コパンドンCITYの騒がしくも温かいホームを後にしてから、数日が経過していた。
のんに無事剣を返却し、仲間たちに束の間の平穏が戻ったことを確かめたイサミとプリモは、二人だけで静かに街を旅立った。
目的の場所――プリモが暮らしてきた、ナクトと羽澄が暮らすという穏やかな隠れ里を目指すために。
澄み切った青空の下、風が緑豊かな丘陵地帯を吹き抜けていく。
鳥のさえずりが心地よく響く平穏な一本道を、二人は並んで歩いていた。
プリモの足取りは、いつになくどこかすわろついており、同時にどこかそわそわとした緊張感を孕んでいた。
紫水晶の瞳は時折、遠くの景色を見つめては揺れ、握りしめた小さな拳に力が入っている。
「……ねえ、イサミ」
プリモが可憐な声を落とし、隣を歩く少年に視線を向けた。
「そろそろ……見えてくるはずよ。私が彼らと過ごした場所が」
「……楽しみですね、プリモさん」
イサミはいつものように、多機能ベルトの試薬ホルダーを指先で弄びながら、柔らかく微笑んだ。
その表情は、どこからどう見てもいつもの「ちゃっかりとした美少年商人」そのものだった。
だが、その瞳の奥――商人特有の計算深さと、冷徹なまでの観察眼を宿した黒い瞳の深層には、プリモすらも気づかない奇妙な「静寂」が立ち込めていた。
二人が小高い丘を登り切った、その時だった。
青々とした木々に囲まれた小さな開けた土地に、木漏れ日を浴びてひっそりと佇む一軒の素朴な木造の家が見えた。
庭先には季節の花々が咲き乱れ、裏手からは心地よい川のせせらぎが聞こえてくる。
まるで物語の挿絵から抜け出してきたかのような、穏やかで美しい隠世の風景。
そして――その庭先には、二人の人影があった。
「……っ!」
プリモの息が止まった。
一人は、落ち着いた雰囲気を纏った緑髪の青年――ナクト。
もう一人は、温かい日差しのような雰囲気を纏ったオレンジ髪の女性――羽澄。
さらに、家の中――半開きになった窓の奥からは、無邪気で愛らしい幼い子供たちの楽しそうな笑い声が、風に乗って微かに聞こえてきていた。
(……二人とここで……幸せに暮らしていたんだ……)
プリモの胸に、言葉にならない温かい情念と涙が込み上げてくる。
かつて命を賭して自分を救い出し、悲しい過去から守るために真実を伏せてくれた大切な二人。
前世の『レメディア』としての感情と、今世の『プリモ』としての感謝が混ざり合い、彼女の足を自然と前へと踏み出させた。
「ナクト……! 羽澄……!」
プリモは抑えきれない胸の鼓動のまま、二人に向け駆け寄り、愛おしそうに声をかけた。
庭で農工作業をしていた緑髪の青年――ナクトがハッと顔を上げ、目を見開いた。
「え……!? レメディア……なのか……!?」
「レメディア……!?」
羽澄も驚きに手にした籠を落としそうになりながら、プリモへと駆け寄る。
突然の再会に、ナクトとプリモは互いに驚きと歓喜の混ざり合った言葉を交わし始めた。
過去の記憶を取り戻したプリモの溢れ出る想いが、一瞬でその場を温かい空気で満たしていく。
一方――羽澄は、プリモの少し後ろで静かに佇んでいた少年に気づき、可憐で温かい笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
「こんにちは。レメディアのお友達ですか……? 私は羽澄といいます。遠いところよくいらっしゃいました」
羽澄は丁寧に一礼し、心からの歓迎の意を示した。
穏やかで、優しく、平和そのものの時間。
誰もが、この温かい再会を慈しみ、互いの無事を喜び合うはずの――まさにその瞬間だった。
――ズレた。
世界の空気が、一瞬で怪異な異音を立てて歪んだ。
「あなたがナクトさん。突然ですが手合わせしてもいいですか〜?」
