翌日。朝からスメールに訪れている旅人とパイモン。
スメールシティに足を踏み入れると。鬱蒼とした熱帯雨林の奥に忽然と現れるその都市は、まるで巨大な樹木そのものが街になったかのような幻想的な光景が出迎えてくれる。
無数の枝が重なり合って作られた天蓋が陽の光を柔らかな木漏れ日に変え、そこかしこに緑の葉と色とりどりの花が溢れている。空気は湿り気を帯びて重く、けれど不思議と清々しくて肺の奥まで生き生きとした息吹が染み渡るようだった。
スメールの熱帯雨林はまるで生き物のように息をしている。木々の葉が重なり合い、太陽の光を濾過して地面には柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。湿った土の匂いと、どこからか漂う花の甘い香りが混ざり合い肺の奥まで生命の息吹が染み渡るようだった。
旅人とパイモンはスメールシティへと続く長い坂道を登っていた。層岩巨淵を越えてからというもの、景色は一変した。乾いた岩肌と機械仕掛けの構造物が続いていた璃月の地下とは打って変わって、ここは緑の海だ。時折、見慣れない鳥や獣が木々の間を駆け抜けていく。
「おおーっ! やっぱりスメールはすごいな! 緑がすっごい緑だ!」
パイモンが宙をくるりと一回転しながら歓声を上げる。その声に旅人も思わず頬を緩めた。
「パイモン、はしゃぎすぎると木の根に躓くぞ」
「おいらは飛んでるから大丈夫だぞ! それより旅人、ニィロウのとこに行くんだよな? 久しぶりだな!」
「ああ。彼女が元気にしてるか、確認したくて」
旅人は足を止め木漏れ日の向こうに見えるスメールシティの輪郭を眺めた。巨大な樹木がそのまま街になったような、幻想的な光景。その根元にはグランドバザールが広がり、旅人の目的地である「ズバイルシアター」もそこにある。
「ニィロウねぇ。旅人、彼女のこと、結構気に入ってるよな」
パイモンがにやりと笑う。その小さな相棒の表情には、いつものように「お見通しだぞ」という色が浮かんでいた。旅人は否定しなかった。ただ、少しだけ照れくさそうに前髪を掻き上げた。
「彼女の踊りは、見てて飽きないからな」
「それだけかぁ? おいらは、旅人がスメールに来るって言った時からなんかソワソワしてるように見えたけどな」
「……パイモン、鋭いな」
「おいらは相棒の心の動きには敏感なんだぞ!」
パイモンは胸を張って得意げに言った。旅人はそんな相棒の頭を軽く撫でると、再び歩き出した。
グランドバザールに近づくにつれ人の気配が濃くなっていく。色とりどりの布が張られた露店が並び、香辛料の匂い焼きたてのパンの匂い、花の香りが混ざり合って複雑なハーモニーを奏でる。商人たちの威勢のいい声、子供たちの笑い声楽器の音。すべてが生き生きとしていて、旅人はこの活気が好きだった。
「旅人、あそこの店、なんかうまそうなもの売ってるぞ!」
パイモンが指差した先には、鮮やかな色のスイーツを並べた露店があった。赤や黄色、青や緑。まるで宝石のように輝くそれらはスメールの独自の食材を使ったものだろう。
「ニィロウへの土産にどうだ?」
「おおっ、それはいい考えだぞ! 彼女甘いもの好きだもんな!」
旅人は露店に近づきいくつかの菓子を買い求めた。店主は陽気な女性で、旅人の顔を見るなり「あら、見ない顔ね。旅行者?」と声をかけてきた。
「ええ、少し前にスメールに来たばかりで」
「そうなの! スメールは初めて?」
「いえ、以前にも一度。今回は友人に会いに来ました」
「友人? 誰かしら」
「ズバイルシアターの踊り子です。ニィロウというんですが」
その名前を聞いた途端、店主の顔がぱっと輝いた。
「ニィロウちゃん! あの子、この辺りじゃ有名よ。踊りが本当に綺麗でね。私も何度か見に行ったことがあるわ」
「そうですか。彼女、元気にしてますか?」
「ええ、元気よ。最近は新しい演目を練習してるって聞いたわ。あなた、ニィロウちゃんの知り合いなの?」
「ええ、まあ」
「ふふ、そう。なら、これ持って行ってあげて」
店主はそう言って、買った菓子とは別に小さな包みを旅人に手渡した。
「これは?」
「サービスよ。ニィロウちゃんに、『いつも応援してる』って伝えてくれる?」
「……ありがとうございます。必ず伝えます」
旅人は深く頭を下げると、菓子の包みを大切に抱えて再び歩き出した。
「旅人、なんかいい人だなあの店主」
「ああ。スメールの人たちは、みんな温かいな」
「ニィロウも、そういう人たちに囲まれてるんだな」
パイモンの言葉に旅人は小さく頷いた。彼女がこの街で、どれだけ愛されているか。そのことが自分のことのように嬉しかった。
ズバイルシアターはグランドバザールの中心部にあった。巨大なキノコの傘を模した屋根が特徴的な建物で、その前にはすでに人だかりができている。どうやら今日も公演があるらしい。旅人は人混みを避け、劇場の裏手に回った。関係者以外は入れない場所だが、旅人は以前来た時にここからニィロウに会ったことがある。
楽屋裏の扉をノックすると中から慌ただしい気配が伝わってきた。そして、扉が開く。
「はい、どなたです……あっ!」
扉の向こうに立っていたのは、ニィロウだった。長い赤毛を後ろで一つにまとめ、普段着の軽装。けれどその瞳は驚きと喜びでいっぱいに輝いていた。
「空! どうしてここに!?」
「久しぶり、ニィロウ。元気そうで何よりだ」
「うん! 元気だよ! でも、どうしたの? 急に」
「スメールに用があってな。そのついでに、君の顔が見たくなった」
旅人の言葉にニィロウの頬がほんのりと赤く染まる。その反応が可愛らしくて、旅人は思わず笑みを零した。
「ついで、かぁ。……でも、嬉しい。会いたかった」
