「う~さっぷいなぁ」
私は小走りでトイレに向かっていた。
すっごくボロい建物だなぁ。
キョロキョロと周りを見ながらチョコチョコと走る。
私はトイレのドアを開けた。
「わ、和式かよ……」
正直、和式トイレは初めてだ。
こ、これどうすりゃいいんだよ……。
何やら白い蓋? のようなものがあった。
便器を覆っている。
パカッと蓋を外す。
むわっとくっさいニオイが立ち込めた。
こ、これが汲み取り式……。
ちょっと涙目になってきた。
悲しいからじゃない。ニオイが目に染みただけだ。
くさいよぅ。さむいよぅ。早く済ましてしまおうよぅ。
し、しかし……。どうすれば……。
とりあえず私はズボンとパンツをおろした。
座る……のか? ここに?
いや、こんな所に座ったらお尻がはまってしまう。
落ちちゃうかもしれない。
いや待て。落ち着くんだ。
座るという発想を変えてみたらどうだろう。
座らない。そう。座らずにヤルのだ。
……それって、た、立ちション……。
私は仁王立ちになり、和式の便器を睨みつけた。
でもさすがにそれは……。
…………。
「ふぅ」
私は無事にしっこを済ませた。
そう、しゃがめば良いのだ。
気付くのに時間がかかっちまったぜ。
ひと仕事を終えたような達成感があった。
私の心に一陣の爽やかな風が吹いた。
……危ないところだった。
水道の蛇口を捻り冷たい水で手を洗う。
冷たすぎて手が痺れてきた。
トイレに向かう廊下には窓がついており、小さな校庭を見渡すことができた。
「ん?」
雪が積もった校庭の真ん中に車椅子に乗った女の人がいる。
その人は空を眺めていた。
何してるんだろう?
その人は静かに私の方を向く。
肩まで伸びた真っ白い髪。
少し虚ろな目で私を見ていた。
病院から抜け出して着た様な格好。
パジャマのようなものの上に紫っぽいショールを羽織っていた。
「あのー、何してるんですかー? 風邪引きますよー」
私はその人に向かって叫んだ。
その人は少し私に微笑んだだけだった。
ちょ、ホント何やってんだよ。
もしかして雪にはまって動けないとか?
しょうがねーなぁ……。
私は大きな窓ガラスを開けて、ひょいっと外に飛び出た。
冷たい風が私の頬を撫でる。少し鼻水が出た。
ザクザクと雪に足を取られながらその人のそばへ駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
私が声をかけると、その人の穏やかだった顔が急変した。
「あ、あぐ、あぐぐ」
その人は目を見開き驚いたような表情で私を見た。
「ど、どうしたんだよ……」
その人の細い方を掴む。
「ぎゃぁぁぁぁ」
その人は幽霊でも見たかのような真っ青な顔で悲鳴をあげた。
「レオナはね、あなたのことをセルマさんだと思ったんですよ」
いつの間にか私の後ろにさっきの顔半分火傷男が立っていた。
レオナ? 誰? 母さんと思った?
母さんとこの人に何があった?