軽薄で、あまりにも場違いな、へらへらとした明るい声。
割り込むように、二人の会話の真っ芯へと土足で踏み込んだのは――イサミだった。
「……え?」
羽澄が足を止め、ぽかんと目を丸くした。
プリモと笑顔で言葉を交わしていたナクトも、ぴくりと肩を震わせ、会話を中断してイサミへと視線を向けた。
プリモに至っては、何が起きたのか理解できず、固まったようにイサミの横顔を二度見した。
「イサミ……? あなた、なにを……」
ナクトは一瞬の困惑を見せた後、すぐに落ち着いた大人の対応を取ろうと、穏やかに首を振った。
「……驚いたな。君はレメディアの連れかい? ……申し訳ないが、俺はもう剣を置いた身なんだ。手合わせなんて大層な真似は――」
「あはは、断られちゃいましたか〜」
ナクトの言葉を最後まで聞くことすらなく、イサミはへらへらとした笑みを浮かべたまま、あっけらかんと手を振った。
そして――イサミの顔から、一瞬にしてすべての温度が消えた。
満開の花が咲いたような、最高に可憐で、けれどどこか狂気を感じさせる「極上の営業用スマイル」をその顔に張り付けたまま、イサミはゆったりと歩みを進めた。
「では、不戦勝なら羽澄さんは僕のものってことでいいですか〜?」
「……は……!?」
ナクトの思考が完全にフリーズした。
イサミは一切の迷いなく、目の前に立っていた羽澄の華奢な肩を――ぐっと力任せに自分の身体へと抱き寄せた。
「っ!? あ……あの……っ!?」
混乱する羽澄の身体を抱え込んだまま、イサミの右手が、遠慮も躊躇もなく――羽澄の豊かな胸元を、しっかりと、鷲掴みにした。
服越しに伝わる肉の感触。羽澄の小さく悲鳴を上げる息遣い。
全員の思考が、完全に停止した。
静寂が、隠れ里の庭を支配する。
イサミは鷲掴みにしたまま、満開の笑顔を一切崩さず、黒い瞳の奥に冷酷な底なしの暗闇を宿して、固まっているナクトをじっと見つめ降ろした。
そして――その可憐な唇から、甘く毒の籠もった言葉が滑り落ちた。
「―――――ねぇ? 闘神様?」
ドクン……ッ!!!!
その一言が放たれた瞬間、ナクトの全身の血が逆流した。
「闘神」――それは、かつての凄惨な戦いの中で、命を削り、仲間を失い、血の海を潜り抜けてきたナクトが授かり、そして捨て去ったはずの、最悪の戦号。
「な……っ!? イ、イサミ……っっ!!???」
真っ先に金縛りから解けたプリモが、金切り声を上げた。
紫水晶の瞳は恐怖と困惑に激しく揺れ、顔からは血の気が完全に引いている。
「なにしてるの!? 狂ったのイサミっ!? 離しなさい! 今すぐ羽澄から手を離しなさいっ!!」
プリモは狂ったようにイサミの手首を掴み、力任せに引き剥がそうとした。
だが、イサミの腕はまるで鉄の杭のように固定され、どれほどプリモが力を込めようとも微動だにしない。
「イサミ! お願いだからやめて! なんで……なんでそんなことをするの!? あなた、 一体どうしちゃったのよっ!?」
プリモの声は涙声に変わっていた。
コパンドンCITYで、地下ホールで、手をつないで死線を潜り抜け、自分を抱きしめてくれたあの温かく頼もしい商人美少年の姿は、どこにもなかった。
そこにいるのは、へらへらとした薄気味悪い笑みを浮かべ、大切な人を傷つける不快な侵略者そのものだった。
「きゃ……っ、あ……あの……っ!」
羽澄は突然の痴漢行為と恐ろしい雰囲気に完全にパニックを起こし、イサミの胸の中で震えている。
ナクトの全身から、ゆらりと黒い怒気のオーラが立ち上り始めた。
一度は捨てたはずの戦士の殺気が、静かに、けれど苛烈に庭全体を圧迫していく。
「……おい、ガキ」
ナクトの声は低く、地獄の底から響くような地鳴りの音を帯びていた。
「手を……離せ。今すぐにだ」