「俺もだよ」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れる。パイモンが「おいらは空気を読むぞ」と言わんばかりに後ろに下がり、小さく咳払いをした。
「ニィロウ、これ、土産だ」
旅人はそう言って、買ってきた菓子の包みを差し出した。ニィロウは目を丸くして、それを受け取る。
「わあ、これ、グランドバザールの! ありがとう空!」
「あと、これも。そこの店主さんからのサービスだって」
旅人はもう一つの包みも渡した。ニィロウは包みを開け、中身を見て、くすりと笑った。
「これ、私の好きなやつ。あの人いつも気にかけてくれてるんだ」
「君は、この街に愛されてるんだな」
「そうかな? 私、ただ踊ってるだけなのに」
「それがいいんだよ。ニィロウの踊りは、みんなを幸せにするから」
旅人の言葉にニィロウは少しだけ照れくさそうに俯いた。けれどすぐに顔を上げ、真っ直ぐに旅人を見つめる。
「空、今日、私の公演、見てくれる?」
「ああ、ぜひ見たい」
「やった! じゃあ、ちょっと客席まで行ってて。今から着替えて踊るから!」
ニィロウは嬉しそうに楽屋の中へと駆け込んでいった。その背中を見送りながら、自分も客席へと移動する。旅人はふと、この劇場の空気が好きだと思った。木の香りと、布の匂いとそしてニィロウの残り香。すべてが温かくて、懐かしい。
「旅人、なんかいい雰囲気だな」
パイモンがひょこりと横に並ぶ。旅人は小さく笑って、相棒の頭を撫でた。
「ああ。ここは、落ち着くんだ」
やがて、ニィロウが戻ってきた。踊り子衣装に身を包み、長い赤毛をなびかせながら舞台の袖に立つ。その姿は、さっきまでの少女とはまるで違う。凛とした、芸術家の顔だった。
「空、パイモン。見ててね」
ニィロウはそう言うと、舞台の中央へと歩いていく。そして音楽が始まった。それは、旅人が初めて彼女の踊りを見た時と同じ曲。けれど、何かが違う。以前はただ美しいだけだった踊りに今は、命が宿っている。一つ一つの動作に意味があり魂がある。
旅人は息を呑んだ。その踊りはあまりにも美しく、あまりにも切なくて。ニィロウの指先が髪が、衣装の裾が、すべてが生きているかのようにしなやかに動く。彼女の身体はしなやかに、しなやかにしなやかに。それは花が開くようであり、鳥が舞うようであり水が流れるようであり、風が吹くようでありまるで自然そのものが人の形を借りて舞っているかのようだった。
目が離せなかった。ニィロウの舞は旅人の心を掴んで離さない。一瞬一瞬が宝石のように輝いていて、そのどれもが失いたくないと切に願わせる。旅人は、気づけば涙を流していた。その美しさに感動に、ただただ圧倒されて。やがて踊りが終わる。静寂。そして、客席から湧く深い深い拍手喝采。旅人もパイモンも、そして楽屋の裏でこっそり見ていた他の踊り子やスタッフからも、みんなが拍手を送った。
ニィロウは呼吸を整えながら、深くお辞儀をする。その顔には汗と、そして充実感と、ほんの少しの照れが浮かんでいた。旅人は立ち上がると、舞台へと歩み寄る。
「ニィロウ」
「どうだった?」
「最高だった。今まで見た中で、一番」
「やったぁ!」
ニィロウは飛び上がらんばかりに喜んだ。その無邪気な笑顔が、先ほどの芸術的な舞とのギャップを生んでいて、それがまた愛らしい。
「前より、ずっと良くなってた。何かあったのか?」
「うん。空に会ったから、かな」
「俺?」
「うん。空と話して、一緒に戦ってそれで自分が何を伝えたいのか、やっと分かったの。私の踊りでみんなを笑顔にしたい。それだけじゃなくて、もっと深いところでみんなと繋がりたい。そのためには、私自身がもっと自由にもっと正直に、踊らなきゃって」
旅人はその言葉を聞いて、胸が熱くなった。彼女は自分自身で答えを見つけたのだ。誰かに教えられたわけでもなく、誰かに強いられたわけでもなく。ただ自分の内側から湧き上がる想いに従って。
「ニィロウ」
「なあに?」
「君の踊りは、人を幸せにするな」
「うん。そうありたいって、思ってる」
旅人は彼女の頭にそっと手を置いた。その髪は汗で少し湿っていて、けれどその匂いは嫌なものではなかった。むしろ、彼女の努力と情熱の証のように感じられて。
「空、ありがとう。来てくれて」
「こちらこそ。素晴らしい踊りを見せてくれて」
「ふふ。じゃあ、これからもっといい踊りを見せられるように頑張るね」
「ああ。楽しみにしてる」
ニィロウはそう言ってまた笑った。その笑顔は、モンドのアイドルのそれとは違う。スメールの太陽のような、暖かくて力強い笑顔だった。
「そういえば空、今日はもう帰っちゃうの?」
「いや、夕方まではいるつもりだ。せっかく来たんだし」
「本当! じゃあ、どこか行かない? スメールの美味しいもの、いっぱいあるんだよ」
「それは楽しみだな」
「決まり! じゃあ、着替えてくるね」
ニィロウはそう言って、また楽屋へと駆け込んでいった。その後ろ姿を見送りながら、再び旅人はニィロウが出てくるまで過ごす事にした。
その間、旅人はパイモンと共にスメールシティの街並みを散策することにした。ニィロウが着替えるまでの時間、この活気ある街を歩くのも悪くない。
「旅人、さっきのニィロウの踊りすごかったな!」
「ああ。本当に」
「おいら、ちょっと泣いちゃったぞ」
「俺も」
パイモンは目元を袖で擦りながらそれでも嬉しそうに笑っている。旅人も同じ気持ちだった。あの踊りは、見る者の心を揺さぶる何かがあった。技術だけではない、彼女の魂そのものが踊っているかのようだった。
グランドバザールの露店を冷やかしながら歩いていると、ふと旅人の足が止まった。視線の先には一軒の小さな店。そこには、美しい刺繍が施された布が並んでいる。スメールの伝統的な模様と、鮮やかな色彩。旅人はそのうちの一枚を手に取った。
「これ、ニィロウに似合いそうだな」
「お、いいんじゃないか? でもさっきお菓子も買ったばっかりだろ?」
