(やっちまった……)
放課後の誰もいない教室。窓から差し込む西日が、黒板にチョークで書かれた「白石誠冬 ♡ 雪澤柊佳」の落書きをやけに鮮明に浮かび上がらせている。俺はげんなりと机に突っ伏していた。
「お前、罰ゲームとはいえマジで告ったんだな!」
「あの雪澤さんに? ありえねー!」
さっきまでゲラゲラ笑っていた男友達どもはとっくに逃げ帰り、今ここにいるのは俺だけ。いやもう一人。
「……あの、白石くん」
蚊の鳴くような声。
顔を上げると教室の入り口に猫背で立つ女子がいた。大きすぎるパーカーを着て、長い前髪で目元を隠した影の薄い同級生。雪澤柊佳。
俺は三十分前のことを思い返す。
「白石、罰ゲームな。あの雪澤に告白しろ」
「は? 雪澤って誰だよ」
「クラスで一番地味な女子。ほら、いつも隅っこで俯いてるパーカーの」
「あー……いるな、そういえば」
「どうせ相手にされねーよ。つーか話したこともねぇんだろ? じゃあやれよ」
俺は軽い気持ちで昼休み、柊佳に声をかけた。
「ちょっといいかな」
柊佳はびくっと肩を震わせまるで捕食者に遭遇した小動物のように縮こまった。長い前髪の下から、ちらりとこちらを窺う視線。声は消え入りそうなほど小さい。
「は、はい……」
「あのさ、俺、前から雪澤さんのこと……す、好きだったんだ。よかったら付き合ってくれない?」
棒読みにならないようむしろちょっと演技過剰なくらいに言ったつもりだった。どうせ断られる。怖がって逃げ出すか、無視されるか。男友達は廊下の角からニヤニヤしながら見物していた。
ところが。
「…………はい」
あまりに小さな声で、聞き逃すところだった。
「は?」
「……はい。付き合います」
顔を上げた柊佳の頬はほんのり赤く染まっていた。そして長い前髪の隙間から見えた瞳が、俺をまっすぐに見つめていた。暗い印象だったのに、その目は澄んでいて確かな意思を宿していた。
俺はフリーズした。後ろで友達もフリーズした。空気が止まった。
「え、あ、そ、そう……よかった……」
なんて返したか自分でもよく覚えていない。とにかく、そういうことになった。
……そして今、放課後。
「あの……せっかくお付き合いすることになったので、LINE交換しませんか」
柊佳は俯きながらおそるおそるスマホを差し出してきた。手が震えている。パーカーの袖が余って指先だけがちょこんと出ているのが、妙に可愛らしい。
「あー……うん、いいよ」
俺は内心冷や汗をかきつつ、QRコードを読み取った。友達リストに「雪澤柊佳」が追加される。アイコンは風景写真。地味だ。
「あの、それから……」
もじもじとパーカーのポケットをまさぐり、柊佳は小さな紙袋を取り出した。ぺこりと頭を下げて俺に差し出す。
「これ、よかったら……」
中を覗くと、手作りらしいクッキーが入っていた。不格好だけど、焦げてもいないしちゃんとラッピングまでされている。
「朝、早く起きて作りました。その……彼女として、何をすればいいかわからなくて……」
待て待て待て。
俺は罰ゲームだ。遊びだ。なのにこいつは本気で彼女になろうとしている? 手作りクッキー? 朝早く起きて?
(え、なにこれ。めっちゃ純粋じゃん。やばいやばいやばい)
良心がちくちくと痛み始める。しかし俺は引き返せないところまで来てしまった。
「ありがとう。大事に食べるわ」
「……よかった」
柊佳はほっと胸を撫で下ろした。その仕草で、ダボダボのパーカーの上からでもわかる豊かな胸の膨らみが、ふにゃりと揺れた。
(……あれ? こいつ、もしかして結構スタイルいいんじゃ……)
いや、罰ゲームだ。深く考えてはいけない。
「じゃ、じゃあまた明日」
「はい。……あの」
「ん?」
「その……白石くんのこと、前から少し、気になってました」
柊佳はますます俯き、耳まで真っ赤になる。
「いつもクラスの人と楽しそうに話してて、優しそうだなって。だから……声かけてもらえて、すごく嬉しかったです」
(うっ……良心が……)
俺は立ち上がり、ぎこちなく手を振って教室を後にした。廊下に出ると、壁に背中を預けて大きくため息。
「……どうすんだよこれ」
LINEの通知音が鳴る。
\\<雪澤柊佳: 今日は本当にありがとうございました。夢みたいです。おやすみなさい\\>
スタンプも絵文字もない、真面目すぎるメッセージ。
(罰ゲームって……言えるわけねえよなあ……)
俺はポケットの中のクッキー袋を握りしめながら、重い足取りで帰路についた。
明日から、どうやってこの偽りの交際を続ければいいんだろうか。
しかしまあ――柊佳の意外な一面を知ったのも事実だ。あんなに真っ直ぐな目をするなんて思わなかったし、手作りクッキーを渡すとか結構可愛いとこあるじゃないか。
(いやいや、罰ゲームだし。深く考えない)
そう自分に言い聞かせつつ夜、自室で一枚クッキーをつまんだ。サクサクしていて、ほどよい甘さ。美味い。
「……彼女、か」
スマホの画面に表示された「雪澤柊佳」の名前を眺めながら、俺は妙に落ち着かない気持ちで布団に潛り込んだ。
翌朝。
教室に着くと、柊佳はすでに自分の席に座っていた。いつも通り一番後ろの窓際、俯いて本を読んでいる。
「おはよう、雪澤さん」
俺が声をかけると、柊佳は本を落としそうになりながらも顔を上げた。
「お、おはようございます、白石くん。……あの、そ、その」
「ん?」
「よかったらこれ……今日の分です」
差し出されたのは、小さなタッパーに入った一口サイズのサンドイッチ。中身は卵サラダ。ちゃんと耳までカットしてある。
「え、昨日のクッキーに続いて今日はサンドイッチ? 毎日くれるつもり?」
「だ、だめですか……彼女って、こういうことするのかなと思って……間違ってたらごめんなさい」
柊佳はしゅんと肩を落とす。パーカーが余計に大きく見える。
「いや、嬉しいよ。ありがたくいただく」
「本当ですか? えへへ……」
初めて見る柊佳の笑顔。前髪の奥で、目が三日月のように細くなる。
(か、可愛い……じゃない、罰ゲーム罰ゲーム罰ゲーム)
俺は心の中で呪文のように唱えながら、サンドイッチを受け取った。
こうして俺の偽りの恋愛生活は、静かに、しかし確実にスタートしてしまったのだった。