モンドの夜はいつも静かだ。
西風協会の鐘楼が夕刻を告げる鐘を鳴らし終えてから数時間、街の灯りは次第に数を減らし今はもう、葡萄酒を楽しむ大人たちのいる酒場と夜通し祈りを捧げる信者のための礼拝堂にだけ、灯りが点っている。その協会の裏、シスター専用の寮の棟にある一室。その窓からもれていた小さな灯りが、ふっと消えた。
「……はぁ……んっ……」
薄いカーテン越しに月明かりだけが差し込む部屋の中、バーバラはベッドの上で寝間着の裾をたくし上げ、自分の指で秘所を優しく撫でていた。
(だめ……こんなこと、しちゃだめなのに……)
頭ではわかっている。シスターとして、アイドルとしてみんなの模範であるべき自分が、夜な夜な自分の身体を慰めるなどあってはならないことだ。けれど、身体が言うことを聞かない。目を閉じれば浮かんでしまうのは、あの人の顔。モンドの風に金髪をなびかせていつも真っ直ぐな瞳で自分を見つめてくれた、旅人の顔。
バーバラが旅人を意識し始めたのは、いつだっただろう。きっかけはよく覚えていない。ただ、気づいた時には彼の姿を目で追っていた。西風協会で祈りを捧げている時も、モンドの広場で歌を披露している時もふと視線を感じて振り返ると、そこに彼がいた。笑顔でこちらを見ていてくれた。
『旅人……今日も、来てたんだね』
そう声をかけると、彼は少し照れくさそうに笑ってこう言った。
『バーバラの歌が聴きたかったんだ』
それだけの言葉がバーバラの心をふわりと温かくした。年代問わずモンドの人たちは、バーバラを「アイドル」としてしか見てくれない。敬遠する者もいれば、逆に必要以上に馴れ馴れしく接してくる者もいた。けれど旅人は違った。彼はバーバラを一人の人間として女の子として対等に接してくれた。それが、どれほど嬉しかったか。
『バーバラ、今日もお疲れ様。喉大丈夫?』
『うん。 旅人こそ、今日も一日お疲れ様』
『俺は大丈夫。それより、バーバラこそ無理しないで。いつもみんなのために頑張ってるから』
『そんなこと……私なんて、まだまだで』
『そんなことないよ。バーバラの歌は、みんなを元気にする。俺も何度助けられたかわからない』
その言葉が、どれほどバーバラの支えになったか。忙しい日々の中で、自分の存在を肯定してくれる人がいる。それだけで、バーバラはまた明日も頑張ろうと思えた。
(でも……それだけじゃ、なかった)
いつからだろう。旅人と一緒にいる時間が、ただ嬉しいだけではなくなったのは。
彼が他の女の子と話しているのを見ると、胸の奥がちくりと痛むようになったのは。
彼の隣に立つ自分を想像して、頬が熱くなるようになったのは。
(私……旅人のことが、好きなんだ)
気づいた時には、もう遅かった。その想いはバーバラの中でどんどん大きくなっていった。けれど、伝える勇気はなかった。だって自分はシスターで、アイドルで、みんなの憧れの存在でいなければならない。そんな自分が、一人の男の子に恋をするなんて許されない気がした。
それでも、ほんの少しだけ期待していた。もしかしたら、旅人さんも自分のことを……。
そんな淡い想いを抱いて、彼に会うたびに心が弾んだ。彼が自分の歌を聴きに来てくれること。彼が自分の体調を気遣ってくれること。彼が自分の話を、真剣に聞いてくれること。その一つ一つがバーバラにとっては宝物だった。
――それなのに。
「ねえ、聞いた? 旅人さん占星術師のモナさんと付き合い始めたんだって」
数日前、協会のロビーでシスターたちが話していた雑談が、バーバラの耳に飛び込んできた。その瞬間バーバラは持っていた聖書を床に落としそうになった。
「え……本当?」
「うん。モナさん、この前、旅人さんと一緒にいるところを見たってギルドの人が言ってたよ」
「まあ……! お似合いね」
「そうね。モナさん、綺麗だし占いもよく当たるし。流石は栄誉騎士さま、美男美女で目の保養よね」
シスターたちの言葉がバーバラの胸に突き刺さる。モナ。確かに、彼女は美しい。神秘的で聡明で、旅人と並んでも遜色ない。バーバラは自分の小さな胸を、そっと手で押さえた。自分には彼女のような大人の魅力はない。ただ、歌うことしかできない子供みたいな自分。
(そんな……旅人……)
その夜、バーバラは初めて枕を濡らした。誰にも言えない想いが、涙となって溢れ出した。次の日もその次の日も。夜になると、思い出しては泣いた。けれど昼間は笑顔を絶やさなかった。アイドルのバーバラは、いつでもみんなを笑顔にしなければならないから。
(でも……諦めきれない……)
何度、忘れようと思っただろう。旅人にはモナさんという恋人がいる。自分が割り込む余地なんて、どこにもない。そう頭ではわかっているのに、心が言うことを聞かない。旅人さんに会うたびに、彼の声を聞くたびに、彼の笑顔を見るたびに想いはどんどん大きくなっていく。
(私だって……旅人の、隣に……)
そんなことを考えてしまう自分が嫌になる。モナさんに嫉妬している自分が、情けない。でもどうしようもなかった。好きという気持ちは決して自由にできないのだから。
(旅人……会いたい……)
今日も、彼には会えなかった。運が無かっただけなのかもしれない。その間、バーバラは何度も協会の入り口に目をやり、彼の姿を探してしまった。いないとわかっているのに。寂しさと、募る想いだけが胸の奥に積もっていく。
(今頃……モナさんと、一緒にいるのかな……)
そう思うと、胸が締め付けられる。二人で夕食を食べているのかもしれない。二人で星を見ているのかもしれない。そして、夜は……。
(いや……そんなこと、考えちゃだめ……!)