ナクトの手が、無意識のうちに腰の虚空――かつて剣を挿していた場所へと動く。
その瞳には、困惑を超えた激しい怒りと、羽澄を奪われかけた男としての剥き出しの敵意が燃え盛っていた。
だが――イサミは、プリモの必死の制止も、ナクトの殺気も、羽澄の混乱も、すべてを涼しい顔で受け流していた。
胸を掴んだ手に少しだけギュッと力を込め、へらへらとした笑みのまま、ナクトを煽るように首を傾げる。
「やだなあ、怒らないでくださいよ〜。手合わせを受けてくれるなら、ちゃんと離しますって。……それとも、やっぱり『闘神様』は、大切な奥さんを人質に取られないと、重い腰が上がらないんですか〜?」
「イサミ――っっっ!!!!」
プリモが叫び、絶望的な表情でイサミの頬を打とうと手を振り上げた。
しかし――。
「……分かった」
ナクトの静かな、けれど圧倒的な意思の籠もった声が、プリモの手を途中で止めさせた。
ナクトは激しい怒りを殺気へと変え、ゆっくりと一歩を踏み出した。
その脚の踏み込みは、かつて数多の敵を切り伏せてきた伝説の剣士そのものの重心移動だった。
「その勝負……受けて立つ。……後悔するなよ」
へらへらと笑うイサミと、怒りに目を静かに燃やすナクト。
二人の視線が交差した瞬間、隠れ里の平穏な空気は完全に破砕され、凄絶な戦いの幕が切り落とされようとしていた。
♢
庭を包み込んでいた平穏な風が、一瞬にして刺すような冷気へと変貌していた。
ナクトの全身から溢れ出るのは、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた伝説の剣士――『闘神』としての、息を呑むほど苛烈な殺気。
対するイサミは、羽澄を拘束していた手をゆっくりと離すと、へらへらとした不気味な笑みを浮かべたまま、多機能ベルトの留め具をカチリと音を立てて外していた。
「イサミ……やめて……お願いだからもうやめてよ……っ!」
羽澄を自分の背後へ庇いながら、プリモが血を吐くような悲鳴を上げる。
だが、その叫びすら二人の耳には届いていなかった。
「では〜」
イサミが、どこか歌うような軽薄な声を漏らした。
次の瞬間、イサミは腰の短剣を両手で固く握りしめると――あまりにも大ぶりに、ノロノロとした動作で頭上高くへと振りかぶった。
腰は浮き、踏み込みは甘く、軸はブレブレ。
剣を学び始めたばかりの小学生でももっとマシな打ち込みをするだろうというレベルの、お粗末極まりない上段からの振り下ろし。
(――遅い! 隙だらけだ!)
ナクトの目が冷たく冴え渡る。
手合わせなどという生ぬるいものではない。
羽澄を侮辱し、大切な居場所を脅かそうとした不快な侵略者に対する、確実な処刑の選択。
ナクトは踏み込み一歩で間合いを死殺し、手にした木剣を一閃――イサミのがら空きの胴体を真っ二つに叩き割るべく、最速の軌道で剣を走らせた。
だが――その絶好の隙を狙った殺意の瞬間に、プリモだけが気づいていた。
(違う……! イサミの戦い方は……そんなんじゃない……っ!!)
プリモはコパンドンCITYの地下ホールで、重鎧の圧倒的な暴力の前で見せたイサミの「本性」を知っていた。
あの無駄のない体さばき、観察眼の鬼、そして相手の予備動作の裏を掻く冷徹な戦術眼。
そんな彼が、こんな大ぶりの素人攻撃を仕掛けるのは彼の得意な戦法!
決して演技を悟らせない、隠密とは真逆の技術。
「ナクト、ダメ―――っ!! 引いてっ!!」
プリモの悲絶な叫びが隠れ里の空気を切り裂く。
しかし、ナクトの踏み込みはすでに始まっていた。
ナクトの剣がイサミの胴を撃ち抜こうと交差した――まさにそのコンマ数秒の瞬間。
「――あは」
イサミの顔から、さっきまでの情けない勢いと不気味な笑みが、綺麗に消え去った。
視界から、イサミが「消えた」。
(なっ――!?)
