昼間の凄惨な激闘が嘘であったかのように、静けさを取り戻した隠れ里。
高く澄み渡る月光が、木々の隙間から静かに木漏れ日のように差し込み、昼間の熱気を優しく冷ましていく夜のことだった。
全身に何重もの痛々しい白包帯を巻き、節々の骨が軋む重い体を引きずりながら、イサミはゆっくりと廊下を進んでいた。
一歩踏み出すたびに胸の肋骨と脇腹が激痛を訴えるが、ちゃっかりとした商人としての軽やかな足取りだけは崩さない。
やがて羽澄のいる部屋の前までたどり着くと、イサミは木製のドアをひょっこりと叩いた。
「どうも〜、昼間は大変失礼いたしました〜」
引き戸を軽く滑らせ、頭にひときわ大きな包帯をぐるぐる巻きにしたイサミが顔を覗かせる。
そこには、どこか恐縮したような、けれどいつものお茶目で親しみやすい笑顔が浮かんでいた。
部屋の奥で手ぬぐいを絞っていた羽澄は、音に気づいて振り向くと、驚きに目を見張った。
「……あ、イサミさん。お体は大丈夫なんですか?」
痛々しい傷跡を残しながらも平然と立つ少年を案じ、羽澄はそっと手元の作業を止めて出迎えた。
「……骨が二、三本いってるみたいですけど、特製ポーションガブ飲みしたんで明日には動けますよ〜。それより……」
イサミはヘラヘラとした態度を一変させると、その場に立ち止まってペコりと深々とお辞儀をした。
そして、真顔で胸の前で手を合わせた。
「昼間は本当にごめなさい! 理由があったとはいえ、羽澄さんのお胸をあんな大衆の面前で鷲掴みにしちゃって……! いやぁ、触り心地は最高でしたけど、女の子として最低のセクハラでした! ほんと反省してます!」
真剣そのものの面持ちで発せられたのは、あまりにも開けっ広げで素直すぎる謝罪の言葉だった。
「ふ、ふふっ……もう、お辞儀しながらサラッとセクハラ感想を混ぜないでください」
開いた口が塞がらないといった様子だった羽澄だったが、あまりに素直で軽い謝罪の口ぶりに毒気を抜かれ、思わずクスッと可憐に微笑んでしまった。
月明かりが差し込む静かな室内。
羽澄は柔らかい眼差しで傷だらけの少年を見つめ直すと、静かに、けれど慈愛に満ちた声で語りかけた。
「……イサミさん。私、怒っていませんよ。あなたがどうしてあそこまで悪者になってくれたのか、私にはなんとなく分かりますから。だから、ありがとうございます」
羽澄は何か鋭く感じ取っていたのだ。
「やだなぁ、お礼なんて言われたら照れちゃうじゃないですか〜」
思わぬ感謝の言葉を投げかけられ、イサミは柄にもなく気恥ずかしそうにポリポリと頭を掻いた。
「……ちなみに、ナクトにも後で謝りに行くんですか?」
羽澄がベッドの奥――痺れと毒で横たわっている夫の方を指さしながらそう問いかけると、イサミは「えー?」と分かりやすく嫌そうな顔を作って、子供のように唇を大きく尖らせた。
「えっ、ナクトさんに〜? 嫌ですよー、ナクトさんには絶対謝りませ〜ん! あんなにボコボコに殴られたの、僕の方ですよ? 痛かったんだから!」
「ふふっ、ナクトは全身毒と麻痺で、今もベッドでうんうん唸っていますよ?」
「自業自得でーす! あはは、ざまーみろって感じですね〜!」
明るくあっけらかんと笑い飛ばすイサミ。
ナクトへ頭を下げないのは、決して反省していないからでも、つまらないプライドで意地を張っているからでもない。
ナクトと「男と男として、命がけで拳(と剣)を交わした」以上、ここで変に「すみませんでした」なんて口にしたら、あの死闘そのものが、互いに命を張った覚悟そのものが安っぽく濁ってしまう。
ナクトも自分も、お互いにそんな上辺だけの謝罪など望んでいない――不器用な激闘の果てに生まれたその不文律を理解しているからこその、イサミなりの筋の通し方であり、割り切りだったのだ。