けれど、想像は止まらなかった。旅人の腕に抱かれるモナ。彼女の髪を優しく撫でる旅人。二人の唇が重なる。そして、その先の……。
「……はぁ……んっ……旅人……」
気づけば、バーバラの指は自分の秘所を撫でていた。寝間着の下、下着の中。まだそこは湿り気を帯び始めたばかりだった。バーバラは、自分の指をそっと動かす。クリトリスの周りを、円を描くように撫でる。そのたびに小さな快感が、下腹部から全身に広がっていく。
(私……こんなこと……)
自慰をすること自体バーバラにとっては罪深い行為だった。シスターとして、清くあるべき自分がこんな淫らなことをするなんて。けれど、止められない。旅人を想うと身体が熱くなる。彼に触れられているわけでもないのに、胸の先が疼き秘所が濡れてくる。
「ん……旅人さん……私の、ことを……」
目を閉じると旅人の顔が浮かぶ。彼が、自分を見ている。優しい眼差しで。その瞳が、だんだんと欲を帯びていく。
(旅人が……私を、抱いている……)
想像の中で、旅人の手が、バーバラの身体を撫でる。鎖骨から胸へ。慎ましい双丘を、優しく揉みしだく。その手つきはとても優しくて、それでいて少しだけ乱暴で。バーバラは、自分の小さな胸にコンプレックスを感じていたけれど、想像の中の旅人はそんなこと気にしないみたいに、彼女の胸を愛でてくれる。
「バーバラの、ここ……綺麗だよ」
そんな言葉を、囁いてくれる。
「んんっ……旅人……あっ……」
指の動きが、次第に速くなる。クリトリスを直接刺激する。ぬるぬるとした感触が、指先に伝わる。自分の愛液で指が濡れている。バーバラは、自分の指をそっと秘所の入り口に持っていく。
(ここに……旅人のが……)
ずぶり、と。指の第一関節だけを中に入れる。まだ狭いそこは、異物を拒むようにきゅうっと締まる。けれど、バーバラは構わず指を少しずつ奥へと進めていく。
「あ……痛い……でも……」
処女の膜に、指先が触れる。まだ誰も入ったことのない場所。この膜を、破るのは旅人さんがいい。そんなことを、思ってしまう。彼に優しく、抱かれたい。そしてこの身体を、全部あげたい。
(旅人に……私の、初めてを……あげたい……)
想像の中で、旅人が、自分の中に入ってくる。ゆっくりと優しく。バーバラは、痛みに耐えながら彼のものを受け入れる。
「バーバラ……大丈夫?」
「はい……旅人……来てください……」
そして、彼が、一番奥まで届く。その瞬間の充実感。誰よりも愛する人と、一つになれた喜び。バーバラは想像の中で、旅人に抱かれながら何度も何度も、絶頂を迎える。
「あっ……あっ……旅人さん……!」
現実のバーバラは指一本で、自分の膣内を探っていた。どこを触れば気持ちいいのか。どうすれば、もっと感じるのか。旅人に抱かれる日を想像して、予習するみたいに。けれど指一本では、物足りない。旅人のものが欲しい。彼の、大きくて熱いものが。
(私の指じゃ……だめ……旅人じゃないと……)
バーバラは、指を抜くと、自分の胸を両手で揉んだ。小さな双丘。モナさんみたいに、大きくない。それが悔しい。
「旅人……私の、ここ……小さいけど……感じるの……あなたに触られると……」
そう呟いて、胸の先端を、指でつまむ。くりくりと転がす。そのたびに、下腹部がきゅんと疼く。同時に、もう片方の手で再び秘所を撫で始める。
「あ……あ……旅人……私、もう……」
二つの刺激に身体が追いつかない。バーバラは、腰を浮かせて指の動きを速める。声を、殺すのが必死だった。隣の部屋には、他のシスターたちが眠っている。聞かれたら、終わりだ。けれど止められない。
「んんんっ……!」
ビクン、と身体が震える。小さな絶頂。けれど満足できない。旅人と一緒の時は、もっとずっと、大きいから。
(もっと……もっと、旅人……)
バーバラは、枕に顔を埋めて声を殺しながら、何度も自分を慰めた。一回では終わらない。二回、三回。指がふやけるまで。クリトリスが、痛くなるまで。それでも足りない。旅人に、抱かれたい。彼の腕に包まれたい。彼の、全部を感じたい。
「旅人……旅人……!」
心の中で、何度も、彼の名を呼ぶ。叶わない恋だとわかっている。それでも、想いは募るばかりで。
(私……どうしたらいいの……)
やがて、身体が、疲れ果てて。バーバラは指を止めた。荒い息が、静かな部屋に響く。涙がまた、溢れてきた。気持ちよかったのに、虚しい。一人で慰めても全く満たされない。本当に欲しいのは、旅人の愛だから。
「……旅人」
バーバラは、天井を見つめて小さく呟いた。
