(なんだこの空気……)
九月に入って最初の月曜日。教室に漂う異様な緊張感に、俺は眉をひそめた。
教壇の前に立つ一人の女子生徒。細身で直線的なシルエット。ショートカットの黒髪がクールな印象を与える。でも何より目を引くのは、その傲慢なまでの立ち姿だった。腕を組みふんぞり返り、クラス中を見下すような視線。
「黒雲驟雨だ。よろしく」
たったそれだけの自己紹介。それなのに教室中がざわついている。それもそのはずだ。転校生が来るという噂はあったけど、まさか二学期のこのタイミングでとは。
「黒雲って……あの黒雲グループの?」
「お嬢様がなんでこんな公立に……」
そんなひそひそ声が聞こえる。
黒雲グループ。国内有数の大企業で、政財界にも太いパイプを持つという名家。そんな家の令嬢が転校してきたというのか。
(でも……どこかで見たことあるような)
俺はその横顔に既視感を覚えた。しかし思い出せない。
「白石くん、あの人なんか怖いです……」
隣の席の柊佳が不安そうに俺の袖を引く。いつものパーカー姿で、今日も机の隅で小さくなっている。
「大丈夫だって。絡まれなきゃいいだけの話だろ」
「そうだといいんですけど……」
ふいに黒雲がゆっくりと教室を見回し、そして視線をピタリと止めた。その先にいるのは――柊佳。
(え、なんで柊佳?)
黒雲はにやりと口元を歪めると、迷いなくこちらの方へ歩いてきた。教室中の注目が集まる。
「おい、そこのお前」
「……え、わ、私ですか?」
柊佳は突然話しかけられて、びくっと身体を震わせる。
「そうだ。お前、名前は?」
「ゆ、雪澤……柊佳です……」
「雪澤ね。お前さ、なんでそんな胸がデカいんだよ」
「……へ?」
一瞬、教室の時間が止まった。
柊佳は意味がわからず目をしばたたかせている。俺も、クラスメイトも担任も、誰もが言葉を失った。
「聞こえなかったか? そのデカすぎる胸のことを言ってるんだよ。邪魔だろ、そんなの。みんな迷惑してるんじゃねえの?」
(なんだこいつ……初日から喧嘩売ってんのか?)
俺はカッと頭に血が上るのを感じた。でも柊佳はというと、ふるふると首を振って小さな声で答える。
「あの……私、別に自慢してるわけじゃ……」
「自慢? はあ? 誰が自慢だって言ったよ。俺様はただ気に入らねえって言ってるんだ。そのだらしない体が」
「だらしな……」
「そうだ。みっともないんだよ。女ならもっとこう、すらっとした体形が美しいに決まってるだろ」
黒雲は自分の胸をぺたんと叩いた。AAAAカップ。ほとんど凹凸のない体型だ。
(ああ……そういうことか……)
俺はなんとなく事情を察した。この転校生、柊佳の胸にコンプレックスを刺激されてるんだ。
「あの……私、あなたに何かしましたか……?」
柊佳はまだ状況が飲み込めていない様子で、おどおどと尋ねる。
「したさ。俺様の視界に入って不快にさせた」
「そ、そんな理不尽な……」
柊佳の目にうっすら涙が浮かぶ。それを見て、俺の中で何かがプチンと切れた。
「おい」
立ち上がる俺に、柊佳が慌てて止めようとする。
「白石くん、いいんです。私が我慢すれば……」
「よくない」
俺は柊佳の前に立ちはだかるようにして、黒雲と向き合った。
「初日からよくそんな嫌味ばっか言えるな。雪澤に謝れよ」
「はあ? お前誰だよ」
「白石誠冬。柊佳の彼氏だ」
「彼氏? ふうん……」
黒雲は俺の顔をじろじろと見て、それから突然目を大きく見開いた。
「……まさか、マコト?」
「は?」
マコト。俺の名前をそんな風に呼ぶやつは、昔……。
(待て、まさか……)
「俺様だよ! 黒雲驟雨! 中学の時一緒のクラスだっただろ!」
俺の記憶が一気にフラッシュバックする。
中学時代。いつも教室の真ん中でふんぞり返っていたガキ大将。男子も女子も泣かせて、先生にまで噛みつく。そんな問題児がいた。
「黒雲……驟雨……」
「思い出したか! 久しぶりだなあマコト! 元気してたか!」
「あ、ああ……」
さっきまでの殺気はどこへやら。黒雲は満面の笑みで俺の肩をバンバン叩いてくる。
「ちょ、痛いって」
「なんだよ照れちゃって! あの頃はよく一緒に遊んだよなあ」
「遊んだっていうか、俺がお前の子分にさせられてただけだろ」
「細かいことはいいんだよ!」
教室中の注目が、今度は違う意味で集まっている。
「お前、こいつと付き合ってんの?」
黒雲は俺の後ろで小さくなっている柊佳を指差した。
「そうだよ。文句あるか」
「大ありだな。なんでよりによってこんな胸ばっかりデカい女と」
「お前さっきから胸胸って……」
「うるさい! 俺様はな、こういう不平等が許せないんだ!」
黒雲は自分の胸をさすりながら悔しそうに言った。
「なんで同じ人間なのに、こいつはJカップで俺様はAAAAなんだよ。不公平だろ!」
「知るかよそんなの……」
