コパンドンCITYの夜は早い。
夕刻のゲリラ豪雨が去った後の街は、濡れた石畳が街灯の淡い光を反射し、涼しい夜風が吹き抜けていた。
傘のゲリラ販売で見事に大銀貨20枚(金貨2枚相当)の純利益を叩き出したイサミは、懐の重みを指先で確かめながら、ご機嫌な足取りでコパンドンCITYの北区——通称「クラン街」と呼ばれるエリアを歩いていた。
この北区は、中堅から大手に至るまで、数多くの冒険者クラン(ギルド以外の冒険者互助組織)が事務所や拠点を構える、巨大なビジネス街のような場所だ。
「ふ〜ふ・ふ〜ん♪ 雨降って地固まる、財布膨らんで僕ニッコリ〜♪」
イサミはお茶目に鼻歌を口ずさみながら、背中の巨大リュックを軽く弾ませる。
表向きは、夜の街を散歩するお気楽なチャラい少年。
だが、イサミの瞳は暗闇の中で冷たく冴え渡っていた。彼がわざわざ夜のクラン街を歩いているのは、ただの気まぐれではない。
(……ふむ。昨日決まったクロエさんたちの『爆速Cランク昇格ツアー』。あれが順調に進めば、彼女たちが『自分たちの拠点(クランホーム)』を欲しがる時期は、思ったよりも早く来そうですねぇ)
イサミは歩きながら、頭の中でソロバンの珠を弾く。
クロエとココに自分たちの金で拠点を作らせる。
その計画を完璧なものにするためには、物件の確保や資金調達のアドバイスだけでなく、**「その拠点を維持・管理する優秀な人材」**をあらかじめ見つけておく必要があるのだ。
いくら冒険者として腕が上がっても、クロエやココのような現場職(前衛・後衛)に、複雑な事務処理、素材の在庫管理、クライアントとの契約交渉といった「裏方業務」までこなせるわけがない。放置すれば、一ヶ月で拠点の経営はパンクするだろう。
(固定費のリスクは彼女たちに負わせ、僕は専属の出入り業者として利益を吸い上げる……そのためには、優秀な「支配人(管理人)」の存在が不可欠です。どこかに安く買い叩かれていて、引き抜きやすそうな逸材は落ちていませんかねぇ……?)
そんな、恐ろしいまでに冷徹で合理的な思考を巡らせていた、その時だった。
「……あ、あの……申し訳ありません。そちらの書類の認可は、明日の朝一番で……はい、すぐに処理いたしますので……」
路地裏に面した、一際大きな4階建ての豪華な建物の裏口。
そこから、消え入りそうな、疲弊しきった女性の声が漏れ聞こえてきた。
イサミの足が、ピタリと止まる。
声が聞こえたのは、コパンドンCITYでも指折りの大手クラン『黒獅子の盾』のクランホーム裏手だった。
表通りに面した正面玄関は煌々と明かりが灯り、酒を飲んで浮かれる上位冒険者たちの怒号や笑い声が響いている。しかし、この薄暗い裏口の階段の段差に、一人の女性が寂しく腰掛けていた。
イサミは気配を殺し、影の中からそっとその女性の姿を観察した。
年齢は二十歳前後だろうか。
銀色の豊かな髪を後ろで一つに束ね、クランの受付兼事務員の制服を着ている。
本来なら、包容力のある優しい目元と、豊満で柔らかなスタイルを持った、街の男たちを惹きつけてやまない「癒やし系のお姉さん」であるはずだった。
だが——今の彼女の姿は、あまりにも痛ましかった。
白い肌は血色を失って蒼白く、その美しい瞳の下には、遠目からでもはっきりと分かるほど**色濃く重い「黒いクマ」**が張り付いている。
書類の束を膝の上に抱え、ペンを握る手は寒さと疲労でかすかに震えていた。
「ハァ……。今日の分の帳簿整理……あと三十冊……。明日の早朝までに終わらせないと、またクランリーダーに怒鳴られちゃう……」
女性——エリスは、乾いた唇から力のない吐息を漏らし、自らの額を冷たい手で押さえた。
「ううん、負けちゃダメ……。私が頑張らないと、現場の冒険者さんたちが困るんだから……。大丈夫、まだ……あと少しなら、起きていられる……っ」
そう自分に言い聞かせるように呟くが、彼女の視線は定まらず、今にも意識を失って倒れそうなほど限界を迎えていた。
(……ほう?)
