現在 冬
サムイヨ……。お腹ヘッタヨ……。死んじゃうヨォォォォ。
雪が降っていた。深夜から降り始めた雪は路面を白く染めていた。午前二時半。
未だに夜は明けない。凍えそうな路上の一角。
人通りは全くない。アーケードからひとつ外れた道。
街灯の明かりがおれを映画スターのように照らしていた。
おれの灰色の髭の先が凍り付いている。触るとじゃりじゃりと音がした。
二十年以上前の事だ。おれが居た組織が壊滅した。
ある事件をきっかけに、欧州の警察が一斉に動いたのだ。
関係者はすべて国際指名手配された。
おかげでおれは世界中の警察に追われることになった。
マギー? あいつもどうなったんだろうな。分からないよ。
日雇い労働みたいな仕事をしながら大陸中を逃げ回っていた。
そんな生活が二十年以上。気付けば極東の島国をウロウロしていた。
もちろん何となくこの国に来た訳ではない。
この国にはテツオが居る。“トモダチ”のテツオが居る。
おれとテツオは何回か一緒に酒を飲んで組織の女を紹介した、云わばポン引きと客の関係だ。そう思っていた。小金を持ってる馬鹿な日本人。そうおれは思っていた。
だけどあいつはおれの事を“トモダチ”と言ってくれた。
“何かあったら俺の所へ来い”って言ってくれた。
勿論そんなものはリップサービスだろう。そうおれは思っていた。
あいつは別れ際におれの手を握って自分の家と会社の場所を書いたメモを俺に渡した。あいつの目には涙が浮かんでいた。
ヘンな男だ。おれはずっとそう思っていた。
だけど俺の生涯で別れ際に涙を浮かべながら手を握ってきた人間などテツオの他には誰もいなかったのだ。
あいつに迷惑をかける気はなかった。だけど……。
おれは気付けばこの国へ流れ着いていた。
メモの場所を何度も探したんだ。でも会社はどこにもなかった。
テツオの家があるはずの場所は大きな駐車場になっていた。
やっぱりリップサービス?
いや、どうしてもおれにはあの涙が嘘だとは思えなかった。
嘘じゃないとすると……。
やはりテツオが死んだという話は本当だったという事か。
欧州を逃げ回っていたおれをどうやって探し当てたのか分からないが、日本人のタンテイとかいう奴がそう言っていた。
そんな生活をしていた為か、おれはおれが今着ているボロキレよりもボロボロだった。まだ五十も半ばだというのに、おれの体は老人のようだった。
どこか、せめてこの雪を凌げる場所を探さないと……。
だがおれに歩くような体力はもはや残ってはいなかった。
おれは電柱に寄りかかり、ずるずると白い雪がうっすらと積もる地面に座り込んだ。
「あの……。大丈夫……ですか?」
声がする。おれはぼやけた目を細く開けた。
女? ずいぶん小さいな。小学生か?
オレンジ色の傘、白いマフラーと白い手袋。暖かそうな白いコート。
白い毛糸の帽子から黒くてクセ毛の髪が覗く。
黒い瞳が心配そうにおれを見つめていた。
「え、エンジェル……」
あまりの黒い瞳の美しさにおれはそう呟いていた。
いや、そんな訳あるかよ。悪魔とマフィアと警察以外におれに話しかけてくる奴なんてこの世にいるはずがない。
「きゃ……。あのあのあの……。しっかり……」
おれの意識が切れたようだ。どうやら地面にキスしていたらしい……。
「ど、ど、ど、どうしよう……」
辺りを見渡すけど誰もいない。
体の大きなおじいさんが雪の降り積もる地面にうつ伏せに倒れていた。
外人さん? 街灯の光が逆光になってよく分からない。
「ど、ど、ど、どうしよう……」
あたしがオロオロしていると道の向こうに人影が見えた。
雪の中、傘も差さずにポケットに手を入れて歩いて来る。
派手なコートからひらひらのスカートが覗いている。
咥え煙草の煙がすぅっと夜中の空に吸い込まれていく。
大きな月に照らされた金色の髪がキラキラと光っていた。
人影と目が合った。驚いた顔で小走りにあたしに近づいてくる。
「ゆかり……。あんたこんな時間に何やってんの……」
彼女の口からぽろりと煙草が落ちて、雪の地面に落ちてじゅわっと火が消えた。
「お母さぁん……。助けて……。この人死んじゃうよぅ」
