コパンドンCITYに清々しい朝の光が差し込んでいた。
昨夜の「大事件」の現場となった旅籠の一室——。
クロエのベッドの上でぐっすりと眠りこけていたイサミは、小鳥のさえずりと窓から差し込む陽光に促されるように、ゆっくりと瞼を開けた。
「……ん……ふぁあ……よく寝ました……」
イサミは小さく欠伸をしながら、ポヤポヤとした頭を振る。
極限まで疲弊していた肉体と魔力は、一晩の深い睡眠によって完璧に回復していた。脳内の思考回路も、いつもの鋭く冷徹な「商人モード」へと完全にクリアされている。
(……ん? 何やら芳醇で甘い香りと……素晴らしい弾力が、顔の横に……?)
イサミが目を凝らすと、自分の顔の目と鼻の先にあったのは、ぐっすりと眠るクロエの豊満な胸元と、彼女の引き締まった細い腰だった。
イサミの右手は、しっかりとクロエの私服の裾の中に潜り込んだままである。
(……おやぁ?)
イサミの頭の中に、昨夜の混濁した記憶が走馬灯のように駆け巡った。
『1日3件のフル同行で脳が煮えて倒れかけた』
『クロエさんに拾われて部屋に連れてこられた』
『「えっちですか〜?」と勘違いして押し倒した』
『キスをし、服の中に手を突っ込んで愛撫した』
『……その途中で力尽きて爆睡した』
「……あ」
イサミの顔から、サーッと血の気が引いた。
(や……やってしまいました……! 普段なら絶対にあり得ない『リスク爆発行動』です……! 理性がバカになっていたとはいえ、18歳の女性武闘派剣士相手に手を出すなんて……目覚めた彼女に斬り捨てられても文句は言えません……!)
イサミは冷や汗をダラダラと流しながら、忍び足でクロエの服からそっと手を抜き取った。
クロエは未だに夢の中のようで、「う……ん……バカイサミ……」と可愛らしくうなされながら寝返りを打っている。
(逃げるなら……今です……っ!!)
イサミは身軽な動作でベッドから滑り出ると、部屋の隅に置かれていた自分の巨大リュックを無音で背負い、枕元に「本日の宿泊費兼ご迷惑料」として大銀貨5枚(相当な高額)をそっと置いた。
そして、音もなく扉を開け、脱うさぎのような素早さで旅籠を抜け出したのだった。
◆
「ふぅ……! 危機一髪……! 命拾いしました……!」
朝の爽やかな風が吹くコパンドンCITYの街頭へ飛び出し、イサミは大きく息を吐き出した。
(全く、自己管理の甘さが生んだ大失態です……。……ですがまあ、クロエさんの『貸し』と『情』はより一層深まったと言えますかねぇ……?)
ちゃっかりと自分の失態すら肯定的な計算へと変換し、イサミは手帳を取り出して今日の予定を確認する。
(本日の午前中は、昨日までの怒涛の繁忙期の疲れを考慮して、定期メンテナンスと市場の価格調査のみ。……少し時間を潰すついでに、散歩でもしましょうか)
イサミが向かったのは、コパンドンCITYの西区にある「市民公園」だった。
ここは緑豊かな樹木と中央の大きな噴水が特徴的な、市民や冒険者たちの憩いの場だ。
秋の心地よい風が木々の葉を揺らし、木漏れ日が石畳に美しい模様を描いている。
巨大リュックを軽く揺らしながら、ルンルンとした足取りで公園の小道を歩くイサミ。
「ん〜♪ 朝の空気は美味しいですねぇ〜。散歩はタダでできる最高の娯楽です……おや?」
噴水広場の手前、木漏れ日が差し込む古びたベンチの前で、イサミの足がピタリと止まった。
そこには——一人の少女が座っていた。
光を吸い込むような美しい銀髪。
どこか儚げで、浮世離れした気品を纏った美貌。
しかし、その身に纏っているのは、かつては高級だったであろうが、今はあちこちが擦り切れ、色あせた古びたドレスだった。
前に遭遇した、あの「要観察対象」——没落令嬢の銀髪の少女だ。
「……ほう」
イサミは気配を殺し、木陰からじっと少女を観察した。
彼女は、前に見た時と全く同じポーズでベンチに座っていた。
背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上できちんと揃え、どこか遠くを見つめたまま微動だにしない。
あまりにも動かない。
呼吸をしているのかすら怪しいほど、ピクリとも動かないのだ。
(……ええと? 彼女、生きているでしょうか……? 正直、動いてなさすぎて『精巧に作られた美しい石像(彫像)』かと思いましたよ……?)