「あれは食べ物だし、これは、形に残るものだから」
旅人の言葉に、パイモンは「なるほどな」と小さく頷いた。旅人はその布を買い求め、丁寧に包んでもらうとニィロウの元へと戻ることにした。
舞台の袖に戻るとちょうどニィロウが着替え終わって出てきたところだった。軽装の普段着に戻っているが、その顔はまだほんのりと赤く汗の名残が光っている。
「お待たせ、空! パイモンも」
「待ってないよ。なあ、旅人」
「ああ。ニィロウ、これ」
「え? なにこれ?」
「土産。さっきのお菓子とは別に、街で見つけて」
旅人が差し出した包みをニィロウは恐る恐る開ける。中から現れたのは、スメールの伝統的な刺繍が施された布。彼女はそれを見るなり、目を大きく見開いた。
「これ、すごく綺麗。ありがとう空!」
「気に入ったか?」
「うん! 大切にする!」
ニィロウはそう言って布を胸に抱きしめた。その仕草が愛らしくて、旅人は思わず笑みを零した。
「さて、それじゃあ、スメールの美味しいもの食べに行こうか」
「うん! 私、おすすめの店知ってるんだ。ついてきて!」
「ああ、案内してくれ」
ニィロウは嬉しそうに歩き出した。その足取りは軽く、時折スキップを混ぜながら街の奥へと続く道を進んでいく。旅人とパイモンはその後に続いた。
ニィロウが案内してくれたのはグランドバザールの端にある小さな食堂だった。木のテーブルと椅子が並ぶ、家庭的で温かい雰囲気の店。彼女はここのスイーツがお気に入りらしい。
旅人は勧められるままに数種類のケーキとスメール独自の甘い飲み物を注文した。運ばれてきたケーキはどれも美しく、食べるのが惜しくなるほど。それでも一口食べれば、甘さの中にスパイスの効いた大人の味わいが広がる。ニィロウは幸せそうに頬張りながら、時折スメールの街の話や踊りの話をしてくれた。
「私ね、最近新しい演目を考えてるんだ」
「へえ、どんな?」
「うんとね、スメールの四季をテーマにした踊り。春の芽吹き夏の陽射し秋の実り冬の静寂。それを全部、一つの踊りで表現できたらいいなって」
「それはまた、壮大だな」
「うん。でも、まだ全然形になってなくて。どうやったら四季の移ろいを踊りで表現できるのかなって、ずっと考えてる」
「ニィロウならできるよ」
旅人はそう言ってフォークでケーキを一口運んだ。ニィロウは頬を染めて、小さく笑う。
「空って、いつもそう言うよね」
「だって本当のことだし」
「ふふ。ありがとう。じゃあ、頑張ってみる」
その日はそれから、ただ他愛のない話をして過ごした。スメールの草花のこと、モンドの風の話璃月の港の喧騒。そしてお店を後にすると、久しぶりスメールをニィロウとパイモンの三人で散策する。時間が経つのはあっという間で、気づけば夕方になっていた。
「そろそろ、帰らないと」
旅人がそう言うと、ニィロウは少しだけ寂しそうな顔をした。
「もう?」
「ああ。夜には洞天に戻る約束なんだ」
「洞天?」
ニィロウは聞いた事のない単語に首を傾げる。コテンと聞こえてきそうな可愛らしい動作に思わず笑みを深める旅人。
ニィロウの疑問に、二人の会話を邪魔しないように黙って楽しんでいたパイモンが説明する。洞天とは璃月にいる仙人から貰ったどこにでも持っていける異空間にある自宅の様なものだと。それを聞いたニィロウはとても興味を惹かれた。
「へえ……異空間にあるお家なんだ。仙人さまに貰ったなんて、空って凄いものを持ってるんだね」
「まあ、成り行きで」
「成り行きで貰えるような代物じゃないと思うけど……」
ニィロウは感心したように呟きそれからふと首を傾げた。長い赤毛が夕暮れの風に揺れて、オレンジ色の光を受けてきらきらと輝く。その仕草は無邪気で、けれどその瞳の奥にはほんの少しの好奇心と、それから——旅人が見逃さなかった——ほんの少しの寂しさが滲んでいた。
「いいなぁ。空は、帰る場所がたくさんあって」
その言葉に、旅人は胸の奥がちくりと痛んだ。ニィロウは笑っていた。いつもと変わらない、太陽のような笑顔で。けれどその笑顔の裏に、彼女がこれまでどんな思いで踊り続けてきたのかを、旅人は知っている。
ズバイルシアターの踊り子として、彼女は常に誰かのために踊ってきた。観客のために、仲間のためにそしてこの街のために。けれど、自分のために何かを望むことを彼女はきっと知らないのだ。
「ニィロウ」
「なあに?」
旅人は少しだけ迷って、それから口を開いた。
「よかったら、君も来ないか?」
ニィロウは目を丸くした。パイモンも少しだけ驚いたように宙で静止する。夕暮れの光が、三人の影を長く地面に伸ばしていた。
「え……でも、私」
「洞天には個室がたくさんある。マルが整えてくれるから、君の部屋も作れる。それに——」
旅人は一歩、ニィロウに近づいた。彼女の赤い髪が風に揺れて旅人の頬をかすめる。ほのかに汗の匂いと、それからスメールの花の香りがした。
「俺は、もっと君と一緒にいたい」
その言葉に、ニィロウの頬が一気に赤く染まった。夕陽の色よりも鮮やかに。彼女は俯いて、自分の指先を弄る。その仕草が答えを迷っていることを如実に示していた。
「私……踊りがあるから」
「分かってる。無理にとは言わない。ただ、選択肢として持っていてほしいんだ」
旅人はそれ以上は何も言わなかった。ただ彼女の返事を静かに待った。パイモンも、いつものように茶化したりはしなかった。この空気を壊してはいけないと、小さな相棒も理解しているのだろう。
しばらくの沈黙の後、ニィロウは顔を上げた。その瞳は少しだけ潤んでいて、けれどその奥には確かな光が宿っていた。
「……ちょっとだけ考えさせて。私、頭使うの苦手だから時間かかるかもしれないけど」
「ああ。ゆっくり考えればいい」
