の標(しるべ)だった。
(……どんな過去があったとしても、僕は……)
イサミは握りしめた手の感触に集中しながら、前を見据える。
自分が商人として出会った可憐で凛とした剣士、プリモ。
彼女が背負っていた悲しくも壮絶な運命の欠片が見えてくるにつれ、不安や恐れよりも、「彼女を孤独にしたくない」という切実な想いが胸を満たしていく。
ふと、歩を進めていた回廊の先が、一瞬にして眩い閃光に包まれた。
それまでの小さな光の粒や、凶暴に渦巻く赤黒い光とは完全に一線を画す――一際大きく、神聖ですらある純白と青の混ざり合った圧倒的な「光の壁」が、二人の行く手を阻むように立ち塞がったのだ。
二人は足を止めた。
その光の壁からは、これまでの悲劇や絶望を払拭するような、どこか静謐で哀しくも暖かい気配が漂っている。
イサミは深呼吸をし、繋いだ手に少しだけギュッと力を込めると、横に立つプリモの横顔を見つめた。
「……多分、これで最後ですね。プリモさん。準備はいいですか?」
その声には迷いはなかった。
どんな真実が待ち受けていようとも、最後まで彼女の隣で受け止めるという固い覚悟が込められていた。
プリモは可憐な横顔をゆっくりとイサミに向けた。
紫水晶の瞳からは涙の痕が消え、そこには自分自身の真実と向き合う者だけが持つ、凛とした静かな強さが宿っていた。
「……ええ。」
プリモは小さく、けれど確かに頷いた。
二人は示し合わせたように同時に一歩を踏み出し、繋ぎ合わせた手で、その一際大きな光へとそっと触れた――。
◇
視界が弾け、まばゆい光が溢れ出す。
――だが、これまでとは明確に違っていた。
流れてくる感情に、あの身を刺すような絶望や孤独の色彩はない。
そこにあったのは、ボロボロになりながらも決して諦めない「泥泥の死闘」と、それを包み込むあまりにも深い「慈愛と悲哀」だった。
光の中で展開された情景――。
そこは、無数の異型の死骸が転がる闇の空間だった。
【緑髪の青年】――ナクトが、全身から血を流し、息を荒らげながら、必死の様相で例の【化け物】と戦っていた。
青年の剣筋は荒く、満身創痍だった。
かつて女性から手渡された一振りの剣を振るい、仲間を失った激痛と怒りを胸に、泥臭く、死力を尽くして化け物の猛攻を凌ぎ切っている。
やがて、化け物が緑髪の青年の決死の反撃を受け、一瞬だけ体勢を崩した。
その動きが鈍った絶好の瞬間――。
「――っ、お願い……っ!! 届いて……っ!!」
戦場の傍らで、号泣しながら叫ぶ【オレンジ髪の女の子】――羽澄の姿があった。
彼女の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。その小さな両手には、澄み渡る天空のような青い光を放つ【青色のクリスタル】が固く掲げられていた。
女の子が泣き叫びながら、そのクリスタルへ全魔力を注ぎ込み、『ナニカ』を発動させる。
キィィィィィン……ッッ!!!
青いクリスタルから放たれた可憐で絶大な光の波動が、化け物の体に。
ナクトによって動きを止められた化け物は、断末魔の叫びを上げる間もなく、青い光の粒子となって空気中へと霧散し、完全に消滅していったのだった。
ーーーー死闘が終わった。
静まり返った戦場の中、緑髪の青年は力なくその場に膝をついた。
その手のひらには――化け物が消滅した跡から漂い出た、温かく、可憐な【小さな青白い光】が集まり、優しく揺らめいていた。
青年はその光を、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように愛おしく、両手で包み込んだ。
涙を流しながら、その光に向かって何かを静かに語りかけている――。
(あれは…………?)
イサミとプリモの意識に、温かい光の温もりが染み渡っていく。
死の絶望で終わったはずの物語は、命を懸けて戦った仲間たちの手によって、救いへと導かれていたのだ。
♢
パァァァァン……っ!