「私……あなたのことが、好きです」
届かない言葉。けれど、言わずにはいられなかった。
「モナさんと、お幸せに……なんて、言えない。私そんなに、強くない。あなたの隣に私も、いたい」
涙が、枕に染みていく。バーバラは自分の身体を、ぎゅっと抱きしめた。誰かに抱きしめてほしい。旅人に、抱きしめてほしい。
「いつか……いつか、私も……」
その夜、バーバラは、眠りにつくまでずっと、旅人のことを考えていた。明日もまた、笑顔でいなければ。アイドルのバーバラは、みんなの希望だから。けれど夜だけは。一人の女の子として、恋に泣いてもいいだろうか。
(旅人……どうか、私の想いが、届きますように)
月明かりが、バーバラの濡れた頬を優しく照らしていた。
◆◆◆
翌朝。
バーバラはいつも通り、早起きした。寝不足の顔を冷水で引き締める。鏡の中の自分は、少しだけやつれていたけれど。それでも、笑顔は忘れない。
「大丈夫……私、バーバラだもん。みんなを笑顔にしなくちゃ」
協会の廊下を歩けばすれ違うシスターたちが、挨拶をしてくる。バーバラはいつも通りの笑顔で、それに応えた。誰にも気づかれない。昨夜、泣いていたことなんて。
「あ、バーバラちゃん。おはよう」
「おはようございます、シスター・ヴィクトリア」
「今日も、歌の練習? 頑張ってね」
「はい! ありがとうございます」
礼拝堂に入ると、朝の祈りを捧げる。旅人の無事を。彼の幸せを。そして、いつか自分の想いが届くことを。神様に、そんなことをお願いするのはシスターとして、どうかと思うけれど。それでも、祈らずにはいられなかった。
「……旅人。今日も、どこかで、元気でいますように」
祈りを終えて、バーバラは、ふと、隣を見た。そこにはいつもなら、ノエルが座っているはずだった。けれど今日はいない。
(そういえば一昨日、ノエルからお茶会に誘われていたっけ)
でも断ってしまった。旅人の話を、聞きたくなかったから。ノエルも同じ人を、好きだから。
(ノエル……ごめんね。私、まだ、あなたと笑い合えない)
バーバラは、そっと、目を閉じた。胸の奥がまた、痛み出す。けれど、涙は、もう出なかった。泣きすぎて凅れたのかもしれない。それとも、決意したからか。
(私……旅人に、会いに行こう。ちゃんと自分の気持ち、伝えよう)
モナさんが、いることは、わかっている。それでも伝えたい。伝えて、それで振られたら。そしたら、きっと諦めがつくから。このまま想いを秘めて、夜な夜な泣くよりずっと、いい。
「風神様……私、勇気を、出します」
バーバラは、立ち上がった。今日の自分の仕事を、終わらせて。そして旅人を、探しに行こう。彼に会って。この、募る想いを伝えよう。
(旅人……待っててください。私、あなたに、会いに行きます)
朝の光が、バーバラの決意を照らしていた。その瞳には、もう、涙はない。あるのはただ、まっすぐな想いだけ。愛されアイドルの、秘めた恋慕。それはまだ、誰にも知られていない。けれど、もうすぐ。その想いは旅人の元へと、届くのだろう。
バーバラは、礼拝堂を後にした。モンドの街に朝の鐘が、鳴り響く。新たな一日の始まりを告げるように。
礼拝堂を後にしたバーバラは、朝の光が満ちる協会の中庭を足早に横切っていた。決意したとはいえ、いざ旅人を探しに行くとなると胸の鼓動が早くなる。どこにいるだろう。まずはいつも通り、モンドの城門付近から探してみようか。そんなことを考えながら石畳の道を歩いていた、ふいに「バーバラちゃん!」
聞き慣れた、それでいて少しだけ違う響きの声。バーバラが顔を上げるより先に、白と黒のメイド服の影が視界いっぱいに広がった。避ける間もなく、二人の身体がぶつかりそうになる。寸でのところで互いに足を止めたものの、バーバラの鼻先すれすれの距離にノエルの鳩尾が迫っていた。
「ノエル……!?」
驚いて顔を上げるとそこには見慣れたノエルの姿があった。いつものようにきちんと整えたエプロンドレスの騎士鎧に身を包み、緩く結わえた銀色の髪。けれど、その表情にはどこかバーバラの知らない色が混じっている。誇らしさと、照れくささとそして決意。朝露に濡れた花のような、そんな輝きがノエルの全身から漂っていた。
「おはようございます、バーバラちゃん。ちょうど良かった。今バーバラちゃんに会いに行こうと思っていたんです」
「私に……? 何か、あったの?」
「はい。少し、お話ししたいことがあって」