旅人はそう言って彼女の頭にそっと手を置いた。その髪は、やはり汗で少し湿っていて。けれどその温もりは、彼女が今日を全力で生きた証のように感じられた。
遠回しだが確実に旅人の彼女に対する想いは伝わった。答えを貰うのに数日は掛かるかもしれないなと旅人が思ったその時、「それじゃあ私は行ってもいいのかしら?あなたの家に」ニィロウの背後から聞き覚えのある優しくて深みのあるでもとても可愛い少女の声が聞こえてきた。
その声に、旅人とパイモンは同時に振り返る。ニィロウもまた、驚いたように肩を跳ねさせて背後を振り向いた。夕暮れの光が長く伸びるグランドバザールの片隅。その影の中から、小さな影がゆっくりと歩み出てくる。白い髪に、深い緑の瞳。そして頭にはまるで小さな枝が芽吹いたかのような、緑の葉を思わせる飾り。草神・ナヒーダその人だった。
「クラクサナビデビ様!?」
「ナヒーダ……?どうしてここに」
「ふふふ。二人が楽しそうに話していたから、つい覗いてしまったわ」
ナヒーダはそう言ってくすりと笑った。その笑みは、年相応の少女のそれと遥か長い時を生きてきた神のそれとが、不思議と混ざり合っている。旅人はしばらく言葉が出なかった。まさか、この場に彼女が現れるとは思わなかったのだ。しかも、今の会話を聞かれていたとなれば話が早い。いや、早すぎる。
「ってことは聞いていたんですか」
「ええ。だって、あなたたちの会話とても大切なことだったから。それに」
ナヒーダは一歩旅人に近づいた。その足取りは軽く、けれど確かな意志を感じさせる。夕暮れの光が、彼女の白い髪をほんのりとオレンジ色に染めていた。
「私も、あなたの家に行ってみたいの。だめかしら?」
「クラクサナビデビ様!?」
ニィロウが声を上げる。その声には驚きと、そしてどこか焦りにも似た感情が混ざっていた。無理もない。スメールの神が、旅人の私的な空間に行きたいと言い出したのだ。しかも、この状況で。ナヒーダはそんなニィロウの反応を楽しむように、小さく首を傾げる。
「ニィロウ。あなたはどうするの?」
「わ、私は……」
「無理にとは言わないわ。ただ、私は行きたいと思っているの。あなたの家に。だって」
ナヒーダは旅人を見上げた。その瞳は、深い緑の森のように静かでけれどその奥には確かな好奇心と、それからほんの少しの寂しさが揺れていた。
「私も、あなたと、もっと一緒にいたいもの」
その言葉は、先ほど旅人がニィロウに告げたものと同じだった。旅人は息を呑む。まさか、このタイミングでこの場所で、草神から同じ言葉を聞くことになるとは。パイモンはというと、すでに口をぽかんと開けて宙で完全に静止している。その表情には、「これは予想外だぞ」と書いてある。
ニィロウはそんなナヒーダの言葉を聞いて、しばらく黙っていた。長い赤毛が夕暮れの風に揺れる。その表情は、旅人には読み取れなかった。驚きか戸惑いか、それとも別の何かか。やがて彼女は小さく息を吐くと、顔を上げた。その瞳は少しだけ潤んでいて、けれどその奥には確かな決意の光が宿っていた。
「私も……私も行きます!」
その声は、小さかったけれどはっきりとしていた。旅人は、彼女のその言葉にしばらく反応できなかった。まさか、こんなに早く答えを貰えるとは思わなかったのだ。それも、ナヒーダの後押しという形で。
「いいの?」
「うん。だって、空は私にもっと一緒にいたいって言ってくれたから。それに」
ニィロウは、ナヒーダを見た。その瞳は少しだけ挑戦的で、けれどどこか楽しげで。
「クラクサナビデビ様も行くなら、私も行きたい。負けたくないから」
「ふふ。ニィロウは、負けず嫌いなのよね」
「クラクサナビデビ様に言われたくないですよ」
二人のやり取りを見て、旅人はようやく我に返った。そして小さく笑う。まさか、スメールの神と人気踊り子が自分を巡ってこんなやり取りをするとは。人生とは、本当に何が起きるか分からないものだ。
「じゃあ、決まりだな。二人とも来てくれるんだな?」
「ええ。よろしくお願いするわ、旅人」
「はい! 空、これからよろしくお願いします」
旅人は、二人の頭にそっと手を置いた。ナヒーダの髪は、絹のように柔らかくてけれどほんのりと温かかった。ニィロウの髪は、少しだけ汗の名残があってけれどその匂いは嫌なものではなかった。夕暮れの光が、三人の影を長く地面に伸ばしていた。その影は、もう二つじゃない。三つだ。そしてこの先、もっと増えていくのだろう。旅人はそんなことを思いながら、二人の頭を優しく撫で続けた。
「ところで、ナヒーダ。仕事は大丈夫なの?」
「ええ。今日はもう終わりよ」
「い、いや、そうじゃなくて。ナヒーダがこの国から出ても大丈夫なのかって事」
「なるほどそういう心配ね」
ナヒーダは納得したように何度かうなずいて説明してくれた。
「前に貴方たちに使って貰ったアーカーシャの代わりがあったでしょ?あれを少々改良して、私の仮想意識を構築したの。見聞きした情報は私とリンクしながら私の思考をフィードバックして、その場に私が居なくても、私と会話し相談が出来るようにね。そうね、ちょうど世界樹と私のような関係かしら」
「な、なるほど。それは随分と自由になったね……」
「だから、ちょうどよかったの」
「ちょうどよかった?」
「あなたたちの会話を聞くために、ここに来たのよ。だって私の知恵でも、恋の行方は読めないもの」
ナヒーダはそう言って、いたずらっぽく笑った。その笑顔はとても神には見えなくて。けれど、その瞳の奥には確かな意志の光が宿っていた。旅人は、そんな彼女の姿に小さく笑みを返すと、塵歌壺を取り出して二人に触れさせる。
「それじゃあ、行こうか。俺の家に」
「ええ」
「はい!」
三人とパイモンは空間に溶ける様に塵歌壺
◆◆◆
洞天へまだ恋人未確定ではあるが、多分そうなるかも知れない少女と草神を連れて帰って来た旅人とパイモン。
