げほっげほっ……。息が苦しい……。
重いまぶたを何とか持ち上げる。そこに見えたものは黒い煙。
パリンと窓の割れる音。ミシミシと崩れていく壁。視界の端には燃え盛る炎。
火事? とにかく逃げなきゃ。ここから逃げなきゃ。
だけど体が動かない。重い何かがあたしに覆いかぶさっている。
そして左足首に走る激痛。煙は部屋中に充満していた。
死んじゃう。このままじゃあたし死んじゃう。セルマに会えなくなっちゃう。
やだ。やだよ。そんなのいやぁぁぁ。
「何を寝ぼけてんだい? サヤカ」
誰かがあたしの顔を覗きこんでいる。
え? ここは……。どこ?
あたしはベッドの上で目を覚ました。
太った女の人。あなたは誰?
「とにかくさぁ、いつもの服に着替えて下に降りて来てよ。いいカモが来てるんだよ。クソ生意気なガキだけどさ」
その人はピンク色の布をパサッとベッドに投げて寄こした。
「早くしておくれよ。あのガキ、若い女に酌させろってうるさいんだよ」
そう言って太った女の人は部屋を出て行った。ドスドスと階段を降りる音がした。
何なの? 何が起こっているの? ここはどこなの?
何であたしはこんな所にいるの?
ふと視線を横に移す。もうひとつベッドがある。
金色の髪がシーツからはみ出していた。
セルマ? セルマなの?
あたしは飛び起きて隣のベッドのシーツをめくる。
「どうしたの? お姉ちゃん」
シーツの中からパッチリと開かれた青い瞳があたしを見つめていた。
間違いない。セルマだ。だけど……。
子供だ。五歳くらい? 初めて出会った時よりもずっと小さい。
そして気付く。自分の視界がやけに低いことに。
部屋に立て掛けてあった姿見に子供の頃の自分が映っていた。
「お姉ちゃん。早く着替えて下に行かないとママンに怒られちゃうよ」
クスクスと笑いながらセルマは言った。
ちょっと背筋に悪寒が走った。セルマの笑顔じゃ……ない。
「そのピンクの服を着るのよ。お姉ちゃん」
セルマはピンクの布を指差す。
これを着るの?
あたしはピンクの布を広げて見た。
ピンクのスリップ。シルクの感触。
「下着もぜ~んぶ脱ぐのよ」
「だってこんな……。透けて見えちゃうよ」
「それでいいんだってば。お姉ちゃんは毎日それを着てお客さんにサービスしてたじゃない。イヤらしいお客さんに胸を触られたり、キスしたりしてたじゃない。覚えてないの? ふふっ……。お姉ちゃん」
何を言っているの? セルマ。あたしにそんな事をしろと言うの?
ううん。そんな事をしていたって? あたしが? 毎日?
「サヤカっ。早くおしっ。お客さんが待ちくたびれているよっ」
下から怒鳴り声がした。……怖い。
「ほらぁ、早くしなってば。お姉ちゃん」
セルマはあたしのパジャマを引っ張る。
「や、やめて」
「お姉ちゃんが働かないとウチの宿屋がつぶれちゃうでしょ」
「やっ、いやっ。脱がさないで。セルマ」
無理やりセルマはあたしの下着を引っ張る。
すごい力。小さな女の子の力じゃない。
逆らえない……。
「わかったわよ。着替えるから。無理やり脱がさないで」
「じゃ、早くしなよ。お姉ちゃん」
あたしはしぶしぶそのピンクのスリップに着替える。
そして長い髪を後ろに結んだ。
姿見に映ったあたし。
やっぱり思ったとおりスケスケだ。
膨らみかけた胸。少し生えかけた産毛。
うっすらと鏡に映る幼い体。
「やっぱりこんな格好で人前に出るなんて出来ないよ」
「もう、面倒くさいなぁ」
「え?」
ドンっとセルマはあたしの背中を蹴っ飛ばした。
あたしはよろめき、ドアにぶつかる。
その衝撃でドアが開きあたしは廊下に放り出された。
「いたたたた。何するのよ。セルマ……」
強打した腰をさするあたしの周りに陰ができていた。
ふと見上げるとさっきの太った女の人が鬼のような形相で立っていた。
「早くしろって言ってるだろ。サヤカぁぁぁ」
太った女の人はあたしを小脇に抱えドスドスと階段を降りた。
年配の男の人が階段下へ駆けて来る。
「ひぃっ。ば、化け物……」
「どうしたんだい。あんた」
「あ、ああ。お前か。」
「あんたらしくもない。そんなに慌てて」
「どうしたもこうしたもあるか。あのガキ、化け物だ」
「はぁ?」
あたしは男の人が指を差す方向を見る。
裸の男の人……。彼はあおるようにお酒を体に流し込んでいた。
その人の後ろに何か見える。黒い羽をばたつかせている……黒い鶏?