ノエルはそう言うとバーバラの返事を待たずにその手を取った。驚くほど自然な動作だった。いつものノエルなら、必ず「お時間よろしいでしょうか」と前置きをする。相手の都合を最優先にする、それがノエルという少女だった。そのノエルが、だ。
「ノエル……?」
「バーバラちゃんのお部屋、お借りできますか? ここでは少し話しにくいので」
「え、あ、うん……でも、私これから旅人を探しに……」
「旅人様なら、今は洞天にいらっしゃいます」
「洞、天……?」
「はい。ええ、そうです。洞天です」
ノエルはそれ以上何も説明せずバーバラの手を引いて歩き出した。その歩調は、普段の丁寧で控えめなそれとはまるで違う。迷いのない、真っ直ぐな歩みだった。バーバラは戸惑いながらも、その手に引かれるまま協会の裏手にあるシスター寮へと向かう。途中ですれ違ったシスターが「あら、バーバラちゃんにノエルちゃん」と微笑みかけてきたが、ノエルはにっこりと会釈と共に挨拶を返しただけで足を緩めなかった。
「ねえ、ノエル。どうしたの急に」
「ごめんなさい、バーバラちゃん。今は歩きながら話すより、ちゃんと座って話したいんです」
「そ、そう……」
ノエルの横顔を、バーバラは盗み見た。朝の光を受けてその頬はほんのりと赤く染まっている。照れている、というよりは昂っている。何かを抱えている。それは確かだった。
バーバラの胸に、小さな不安が芽生える。ノエルも旅人のことを好きだと、知っている。だからこそ二人で話すときはいつも、どこかにお互いに探り合うようなところがあった。なのに、今日のノエルは違う。まるで答えを出し終えた後のような、清々しさがある。
「バーバラちゃん」
「なに?」
「朝ごはんは、もう召し上がりましたか?」
「え、ううん。これから協会の食堂で……」
「それなら、ちょうど良かった。私朝食も少し持ってきているんです」
そう言って、ノエルは左手に提げていた小さなバスケットを持ち上げてみせた。中には、綺麗に包まれたサンドイッチと小さな水筒が入っているらしい。まるで、最初からこうなることを予定していたかのような準備ぶりだ。バーバラは、ますます戸惑いながらそれでも抗う気力を失って、ノエルに手を引かれるまま寮の階段を上がった。
やがて、見慣れた自分の部屋の前に着く。ノエルが先にドアを開け、バーバラを中へと招き入れた。まるで自分の部屋であるかのように自然な仕草だった。(いやいや、ここ、私の部屋なんだけど……)と心の中でツッコミを入れる。
部屋の中は、朝の柔らかな光が差し込んでいて机の上には昨日読みかけの聖書が開いたまま置かれている。窓辺には、バーバラが大切にしている小さな鉢植えの花が、小さな蕾を膨らませ、今にも咲きそうだった。
「お邪魔しますね、バーバラちゃん」
「うん……。あの、ノエル。本当にどうしたの? いつものノエルらしくないよ。こんなに、ぐいぐい来るなんて」
バーバラが正直な気持ちを口にすると、ノエルは一瞬だけ申し訳なさそうに俯いた。けれどすぐに顔を上げて、バーバラの目を真っ直ぐに見つめた。
「ごめんなさい。私も、こういうのは得意じゃないんです。でも……今日は、どうしてもバーバラちゃんに伝えたいことがあって。それに、少し急いでいたんです」
「急いでる?」
「はい。モナさんに、言われたんです。『バーバラさんに、早く伝えなさい』って」
「モナさん、に……!?」
その名を聞いた瞬間、バーバラの胸がぎゅっと締め付けられた。モナ。旅人の恋人。彼女が、なぜ、自分に。バーバラの表情が強張るのを見てノエルは静かに、けれど確かな声で言った。
「バーバラちゃん。私、昨日から、栄誉騎士様の恋人になりました」
その言葉は、朝の静かな部屋にゆっくりと、けれど確実に染み渡っていった。
バーバラは、一瞬息が止まった。
頭の中が白くなる。聞かなければよかった。
でも、聞いてしまった。
ノエルは旅人の、恋人。モナさんだけじゃなかったんだ。
「それで……バーバラちゃんに、お話が、あるんです」
ノエルは、そう言うと、バスケットからサンドイッチを取り出し机の上に並べ始めた。その手つきは、いつもの丁寧なノエルに戻っていた。けれど、その横顔にはやはり、あの決意の色が宿っている。バーバラは喉の奥がからからに乾くのを感じながら、ノエルの次の言葉を待っていた。
そんなバーバラとは打って変わって、静かにノエルはサンドイッチを並べ終えるとバーバラの向かい側にそっと腰を下ろした。
窓から差し込む朝の光が、彼女の銀色の髪を柔らかく照らしている。その姿はいつもと変わらない清楚なメイド騎士のそれなのに、纏う空気だけがどこか違っていた。