イサミの商人としての観察眼が働く。
(肌の血色は極めて薄い。最後にまともな食事をとったのは一体何日前でしょうか。このまま放置すれば、あと数日で餓死……あるいは餓死する前に治安の悪い連中に連れ去られるレベルです)
イサミは胸の中で、冷静な損益計算を弾く。
(……色々と不明ですが、あの圧倒的な気品と美貌、そして没落貴族というバックボーン。うまく囲い込んで恩を売っておけば、将来的に高級ブランドの広告塔や、貴族社会へのコネクションとして化ける可能性があります)
「ふむ……先行投資としては、悪くない案件ですねぇ」
イサミの口角が、怪しく吊り上がった。
だが、次の瞬間。
イサミの顔からは一切の邪心が消え去り、純粋で、可憐で、困っている人をほっとけない「心優しい少年道具屋」の表情へと完璧に切り替わった。
チャリ……と足音を軽く鳴らし、イサミはベンチへと歩み寄る。
「……あれぇ? お姉さん、こんな朝早くからどうしたんですか〜?」
イサミの声にも、少女はすぐには反応しなかった。
ゆっくりと、まるで古いカラクリ人形のように首が傾けられ、澄み渡った紫水晶(アメジスト)のような瞳が、イサミを捉える。
「……あ……」
乾いた、しかし鈴を転がすような美声が、かすかに漏れた。
イサミは背中の巨大リュックをドサリと下ろすと、その中から手際よく紙包みを取り出した。
中に入っているのは、今朝がた焼き立てのパン屋で仕入れてきたばかりの、バターの香ばしい香りが漂う『特製クロワッサン』と『やわらかコッペパン』だ。
「お姉さん、顔色がすごく真っ青ですよ? お腹、空いていませんか?」
「……私……は……」
少女の声は弱々しく、言葉を紡ぐことすら苦しそうだった。プライドなのか、あるいは単純に飢餓で頭が回っていないのか、彼女は膝の上の手をキュッと握りしめた。
「ダメですよ〜! 綺麗な顔が台無しです!」
イサミはお茶目に微笑むと、焼き立てのポカポカと温かいクロワッサンを、少女の手元へ優しく握らせた。
「はい、どうぞ! 旅の道具屋からの、朝の特別プレゼントです! 火傷しないように気をつけて食べてくださいね!」
手に伝わる、パンの温も香ばしいバターの香り。
少女の瞳が一瞬、大きく見開かれた。
「これ……を……私に……?」
「もちろんです! 朝ごはんをしっかり食べないと、元気に動けませんからねっ!」
イサミはニカッと眩しい笑顔を向け、少女の反応を優しく見守った。
少女は躊躇うようにパンを見つめていたが、やがて限界を迎えた胃袋の悲鳴に抗えなかったのか、小さな口を小さく開け、クロワッサンをシャク……と一口かじった。
「……っ!」
その瞬間、彼女の紫の瞳にポロポロと涙が溢れ出した。
口の中に広がる外側のサクサク感と、中のふわふわとした甘み。
極限の飢餓状態にあった体に、温かな栄養がじわぁぁぁっと浸透していく。
「おいし……い……っ。こんなに……温かいもの……私……っ」
「ふふ、良かったです〜! ゆっくり噛んで食べてくださいね!」
イサミは手際よく水筒から温かいハーブティーを注ぎ、木製カップに入れて添えてあげた。
少女は涙を拭いもせず、夢中でパンを頬張り、温かいお茶を飲んだ。
一口食べるごとに、青白かった彼女の頬にうっすらと赤みが差し、まるで彫像だった少女に「命の息吹」が吹き込まれていくようだった。
パンをすっかり食べ終えた少女は、心底救われたような、小さく儚くも息をのむほど美しい笑みを浮かべた。
「ごちそうさまでした……。私……あなたの優しさを……一生忘れません……」
「ううん、お礼なんていいんですよ! お姉さんが元気になってくれれば、僕の勝ちですから!」
イサミはお茶目にウインクしてみせた。
(……ほう。血色が戻ると、想像以上の絶世の美女ですねぇ。これは将来、とんでもない『価値』を生み出す原石です……!)
イサミの手帳の中に、新たな「投資案件」がカチリと刻み込まれた。
「僕、歩く道具屋のイサミっていうんです! またお腹が空いたら、この公園に来てくださいね!」
「イサミ……様……。私……は……」
少女が何かを言いかけたが、イサミはリュックをひょいと担ぎ直し、お茶目に手を振った。
「それじゃあ、僕はお仕事に行ってきます! お姉さんも無理しないでくださいね〜っ!」
軽快な足取りで公園を去っていくイサミ。
その背中を、銀髪の少女は握りしめたハーブティーのカップの温もりを感じながら、どこまでもどこまでも、愛おしそうに見つめ続けていたのだった。