イサミの瞳の奥で、恐ろしいほどの「眼力」が光った。
一目見て、状況の全てを理解した。
大手の『黒獅子の盾』。
表向きは華々しい実績を誇る有名クランだが、裏では事務員や裏方スタッフを劣悪な労働環境で酷使し、使い捨てにしているという噂のある「ブラッククラン」だ。
そして目の前の彼女——エリス。
能力が高く、責任感が強いがゆえに、横暴なクラン幹部たちから過剰な業務を全て押し付けられ、過労死寸前まで搾取されている。
(……素晴らしいですね)
イサミの胸の中で、冷たくも高揚した計算が弾けた。
(年齢は20歳前後。手慣れた書類捌き、過酷な労働にも耐えうる圧倒的な責任感と誠実さ。そして何より……今の彼女は、絶望的な過労と孤独の中にいる)
イサミの口角が、一瞬だけ怪しく吊り上がった。
だが、次の瞬間。
イサミの顔からは一切の邪心が消え去り、純粋で、どこか可憐で、心から相手を心配している「優しく愛らしい少年」の表情へと完璧に切り替わった。
ステップを踏むように、足音を軽く響かせて裏路地へと歩み出る。
「……あれ? お姉さん、こんなところで何をしているんですか〜?」
「え……っ!?」
不意に聞こえた少年の声に、エリスはビクッと体を跳ねさせ、慌てて膝の上の書類を隠そうとした。
「あ……ご、ごめんなさい! ここは『黒獅子の盾』の敷地内で……関係者以外は立ち入り禁止で……っ」
衰弱しきった声で、それでも健気に注意しようとするエリス。
だが、その視線の先に立っていたのは、自分よりもずっと年下の、背中に巨大なリュックを背負った、お茶目で可愛らしい少年——イサミだった。
「え〜! ごめんなさい! 立ち入り禁止でしたか!」
イサミは大袈裟にお手上げのポーズをとってみせた。
「でもでも! 通りがかりにふと見たら、すっごく綺麗な女性が、今にも倒れそうな顔で震えていたから……僕、心配になっちゃって」
イサミはゆっくりと歩み寄り、エリスの目線に合わせて、トコと腰を落とした。
夜の街灯に照らされたイサミの瞳は、どこまでも澄み渡り、純粋な同情と慈愛に満ちているように見えた。
「お姉さん……目元に、大きなクマができていますよ? 全然眠れていないんじゃないですか?」
「あ……ええと……」
エリスは気まずそうに目を逸らした。
「だい、大丈夫ですよ……? 事務の仕事が、少しだけ込んでいて……。私、受付兼支配人代行ですから、これくらい頑張らないと……」
弱々しく微笑もうとするエリス。だが、その声は掠れ、今にも途切れそうだった。
「……大丈夫なわけ、ないじゃないですか」
イサミの声音が、すっと静かになった。
いつものチャラついたトーンを消し、まるで弟が姉を案じるような、温かくも芯のある声。
イサミは背中の巨大リュックをスルスルと下ろすと、その中から小さな魔法式の携帯湯沸かしポットと、上質な茶葉の入った小瓶を取り出した。
「僕、旅の道具屋をやっているイサミっていうんです。……ちょっとだけ、お付き合いいただけますか?」
「え……? あ、でも、仕事が……」
「ダメです!」
イサミはきっぱりと言い放ち、手際よく温かいお湯を注いだ。
湯気とともに、路地裏にパッと広がったのは、甘く香ばしい、心を芯から解きほぐすような極上のハーブの香りだ。
イサミは自家製の『特製・身体を温める薬草茶』を木製のカップに注ぐと、両手で包み込むようにしてエリスの手元へ差し出した。
「はい、どうぞ。火傷しないように、ふーふーして飲んでくださいね」
「これ……私に……?」
「もちろんです! 頑張り屋さんのお姉さんへの、僕からのプレゼントですよ〜っ!」
イサミはお茶目にウインクしてみせた。
エリスは戸惑いながらも、イサミの温かな手からカップを受け取った。
カップから伝わってくる心地よい温もりが、冷え切っていた彼女の指先に染み渡っていく。
「……じゃあ、お言葉に甘えて……いただきます……」
ふー、ふー、と小さく息を吹きかけ、エリスは薬草茶を一口口に含んだ。
「……っ!」
その瞬間、エリスの瞳が大きく見開かれた。
じわぁぁぁぁ……っ。
口の中に広がる優しい甘みと、身体の隅々まで染み渡るような強烈な温かさ。
