エピローグ
街道を渡る風は心地よく、緑豊かな木々がサラサラと音を立てて揺れている。
大きな仕事を終えた一人の少年が、長閑(のどか)な一本道を軽快な足取りで歩いていた。
背中には、彼自身を象徴するような巨大なリュックサックは今はない。
代わりに腰袋の中には多様なポーション、応急処置の包帯、解毒薬、果ては戦闘用の物資が詰め込まれている。
少年の足取りには一切の重たさがない。
土を踏みしめてリズミカルに進んでいく。
「いやぁ〜、さすがに闘神様に挑むのは無謀でしたか。失敗失敗っ!」
整った顔立ちにチャラついた笑みを浮かべ、少年——イサミはポンと自分の頭を叩いた。
「『ナクトって人を見つけたら胸を借りて来なさい』って、前に母さんに言われてたからなぁ……。うーん、でもなぁ……」
酸いも甘いも噛み分けた母の教えを守り、挑んだ結果、見事に完封されてしまったのだ。
「しかも、ナクトさんは木剣。闘神になった時はえげつない剣を持ってたらしいですし……。ま、これも良い経験ってことにしましょう! 」
反省したかと思えば、即座に新たな思考に切り替える。
その瞳には、ちゃっかりとした輝きが浮かんでいた。
イサミの生業は、冒険者にして自称『歩く道具屋』
その目的は、自分のことを公表していない母から唯一名前の出たナクトという人物に因縁を吹っ掛けること。
完敗という結果に終わったわけだが。
「……おや?」
楽しそうに独り言をこぼしながら街道を進んでいたイサミは、ふと足を止めた。
街道の脇に広がる鬱蒼とした茂みから、ガサガサと不穏な葉擦れの音が響く。
次の瞬間、低く濁った唸り声とともに、鋭い牙を剥き出しにした大型の魔物『フォレスト・ウルフ』が2体、躍り出てきた。
街道を通りかかる旅人を狙う、害獣の類だ。
「おわぁっ!? ちょっとちょっと、魔物ですかぁ!? 僕みたいな弱小道具屋を狙うなんて、野蛮すぎますよ〜!」
イサミは情けない声を上げながら、大袈裟に両手を上げて後ずさる。
両手を盾にするように身をかがめ、腰の短剣に手を伸ばすものの、その手はプルプルと震えており、いかにも不慣れで腰が引けている。
狼たちは、イサミのその「弱々しい立ち回り」を視界に収めた。
一歩、また一歩と足取りを緩め、完全にイサミを『容易く狩れるカモ』だと認識する。
威嚇の声を上げる必要すら感じないのか、無防備に舐めきった足取りで距離を詰めてくる。
「わ……っ! こ、これでも食らいなさいってば!」
半狂乱になったフリをしながら、イサミは腰袋から小瓶を取り出し、足元へ投げつけた。
破裂音とともに巻き起こる煙幕。
しかし、投げ方が下手くそだったのか、煙幕は狼たちの視界を中途半端に遮る程度でしか効果を発揮しない。
(……うーん、なんだかデジャブですねぇ)
煙の中で、イサミの内心は恐ろしいほど冷静だった。
パニックを起こしているように見える無駄なバタバタとした動き。
それらはすべて、狼の注意を逸らし、間合いを誤認させ、攻撃パターンを『単調な力任せの跳びかかり』へと誘導するための緻密な仕込みだ。
これぞ、かつての伝説の女剣士の戦術…………。
幼い頃から母親に徹底的に叩き込まれた、心理と間合いを完全に支配する狡猾な罠だ。
狼の1体が、痺れを切らしたように足裏で地面を蹴った。煙を突き抜け、無防備に見えるイサミの喉元を目指して一直線に空中へ跳び上がる。
「勝った」と確信した狼の瞳。
相手が完全に隙を見せ、自らの勝利を疑わないその瞬間——
イサミのチャラついた瞳から、おちゃらけた光がスッと消え去った。
(——。)
跳躍の頂点、空間に縫い付けられたかのような一瞬の静寂。
イサミの踏み込みは、残像すら残さない爆発的な速度だった。
先ほどまでのモタつきが嘘のように、体躯を極限まで低く沈め、狼の錯覚の隙間へと滑り込む。
ギラリと閃く、一筋の銀光。
すれ違いざま、短剣が狼の首筋を寸分の狂いもなく断ち切っていた。
「……ッ!?」
声すら上げられない。着地と同時に崩れ落ちる1体目のウルフ。
残されたもう1体のウルフが、何が起きたのか理解できずに硬直する。
弱小な獲物だと思っていた存在が、一瞬で仲間を切り捨てて立ち上がったのだ。
あまりの緩急に、獣の本能すら処理が追いつかない。
——そのままもう一体も貫いた。
「さて! もうすぐコパンドンCITYですね。皆さんは元気ですかね〜」
少年はウインクを一発飛ばすと、軽い足取りで再び街道を歩き始めた。
『歩く道具屋』イサミの、ヘラっとした冒険はまだ始まったばかりだ。