光景が静かに弾け、回想が終わりを迎えた。
二人は再び、静寂に包まれた光の回廊へと戻ってきた。
しかし、もう周囲を漂う禍々しい気配や虚無の冷たさは姿を消していた。
足元から広がる青白い光は、まるで二人の足元を温かく照らす灯火のように穏やかに輝いている。
二人とも、しばらくは言葉を発することができなかった。
繋いだ手に込められた力が、ゆっくりと、けれど確信を持って解かれていく。
プリモは静かに自分の胸に手を当て、空を見上げた。
失われていた記憶の最後のピースが嵌まり、全ての情景が一本の線となって彼女の脳裏に繋がっていた。
彼女は震える息をそっと吐き出すと、ぽつりと呟いた。
『……私は、レメディア・カラー』
その名は、仲間を愛し、命を散らした存在の名。
イサミはハッとしてプリモを見つめた。
彼女の横顔には、もう迷いも困惑もなかった。すべての記憶を取り戻した「一人の女性」としての気品と、少しの哀愁が漂っている。
「…やっぱり、プリモさんの記憶だったんですね。……でもいつの…。プリモって言う名前は…?」
イサミが静かに尋ねる。
プリモはイサミの方へと振り返り、可憐で少し寂しげな笑みを浮かべた。
「……レメディアと言う名前は今でも本名なの。…プリモは偽名」
光の回廊の終着点。
二人は互いを見つめ合いながら、新たに明かされた「真実」の始まりを噛み締めていた。
一際巨大な光の渦が静かに去り、あたりにはまるで凪いだ夜の海のような、穏やかで静謐な静寂が満ちていた。
足元を照らす青白い燐光が、柔らかく二人の足元を包み込んでいる。
「レメディア・カラー……」
イサミはその名を、壊れものを扱うかのように静かに口の中で反芻した。
目の前に立つ少女――普段は冷徹なまでの凛々しさと、可憐な気品を併せ持つ冒険者『プリモ』。
彼女は自分の胸にそっと手を当て、遠い目をしたまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……ナクトと、羽澄という人たちと暮らしていたの」
言葉の一つひとつを探し当てるように、彼女の声は静かで、どこか夢心地のように儚かった。
「目覚めた時、彼らが迎えに来てくれて。私は彼らと一緒にいたわ。断片的な記憶……自分という存在の根底にある温かい感覚だけがあって、二人とは最初から、理屈抜きで心から信頼できる仲だった」
プリモ――いや、レメディアは、可憐な紫水晶の瞳を伏せ、かつて過ごした穏やかな日々の光景を慈しむように目を細めた。
「けれど……今思えば、時折どこか噛み合わないことがあったのよ。二人が見せる一瞬の陰りや、私を見る時の……どこか哀しそうで、申し訳なさそうな眼差し。私が昔のことや自分の出自について尋ねようとしても、二人はいつも優しく微笑んで、首を振るだけだった」
『レメディアのためだから』
二人はいつも、そう言って詳細を伏せた。
過去の凄惨な戦いも、彼女が一度命を落とし、ナクトたちが決死の思いでその魂を掬い上げたことも、すべては彼女の心を傷つけないための優しい嘘だったのだ。
「レメディア自身……ううん、当時の私はね、信頼する二人の言うことだからと思って、あまり深く追求しなかったの。二人が側にいてくれるだけで十分だったし、その言葉を疑う理由なんて、どこにもなかったから……」
しかし、やがて時は流れた。
彼女の中に眠る「剣士としての本能」か、あるいは失われた自分を探す無意識の情動か。
彼女は二人に見送られ、一人で剣士としての旅に出ることを決意する。
「生まれ育った場所を離れ、流れの冒険者として生きる道を選んだ時……私は自分の名を偽ることにしたの。『レメディア』という本来の名を捨て、『プリモ・カラー』と……」
プリモ――「一番目の」「最初の」を意味する言葉。
それは、過去を一切知らないまっさらな状態から、新しい自分としての第一歩を踏み出すために、彼女自身が自分に与えた静かな誓いの名だったのだ。
「それが……私『プリモ』の始まり。……そして、今なら全てが分かるわ」
プリモはゆっくりと自らの両手を見つめ直した。
さっきまでの回想で突きつけられた、前世とも言える『レメディア』としての壮絶な記憶。
仲間たちと笑い合い、剣を教え、最後の夜に愛を乞い、化け物に敗れて魂を刈り取られた悲劇の記憶。
そして、目覚めてからの『プリモ』として積み重ねてきた記憶。
ナクトや羽澄に温かく育まれ、旅に出て、そして――コパンドンCITYでイサミたちと出会い、ちゃっかりとした商人である彼に呆れながらも、確かな絆を育んできた今世の記憶。
二つの異なる時空の記憶が、濁流のように混ざり合い、一つの魂へと溶けていく。
今の彼女は、前世の悲劇を背負う『レメディア』であり、同時にイサミの目の前で手を繋ぎ、熱を分け合っている『プリモ』その人でもあった。
「……二つの記憶が、私の中で一つに重なっているの。不思議ね……前世の激しい感情も、今の私の想いも、どちらも嘘偽りのない……私自身の心なんだわ」