「バーバラちゃん。まず、聞いてほしいんです」
ノエルは膝の上でそっと拳を握った。震えを隠すためだった。彼女は決して話し上手ではない。けれど今日は、この想いを伝えるためにここへ来たのだ。
「私……モナさんが栄誉騎士様とお付き合いを始めたって知った時、本当に悲しかったんです」
その告白は、静かだけれど確かに震えていた。
「私はずっと、旅人様に憧れていました。自由を体現して、あっという間に栄誉騎士になって……それなのに誰に対しても公平で、誠実で。そんなあの方のそばに、いつか私もメイド騎士として侍れないかって、そう願っていたんです。でも……モナさんという恋人ができたと聞いて、諦めようと思いました。だって騎士たるもの、諦めるべき時はきちんと諦めなければならないと、そう教わってきましたから」
ノエルは、そこで一度、言葉を切った。唇が少しだけ震えた。
「でも……諦められませんでした」
その声は、絞り出すようだった。
「栄誉騎士様とお話しするたび、彼の仕事を手伝うたび彼に褒めていただくたび、想いがどんどん大きくなって。気づいたら夜も眠れないほどになっていて。私……そんな自分が情けなくて、でもどうしようもなくて」
バーバラは、息を飲んだ。その告白はまるで自分の心の声を聞いているようだった。夜も眠れない。想いが膨らむばかり。諦めようとしても諦めきれない。その苦しみを、バーバラは誰よりもよく知っていた。
「でもモナさんは、栄誉騎士様にある予言を授けたんです。『数多くの女性と関係を持ち、悩みや苦悩を解きほぐしやがてその全員と恋人を経て妻とし、一人につき何人もの子供を孕ませる』って」
バーバラの目が大きく見開かれた。何人もの妻。一人につき、何人もの子供。その予言の意味を、すぐには飲み込めなかった。
「それって……つまり、旅人は、これからもっともっと、たくさんの女の子と……?」1
「はい。モナさんの予言は、必ず当たります。だから私はフラれる覚悟で旅人様に想いを伝えました。そしたら、旅人様は……私を受け入れてくださいました」
ノエルは、そこで少しだけ口元を緩めた。照れくさそうに、けれど誇らしげに。
「私、昨日、旅人様と洞天に住まわせていただくことになったんです。荷物も運び込んで、一緒に夕飯を食べて……それで、夜は、その……」
彼女は顔を赤らめしばらく言葉に詰まった。バーバラは、心臓が痛いほど脈打つのを感じていた。聞きたくないのに、聞かなければならない。そんな矛盾した想いが、胸の中で渦巻いている。
「旅人様は……とても、優しくて。それでいて激しくて。私のこと、何度も何度も愛してくださって。私は……その、すぐにイってしまって何度も意識が飛びそうになって、それでも旅人様は私を抱きしめて離さないでいてくれて。その……子宮の奥に、いっぱい注いでくださいました」
その言葉は、決して淫らな響きではなかった。ただひたすらに、愛する人と一つになれた喜びとその記憶への感謝が込められていた。バーバラは、自分の下腹部がきゅっと疼くのを感じた。昨夜、自分で慰めた時の感覚が生々しく蘇る。
「私は……幸せでした。旅人様の一番近くにいられて、彼の全部を受け止められて。でも……それだけじゃ、足りないんです」
ノエルは、そこでバーバラの手を取った。その手は少し冷えていた。
「バーバラちゃん。私、ずっと知っていたんです。あなたも旅人様のことを好きだって」
バーバラの肩が、びくりと跳ねた。
「ごめんなさい、気づいてしまって。でもその想いを互いに口にはしませんでしたよね。だって、言ったら終わってしまう気がして。恋敵同士だと、認めてしまう気がして。それでも私たちはお茶会をして、旅人様の話で盛り上がって。その時間が、私は大好きでした」
ノエルの目に涙が滲んだ。けれど、彼女は決してそれを零さなかった。
「私は、栄誉騎士様の恋人になって、そして奥様の一人になって、いつかあの人の子供を産んで育てていきたいと思っています。それも、一人じゃないんです。モナさんもこれから増えるであろう他の女性たちも、みんなで支え合って旅人様の家族になっていくんです」
ノエルは、バーバラの手をそっと握り直した。
「だから、バーバラちゃん。もしあなたが望むなら……諦めたくないと思っているのなら……!私たちと一緒に、栄誉騎士様の家族に、恋人になりませんか?」
その瞬間、バーバラの頭の中で朝からずっと考えていた決意が、音を立てて崩れ去った。旅人さんに会いに行って、想いを伝えて振られたら諦めよう。そう思っていた。けれど、ノエルはそんな必要はないと言っている。モナさんも、それを望んでいるという。