「それにだな、マコト。お前は中学の時から俺様の子分だったんだ。なのに勝手に彼女作るとか許さねえからな」
「子分って……もう高校生だぞ」
「関係ないね! 俺様が子分って言ったらずっと子分なんだよ!」
理不尽すぎる。でも昔からこいつはこういうやつだった。一度言い出したら聞かない。
「とにかくだ、雪澤とやら。俺様はお前を認めないからな」
「……はあ」
柊佳はもうわけがわからないという顔でこくこく頷いている。
「勝負だ」
「勝負?」
「そうだ。お前と俺様、どっちがマコトの彼女にふさわしいか勝負しろ」
「ちょっと待て驟雨。俺には柊佳がいるんだよ」
「うるさい子分は黙ってろ!」
(子分子分って……本当に相変わらずだなこいつ……)
でも俺は知っている。黒雲驟雨という人間は根は悪いやつじゃない。中学の時も、いじめられてるやつを陰で助けたり文化祭で誰よりも張り切ったり。ただ、素直じゃないだけだ。
「わ、私……勝負なんて……」
「なんだよ怖じ気づいたか? そのデカパイが泣くぜ?」
「私の胸は泣いたりしません!」
「おっ、言うじゃねえか」
黒雲はにやりと笑った。
「決まりだな。今度の土曜日、校庭で勝負だ。種目は三本勝負。俺様が勝ったら、マコトは俺様の彼氏な」
「人の彼氏を勝手に賭けるな!」
俺のツッコミは、授業開始のチャイムにかき消された。
「詳細はまたあとで伝える。楽しみにしてろよ雪澤!」
「は、はい……?」
黒雲は自分の席(たまたま柊佳の隣の席が空いていた)にどかっと座ると、さっきまでの威勢が嘘のように静かになった。
(なんなんだよもう……)
俺は深いため息をつく。
「白石くん」
「ん?」
「私、白石くんのために勝負します」
「いや別に勝負しなくても俺は」
「いいえ、やります」
柊佳の目が、いつになく真剣だった。
「白石くんの彼女として、負けられません」
「柊佳……」
「それにあの人、ちょっとだけ私と似てる気がします」
「似てる?」
「はい。自分の体にコンプレックスを持ってる。でも、隠すんじゃなくて攻撃的になるのが私との違いで……」
柊佳はそう言って、黒雲の背中を見つめた。
「だから、ちゃんと向き合いたいです」
「……わかった。でも無理だけはするなよ」
「はい!」
こうして俺の日常は、また一波乱ありそうな予感をはらみ始めた。
休み時間になるたびに黒雲が柊佳にちょっかいを出しに来る。そのたびに柊佳がおどおどしながらも言い返す。そして俺が間に入って仲裁する。
(なんだこの三角関係みたいな構図……)
「マコト、昼メシ一緒に食おうぜ」
「俺は柊佳と食べるんだよ」
「なに! 彼女ヅラかよ!」
「彼女だからな」
隣で柊佳が嬉しそうに照れている。
「じゃあ三人で食おう! 俺様も混ぜろ!」
「なんでだよ」
「子分のくせに文句言うな!」
結局、三人で昼食を食べる羽目になった。
柊佳の手作り弁当をつまみながら、黒雲はぶつぶつ文句を言う。
「美味い……なんでこんな美味いんだよ……くそ……」
「あの、よかったら卵焼きもどうぞ」
「いらねえ! ……いや、もらう」
(素直じゃねえなあ)
俺は二人のやりとりを見ながら、なんとなく思った。
(もしかしてこいつ、柊佳と友達になりたいんじゃないか?)
中学の時も、黒雲は友達作りが下手だった。いつも強がって、すぐに突っかかって結局孤立してしまう。でも本当は、誰かと繋がりたいんじゃないか。
「なに見てんだよマコト」
「べつに」
「ふん、まあいい。土曜日が楽しみだな」
「私も負けませんから」
「おっいいねえ。そうでなくっちゃ」
火花を散らす二人を見ながら、俺はこれからの日々を思ってこっそりため息をついた。
(どうなるんだ、これ……)
夕方。
\\\\\\<雪澤柊佳: 今日の黒雲さんとの件、白石くんに迷惑かけちゃってすみません。でも私、頑張ります。白石くんの彼女として恥ずかしくないように\\\\\\>
\\\\\\<迷惑じゃねえよ。でも本当に無理するな。あいつ中学の時からめちゃくちゃ運動神経いいから\\\\\\>
\\\\\\<うう……そう言われると怖いです。でも大丈夫です。私には白石くんがついてますから\\\\\\>
(またそういうストレートなことを……)
俺はスマホを握りしめながら、土曜日のことを考えた。
黒雲驟雨。中学時代の暴君が、まさかこんな形で再登場するとは。しかも柊佳と勝負だと?
(でもまあ……柊佳なら大丈夫か)
最近の柊佳は、付き合い始めた頃よりずっと強くなっている。前髪も短くなった。声も少しだけ大きくなった。笑顔も増えた。
「彼女として恥ずかしくないように」か。
(もうとっくに、自慢の彼女だっつーの)
俺はそんな返信を打ってから、布団に潛り込んだ。
土曜日。何が起こるのかはわからない。でも一つだけ確かなのは――俺は柊佳の味方だってことだ。