「じゃ、僕はそろそろ失礼しまーす! プリモさんから『謝ってこないと殺す』っていう雰囲気に脅されて来ただけなんで! おやすみなさい、羽澄さん!」
イサミはひらひらと手を振りながら、少し痛そうに腰をかばいつつも、軽い足取りで部屋を出ていく。
静まり返った廊下に消えていくその小さく頼もしい背中を見送りながら、羽澄は「本当に不思議な男の子なんだから……」と、温かい溜息をひとつ漏らすのだった。
♢
羽澄の部屋を辞し、痛む脇腹をかばいながら自分たちの客間へ戻ったイサミ。
ドアをそっと開けると、部屋の明かりの下、腕を組んで椅子に腰かけている人物がいた。
プリモだ。
他の姿はない。子供たちは気利かせて外したのか、それともプリモの纏う圧倒的な重圧に耐えかねて退散したのか。
「あ……れ? プリモさん? …」
「二人は隣の部屋で寝かせたわ」
氷のように冷たい声。
プリモは静かに立ち上がると、ドアの鍵をカチャリと閉めた。
「座りなさい、イサミ」
「え〜っと、僕、怪我人なんですけど……」
「座りなさい」
「はーい……」
普段の凛とした騎士の顔ではない。
怒りと、困惑と、それ以上に「身内を本気で心配して怒っている」母親か姉のような強い目力に圧され、イサミは大人しくベッドの端に腰を下ろした。
プリモはイサミの前に仁王立ちし、深く、深〜く溜息をついた。
「……イサミ、自分が何をしたか分かってるの?」
「えっと……羽澄さんのお胸を揉み揉みして……」
「ふざけないで!!」
バンッ!とテーブルを叩く音。イサミの肩がビクッと跳ねる。
「羽澄へのセクハラも最低だけど、私が怒ってるのはそこじゃないわ! イサミ、死ぬ気だったでしょう!? ナクト相手に、あんな真似して生き残れるわけがないことくらい、頭のいいあなたなら分かってたはずよ!」
「……いやぁ、僕なりに勝算はあったんですよ? 煙幕とか毒とか……」
「言い訳しないの! 相手は『元闘神』なのよ!? 実戦経験も、何もかも上の男に……っ、もしナクトの手が狂ってたら、あなた今頃真っ二つになって死んでたのよ!?」
レメディアの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
ナクトとの決着、羽澄の運命……重すぎる苦悩を背負っていた彼女の前に、突如として割り込み、命を投げ出すようにして強引に事態を動かした少年。
「なんで……なんでいつもそうなのよ。ちゃっかりしてて、ずる賢くて、損得勘定でしか動かないフリして……どうして一番痛くて、一番危険なことを…………一人で全部背負い込もうとするのよ……!」
感情を爆発させるプリモ。
イサミは一瞬、いつものおちゃらけた笑みを消した。包帯まみれの頭を掻きながら、小さく息を吐く。
「……プリモさん」
「何よ……っ」
「僕、別に正義の味方じゃないですよ。死ぬつもりなんてサラサラなかったし、今だって全身痛くて泣きそうです」
「じゃあ、なんで……!」
「言えないですよ。……今は、まだ」
イサミは目をそらし、へらっと歪んだ笑みを浮かべた。
「あなた……っ、本当に……バカ……ッ!」
プリモは言葉を詰まらせ、そのままイサミの頭をぐしゃぐしゃと強く撫で回した。
包帯に響いて「痛たたた!」とイサミが悲鳴を上げる。
「絶対に許さないから。理由、いつか必ず吐き出させるからね。……それと、ナクトにも明日ちゃんと謝りなさい!」
「えぇー!? ナクトさんには謝らないってさっき羽澄さんに誓ったばっかり……痛い痛いです! 腕引っ張らないでプリモさん! 骨折れてるってば〜〜!!」
夜の静けさの中、プリモの容赦ない(でも愛の詰まった)お小言と、イサミのなさけない悲鳴が、いつまでも部屋に響いていた。