洞天へと繋がる扉をくぐった瞬間ナヒーダは小さく息を呑んだ。五百年の時を生きてきた知恵の神でさえ、この空間の在りようには驚きを隠せないらしい。それも無理はない。彼女がこれまでに見てきたどんな建築物とも、この洞天は似ても似つかなかったからだ。
「まあ……」
ナヒーダの口から漏れた声は、普段の落ち着いた神としてのものではなくただの少女のそれだった。彼女の深い緑の瞳が、洞天の柔らかな光を反射してきらきらと輝いている。その隣では、ニィロウが長い赤毛を揺らしながらまるで夢の中に迷い込んだかのようにきょろきょろと周囲を見回していた。
「すごぉい……ここが君の家なの?」
「ああ。正確には、俺たちの家だけどな」
旅人はそう言って二人の反応を面白そうに眺めた。パイモンはすでにいつもの定位置――旅人の肩の上――に戻り、得意げに胸を張っている。
「おいらたちの家だぞ! すごいだろ!」
「うん、すごい……。木の匂いがする。それに、風が優しい」
ニィロウはそう言って、目を閉じた。彼女の鼻孔をくすぐるのはスメールの熱帯雨林とはまた違う、もっと柔らかな緑の香り。洞天の外のモンドや璃月、スメールの空気が混ざり合ってこの空間独自の匂いを作り出しているのだろう。それは彼女にとって、初めて嗅ぐ匂いだった。けれど不思議と懐かしくて、心の奥が温かくなるような感覚があった。
「よぉし。おい、ニィロウ、ナヒーダ。おいらがこの洞天について説明してやるぜ!」
パイモンは宙でくるりと一回転するとまるで観光案内人のように胸を張った。その小さな身体が、いつもよりほんの少しだけ大きく見えるから不思議だ。誇らしげなその姿に、旅人は口元を緩めながらもそっと二人の様子を窺う。
ニィロウはまだ目を閉じたまま洞天の風を肌で感じている。長い赤毛が、ここちよい風にゆらりと揺れて夕暮れの名残の光を受けて柔らかく輝いていた。その横顔は、踊っている時とはまるで違う。無防備で子どもみたいにまっさらで。旅人はそんな彼女の姿に、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
一方のナヒーダは、すでに洞天の構造そのものに興味を向けているようだった。深い緑の瞳が、屋敷の柱や梁の一本一本を植物の葉の一枚一枚を、まるで書物を読むように丹念に追っている。五百年の時を生きてきた知恵の神でさえ、この空間は未知なのだろう。彼女の指先がそっと近くの枝に触れた。その仕草は、世界樹の幹に触れる時と同じ祈りに似た慎ましさを帯びていた。
「まずな、ここは大きく分けて三つの場所があるんだ。広い草原と砂浜、それから真ん中のこの大きな屋敷。おいらたちは普段この屋敷で暮らしてるんだぞ」
パイモンはそう言って屋敷の大きな扉を指差した。ニィロウがようやく目を開けて、その先にそびえる建物を見上げる。木の香りがする、あたたかな佇まいの屋敷だった。押し付けがましさがなくて、それでいてどっしりとそこに在る。誰かを迎え入れるために建てられた、そんな気配があった。
「入口をくぐると広間があって、その奥に広いキッチンダイニングとでっかい大浴場があるんだ。廊下を挟んでいくつもの個室が並んでて、二階にそれぞれの自室がある。ニィロウとナヒーダの部屋も、マルに頼めばすぐに作ってくれるぞ」
「マル?」
ニィロウが小首を傾げる。その仕草があまりにも素朴で、旅人はつい小さく笑みを零した。パイモンが「そういえば説明してなかったな」と呟いて、壺の精霊のことを簡単に説明する。雲の上に乗ったティーポットの鳥。この空間の管理人であり、住人たちの味方であること。パイモンがそう締めくくると、ナヒーダがふむと小さく頷いた。
「なるほど。この空間そのものを管理する精霊がいるのね。それなら、その完璧な防音や清掃の仕組みにも合点がいくわ」
ナヒーダの言葉に旅人は思わずぎくりとした。彼女の目は、すでにこの洞天の細部にまで及んでいる。五百年の知恵は伊達ではない。けれどナヒーダはそれ以上追及せず、ただ柔らかく笑った。
「とても居心地がいい場所ね。空気が、優しい。ずっと居たくなるわね」
それは、神としてではなく一人の少女としての率直な感想だった。旅人はその言葉に、静かに頷きを返した。
「それでな、ここには今、旅人の恋人が四人いるんだ」
パイモンがそう言った瞬間、空気がほんの少しだけ違う色を帯びた。ニィロウの肩が微かに跳ねて、ナヒーダは静かに旅人を見上げる。その視線は問いかけるようで、けれど責める色は微塵もない。
「モナ、ノエル、バーバラそれから甘雨。みんな、それぞれの場所で自分の仕事をしながらここに帰ってくるんだ。旅人がどこにいても、この壺を通せばいつでも会えるようになってる」
パイモンはそこまで言うとちらりと旅人を見た。その目は「ここから先はお前が言え」と語っている。旅人は小さく息を吐いて、二人に向き直った。
「みんな、俺にとってかけがえのない人たちだ。ここには彼女たちと同じ関係に、そして愛し続けたい人だけを連れてくると決めてるんだ」
「愛し続ける?」
ニィロウがまた小首を傾げる。その瞳はまっすぐで穢れがない。旅人は少しだけ照れくさくなりながらも正直に言葉を続けた。
「ああ。君たちのことも含めて全員を生涯ずっと大切にしたいと思ってる。こんな俺の身勝手な想いに応えてくれる人が増えれば増えるほど嬉しいし感謝してる」
「空はおいらたちに嘘をつかないからな! だからおいらも二人に言っておくぞ。旅人のハーレムが増えることは絶対に悪いことじゃない。むしろもっと増えてほしいぐらいだ!」
「ちょっパイモン」
旅人が窘めるがパイモンはまったく気にしない。むしろ胸を張って言葉を続ける。
「だってそうだろ? 旅人はみんなを本気で愛してるんだぞ。それにほらニィロウとかナヒーダみたいな美人がいたら誰だって恋人にしたいって思うだろ?おいらだってそんな人に旅人の赤ちゃん生んでほしいぞ」