ナクトの絶対的な戦闘直感が、激しい警告の警報を鳴らした。
振り下ろしたはずのナクトの剣が捉えたのは、手応えのない空虚な空気のみ。
イサミの初動の超高速の重心移動と低空の滑空は、ナクトの視界を完全に置き去りにしていた。
イサミは、ナクトの振り下ろしによって生まれた腕の死角――その懐深く、影の中へと完全に滑り込んでいたのだ!
「くっ……!?」
ナクトの背筋に冷たい氷が突き立てられる。
プリモ(レメディア)の幾多の死闘の記憶を追体験し、異常な観察眼でナクトの『剣の癖』を完全に読み切っていたイサミの、あまりにも完璧な裏の裏を掻く踏み込み。
幼少期から叩き込まれてきた戦法。
――ザシュッ! ガキィン! ザシュ、ザシュ、ザシュッ!!
間髪入れずに叩き込まれたのは、凄まじい密度の「7連撃」!!
1撃目、ナクトの右腕の神経を狙う突刺。
2撃目、足止めを狙う膝裏への斬撃。
3撃目、4撃目、胸甲の隙間を縫う高速の交互一閃――!
「がっ……ハッ……!?」
ナクトの口から悲痛な息が漏れた。
プリモの悲鳴のような警告があったからこそ、ナクトは間一髪の差で身体を極限まで捻り、持っていた剣の柄と最小限の体さばきで、死に至る急所への攻撃を「ガキィン!」と力任せに捌き切っていた。
だが、捌き切れたのは急所だけだ。
ナクトの肩や太もも、脇腹の服が次々と切り裂かれ、鮮血が舞い散る。
あの『闘神』と謳われたナクトが、初手の一瞬で完全に後手に回され、血を流しているのだ!
(このガキ……最初の大ぶりな攻撃は、俺の『確殺の踏み込み』を誘発するための完全な撒き餌……!?)
ナクトの額から冷や汗が流れる。
もしプリモの叫びがなければ、最初の1撃目で首を飛ばされていたのは間違いなく自分の方だった。
(……チッ! 倒しきれませんでしたか……! さすがは元・闘神様ですねぇ!)
イサミの脳内で、冷徹な計算が弾き跳ぶ。
初撃、初戦に限り必中するはずの7連撃という極上の切り札を捌かれた以上、長引き、ナクトが体勢を立て直せば、速さには慣れ、純粋な剣技の差で押し潰されるのはイサミの方だ。
ならば――商人(道具屋)の戦い方に切り替えるだけだ。
イサミは7連撃の最後の反動を利用して瞬時に後ろへと跳躍すると、滞空したわずかコンマ数秒の間に、多機能ベルトの特注ホルダーから『三つの試薬瓶』を同時に抜き取った。
パァン……ッ! パァン……ッ! パァン……ッ!
イサミが地面へ叩きつけたのは、特製の『高濃度煙幕弾』、視界と呼吸を奪う『遅効性毒霧弾』、そして神経を麻痺させる『強力痺れ霧弾』の三連コンボ!
モワァァァァッ……!!
