深夜。
隠れ里の館は、まるで世界そのものが眠りについたかのような深い静寂に包まれていた。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らし、葉と葉が触れ合うかすかな擦れ音だけが遠くから届いている。
月光は冴え冴えと青白く、木造の部屋の床に冷たい影を落としていた。
ベッドの中では、プリモ優しく包み込むようにイサミを抱きかかえたまま、規則正しい息声を立てていた。
その額に埋め込まれた深紅のクリスタルは、淡い月光を浴びて静かに、透き通るような輝きを宿している。
イサミは息を殺し、全身の痛みに耐えながら、彼女の温かい胸元からそっと抜け出した。
身体の節々が激しく痛み、きつく巻かれた包帯の下で傷口が熱を帯びて主張する。
一歩動くだけで骨が軋むような痛みが走ったが、イサミは苦悶の声を一切漏らさず、ベッドの端から床へと音もなく足を下ろした。
眠るプリモの顔を、イサミは一瞬だけ見つめた。
昼間の荒々しい激闘、自分への真剣な怒り、そして先ほど見せた包み込むような温もり。
そのすべてを胸の奥にそっと仕舞い込むように、イサミは小さく息を吐いた。
床に置かれていた革製の鞄を引き寄せ、静かに荷物をまとめる。
傷薬の小瓶や予備の道具が触れ合って小さな音を立てそうになるのを、熟練の手つきで慎重に抑え込んだ。
ドアの鍵を音もなく外し、イサミはそっと部屋を出た。
薄暗い廊下を踏みしめ、1階へと続く木製の階段を一段ずつゆっくりと降りていく。
自分の足音が館の中に響かないよう、体重の置き方に細心の注意を払いながら。
1階に降り立ち、静まり返ったリビングを通り過ぎようとする。
この広々とした木造の家のどこかの部屋には、ナクトが、羽澄が、そして幼い子供たちが眠っているのだろう。
――もう、イサミには戦う意思はなかった。
ナクトに挑み、自ら泥を被り、命がけの手合わせを演じた。
すべては終わったのだ。
これ以上、この場所に留まる理由もなければ、己の因縁で彼らの穏やかな生活を乱すわけにもいかなかった。
静かに玄関の引き戸へと手をかけ、誰にも気づかれずにそのまま夜の闇の中へ消え去ろうとした、その時。
「待て」
背後から、低く静かな声がかけられた。
イサミはピタリと足を止めた。だが、振り返らない。
静まり返った玄関に、薄い月明かりだけがイサミの影を長く引き伸ばしていた。
「……何か? やはり返り討ちにして殺しますか?」
軽口を叩くような調子でありながら、その声にはどこか冷ややかな諦和が混ざっていた。
イサミの手は、いつでも懐の短剣へ伸びる位置に保たれている。
しかし、背後に立つ男から殺気が放たれることはなかった。
ナクトは深く、重い溜息をひとつ吐き出した。
全身の毒と痺れ、そしてイサミの手によって刻まれた激痛が残っているはずだが、その足取りは静かで、確かな重みを伴っていた。
「……そんなつもりはないよ」
ナクトの静かな声が、夜の静寂に溶け込んでいく。
「レメディアのこと。……キミが何かしてくれたんだろ? ……ありがとう。それだけ言いたくて」
ナクトの言葉には、一切の飾りがなかった。
昼間の死闘、イサミが見せた暴挙と不快な演技、そしてその裏に隠されていた本当の意図。
元・闘神としてのナクトの直感は、イサミが背負おうとしたものの重さを、そして彼がレメディアや自分たちに何をもたらしてくれたのかを、確かに理解していた。
ナクトから投げかけられた真っ直ぐな感謝の言葉。
それに対して、イサミは無言を貫いた。
背を向けたまま動かず、何かを深く考えているようにも見える。
傷だらけの肩が、夜の冷気の中でゆっくりと上下していた。
館の気配で分かった。
2階の階段の影、廊下の奥、そして別の部屋の陰。
息を殺して気配を潜めているが、羽澄も隠れてこのやり取りを聞いている。
そして、さっきまで同じベッドにいたはずのプリモも、既に目を覚まし、そっとこの様子を見守っているらしかった。
誰もが、イサミという不思議で、あまりにも優しく不器用な少年の去り際を見つめていた。
静寂が支配する空間の中で――イサミは、くすっと小さく笑った。
次の瞬間。
シュッ……!!
凄まじい風切り音が夜の空気を引き裂いた。
イサミの指先から放たれた一枚の投げナイフが、月光を反射して銀色の閃光を描く。
刃はナクトの身体を完璧に捉える軌道を描きながらも――ナクトが微動だにしないその股下をすれすれで潜り抜け、背後の木製の壁深くへと「ズドンッ!」と突きたてられた。
持ち手部分が、細かくブワァンと震えて音を立てる。
イサミはゆっくりと顔だけを振り返り、悪戯が成功した子供のような、最高に生意気でお茶目な笑顔を浮かべた。
「やっぱり、僕。ナクトさんのこと嫌いですよ〜」
あははっ、と軽快で明るい笑い声を夜の館に響かせると、イサミは背を向け、痛む身体も忘れたかのような素早い足取りで、夜の闇の中へと勢いよく走っていった。
「あいつ……」
ナクトは股下に突き刺さったナイフを見下ろし、呆れたように苦笑いを漏らした。
闇の中へと消えていく少年の後ろ姿。
建物の影からは、羽澄がそっと姿を現し、安心したように胸に手を当てて微笑んでいた。
さらにその奥、廊下の暗がりからは、プリモが静かに佇み、イサミが走り去った夜の道を見つめている。
誰もが知っていた。彼が去っていくのは、逃げるためでも、拒絶するためでもない。
商人として、そして一人の男として、己の筋を通し、また新しい明日へと歩み出すためなのだと。
夜風が館の中を吹き抜け、イサミが残していった賑やかな余韻と温もりが、静かに夜の中に溶けていくだけだった。