夜の静寂が、より一層深まりを見せていた。
プリモのお小言が落ち着き、イサミのなさけない悲鳴が収まった後、部屋には微かな蝋燭の煤と、夜風が運んでくる草木の香りのみが満ちていた。
隣の部屋からは子供たちの規則正しい寝息がうっすらと聞こえてくる。
プリモは、逃がさないとばかりにドアの鍵を施錠したまま、迷いのない足取りでイサミの横たわるベッドへと近づいてきた。
自由な行動と逃亡を徹底的に見張るかのように、躊躇いなく同じベッドの中へと滑り込んでくる。
「えっ……ちょ、ちょっとプリモさん……? 」
イサミが痛む身体を硬直させて戸惑いの声を上げるが、プリモはそれを毅然とした態度で無視した。
薄暗い室内の中、窓から差し込む青白い月明かりが、彼女の額に埋め込まれた深紅のクリスタルを密やかに照らし出す。
夜空の星々を集めたかのように美しく、神聖で、けれどどこか儚い光を宿して静かに光り輝いて見えた。
プリモはそっと手を伸ばすと、包帯まみれになったイサミの頭を、自らの胸元へと優しく抱き寄せた。
「……」
それだけだった。
言葉は何もなかった。ただ、深く包み込むような無言の時間だけが、二人を優しく包み込んでいく。
ドックン……ドックン……と、耳元で聞こえる一定のリズムを刻む心音。
柔らかくも温かいその鼓動は、全身の激痛と、一人で全てを背負い込もうとして擦り切れていたイサミの心を、解きほぐすように深く落ち着けていった。
イサミは抗うのをやめ、身を委ねるようにその温もりの中で静かに目を閉じた。
言葉のない静寂の中、どれくらいの時間が流れただろうか。
夜がさらに深く更け渡り、月が天頂へと差し掛かった頃――ふと、イサミがポツリと口を開いた。
「…レメディアさん」
「………っ!」
抱きしめていたレメディアの身体が、一瞬だけぴくりと跳ね上がった。
プリモ、ではなく、レメディア。
普段のイサミは、どんな時でも彼女のことを「プリモさん」と呼んでいた。
過去の記憶を取り戻した後であっても、今目の前にいる彼女自身を重んじて、決してその名を直接呼ぶことはなかったのだ。
初めて呼ばれるその特別な呼び名に、レメディアは胸の奥を鷲掴みにされたような衝動を覚え、ほんの少しだけ身構えた。
声を出しての返事はなかった。
だが、その鼓動の一瞬の揺らぎと、頭を撫でる指先の微かな強張りから、返事をせずとも「聞いているわ」という意思をイサミは確かに感じ取っていた。
イサミは呼吸を整えるように小さく息を吐き出すと、温かい胸元の中で言葉を紡いだ。
「…………僕の、名前もお教えしますね」
抱きしめる腕の中で、レメディアは予想外の言葉に少し困惑した。
イサミ。今まで当たり前のように呼び合ってきたその名前。
それすらも、彼にとってはただの「演じられた偽名」だったというのだろうか。
自分自身が『レメディア』という真実を隠し、『プリモ』として生きてきたように。
イサミは彼女の揺らぎを察したように、微かに語気を和らげて続けた。
「いえ。……あの、偽名ではないんです。本名ですよ。ちゃんと」
「………どういうこと?」
レメディアは胸元で眠る少年の言葉の意図を測りかね、素直に、率直に問うた。
「1度しか言いませんから」
イサミはそう囁くと、ずっと胸元に埋めていた頭をゆっくりと持ち上げた。
一度、互いの吐息が触れ合うほどの距離で、夜の暗がりの中でお互いの目を深く見つめ合う。
月明かりに照らされたイサミの黒い瞳の奥には、いつものチャラついた商人としての面影はどこにもなかった。冷徹で、哀しく、そしてどこまでも誇り高い「何か」を宿した瞳。
イサミは、その唇を静かに開いた。
「イサミ。…………イサミ・セイハジュウ・ナガサキ。です」
「………………そう。」
レメディアの紫水晶の瞳が、驚愕と納得の混じり合った色で揺れた。
『セイハジュウ・ナガサキ』。
そしてその背後に透けて見える、かつて闘神都市のコロシアムで総合受付嬢を務め、露出度の高いバニーガール衣装で華やかに場を彩っていたあの名物受付嬢――シュリ。
お茶目でちゃっかりとして商魂たくましく、酸いも甘いも噛み分けた大人の包容力を持つ彼女の顔が、かつて『闘神』として大会に出場していたレメディアの脳裏に鮮烈に蘇る。
イサミが見せるあの図太い商人魂や、どこか人を食ったような立ち振る舞い。
その根底に流れる血のルーツを知ると同時に、なぜ彼が一人で毒を喰らい、悪者を演じてまで『闘神』ナクトの前に立ち塞がらなければならなかったのか。
その因縁と覚悟のすべてが、一瞬にして繋がった気がした。
「あはっ…。……察しがいいですねぇ。プリモさんは」
言葉の語尾が『レメディアさん』から、再びいつもの『プリモさん』へと戻る。
短い会話。
だが、そこには二人だけの、二人にしか理解し得ない絶対的な秘密と絆が刻まれていた。
それだけを話し終えると、イサミは満足したように小さく息を漏らし、再びレメディアの温かい胸元へと深く身を寄せた。
全身を包む痛みを温もりに溶かしながら、イサミはレメディアの優しさに抱かれ、安らかな深い眠りについたのだった。