一瞬にして隠れ里の庭が、漆黒の煙と毒々しい紫と黄色の濃霧に覆い尽くされた。
風すらも遮断するような高密度の薬品の煙が、ナクトの視界と嗅覚、そして体調を瞬時に蝕んでいく。
「くっ……ゴホッ……!? 毒と……麻痺の煙……っ!?」
ナクトは袖で口元を覆い、激しく咳き込んだ。
剣士にとって、視界と感覚を奪われるのは死に等しい。
だが――その濃密な毒煙の最中、不気味な「吸気音」が響いた。
「――ぶはっ」
煙の向こう側で、ガスマスクを装着し、不気味なゴーグルを装着したイサミが、豪快に息を吐き出していた。
イサミは最初から、この展開を見越して祭りの際にアイテムの準備を整えていたのだ。
視覚をゴーグルで保護し、呼吸をガスマスクで確保したイサミにとって、この毒煙の領域は、自分だけが一方的に獲物を狩ることができる『絶対安全の猟場』そのものだった。
ゴーグルの奥で、冷たく不気味な光を宿した黒い瞳が、煙の中で必死に身構えるナクトの姿を捕捉する。
イサミは煙を割り、低空で再びナクトの足元へと肉薄した。
「い……イサミッ!? 卑怯よ……そんなの卑劣すぎるわ!!」
煙の外側から、プリモの泣き叫ぶ声が聞こえる。
ガスマスク越しに、イサミの歪んだ声が低く響いた。
「卑劣? 僕『道具屋』ですよ? 使えるものは何でも使わないと、命がいくつあっても足りませんからねぇ!」
ズスッ……ッ!!
ガスマスクのフィルター越しに漏れる粗い吸気音とともに、イサミは短剣を握り直し、ナクトの右太ももへ深々と刃を突き立てた。
「ガっ……ぁっ……!?」
ナクトの口から、苦悶の呻きが漏れる。
毒の浸食と痺れ、そして脚を穿たれた激痛。
常人であれば膝を折り、そのまま崩れ落ちて意識を絶たれていてもおかしくない状況だった。
イサミのゴーグルの奥で、冷徹な損益計算の数値が静かに弾け跳ぶ。
(よし……! 脚を奪った……! 視界も、呼吸も、感覚も、すべてこちらの手中にある……! このまま首筋の動脈を断ち切れば、僕の勝利だ……!)
イサミは一切の猶予を与えず、滑らかな体重移動でナクトの懐へとさらに潜り込み、短剣の尖端をナクトの首元――頸動脈の一点へと一瞬の迷いもなく一閃させた。
勝負あり――誰の目から見ても、そう見えたはずだった。
だが。
――ガギィィィィィィィィンッッ!!!!!
空間を断ち切るような、耳を刺す金属打撃音が庭に響き渡った。
「……な……っ!?」
イサミの思考が、初めて一瞬だけフリーズした。
イサミの短剣の刃を止めていたのは――ナクトが手にした、何の変哲もない木剣の「柄」の極小の角だった。
毒に侵され、痺れに震え、視界を奪われ、太ももを撃ち抜かれたはずのナクト。
その男の右腕が、イサミの超高速の突刺を、まるで最初からそこに刃が来ると分かっていたかのように、完璧な精度で「置かれて」いたのだ。
(読まれていた……!? 僕の……軌道が……!?)
「――おい」
煙の向こう側から響いたのは、地獄の深淵から届くかのような、低く重い一言だった。
ナクトの眼光が、毒霧の暗闇を切り裂いて鋭く輝く。
『闘神』――かつて千の修羅場を潜り抜け、命のやり取りという概念そのものと化していた男の、真の領域。
イサミがどれほどプリモ(レメディア)の記憶を追体験し、どれほど観察眼を研ぎ澄まそうとも、土壇場の「生のやり取りの密度」において、二人の間には越えられない圧倒的な深淵が存在していたのだ。
イサミが仕掛けた不快な煽り、羽澄への狼藉、へらへらとした演舞、そして極上の闇討ち――そのすべてを食らい、毒に身を苛まれながらも、ナクトの戦士としての本能は、一瞬の隙もなくイサミの「殺意の癖」を完璧に捉えていた。
「見事な策だよ。でも……足りない」
ズドン……ッ!!
