母はふしだらな女と言われた。
大都会パリで針子をしていた母。
どんなお金持ちがこの服を着るのだろう。
そんな事を思いながら針を高価な布に通す。
働いている父がいて家を守る優しい母がいる。
きっとそれは当たり前のこと。
そうじゃない人間には生きることすら困難だ。
あたしを生んだ母はパリを追われた。
父親のいない子を産むような女に仕事など与えられるはずは無かったのだ。
母は幼いあたしの手を引き仕事を求めて彷徨う。
だが子連れの女を雇ってくれる所などどこにもなかった。
母はモントルイユの工場で労働者を募集しているという噂を聞いた。
だがきっとそこでも父親のいない子連れの女など雇ってはもらえないだろう。
モンフィルメイユの丘で母は自分の境遇を嘆く。
あたしがいなければこんな絶望に苛まれる事も無かっただろうに。
通りすがりの宿屋。姉妹が仲良くブランコで遊んでいた。
楽しそうなその光景にあたしは吸い寄せられるように駆け寄っていった。
母の手を離して。
それを最後に母の手を握ることは二度と無かった。
母がいなくなり、あたしはこの宿屋にとり残された。
太った宿屋のおばさんと旦那さん。
あたしと同じ歳の娘と二つ年下の妹。
あたしに与えられたものは薄いボロ着と竹ぼうき。
犬の食器と藁の布団。
人は人として扱われて初めて人として生きていける。
人として生きるには最低限の誇りが必要だろう。
誇りを剥ぎ取られた人間の末路は憐れなものだ。
あたしに何が出来ただろう。
自分の力で生きていく力も術もない子供に何が出来ただろう。
あたしに出来ることと言えば言われるままほうきを握り締め、秋風で舞う落ち葉を集めることだけだった。
店の掃除も馬の世話も、手も凍るほどの寒い夜の水汲みも、まだ耐えられた。
それは辛い事ではあったけれど、なんとか耐える事が出来た。
母が迎えに来る事だけを心の支えにあたしは生きた。生きることが出来た。
優しい母がいる。それだけがあたしの希望。そして誇り。
「おい、ゆかりん大丈夫か?」
誰かの声がした。
誰だろう? 何故か懐かしい。
はっとあたしは起き上がる。
泉の前で倒れていたらしい。
あたしの疲労と空腹は限界をとっくに過ぎていた。
まだこの世に生まれて九年。
真っ黒だった黒髪はほとんど白くなっていた。
骨と皮ばかりになり、弾力の無い肌には皺と傷が刻まれている。
まるで老婆のような体。
薄ぼんやりと目を開けると、あたしを心配そうに覗く水色の瞳が見えた。
月の光に照らされて美しく輝くウォーターブルーの髪。
「私はせつ。せっちゃんだよ。ゆかりん。私がわからないの?」
棒のような体のあたしを抱かかえ女の子は泣き叫んでいる。
せっちゃん? あたしはこの子を知らない。
あなたは誰なの?
あれ? でも……あたし……。あなたに酷い事をした……気がする。
あなたの事を愛していたような気がする。
あなたの事を憎んでいたような気がする。
何でだろう。初めて会ったはずなのに。
だけどあたしの頭の中に濃い霧が立ち、そのおぼろげな記憶は見えなくなっていく。
いけない。早くお水を汲んで戻らないと。また殴られる。
あたしはなんとか立ち上がり泉に桶を浸した。
「ゆかりん、なんで、なんでこんな事になってるんだよぅ」
水をいっぱいに満たした桶を運ぶあたしの背中で悲痛な声がする。
でも今はこの水を持っていかなくては。あたしはヨロヨロと丘を降る。
次はこぼさないように気をつけなくては。
薄暗い道。あたしの前に白い服を着た女の人が立っていた。
「わたくしが持ちましょう」
女の人が手を伸ばすと急に桶が軽くなった。
「ゆかりん、待ってぇ」
ウォーターブルーの髪の少女があたしを追いかけて来た。
あたしは戸惑っていた。
今まであたしが受けた感情は “軽蔑” “嘲笑” “嫌悪”。
あたしをゆかりんと呼ぶ彼女の感情はどれでもない。
それはあたしを想う母の感情に似ていると思った。
そして水汲みを手伝ってくれているこの人。
感情はわからない。無機質なブラウンの瞳。
でも優しい人。きっと人の心の傷みがわかる人。
母以外にこんな人たちがいることをあたしは初めて知った。
「あいつなのか? ゆかりんをこんなにしたのはあいつなのか?」
ウォーターブルーの髪の子……。せっちゃん? だっけ。
この感情は怒り。怒りだ。あたしの為に怒ってくれているの?