「わ、私……」
バーバラの喉が、震えた。涙が溢れそうになる。
「私も、旅人と……一緒に、いていいの?」
「はい。むしろ、来てほしいんです」
ノエルは、にっこりと笑った。それは昨夜洞天で見せた、あの満ち足りた笑顔だった。けれどその笑顔は、決して独占欲から来るものではない。本当に、心からバーバラと共に幸せになりたいとそう願っての笑顔だった。
「私、体力には自信があるんですけど……それでも、あのお方は本当にすごくて。二人だけじゃ、とてもじゃないですけど耐えられません。だから、バーバラちゃんにも来てほしいんです。一緒に、栄誉騎士様を支えて。そして一緒に、あの方の赤ちゃんを産みましょう?」
その言葉に、バーバラは、ついに涙を零した。
「ノエル……私、私……!」
「バーバラちゃん」
ノエルは、立ち上がるとバーバラの隣に移りそっと彼女の肩を抱いた。
「大丈夫です。私も、最初は不安でした。でも旅人様は、ちゃんと全部受け止めてくださいますから。モナさんも、きっとバーバラちゃんを歓迎してくれます。何せ、あの予言を授けたのはモナさん自身ですから」
「ふふ……そう、だね」
バーバラは、涙を拭いながら小さく笑った。長い間、一人で抱えてきた想い。それをこんなにもあっさりと、受け入れてもらえるなんて。思ってもみなかった。
「ノエル、ありがとう。私……旅人に、会いに行く。ちゃんと自分の気持ち、伝えてくる」
「はい。それがいいと思います。栄誉騎士様、きっと喜んでくださいますよ」
ノエルは、バーバラの手を離すと机の上のサンドイッチを手に取った。
「それじゃあ、まずは朝ごはんを食べましょう? 私、心を込めて作ったんです。栄誉騎士様に振られる前に、お腹空いて倒れちゃったら元も子もないですから」
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ!」
バーバラは、涙を拭いながらくすくすと笑った。久しぶりの、心からの笑顔だった。サンドイッチを一口かじると、ほんのりと甘い味が広がった。それはノエルがバーバラの好みを覚えていてくれた味だった。
「おいしい……」
「よかった。バーバラちゃん辛いものが好きですからね」
「覚えててくれたんだ」
「もちろんです。だって、私……バーバラちゃんのことも、大切な友達ですから」
その言葉に、バーバラの胸の奥がじんわりと温かくなった。恋敵であり、友達。その関係はこれから先、もっと複雑になっていくのかもしれない。けれど、今この瞬間だけはただ、ノエルの優しさが嬉しかった。
「ノエル。私、決めた」
バーバラは、サンドイッチを置いてまっすぐにノエルを見た。
「旅人さんに、会いに行く。そして想いを伝える。その結果がどうなっても……ノエル、あなたとはこれからも友達でいてくれる?」
「もちろんです。むしろ、これからは、家族になるんですよ?」
ノエルは、いたずらっぽく笑った。その笑顔にバーバラも、つられて笑った。
「そうだね。家族……か。なんだか、まだ実感が湧かないけど」
「私もです。でも、きっと、すぐに慣れますよ。だって旅人様のそばにいるだけで、こんなにも幸せなんですから」
その言葉に、バーバラは、そっと自分の胸に手を当てた。まだ見ぬ旅人との未来。それは、決して平坦ではないかもしれない。けれどノエルやモナと共に歩むなら、きっと大丈夫だと思えた。
「よし。それじゃあ、行ってくるね」
「はい。いってらっしゃい、バーバラちゃん」
ノエルは、バーバラの背中をそっと押した。その手のひらは、温かくて少しだけ汗ばんでいた。ノエルも、緊張しているのだろう。それでも笑顔で送り出してくれる。その健気さが、バーバラにはとても嬉しかった。
「ノエル」
「はい?」
「ありがとう。私、あなたが友達でよかった」
その言葉に、ノエルは一瞬目を見開いた。そして、ふわりと花が綻ぶような笑顔を見せた。
「私もです、バーバラちゃん。どうか栄誉騎士様に、あなたの想いが届きますように」
ノエルは祈るように応援すると、一枚の木片を差し出した。
その木片は、手のひらにすっぽりと収まる小さなものだった。表面には見たこともない不思議な文様が描かれ、柔らかな光を僅かに帯びている。触れるとほんのりと温かく、まるで生きているかのようだった。
「これが洞天の通行証です。これを手に持って、心の中で行きたいと思い浮かべると……ほら」
