「わたし、一回家に帰るよ……」
泣き腫らした目でお母さんは力なく立ち上がった。
あたしは呆然とヤガミさんの顔にかけられた白い布を見つめる。
病院の地下にある遺体安置所。
冷たい部屋にお線香の煙が立ち昇っていた。
ヤガミさんはどうしてこんなにあたしたちの事を気にかけてくれていたのかな。
ヤガミさん……。
「お母さん。あたしも一緒に帰るよ」
締め付けられる胸を抑えながらお母さんの背中を追った。
私は蔵王から地元の街へ帰って来ていた。
頬に貼られた絆創膏をそっと撫でる。
未だに頭の中が整理出来ていない。
確かに私はじじいとポンコツ車で蔵王に行ったのに。
顔半分火傷男は誰だったんだろう。
レオナという車椅子に乗った女性は?
私を取り囲んでいた男たちは?
お母さんを犯した男たち?
何故じじいは私を殺そうとした?
月がどうしたって?
全部夢だと言うの?
ふらふらと一人で雪山に行って夢を見ていたとでも言うの?
有り得ない。そんな事有り得ない。
もしくは私の頭がどうかしてしまったかだ。
私は薄暗くなった空を眺めた。
綺麗な月が雲の隙間から顔を出していた。
「……で、ここかよ?」
「ん? 何だよ不満そうだな」
細い目の男に連れられてきたのは貧相なアパートだった。
ん? どっかで見たような……。
まぁ、似たような建物は幾らでもあるからな。
「豪邸でも想像してたのかよ。そんな所警備がすごくてすぐに捕まっちまうよ」
「だけどこんな所じゃいくらも稼げないんじゃないのか?」
おれは髭に手を当てながら言った。
「五六部屋回れば二三十万にはなるよ。結構部屋に金目の物を隠してる場合が多い」
「へぇ」
「しかもこのアパートは夕方から夜にかけて二時間ほど全くの無人になるんだ」
「下調べはしてるんだな」
「当たり前だろうが。水商売の連中が多いらしいしな」
「わかったよ。手早く済ませようぜ」
細い目の男は針金のような物をドアノブの鍵穴に突っ込んだ。
ガチャリと音がした。いとも簡単にドアは開いた。
陽はとっぷりと暮れていた。
古びた病院の入り口の扉を開く。
薄暗いロビーには誰も居なかった。
広めの廊下を通り二階にあるじじいの病室へ行く。
そこにはがらんとした寒々しい部屋と白いベッドがあるだけだった。
「ヤガミさんの……お孫さん? かしら……」
いつの間にか私の後ろに看護婦さんが立っていた。
消え入りそうな声で私に話しかける。
彼女に連れられ遺体安置所へ。
「それじゃ、帰るとき声を掛けてね」
そう言って彼女は部屋を出て行った。
「じじい……」
顔に掛かっている白い布をそっと外す。
血の気を失った真っ白い顔があった。
じじいは泣いても笑っても怒ってもいなかった。
「なぁじじい……。なんであんたは私をあんな所に連れて行ったんだ?」
じじいは無言だった。
じじいが死んだ実感が私の心に湧いてくる。
涙があふれてきた。
だらんとじじいの腕がベッドから垂れ下がる。
「えっ?」
び、びっくりした……。
じじいの拳は固く握られていた。
私はそっとじじいの腕を元の場所に戻そうとした。
「え……じじいの手が……」
じじいの拳は花が咲くようにゆっくりと開いた。
手の平に小さく折りたたまれた紙切れがあった。
「な、なんだコレ?」
私はその紙切れを見た。
“雪へ”ボールペンでそう書かれていた。
わ、私宛?
私はその紙切れを開いた。
その紙切れにはじじいの心の中が書き連ねてあった。
何度もお前に話そうとして言えなかったことがある。
お前は不思議に思った事はないか?
おれがどこの誰なのかってさ。
何でこんな男がお前らの周りをウロウロしているのかってさ。
セルマやゆかりはおれの事を命の恩人みたいなことを言っていたが実際はそんなにいいもんじゃない。
おれはある人からセルマを殺すよう依頼を受けていた。
いや使命って言ってたかな。
金髪で青い目のセルマって女が世界を滅ぼすからなんだと。
何千年もその使命は受け継がれてきたんだと。
意味わかんねえよな。おれもだよ。
でも恩義のある人からの頼みだったからおれは引き受けた。
別に今更女の一人や二人殺した所でなんの罪悪感も無かったしな。
おれはセルマを殺そうとして孤児院へ行ったんだ。
酷い所だった。
その建物に入った瞬間に臭いで分かったよ。
女を犯した時の臭いが充満していた。
これは後で聞いた話なんだが、その建物の床下から大量の人骨が出てきたらしい。
全部年端も行かないガキどもの物だった。
その時セルマは十六歳。当然やつらの餌食になっていたよ。
わずか三歳のゆかりまでな。
そろそろこの紙切れを破り捨てたくなってきたか?
まぁ、それもいいだろう。
破らないなら続けるぜ。
おれはボロボロのセルマを見た瞬間、体中に衝撃が走った。
痛みと言ってもいい。
おれは今まで何をしようが誰を殺そうが何も感じなかった。
だけど痛かった。心が締め付けられるように痛かった。
セルマの瞳がおれを全て見透かしている。そんな気がした。
殺せなかった。いくら使命だからって殺せなかった。
人を殺すのを躊躇したのはこれが初めてだった。
そして人を愛したこともこれが初めてだった。
だがセルマの腹の中には
「なんだって?」私は思わず声を出した。
じじいの手紙はここで終わっていた。
これを書いている途中で死んだのか……。じじい……。
「くっ」涙があふれてきた。
わかんねえよ。こんなもん読んだってわかんねえよ。
だからって何で私を殺そうとしたんだよ。
わけわかんねえよ。
「お母さん……」
あたしはお母さんの肩を抱きしめた。
夕方の暗い道をふたりで歩いている。
お母さんは支えていないと立っていられないほど心が衰弱しているようだ。
お母さん。
あなたをお母さんって呼ぶようになったのはいつからだったかしら。
あたしは本当の両親を知らない。
あたしの一番古い記憶は地獄の日々。
今でも時々夢に見るほど凄惨な記憶。
あなたが居なかったらきっとあたしはあのまま死んでしまっただろう。
あなたはあの時まだ十六歳。
あなただってまだ子供だったのに必死であたしを守ってくれた。
あたしが初めて感じた温もり。
あなたの胸に抱かれながらあたしの心と体は回復していった。
しばらくして、せっちゃんが生まれた。
ウォーターブルーの髪と瞳。
真っ黒な髪のあたしはちょっと羨ましかった。
「ゆかりの妹よ。これからわたしたち三人で頑張って生きていこうね」
正直言って妹が出来るってことはあたしはイヤだった。
だってあたしだけのお母さんだったのに全部せっちゃんに持っていかれそうだったから。
でもあなたのあたしに対する愛情は変わらなかった。
あたしがあなたの本当の子供じゃないことぐらいは幼かったあたしにだってわかってた。
でもあなたのあたしに対する愛情は少しも変わらなかった。