「それは……まあ……」
旅人は否定できなかった。いや否定する気もなかった。ニィロウもナヒーダも間違いなく美しい。けれどそれ以上に彼女たちの内面が好きなのだ。ニィロウの純粋さと優しさ。ナヒーダの聡明さと優しさ。そのどちらもが愛おしくて仕方ない。
「旅人」
ナヒーダが静かに口を開いた。その深い緑の瞳が真っ直ぐに旅人を見据えている。
「あなたの言葉はとても率直で好ましいわ。でも一つだけ教えてちょうだい。あなたは私たちのことを本当に平等に愛せるの? 四人どころか私たちを入れたら六人になるのよ?」
「ああ」
旅人は即座に頷いた。その声には一片の迷いもなかった。
「俺は君たち全員を同じように愛してるよ。モナもノエルもバーバラも甘雨もそしてもちろんニィロウもナヒーダも。俺にとってはみんなが特別で。みんな同じぐらい大切だ」
「それはつまり全員を同じぐらい愛しているということ?」
ナヒーダはさらに問いを重ねる。その言葉には試すような響きがあった。旅人は少しだけ考えてそれからゆっくりと口を開いた。
「そうだな。でも『同じ』っていうのは『同じように大切』って意味じゃないんだ。みんな違う場所で、違う景色を見せて、俺に色々な愛を教えてくれるから。だから俺は全員を違う形で全員を同じぐらい深く愛してるよ」
それを聞いたナヒーダは「……なるほど」とナヒーダは目を細める。
「それがあなたの答えなのね」
「ああ」
「それがあなたらしさ、という事なら少しずつ私も学んでいくわ。あなたの愛し方を」
ナヒーダはそう言って小さく笑った。
ニィロウがその隣で旅人の顔をじっと見ていた。何も言わずに、ただじっと。その瞳はいつもの素直な輝きとはどこか違う、もっと深い静けさをたたえている。旅人はその視線に気づいて、少しだけ照れくさそうに前髪を掻いた。
「ニィロウ。そんなに見られると流石に照れ臭い」
「空って、すごいなって思って」
「すごい?」
「だって、こんなにたくさんの人を本気で愛してそれでちゃんと平等だって言えるんだもんね。私、そんなの無理だよ。だって私、まだ空のことしか好きになったことないし」
「ニィロウ」
「でも、そんな空だから好きになったんだと思う。だから、ついていこうって思ったの」
「ああ」
「それに」
ニィロウは少しだけ間を置いてそれから小さく笑った。その笑顔は夕暮れのグランドバザールで見せたものと同じ、太陽のような明るさとほんの少しの照れくささを混ぜたものだった。
「ナヒーダ様も来るなら、私も負けられないし」
「あら、私をライバル視するの?」
「だって、ナヒーダ様も空のこと好きなんでしょ?」
「ええ。私の旅人――空は初めての賢者だもの」
ナヒーダはそう言って旅人を見上げた。その瞳は深い緑の森のように静かで、けれどその奥には確かな情熱の火が灯っていた。旅人はそんな二人のやり取りを聞きながら、ふと手の中の壺を見下ろした。この洞天は旅人が璃月の仙人から譲り受けた特別な空間だ。けれど今では、こんなにも多くの愛が集まる場所になった。
「パイモン」
「なんだ?」
「部屋の準備をしてくれないか。ニィロウとナヒーダの部屋を」
「おう、任せておけ! マルに言ってすぐに作ってもらうぞ!」
パイモンはそう言うとぴゅーっと屋敷の中へと飛んでいった。その小さな背中を見送る。
旅人は二人の前で一度深く息を吸った。洞天の夜の空気が、肺の奥まで静かに染み渡っていく。ニィロウとナヒーダ。二人は並んで立っている。その姿はまるで、スメールの森に咲く対照的な二輪の花のようだった。陽の光を一身に浴びて咲く大輪の花と、木漏れ日の奥で静かに秘やかに花開く小さな白い花。どちらも欠けてはならない、旅人にとってかけがえのない存在。
「改めて言わせてほしい。ニィロウ。ナヒーダ。俺は二人が好きです」
風が、洞天の木々の間を抜けていく。葉擦れの音が、まるで祝福の合唱のように響いた。
「これから俺の生涯を使って二人を幸せにさせてほしい。そして二人とも愛し合いたい」
その言葉は、今までの誰かに告げたどんな言葉よりもまっすぐで、まっすぐすぎて逆に不器用に響いた。けれど、それが旅人の精一杯の正直な想いだった。モナの予言に背中を押されたわけでもなく、誰かの後押しがあったわけでもない。ただ自分の心がそう望んだから。彼はそう告げた。
ニィロウが先に動いた。長い赤毛がふわりと揺れて、彼女は一歩、旅人に近づく。その瞳はもう潤んでいてけれどその口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。ナヒーダはその隣で、深い緑の瞳を静かに細めてまるで旅人の魂の輪郭を確かめるようにじっと見つめている。けれどその頬は、ほんのりと朱に染まっていた。
「空」
ニィロウが小さく旅人の名を呼ぶ。その声は少しだけ震えていた。けれど、震えているのは声だけではない。彼女の指先も、膝も、きっと全身が。それでも彼女は旅人から目を逸らさなかった。
「私、嬉しい。空が本気でそう言ってくれてるのちゃんと伝わったから。私も、空が好き」
ナヒーダも静かに口を開いた。その声はいつもの落ち着いた神の響きではなく、どこか少女めいた柔らかさを帯びている。
「私も、あなたの言葉を信じるわ。旅人。いいえ――空。これからは、そう呼ばせてちょうだい。あなたは私にとって、初めての賢者であり初めての恋を教えてくれた人だから」
二人は同時に旅人の差し出した手を見た。そして、揃ってその手を取った。ニィロウは両手でナヒーダは片手で、けれどそのどちらの手も確かな温もりを宿していた。小さな手と、小さな手。けれどその二つの手が旅人の手のひらに重なった瞬間、彼の胸の奥で何かが静かに弾けた。それは歓喜というよりも、もっと深い腹の底にずしりと響くような重い納得だった。自分はこの人たちを、本当に生涯愛し続けるのだと。そう心の底から理解した。