ノエルがバーバラの手を取ると、二人の身体がふわりと浮き上がるような感覚に包まれた。目の前の景色が水彩絵の具を溶かしたように滲み、次の瞬間にはもう見知らぬ草原が広がっていた。小川のせせらぎ、花の香りそしてどこか懐かしいような柔らかな風。息を呑むバーバラの耳に、聞き慣れた声が届く。
「バーバラ!」
旅人が、小川のほとりに立っていた。隣にはモナそしてパイモンが浮かんでいる。旅人は少しだけ慌てたようにバーバラの元へと駆け寄った。
「来てくれたんだな、バーバラ」
「旅人……」
バーバラは、喉の奥がからからに乾くのを感じた。昨夜何度も何度も想像した再会。けれどいざその姿を目の前にすると、用意していた言葉がすべて消え失せてしまった。ただ、涙だけが滲んでくる。
「バーバラちゃん、大丈夫?」
モナが、そっとバーバラの背中を支えた。その声は優しくて、けれどどこか確かめるようだった。
「モナさん……私、その……」
「何も急がなくていいですから。まずは、少し座りましょう」
モナはバーバラの手を引き、草原に設置された小さなテーブルへと導いた。テーブルの上には、温かいハーブティーが人数分並べられている。まるで、バーバラが来ることを最初から知っていたかのような準備ぶりだった。
「実は、朝から用意してたんだ」
旅人が、照れくさそうに頭を掻いた。
「ノエルがバーバラを連れてくるって、そう言ってたから」
「ノエルが……?」
「うん。それに、モナもパイモンも、バーバラを迎える準備はできてるって」
バーバラは、ノエルを見た。ノエルはにっこりと微笑んで、バーバラの隣に腰を下ろした。
「だから言ったでしょう? みんな、バーバラちゃんを歓迎するって」
モナは、ティーカップを手に取り一口含んでから静かに口を開いた。
「バーバラさん。まずは、あなたの気持ちを聞かせてください」
「モナさん……」
「私の予言は、あなたのこともちゃんと見えているんです。だから、無理に話さなくてもわかっているつもりです。でも……ちゃんと、あなたの口から聞かせてください。自分の意志で、新たな自分の運命を受け入れるために」
「そうだな。俺も、バーバラの気持ちをちゃんと聞きたい」
旅人が、バーバラの目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、いつもと変わらず誠実で優しい。けれどその奥には確かな覚悟の色がある。バーバラは、自分で自分の手をぎゅっと握りしめた。ノエルの言葉を思い出す。大丈夫、旅人さんはちゃんと全部受け止めてくれる。そう信じて、バーバラは顔を上げた。
「旅人。私……貴方のことが、好きです」
その言葉は、自分でも驚くほど素直に出てきた。
「ずっと前から、好きでした。多分、旅人がモンドに来てくれた時から。旅人が私を対等な女の子として接してくれて、私の歌を褒めてくれて、体調を気遣ってくれて……そんな貴方だから、私は惹かれていました」
バーバラの声が、少しだけ震える。それでも止まらない。
「でも、モナさんと付き合い始めたって聞いて……諦めなきゃって、そう思ったんです。何度も何度も。シスターとして、アイドルとしてみんなの模範でいなきゃって。それなのに……それなのに、どうしても諦められなくて」
涙が、一筋こぼれた。ノエルがそっと、バーバラの背中を撫でる。
「夜、一人で泣いて。自分の身体を慰めて、旅人に抱かれる自分を想像をして。そんな自分が情けなくて、でもどうしようもなくて……!」
バーバラは、ついに旅人の胸に飛び込んだ。その胸は温かくて、鼓動がすぐそばに聞こえた。
「私も、貴方の家族になりたい。ノエルみたいに、モナさんみたいに貴方に愛されて、子供を産んで、一緒に育てていきたい。それは、私ではだめですか……?」
旅人は、しばらく何も言わなかった。ただバーバラの頭を優しく撫で続けた。そして、しばらくしてから静かに口を開いた。
「バーバラ」
「はい……」
「俺は、君のことをちゃんと愛せる。ノエルもモナも、君を家族に迎えたいって言ってくれてる。もちろんパイモンも」
「おいらは大賛成だぞ! バーバラは旅人のこと本気で好きなんだし、それにバーバラがいたらもっと洞天が賑やかになるしな!」
パイモンが、ぴょんと跳ねてバーバラの肩に乗った。
「それに、バーバラは歌が上手いから洞天でも歌ってくれよな!」
「パイモン……ふふ、ありがとう」
バーバラは、涙を拭いながら笑った。旅人はそんなバーバラの頬にそっと手を添えた。
「バーバラ。これからは、俺の恋人だ。そしていつか、俺の子供の母親になってほしい」