疲弊しきっていた胃腸が優しく温められ、緊張でガチガチに固まっていた肩の筋肉が、まるで魔法のように解けていく。
「な……なにこれ……すごく、温かい……。身体の奥から、ポカポカしてきて……」
「ふふん、でしょう〜? 旅先で寒さに震える人のために、僕が特製で調合した『ポカポカ薬草茶』です! 疲労回復と魔力循環を促す効果もあるんですよ!」
イサミは自慢気に胸を張った。
エリスは二口、三口と、愛おしそうにお茶を飲み進めた。
一杯のお茶を飲み干す頃には、彼女の青白かった頬に、うっすらと赤みが差し、震えていた手もすっかり落ち着いていた。
「はぁぁ……っ。ごちそうさまでした……。こんなに美味しいお茶、生まれて初めて飲んだかもしれません……」
エリスは心底救われたような、柔らかで包容力のある笑みを浮かべた。
それが、彼女本来の「優しいお姉さん」の顔だった。
「ううん、お礼なんていいんですよ。お姉さんの笑顔が見られただけで、僕の勝ちですから!」
イサミはお茶目に笑うと、すっと立ち上がり、エリスの目の前へ一歩踏み出した。
そして——
そっと、優しく。
イサミはエリスの頭の上に小小さくて温かな手を乗せ、撫でた。
「え……? イサミ……くん……?」
突然のことに、エリスは目を丸くして固まった。
年下の少年に、頭を撫でられている。普通なら驚くか呆れる場面だ。
だが、イサミの手のひらから伝わってくる圧力は、どこまでも優しく、労いに満ちていた。
「お姉さん、すっごく頑張りましたね。えらいです」
ポンポン、と優しく髪を撫でながら、イサミは真面目な瞳でエリスを見つめた。
「こんな夜遅くまで、一人でたくさんの書類と戦って……クランのみんなのために、一生懸命尽くしてきたんですよね」
「っ……あ……」
エリスの胸の奥が、ツンと激しく痛んだ。
誰も認めてくれなかった。
クランの幹部たちは「やって当然」という顔で仕事を押し付け、失敗すれば罵倒し、成果は全て自分たちのものにした。
「ありがとう」の一言すら、何ヶ月も言われていなかった。
それを……今日初めて会ったばかりの、この小さな少年が、完璧に理解して、褒めてくれている。
「……でもね、お姉さん」
イサミの手が、撫でるのを止め、エリスの頬の横で優しく止まった。
「無理しちゃ、ダメですよ?」
「……え……?」
「どんなに頑張っても、お姉さんの体が壊れちゃったら、元も子もないじゃないですか。お姉さんの命や健康より大切な仕事なんて、この世界に一つもありません」
イサミの言葉は、まるで冷え切ったエリスの心に灯る、小さな温かな灯火のようだった。
「無理をしないで、自分を大切にしてください。……約束ですよ?」
「イサミ……くん……っ」
ぽろり、と。
エリスの深いクマが浮かぶ目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
一度溢れ出したら、もう止まらなかった。
抑え込んでいた孤独、疲労、理不尽への悔しさ、そして今包み込まれた圧倒的な安心感。
それらが一気に涙となって、彼女の頬を濡らしていく。
「あ……ごめんなさい……っ、私……急に涙が……っ」
「いいんですよ。泣きたい時は、思いっきり泣いていいんです」
イサミは嫌な顔一つせず、懐から清潔なハンカチを取り出すと、エリスの涙を優しく拭い取ってあげた。
エリスはハンカチに顔を埋め、声を出して泣いた。
イサミはその横で、彼女が落ち着くまで、ずっと静かに寄り添い、優しく背中をさすり続けたのだった。
◆
十分ほどが過ぎ。
涙を拭い終えたエリスは、すっかり落ち着いた様子で、少し赤くなった目を小さく窄めて微笑んだ。
「……ふふ、ごめんなさいね、イサミくん。年上なのに、こんなところで泣いちゃって……情けないところを見せちゃったわ」
「ううん! 全然情けなくなんてありませんよ! お姉さんは世界一頑張り屋さんです!」
イサミがニカッと眩しい笑顔を向けると、エリスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとう、イサミくん。……私、エリスっていうの。『黒獅子の盾』で受付と事務をやっているわ」