あたしは泣きそうな顔でお母さんを見上げた。
「この人って……。うわっ汚なっ……。ホームレスじゃないの?」
「分からないけど、体は冷たいのに、おでこがすごく熱いの……」
あたしは手袋を外した手でおじいさんのおでこを触りながら言った。
「まったく、ゆかりは……。こんなもんは救急車でも呼んどきゃいいんだよ」
そう言ってお母さんはポケットからケータイを取り出した。
“スマホなんか必要ねぇ。通話が出来りゃいいんだよ。ガラケーで十分だ”がお母さんの口癖だ。
なんかお母さんが恥ずかしそうな、困ったような顔でこっちを見ていた。
「どうしたの?」あたしは小首を傾げる。
「充電切れてたわ……」お母さんはケータイをあたしに見せて言った。
「ど、ど、どうしよう?」
「ったく、しゃぁーねぇなぁ……」
そう言ってお母さんはおじいさんの腕を自分の肩に回し、起こそうとする。
「か、軽いと思ったら、このじじぃ重い……」
あたしも慌ててお母さんとは反対の方のおじいさんの腕を肩に回した。
二人がかりで何とかおじいさんを起こす。
「とりあえず、ウチに連れて行くか」
「う、うん」
二人でおじいさんを引き摺っていった。
お母さんもあたしも背がちっちゃいのでどうしても引き摺ることになってしまう。
おじいさんの靴の爪先、減らないかな? そんなことを考えていた。
アーケードから徒歩三十分の古いアパートの一階。
六畳和室がふたつと四畳半の台所がひとつ。
ここであたし達は暮らしている。
お母さんは見た目が外人さん。でも日本語しか話せない。
金色の髪と吸い込まれそうな青い瞳がすごく綺麗。
クセッ毛で黒髪のあたしにはすごく羨ましい。
あたしの大好きなお母さん。
あたしたちはおじいさんをかかえ、ようやく家のドアの前に着いた。
「なぁ、ゆかり。なんでこんな時間に外を歩いてたの? くそっ重てぇな」
「んしょ、んしょ。えっと……。その……」
とりあえず、あたしとお母さんはおじいさんをドアの前に座らせた。
まだおじいさんはぐったりとしている。
ガチャリとお母さんが家の鍵を開ける。
ドアを開けると声が聞こえた。
「遅いよーゆかりん。あんまん買いに行くのにいつまでかかってんのさー」
こたつに寝転がっていた彼女は、何かの雑誌を片手に持ってドアの前に立つあたし達に顔を向ける。
ウォーターブルーの髪と瞳。染めている訳じゃなく生まれた時からそうだったらしい。小学生の頃はよく男の子にからかわれていたものだ。
「ごめんね。せっちゃん。近所のコンビニに無くて、ちょっと遠くまで行ってたの」
あたしはオロオロして言った。
「ったく……。って、おかえり母さん。ずいぶん今日は早いんだね」
冷たい氷のような目でせっちゃんは言った。
「せつぅ……。いい加減にしな。ゆかりはあんたの召使いじゃないんだよ」
お母さんはせっちゃんをジロリと睨んだ。
「とにかく、せつも手伝いな。このじいさんを布団に寝かせるから」
お母さんが親指を立てて外を指差す。
「はぁ? 何よこのじじい。なんでこんなもん拾ってくんのさ」
せっちゃんはお尻をかきながら面倒くさそうに歩いて来て、外でうな垂れているおじいさんを見て言った。
「そうだ、ゆかりん。あんまんは?」
せっちゃんは冷たい目であたしを睨む。
「うん。こ、これ……。」
あたしは腕にかけていたコンビニの袋をせっちゃんに渡した。
せっちゃんは袋を奪い取るとまたこたつに戻ってあんまんにかぶりついた。
「ぬるい……」
せっちゃんはそう呟いていた。
「はぁ……。ゆかり、悪いけど、このじいさん寝かすの手伝ってくれる?」
「う、うん」
あたしとお母さんでなんとか部屋の中までおじいさんを引き摺って、奥の部屋に布団を敷いて寝かせた。
せっちゃんの声が聞こえた。
「ほんっとに母さんは何でも拾ってくるよね。猫だの犬だのゆかりんだの……」
お母さんは立ち上がり、つかつかとせっちゃんの寝転がっているこたつまで行った。“パチン”って音がした。
あたしは慌てて二人に駆け寄る。
「せつ、今度そんなこと言ったら許さないからな」
お母さんはわなわなと震えながら言った。
せっちゃんの頬が赤くなっていた。