ナクトの左拳が、イサミの装着していたガスマスクの正面へと叩きつけられた。
「ぐはぁっ……!?」
凄まじい衝撃波がイサミの顔面を襲い、ガスマスクとゴーグルが木っ端みじんに砕け散る。
イサミの華奢な体が吹き飛び、生温かい血を吐き出しながら、湿った石畳の上を激しくゴロゴロと転がった。
「カハッ……ゲホッ……っ、う……っ!!」
イサミが自ら撒き散らした毒と痺れの煙が、破壊された顔面から直接肺へと飛び込んでくる。
視界が赤く染まり、四肢の感覚が急速に麻痺していく。イサミはボロボロになった服で口元の血を拭おうとしたが、指先ひとつ思うように動かない。
それでも――届かなかった。
命を削り、悪役に徹し、あらゆる道具を駆使した渾身の一撃すら――元・闘神の壁を破ることはできなかったのだ。
濃密な風が吹き抜け、庭の煙幕がゆっくりと薄れていく。
肩で息をし、毒と痺れで全身を激しく震わせながらも、ナクトは一歩、また一歩と倒れたイサミへと歩み寄った。
その手にした剣の先が、力なく横たわるイサミの喉元へ、ピタリと突きつけられる。
「……終わりだ」
殺意に満ちた眼光。冷酷で、一切の情けを容赦しない戦士の目。
そのまま一押しすれば、イサミの命など容易く潰える。
だが――ナクトは剣を振り下ろさなかった。
荒い息を吐きながら、冷たく倒れた少年を見下ろし、静かに問いかけた。
「なぜだ。……なぜ、君は……」
ナクトの声音には、怒りだけでなく、ぬぐい切れない「困惑」が混ざり合っていた。
「……羽澄を弄んだのも、オレの冷静さを奪うための芝居……それだけじゃないはずだ。答えろ」
ナクトは馬鹿ではない。
イサミが見せたあの最初の素人じみた上段の振り下ろし、完璧すぎる1撃目の裏の掻き方、そして躊躇のない毒薬の使用。
すべてが「ナクトに勝つため」だけに極限まで計算された命がけの演武だった。
しかし――なぜそこまでして、自分を悪者に仕立て上げ、命を賭してまで手合わせを強制しなければならなかったのか。
その根底にある「理由」だけが、どうしても計算に合わなかったのだ。
イサミはボロボロになった服の袖で口元の血を拭うと、いつものチャラついた笑みを浮かべようとして失敗し、へらっと歪んだ顔のまま目を逸らした。
「……さぁ。言ったじゃないですか。不戦勝じゃ嫌だから手合わせしたかっただけですよ……ゲホッ」
痛みに胸を歪ませながらも、なおもへらへらと薄汚い悪党のフリを続けるイサミ。
一切、本音を語ろうとしないその頑なな姿勢。
だが、ナクトの視線がふと傍らに向かった時、そこにある「決定的な違和感」が、ナクトの中で動かしがたい確信へと変わった。
――レメディアだ。
彼女は膝を折り、血を流して横たわるイサミを見つめながら、ボロボロと大粒の涙を零していた。
その手は激しく震え、腰の細剣の柄へと伸ばされている。
ナクトがイサミの首を撥ねようとすれば――彼女は自らの恩人であり、親でもあるナクトに向かって、剣を抜いて割り込もうとしていたのだ。
(……レメディアは……)
ナクトの胸に、強い衝撃が走った。
プリモは決してイサミの共犯者ではない。
イサミがこんな暴挙に出ることを最初から知っていたわけでもない。
しかし――彼女は今、目の前で泥まみれになり、ボロボロになって倒れているこの愚かな少年が、『こうするしかなかった理由』を、なにか察しているのか。
仲間を、大切な人を、そして何よりナクトたちを守るために――自分がすべての不快感と悪名を背負ってまで、果たさなければならなかった「何か」があるのだと。
ナクトは喉元に突きつけていた剣を、ゆっくりと引いた。
「……言いたくないなら、言わなくていい」
ナクトは静かに背を向けた。
刺さったままだった太ももの短剣を無造作に抜き捨て、毒で痺れる足を引きずりながら、羽澄の元へと歩いていく。
イサミが何を隠しているのか、その真相は分からない。
なぜ自分を挑発し、死に直面してまで口を割らないのかも分からない。
しかし――目の前の泥まみれの少年が、ただの不快な下衆などではないことだけは、ナクトの肌に痛いほど伝わっていた。
静まり返った隠れ里の庭に、冷たい風が吹き抜けていくのだった。