「……はい」
その言葉に、バーバラは深く頷いた。朝からずっと張り詰めていたものが、ゆっくりと解けていく。モナがバーバラの手を取った。
「バーバラさん。ようこそ、私たちの家族へ」
「モナさん……ありがとうございます」
「これからは、ご主人様のことで協力し合いましょうね。一人で抱え込むのは、もう終わりです」
ノエルが、立ち上がってバーバラの両手を取った。
「バーバラちゃん、これからはちゃんと一緒に空様を支えましょうね」
「うん……!」
旅人が、三人を見渡して満足そうに笑った。
「それじゃあ、バーバラの歓迎会をしよう。ノエル、バーバラの好きな辛い料理、作ってくれるか?」
「はい、喜んで!」
「私も手伝います。バーバラさん、辛いもの好きなんでしたね」
「え、モナさん、覚えててくれたんですか?」
「ええ。空の大切な人になるかもしれないから、ちゃんと調べておきました」
モナは、いたずらっぽく笑った。その笑顔にバーバラもつられて笑う。まだ、実感はない。けれど確かにここに自分の居場所ができた。それが、ただただ嬉しかった。
「旅人さん」
「ん?」
「私、頑張ります。シスターとしても、アイドルとしてもそして……貴方の恋人としても」
「ああ。俺も、バーバラをちゃんと幸せにするよ」
旅人はそう言うとバーバラの額にそっと口づけを落とした。バーバラは、目を閉じてそれを受け止めた。洞天の空は今日もどこまでも青く澄み渡っていた。
◆◆◆
その日の午後。
洞天の大キッチンは、いつにも増して賑やかだった。ノエルがエプロンを締めて腕を振るい、モナがその隣で野菜を切っている。バーバラはというと、最初は遠慮して手伝おうとしなかったのだが、ノエルに「バーバラちゃんは、今日からお客様じゃないんですから」と強引にエプロンを渡され、しぶしぶ包丁を握った。
「私、料理あんまり得意じゃないんですけど……」
「大丈夫です。私が教えますから」
「ノエル、優しい……」
旅人はというとリビングのソファに腰掛け、パイモンと共にその光景を眺めていた。三人の女性が一緒に料理をしている。その光景が、旅人にはとても眩しく映った。
「なあ、旅人」
「どうした、パイモン」
「お前、ほんとにすごいな。ノエルもモナもバーバラも、みんなお前のこと好きでそれでいて仲良くやってる」
「別に、俺がすごいわけじゃない。みんながちゃんと話し合ってくれたからだよ」
「でもよ、普通はこうはいかないぜ。おいらは旅人には可愛いお嫁さんがいっぱい居るべきだって思ってたけど、お前がハーレムを作るなんて考えてるわけ無いと思ってたから」
パイモンは、いつになく真剣な顔でそう言った。
「お前が本気でみんなを幸せにしようとしてるから、みんなもついてくるんだ。おいらそう思うぜ」
「パイモン……」
「だからよ、これからも頑張れよ。おいらもお前の相棒として、ちゃんと見守ってるし手伝うからさ!」
パイモンは、そう言って旅人の肩をぽんぽんと叩いた。その小さな手のひらが、旅人にはとても頼もしく感じられた。
「ありがとう、さすが相棒」
「へへっ、おいらに任せとけって!」
「パイモン……!」
「だから早くお前の赤ちゃんを見せてくれよな」
「パイモン……」
やっぱりマイペースで配慮の無いパイモンの言葉に少し呆れる旅人。
その時、キッチンからバーバラの悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!」
「バーバラちゃん、大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい、指を……」
「見せてください。……ああ、たいしたことありません。私が治しますね」
モナが、バーバラの指にそっと手を当てた。ほんの数秒で、小さな傷は消えてしまう。バーバラは自分の指を見つめて、感嘆の声を上げた。
「すごい……! モナさん、治癒もできるんですね」
「ええ。これでも、空のパーティーの一員ですから(まあ、もっとも実戦じゃまだまだですが……)」
「私も、もっと頑張らなきゃ……!」
バーバラは、そう言って再び包丁を握り直した。その横顔は、もう涙を拭っていた朝のそれではない。確かな決意と、そして希望に満ちていた。
(旅人。私、頑張ります。あなたの隣でちゃんと笑えるように)
その想いは、きっと旅人にも届いているだろう。大キッチンに、三人の笑い声と料理の香りが満ちていく。洞天の新しい一日が、こうして静かにけれど確かに始まろうとしていた。