「あんな奴ブチ殺してやる。家ごと灰にしてやるからな」
せっちゃんの背中に羽が生えていた。爬虫類のような羽が。
「やめてください!」
あたしは大声を出した。こんな声を出したのは恐らく初めてのことだ。
「ゆ、ゆかりん……」
どうしてって顔でせっちゃんはあたしを見つめる。
「お母さんが……お母さんがあたしを迎えに来るんです。あの家が無くなってしまったら、あたしがどこにいるのかわからなくなってしまいます。それに……」
あたしは搾り出すような声で言った。
「家があればいいんだろ?」
せっちゃんは悪魔のように笑った。
「それに、あの人にそんなことしたら、また酷い目にあわされてしまいます」
「酷い目もなにも、私はあいつをブチ殺すって言っているんだぞ?」
あたしはガタガタと震えていた。
「せっちゃん……。ゆかりさんが言っている事はわたくしには理解できます」
「どういうことだよ?」
「一度奴隷となった人間が這い上がることは困難です。その精神に何度も何度も己の無力さを叩き込まれるのですから。機械のように生きること意外は許されないのですから。自分の主人を殺すなんて発想が出てくるはずがないのです」
「そ、そんな事って……」
「わたくしが昔そうでしたから」
白い服のお姉さんが震えるあたしを抱きしめた。
「もういいんですよ。あなたは十分頑張りました。もう目を閉じてもいいんですよ」
周りの景色が真っ白になった。
あたたかい温もり。柔らかな腕があたしを包む。
あったかい……。まるで天使の羽に包まれているみたい。
あたしは何にそんなに怯えていたのだろう。
何をそんなに恐れていたのだろう。
ここにあるじゃない。
お母さんの手がここにあるじゃない。
お母さんはここにいるじゃない。
やっと、やっと迎えに来てくれたんだ。お母さん。
苦しかったよ。悲しかったよ。辛かったよ。
逢いたかったよ。お母さん。
もうあたしを離さないで……。
「……死にました」
「う、嘘だろ……クリム姉」
「あの時、泉の前で倒れていたあの時、彼女は既に亡くなっていたのです」
「だ、だって……。ゆかりんは……」
「きっと最後に神様がお土産をくれたんですよ」
「クリム姉は時々わからない事を言う」
「わたくしたちが今こうしているのも、もしかしたら神様のお土産なのかもしれませんよ」
「とにかく私は、ゆかりんをこんな目に合わせた奴を許せない」
「それもたぶん、せっちゃんの出番はありませんよ」
「え? どういう事?」
「テツオさまがものすご~く悪い笑みを浮かべながらあの宿屋に入っていったんですよ? 食べ物と寝る所を用意するとか言ってたんですよ? どうなると思います?」
「私に焼き殺された方がマシかも……」
「わたくしは今夜のテツオさまを止める気はありません」
「そっか……」
「はい……」
「あのさぁ、クリム姉。ゆかりんを埋めてやりたいんだけど」
「そう……ですね」
私はゆかりんの魂が安らかなることを願う。
つらい記憶は全て忘れてくれることを願う。
きっとまたゆかりんと逢えることを願う。
たった二人の姉妹として。
私は小さく盛り上がった土の中で眠るゆかりんの前で祈った。
いつまで経っても私の涙は止まる気配を見せなかった。