「ありがとう。二人とも」
旅人は繋いだ手にそっと力を込めると二人を交互に見つめた。それから、ニィロウの頭を撫でナヒーダの頭を撫でた。二つの違う手触り。汗の名残のある赤い髪と、絹のように滑らかな白い髪。どちらも愛おしい。
ニィロウは目を細めて旅人の手のひらに頬をすり寄せるようにした。その仕草は、まるで懐いている仔猫のようでけれどその瞳の奥には確かな熱が灯っている。ナヒーダはというと、旅人の手が自分の頭に触れた瞬間ほんの一瞬だけ肩を強張らせて、それからゆっくりと息を吐き出した。神として、誰かに頭を撫でられることなど幽閉されていた五百年の間でも一度もなかったしかなかったのだろう。その反応が、彼女の不慣れさとそしてそれを素直に受け入れようとする意志の強さを、同時に物語っていた。
「ところで、ナヒーダ」
旅人は、彼女の頭からそっと手を離すと片膝をついて、その小さな身体と目線を合わせた。膝を折ることで、ようやく彼女の深い緑の瞳を正面から見つめることができる。五百年の時を生きてきた知恵の神。けれどその瞳は、今はただの少女のように揺れていた。
「さっきの言葉、本当に嬉しかった。君が俺の家に来てくれて、こうして同じ場所に立ってくれていることすごく感謝してる」
ナヒーダは小さく頷いた。その白い頬が洞天の灯りを受けてほんのりと桜色に染まっている。彼女は何かを言おうとして、けれど言葉が見つからないのかただ唇を微かに震わせた。旅人はそんな彼女の様子を見て、そっと右手を持ち上げた。
彼の右手が、ナヒーダの頬に触れる。まるで壊れやすいものを扱うように、ゆっくりと慎重に。指先が彼女の柔らかな頬に触れた瞬間、ナヒーダの肩がびくりと跳ねた。けれど逃げようとはしない。ただ、旅人をじっと見つめている。
「ナヒーダ」
旅人は、彼女の名を呼んだ。その声は洞天の夜の静けさに溶け込むように、低く、優しく響いた。
「キスしてもいいか?」
その問いに、ナヒーダの大きな瞳がほんの少しだけ見開かれた。五百年の時を生きてきた知恵の神は、あらゆる知識を持っている。けれど実体験としてのキスは、まだ彼女の中に刻まれていない。その不慣れさが、今、彼女の表情の端々に現れていた。ほんの少しだけ強張った肩。微かに震える唇。けれどその瞳の奥には、確かな好奇心とそしてほんの少しの期待が揺れている。
ナヒーダは一度だけ小さく息を呑むと、それから珍しく頬を朱に染めたまま小さく頷いた。
「いいわよ」
その声は、いつもの落ち着いた神の響きではなくどこか少女めいた、それでいて確かな意志を宿したものだった。旅人はその返事に、そっと微笑みを返すと頬に添えた右手で彼女の顎をそっと持ち上げた。ナヒーダの小さな顔が、自然と上を向く。洞天の灯りが彼女の深い緑の瞳に映り込んで、まるで星を閉じ込めたようにきらめいた。
旅人は、ゆっくりと顔を近づけた。彼女の吐息が自分の唇に触れる。スメールの花の香りが、ほんのりと漂った。最初はただ触れるだけのキス。柔らかな唇が、そっと重なる。ナヒーダの身体が微かに震えた。けれど旅人はすぐに離れず、そのままの位置で彼女の反応を待った。
次に、旅人は少しだけ角度を変えて吸い付くように唇を重ねた。ちゅ、という小さな音が静かな広間に響く。ナヒーダの指先が、旅人の胸元にそっと添えられた。それは拒絶ではなく、ただそこに自分がいることを確かめるような、そんな仕草だった。
旅人は、彼女の唇を割ってそっと舌を差し入れた。ナヒーダの口内は、驚くほど温かかった。小さな口の中に旅人の舌がゆっくりと入り込んでいく。彼女の舌は、最初はどこに置いていいのか分からないように硬直していたけれど、旅人の舌が優しく触れると次第にそれに応えるように、微かに動き始めた。
ナヒーダの口から、小さな吐息が漏れる。それは五百年の時を生きてきた神が初めて経験する感覚への、戸惑いとそして確かな悦びの入り混じった音だった。旅人は、彼女の小さな舌をそっと絡め取りながら右手で顎を支え、左手で頬を包み込むように優しく触れ続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。洞天の夜の静けさの中、二人はただ唇を重ね合わせていた。やがて旅人がゆっくりと顔を離すと、ナヒーダの深い緑の瞳はいつもより少しだけ潤んでいた。その頬は、先ほどよりも濃く朱に染まっている。
「……これが、キスなのね」
ナヒーダは、掠れた声でそう呟いた。その言葉は知識として知っていたことと、実際に体験したことの違いに今、初めて触れた者のものだった。彼女は自分の唇に、そっと指先を触れた。その仕草はまるでそこに残った温もりを確かめるかのようで。
「どうだった?」
旅人がそう尋ねるとナヒーダは少しだけ考えて、それから小さく笑った。その笑顔は五百年の時を生きてきた神のものではなく、ただの少女のものだった。
「……とても、温かかった。あなたの温度が伝わってきた。これが、恋というものの始まりなのね」
旅人はその言葉に何も答えず、ただ彼女の頭をそっと撫でた。洞天の夜はまだ始まったばかりだ。けれど、この静かな時間が旅人にとって、そしてナヒーダにとって何よりも大切なものになると、そう確信していた。
その隣で、ニィロウが少しだけ照れくさそうにけれど嬉しそうに、二人の様子を眺めていた。長い赤毛の先が夜の風に揺れて、柔らかな光を反射している。
ニィロウは二人の様子を長い赤毛の先を弄りながら、ただ静かに眺めていた。その瞳は先ほどよりも少しだけ潤んでいて、けれどその表情には確かな安堵のようなものも浮かんでいる。旅人がナヒーダに向けたまっすぐな想いを、彼女は自分のことのように嬉しく感じていたのだろう。この人は誰かを選ぶ時、決してその場の勢いや打算で選ばない。ただその人の魂の形を、真っ直ぐに見つめてから手を伸ばす。それがわかるからこそ、ニィロウの胸の奥には焦りよりも先に静かな信頼が満ちていた。