「エリスお姉さんですね! 覚えました!」
イサミはお茶目に敬礼してみせた。
「エリスお姉さん、その書類……僕も手伝いましょうか?」
「えっ!? いいのよ、そんなの! イサミくんは部外者だし、こんなにたくさん……」
「大丈夫ですって! 道具屋の計算速さを舐めてもらっちゃ困りますよ〜! ほらほら、半分貸してください!」
「あ……ふふ、ありがとう。じゃあ……少しだけ、お願いしようかしら」
エリスは困ったように笑いながらも、心底嬉しそうに書類の束を分けた。
それからの二時間。
月明かりが照らす路地裏で、二人並んでの作業が始まった。
イサミの書類処理能力と暗算速度は、エリスの想像を遥かに超えて異常だった。
ペンを走らせる音、ソロバンを弾く音が心地よく響き、あんなに山積みだった書類が、見る見るうちに片付いていく。
「すごいです、イサミくん……! こんなに早く終わるなんて……!」
「へへ〜ん、伊達に『歩く道具屋』やってませんからね!」
イサミはお茶目にウインク飛ばす。
作業が終わり、エリスの顔には、先ほどまでの死相のような疲労は消え、穏やかで柔らかな「癒やしのお姉さん」の表情が完全に戻っていた。
「本当にありがとう、イサミくん。お茶も、温かい言葉も……全部、一生忘れないわ」
エリスは膝を折り、イサミの目線に合わせると、包容力に満ちた優しい笑顔でイサミの頬を撫でた。
「ふふ、お疲れ様。イサミくんも、あまり無理しちゃダメよ? 何かあったら、いつでも私を頼ってね」
「はーい! エリスお姉さんも、今日はもうしっかり寝てくださいね!」
「ええ、そうするわね。……それじゃあ、またね、イサミくん」
エリスは名残惜しそうに手を振りながら、書類を持ってクランホームの建物の中へと戻っていった。
その足取りは、先ほどとは見違えるほど軽く、しっかりとしていた。
建物の扉が静かに閉まる。
裏路地に、再び静寂が戻った。
「……ふぅ」
イサミは、すっと息を吐き出した。
その瞬間。
彼の顔から「愛らしい少年」の表情が完全に消え去り、冷徹で、緻密で、完璧な悪魔の計算を終えた「プロの道具屋」の顔が戻ってきた。
イサミは無言で手帳を取り出し、ペンを走らせる。
『北区・大手クラン「黒獅子の盾」支配人代行・エリス』
『才能限界:Cap 18 / 事務・統括能力:極めて優秀』
『現状:ブラック環境による深刻な過労と精神的疲弊』
イサミは手帳を閉じると、闇の中でニヤリと、暗い笑みを浮かべた。
(……完璧ですねぇ)
イサミの頭の中で、今後の巨大なジグソーパズルが、カチリと音を立てて組み上がっていく。
【ステップ1】
クロエとココを稼がせ、『Cランク昇格』と『自前の拠点 購入』へ誘導する。
【ステップ2】
拠点を持ったクロエたちに、「優秀な管理人が必要でしょう?」と持ちかける。
【ステップ3】
過労で限界を迎えているエリスを、ブラッククラン『黒獅子の盾』から引き抜き(スカウト)、クロエたちの新ホームの「支配人」として据え置く!
(ふふふ……! エリスお姉さんほどの逸材なら、拠点の運営も、僕との仕入れ交渉も完璧にこなしてくれるはず。)
ブラッククランで酷使されていた逸材を、自分の思い通りのポジションへ引き抜き、専属の支配人として配置する。
自分はリスクを一切負わず、完璧な「お姉さん支配人」に管理された、快適な拠点を手に入れるのだ。
(そのためには……近いうちに、クロエさんたちに『エリスお姉さんの引き抜き作戦』を仕込まなきゃですねぇ。スカウトマンをやらせて、貸しを作っておきましょう)
イサミはお茶目に片目を瞑り、チャリンとポケットの中で銀貨を鳴らした。
「ふふふ、楽しみですねぇ……! 僕の最高の『お姉さん支配人』様!」
イサミは巨大なリュックをくいっと担ぎ直すと、月明かりの石畳を、ホクホク顔でルンルンと歩き出した。
冷徹な陰謀と、少年らしいおちゃめな足取り。
歩く道具屋イサミの「拠点構築計画」は、着々と、そして恐ろしい精度で動き出していたのだった。