空を厚い雲が覆った。
昼だというのに薄暗くなってきた。
「せつ。何でオレがお前をここに連れてきたか教えてやるよ」
「じ、じじい?」
じじいまで……。
何だよ。寒いんだから部屋に戻ろうぜ。
何でこんな所に集まってるんだよ……。
さっきの三人の子供たちも積もった雪の中を走り回っていた。
カチャリと音がした。
「え?」
じじいは拳銃を私に向けていた。
「何だよ。おもちゃで私を驚かそうなんて……」
ダーン
私の頬を銃弾がかすめた。つーっと血が流れる。
私はその場にぺたんと尻餅をついた。
ほ、本物? な、何? なんで? 訳が分からないよ。
「銃で撃つなんてヤガミは野蛮だよねぇ。この薬で気持ちよくさせてから殺すといいよぉ」
「殺すんだったら、その前にヤらしてくれよー。まだ口でしかしてもらってないんだぜぇ」
「…………。」
三人の男が私を囲んでいた。
眼鏡をかけた長髪の男。茶色いロン毛の男。相撲取りのような大きな男。
さっきまで雪の中を駆け回っていた子供たちはどこにもいなかった。
「こいつらはな、お前の母親を犯した男たちだ。この火傷の男もな」
銃口を私に向けたままじじいはそう言った。
何だよ。何なんだよ。一体何がどうなってるんだよ。
「アタシがクスリ欲しさにセルマさんをこの男たちに差し出したの」
レオナと呼ばれた車椅子の女性が私に近づいて言った。
「アタシも本当はあの火事で死ぬべきだった。でも彼が助けてくれたの。顔に火傷を負って、体中を傷だらけにして……。ね、ユウジ……」
そう言って彼女は火傷男の方を見た。
「俺はユウジじゃないよ……。レオナ……」
そう言って火傷男は悲しそうな顔をした。
「いい加減にしろよ……。お前ら……」
私はぎりっと奥歯を噛んで立ち上がった。
「せつ……。あなたの名前はせつよ。雪と書いてせつ。わたしの子供の頃の記憶。幸せだった頃の記憶。優しい父と母に囲まれていた頃見た景色。一面の銀世界」
私は柔らかな腕に抱かれていた。優しい声が聞こえる。
暖かな日差しが降り注ぐ部屋の中。
私は静かに目を開けた。
ふわりと金色の髪が私の頬を撫でる。
青い瞳が優しく私に微笑んでいた。
「せっちゃんだね。お母さん」
くせっ毛の黒い髪と真っ黒な瞳。
小さな女の子も私の顔を覗きこんでいる。
母親に抱かれている時の安心感。
お母さん。この世で一人だけの私のお母さん。
無条件で私だけを愛してくれる唯一の人。
ゆかりんはすごくいい子で可愛いからヤキモチ焼いていたんだ。
お母さんはいつもゆかりんばっかり気にしてさ。
私のことなんてどうでもいいと思ってるって思ってた。
お母さん。
私の命はお母さんがくれた物なんだね。
お母さんが私を愛していないなんてそんなことあるはずがないのにね。
お母さん。お母さん。
ごめんなさい。
お母さん……。
「せつ、よく聞け」
じじいが銃を構えたまま二三歩私に向かって歩いて来た。
「オレにはある使命がある」
「使命? なんじゃそりゃ?」
「セルマを殺すことだ」
「へ? 何で母さんを殺さなきゃなんないんだよ」
「オレもセルマを初めて見た時そう思ったよ。どうしてこの不幸な少女を殺さなくてはならないのかってね」
じじいの銃口が近づき私の額に押し当てられた。
「オヤジは判ると言った。だがオレには判らなかった。いや、この少女が殺すべきセルマであることは判ったんだが、何故殺さねばならないのかが判らなかった」
「じ、じじい? 何を言っているんだ?」
「オレはセルマを保護し、信用できる施設に預けた」
冷たい銃口に力がこもる。
「この施設でセルマを襲っていた男たちを殺した罪で十年ほど刑務所にいた。出所した時オレは愕然とした」
じじいは引鉄に指をかける。
「空を見てみろ。せつ」
じじいは空を指差す。
「空?」
私は銃口を額に押し当てられたまま上目使いに空を見た。
「分厚い雲しか見えないよ」
「よく見ろ。月だ。でかい月が見えるだろ」
「月……?」
「空一面を月が覆っているだろ」
急に辺りは暗くなり分厚い雲がすうっと消えていった。
今にも落ちてきそうな程大きな月が空を支配していた。
「お前が生まれてから……。いやお前の細胞がセルマの中に形作られた時から月は地上に近づいていたんだ」
「じ、じじい?」
「殺すべきなのはセルマじゃない。お前だ!」
「わ、私が? 私にそんなこと出来る訳ないだろ……。何言ってるんだ? じじい……。おかしくなっちまったのか?」
そして銃声が鳴り響いた。