プリモは自らの胸の鼓動を確かめるように、ギュッと服の胸元を握りしめた。
その瞳には、途方もない事実を受け入れた者だけが宿す、強固で美しい光が溢れ出ていた。
静寂の満ちる光の回廊で、プリモ――レメディアの声がゆっくりと消えていった。
過去と現在、二つの時を跨ぐ壮大な記憶の濁流。それを一気に受け止めた彼女の肩は、微かに、けれど痛々しいほど小さく震えていた。
イサミは深く詮索することなく、ただ黙ってその言葉に耳を傾けていた。
ただ一人の少女の生き様と痛みをその身で受け止めるように、力強い眼差しで静かに静寂を守り続けていたのだ。
余計な問いかけや安直な慰めが、今の彼女の魂をどれほど揺さぶってしまうか、イサミは肌で感じ取っていた。
プリモは溢れ出そうになる感情を抑え込むように、胸元をぎゅっと握りしめた。
記憶が繋がった今、彼女の心には激しい葛藤が吹き荒れていた。
かつて自分を慈しみ、命を懸けて魂を繋ぎ止めてくれた大切な存在――ナクトと羽澄。
今すぐにでも飛んでいき、二人を抱きしめ、すべての真実を知ったこと、そして「ありがとう」という感謝の言葉を伝えたいという衝動が胸を突き上げていた。
だが――彼女は今、『プリモ・カラー』でもあるのだ。
コパンドンCITYで出会った仲間たち。
自分たちを信じて背中を託してくれたクロエ、ミラ、パントン、ココ、ムラサキ。そして、今まさに目の前で自分を支えてくれているイサミ。
組織『シン』の陰謀、レメディアからまだ繋がっている物語。
暴走する重鎧、そして残された仲間たちの危機。
『プリモ』として紡いできた今の現実も、決して投げ出すことなどできるはずがなかった。
「あ……っ……うふっ……っ」
二つの激しい想いに挟まれ、溢れ出る感情の濁流に耐えきれなくなったプリモの紫水晶の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
一度溢れ出た涙は止まらず、可憐な頬を次々と濡らしていく。
それを見たイサミは、一瞬だけ「あっ……っ!?」と焦りの色を浮かべた。
普段の大人びた凛々しいプリモからは想像もつかない弱々しい涙。
商人としてどれほど修羅場を潜り抜けてこようとも、目の前の少女の涙に対する処方箋など、イサミの多機能ベルトの試薬ホルダーには入っていなかったのだ。
「あ、あの……プリモさん……っ」
イサミは若干パニックになりながらも、迷いは一瞬だった。
イサミは自ら一歩を踏み込み、泣きじゃくるプリモの華奢な身体を、そっと優しく抱きしめた。
「っ……!? イサミ……」
包み込むようなぬくもり。
イサミは余計な言葉を何一つ口にしなかった。ただ黙って、彼女の震える背中にそっと手を回し、優しくさすった。
そして、小さな子供をあやすかのように、彼女の頭の後頭部をトントン、トントンと、一定の温かいリズムで優しく叩き続けた。
トントン……トントン……。
何も言わない。ただ「ここにいる」という事実だけを、その体温と不器用なリズムを通じて伝えていく。
プリモはイサミの胸に顔を埋め、彼の服の布地をぎゅっと掴みしめながら、溢れ出る涙を流し続けた。
イサミの胸から伝わる静かな心臓の鼓動と、頭を優しく撫でる手のぬくもりが、彼女の暴れて壊れそうだった心を少しずつ、確実に繋ぎ止めていった。
ーーーーーどれほどの時間が流れただろうか。
やがて、プリモの肩の震えが治まり、規則正しい息遣いが戻ってきた。
プリモは名残惜しそうにしながらも、ゆっくりとイサミの胸から体を離した。
その頬は涙で濡れ、目元を少し赤く腫らしていたが、紫水晶の瞳にはもはや迷いや葛藤の陰りはなかった。そこには、二つの記憶をすべて受け入れ、前を向いた一人の強い女性の瞳があった。
プリモは涙を濡れた袖でそっと拭うと、イサミの真っ直ぐな瞳を正面から見つめ返した。
「……これが終わったら、一緒に行って欲しいところがあるの」
悲壮感のない、可憐で澄み渡った声。
ナクトと羽澄の元へ――自分の過去と決着をつけ、そして自分の言葉で感謝を伝えるための場所。
そこへ、いま自分の命と心を支えてくれたイサミとともに向かいたいという、彼女の素直な願いだった。
イサミは気恥ずかしさに少しだけ鼻の頭をかき、それから破顔した。
最高に頼もしい笑みを浮かべて、力強く答えた。
「ええ……! 当たり前じゃないですか! どこへだって、お供しますよ!」
その言葉を聞いた瞬間、二人の全身を、今までの回想の光とは比べものにならないほどの圧倒的な「純白の輝き」が包み込んだ。
空間が、限界を迎えたかのように鳴動する。
世界が、視界が、上下左右の感覚すらも奪い去るように、激しく反転し始めた。
虚無の光の回廊が弾け飛び、二人の意識は再び、現実の激流――仲間たちが待つあの絶望の地下ホールへと引き戻されていくのだった。