「早く女を連れて来いって言ってるだろがぁ」
その男は悪魔のような顔で酒瓶をテーブルに叩き突けた。
「け、警察を呼んだ方がいいんじゃないかい?」
「馬鹿か。お前は。店もこんなにぶっ壊されちまった。あいつから根こそぎ金を巻き上げてやらなきゃ大赤字だぜ」
あたしは太った女の人に抱えられながらガタガタと震えていた。
「とにかく、サヤカを与えてみよう。少しはおとなしくなるかもしれん」
「そ、そうだね。あんた」
おいおい、あたしは生贄かよっ。
店の中はガランとしていた。
さっきまで他にもお客さんがいたのだろう。
半分残った料理やお酒がそのまま残されていた。
ギロリと男と黒い鶏がこちらを睨んだ。
「ひぃぃ」
あたしをおいて年配の男と太った女は部屋に閉じこもった。
ちょ、ちょっと……。
ゆっくりと男は近づいて来る。
「へぇ。けっこう可愛いじゃないか。十歳くらいか? 長くて黒い髪にポニーテールがよく似合う」
こ、怖い。何なんだ。この人。
あたしの足をぶち折ったあの大男よりずっと迫力があった。
「可愛いピンクの乳首が透けて見えるねぇ。いいよぉいいよぉ。俺、そういうのダイスキー」
男の手がぬっとあたしに伸びてきた。
逃げようとしたあたしの肩を掴む。男は軽々とあたしを抱き寄せた。
「そうそう。このくらいの膨らみかけの胸がいいんだよ」
いやらしく男はあたしの胸をさすった。
「い、いたいっ」
そして男に乳首を思い切り摘まれた。
ちっきしょ。何か腹が立ってきた。
何であたしがこんな目に。
訳のわからないまま、こんな男に犯されちゃうの?
もうイヤだ。
犯されるのはもうイヤだ。
あたしの体を自由に出来るのはあたしだけだ!
あたしはびんっと立った男のモノを思いっきり蹴り上げた。
「い、いてぇ」
男はぴょんぴょんと飛び跳ねる。
あたしはテーブルに立て掛けてあった細身の剣を掴んでいた。
誰かの忘れ物? そんなことはどうでもいい。
剣さえあればあたしはこんな奴には負けない。
「で、クリム姉。いつまでほっとくつもり?」
「うーん。なんか事情が変わって来ましたね」
「私はあの子に恨みなんかないよ」
「そうですね。テツオさまの餌食にしてしまうのは気が引けますね」
クリムとせつが窓の外から中を覗いていた。
クリムはチャキっと左腕をテツオに向ける。
「クリム姉、ちゃんと致命傷にならないところを狙ってよ。私だってどんな傷でも治せる訳じゃないんだ」
「うん。わかってる」
クリムの左腕が宿屋の窓を突き破りテツオに向かって飛んでいく。
だがテツオは左腕を軽々と避けた。まるでここに飛んでくるのがわかっていたかのように。
ギラリとテツオの目が光った。窓の外の二人を睨む。
「残念だったな。クリム。同じ手が二度も通用すると思ったのか? へへっ。でもクリム、お前を無理やり犯したりはしないぜ。約束したからな。ちゃんと優しくヤってやるよ」
「や、やだ。テツオさまったら……」
「赤くなってる場合かよ……。クリム姉……」
やれやれといった感じでせつは羽をばたつかせ浮き上がる。
「テツオにあの太ったばばあをぶち殺してもらおうかと思ったけど、やっぱアテになんねぇや。もういいよ。この家ごとあの女を灰にしてやる。ゆかりんを殺したあの女をなぁ」
せつは空中ですぅっと息を吸い込んだ。
「せっちゃん、待って。そんなことしたらテツオもあの女の子も一緒に灰になっちゃうよ」
「ゆかりんの苦しみをちょっとでも味わえぇぇ」
せつの口から高温の炎が宿屋の二階目掛けて吹き荒れた。
せつの炎が宿屋の二階に直撃するかと思われた瞬間、炎が何かに弾かれた。
「え?」
金色の髪と青い瞳。
小さな女の子が右手をかざし、透明の壁を作った。
せつの炎は霧散する。
「だ、誰だ?」
「人の家に放火しようとしてる人に名乗る必要はないわねぇ」
くすくす笑いながらその女の子は透明の壁を解除する。
「邪魔をするな」
せつは二階の窓にいるその女の子のそばまで飛んで行った。
せつは驚愕する。
せつと全く同じ顔の少女がそこにいた。
「ずいぶんリュウの血が濃いみたいね。せつ」
「リュウ? 誰だ。そいつは」
「あなたのお父さんよ。せつ。そしてわたしはあなたの母親」
「なんだって?」
クリムは全身に汗をびっしょりとかいていた。
「まさか、まさかこんなに早く出会ってしまうなんて。テツオに……せっちゃんに……出会ってしまう前に、わたくしがカタをつけようと思っていたのに」
久しぶりの母子の出会い。だがその再会は最悪の様相を呈していた。