けれど、やはり少しだけ寂しかった。夕暮れのグランドバザールで告げられた「もっと一緒にいたい」という言葉が、今目の前でナヒーダに向けられたものと同じ温度を持っていることに、彼女は気づいていたから。順番があるわけじゃない。けれどこの瞬間、旅人の隣に立っているのは自分ではない。その事実が、彼女の中の少女の部分をちくりと疼かせた。
旅人はそんなニィロウの揺れを見逃さなかった。ナヒーダの頭を最後にもう一度だけ撫で、旅人は静かに立ち上がった。膝についた土を軽く払い、洞天の夜の空気を肺の奥まで吸い込む。それからニィロウの正面へ、ゆっくりと歩み寄る。
二人の距離が、腕を伸ばせば触れるほどに縮まる。ニィロウは旅人の気配を感じ取って、弄んでいた髪の先から指を離した。長い赤毛が、夜の風もないのにふわりと揺れる。彼女の頬は、すでに洞天の灯りよりも赤く染まっていた。困惑と、驚きとそして隠しきれない期待。その三つが混ざり合った感情が、彼女の大きな瞳の中でくるくると回っている。まるで、踊りの振り付けを覚えたての少女のように身体の置き場がわからないのだろう。
旅人は何も言わなかった。ただ左腕を彼女の背中に回し、腰のくびれに手のひらを添えてそっと引き寄せる。ニィロウの身体が、抵抗なく旅人の胸元へと吸い寄せられた。彼女の頭のてっぺんが、旅人の額の辺りのあたりに触れ、全身が旅人に包まれる。スメールの花の香りと、ほんの少しの汗の匂い。今日一日を全力で生きた彼女の、正直な体温だった。
ニィロウは、旅人の胸に手のひらを添えたまま僅かに上を向いた。その瞳はもう、涙で膜が張ったようにきらきらと光っている。何か言おうとして、けれど言葉にならないのか唇が小さく震えただけだった。旅人はそんな彼女の顎に、そっと右手を添える。ナヒーダに向けたのと同じ仕草。けれどその手つきは、彼女の肌の柔らかさに合わせてほんの少しだけ優しく、ほんの少しだけゆっくりと。
「ニィロウ」
名前を呼ぶと彼女はこくりと頷いた。その拍子に、目の端に溜まっていたものが一筋赤い頬を伝って落ちる。旅人はそれを見ても、決して茶化したりはしなかった。ただその頬に添えた指の腹で、そっと涙を拭う。それからゆっくりと顔を近づけた。
最初のキスはナヒーダと同じく、ただ触れるだけのものだった。けれどニィロウの唇は、ナヒーダのそれよりもずっと温かかった。踊り子として、いつも身体を動かしているからだろうか。それとも、彼女の内側に灯っている感情の熱がそのまま唇に現れているからだろうか。旅人はその温もりを、壊れやすいものを確かめるように静かに味わった。
次に、少しだけ角度を変えて吸い付くように重ねる。ニィロウの肩が、びくりと跳ねた。けれど逃げない。むしろ旅人の胸に添えていた手のひらに、ほんの少しだけ力がこもる。それは拒絶ではなく、もっと感じていたいという無言の懇願。旅人はそれに応えるように、左手を彼女の背中から腰へと滑らせより深く抱き寄せた。
そして、唇を割って舌を差し入れる。ニィロウの口内は、驚くほど熱かった。スメールの太陽を浴びて育った少女の、生命の温度そのものだった。彼女の舌は最初はどうしていいのかわからないように戸惑っていたけれど、旅人の舌がゆっくりと触れると次第にそれに応えるように、不器用にけれど一生懸命に動き始めた。まるで、新しい振り付けを身体で覚えていく時のような、真剣な動きだった。
くちゅ、と小さな水音が、静かな広間に響く。ニィロウの鼻から甘い吐息が漏れた。それは彼女がこれまでに舞台の上で上げたことのあるどんな声よりも、ずっと小さくてずっと正直な音だった。旅人は彼女の舌をそっと絡め取りながら、右手で顎を支え左手で腰を抱き続ける。彼女の身体が、少しずつ旅人の方へと預けられていくのがわかった。最初は強張っていた肩が、少しずつ下がっていく。呼吸が少しずつ深くなっていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。洞天の夜の静けさの中で、二人はただ唇を重ねていた。やがて旅人がゆっくりと顔を離すと、ニィロウの瞳はもう完全に潤んでいた。けれどその口元には、ふにゃりと緩んだ笑みが浮かんでいる。それは、彼女が舞台で見せるどんな笑顔とも違う。ただ、好きな人にキスをされて嬉しいというまっすぐな感情だけの笑顔だった。
「空」
ニィロウは掠れた声でそう呟いた。その声は、いつものよく通る踊り子の声ではなくてただの少女のものだった。彼女は自分の唇に、そっと指先を触れる。旅人がナヒーダに向けたのと同じ仕草を、今度は彼女がする番だった。それはまるでそこに残った旅人の温度を、確かめるかのように。
「私、今、すごく嬉しい」
その言葉はあまりにも率直で、あまりにも飾り気がなくて。けれどそれがニィロウという人間のすべてだった。旅人はその言葉に何も答えず、ただ彼女の頭をそっと撫でた。指の間を汗の名残のある赤毛が滑っていく。その手触りが、愛おしくて仕方なかった。
「これからも、私の踊り、見に来てくれる?」
「ああ。君が踊る限り、何度でも」
「じゃあ、ずっと踊る。空に見てもらうためにもっと上手になる」
ニィロウはそう言って旅人の胸に額をこつんとぶつける。その仕草は、先ほどまでの緊張が解けた証のように無防備で、子どもみたいで。旅人はそんな彼女の背中に、そっと両腕を回した。
洞天の夜風が二人の間を柔らかく通り抜けていく。その風は、スメールの熱帯雨林の匂いとモンドの草原の匂いと、璃月の港の匂いをほんの少しずつ混ぜ合わせて運んでくるようだった。
この洞天に集まったすべての愛が、今この瞬間を祝福しているかのように。
くそっ誰とも子作り出来なかったっ