夜は更けていた。蜘蛛の糸に締め付けられたせつの死体が転がっている。
「サヤカ……。どうして、どうしてわたしの邪魔をするの? どうしてわたしに剣を向けるの?」
セルマは千切れた糸を手繰り寄せながらサヤカを睨んでいる。
「動かないで。セルマ」
サヤカの剣はセルマの鼻先まで伸びていた。
セルマは動きを止めて俯く。
「サヤカちゃん。どうして? どうしてわたしにそんな事するの?」
サヤカは言葉を発せず、剣はセルマの鼻先から動かさない。
「おいおい。セルマに酷いことしたら俺が許さないぜ?」
テツオがゆっくりと歩いて来る。手には宿屋の台所から持ってきた包丁が握られていた。
「て、テツオっ」セルマが嬉しそうな声を出した。
「テツオはわたしの味方よね。わたしの事好きなんだもんね。愛してるんだもんね」
だがセルマの顔が絶望に変わるまでそれほどの時間はかからなかった。
テツオの包丁もセルマの首にピタリと当てられていた。
「なんなのよ、あなたたち。サヤカっ、あなたわたしの事姉妹って言ったじゃない。そうよ、テツオだってわたしの事好きなんでしょ、愛してるからエッチな事したいって思ったんでしょっ」
セルマは泣き叫んでいた。
「お前の言うとおりだ。セルマ。俺もサヤカもセルマの事を愛している。だがそれはお前の事じゃない」
コクリとサヤカが頷く。
「テツオ……さま。サヤカ……さん」
クリムは立ちすくんでいた。
セルマはキッとサヤカを睨んだ。
「ふうん。そうなんだ。結局サヤカは自分勝手だよね。わたしの事大切に思っていたんじゃないの?」
そしてくるりと顔を動かし今度はテツオを睨んで苦々しく笑う。
「テツオはわかりやすかったわ。ただわたしに欲情しただけだもの。ただの変態だもんね。でもね、だったら最後までそれを貫きなさいよ。後悔している? 本当はわたしを愛していた? 気色悪い。何自分の行為を正当化しちゃってるワケ? このロリコンがっ」
セルマは言葉を荒げ二人を責める。
だがサヤカの剣もテツオの包丁もピクリとも動かなかった。
その時突風が吹いた。バサバサと羽の音が聞こえる。
巨大な生物が宿屋の前にズシンと降りて来た。
土煙が舞う。
「リュウちゃん!」セルマは嬉しそうな声を上げた。
テツオとサヤカは風に吹き飛ばされ、クリムの近くまで転がっていた。
三人が見たものは二階の屋根に届きそうなくらい大きな竜とその首にしがみつく小さなセルマの姿だった。
「このニオイ……。リュウ……なのか? お前は本当に竜になっちまったのか?」
吹き飛ばされたテツオとサヤカは立ち上がり、クリムを守るようにリュウの前に立ちふさがった。
「クリムを守るぞ。サヤカ!」テツオは叫んだ。
「わかってる」サヤカは静かに頷く。
「もう誰も信じないよ。わたし自身もね」
セルマはリュウの首にしがみついたままクリムを睨んだ。
「あなたさえいなければわたしはあんなつらい目に合わずに済んだ。あなたさえいなければね……。あなたを殺すわ。ついでにテツオとサヤカも死ねばいい。あなたたちはせつやゆかりと違って、死んでからこの世界に来たんだから元の世界に帰るなんて事は出来ないわよ。一ミリの意識も残らないわ。ただの肉塊になるといい。リュウちゃん、こいつらを焼き殺して!」
リュウは動かない。ただ静かにテツオを、サヤカを、クリムを見ていた。何故かその目は悲しそうだった。
「何をしているの? リュウちゃん。忘れたの? あなたがどれだけ悲しい思いをしてきたのか忘れたの? こいつらはあなたのこと汚いと思っていたのよ。邪魔だと思っていたのよ。死ねばいいと思っていたのよ」
「ぎゅぁ」小さくリュウが鳴いた。そして大きく羽を広げて空へ浮かび上がる。
セルマの目には小さくなっていくクリムが見えていた。
リュウはセルマを乗せたまま大空を東の方へ飛んで行く。
「リュウ……ちゃん……どうして?」
セルマはリュウの首筋に両手を回しゴツゴツとした鱗に小さな唇を押し当てた。
「行っちまったな」
雲ひとつない夜空。何事もなかったかのように月は俺たちを照らす。
半壊した宿屋の店先が風に吹かれてカタカタと鳴っていた。
「せっちゃんっせっちゃん」
クリムが土色になったせつを抱きしめて泣いていた。
「クリムちゃん……」
俺は何か言おうとしていたサヤカの肩に手を置き小さく首を振った。
サラサラと砂のようにせつの体が崩れていく。
それはクリムの腕の中から風に乗って夜空に舞い上がった。
「せつは元の世界で生きているんだろ? また逢えるさ。クリム」
クリムはただ黙ってせつが舞っていった夜空を見上げていた。
とりあえず宿屋の親父とおばはんを引きずり出して飯とベッドの用意をさせようか。
クリムがセルマだと思ったのはいつからだったかな。
いやクリムの中にセルマがいたと言うべきか。
セルマの中にセルマがいなかったと言うべきか。
この世界に来てわかった事がある。重要な事だ。
“器は意味を成さない”
二十八歳の俺が入っている器は五歳の頃の俺の体だ。
十六歳のサヤカは九歳の自分の体。
クリムはそのまま十三歳の体だ。この中には誰が入っている?
五歳のセルマの体には誰が入っている?
クリムとセルマの魂が入れ替わっているのだろうか。
いやそれでは辻褄が合わない。
クリムはクリムの記憶とセルマの記憶を両方を持っているようだ。
あのセルマも同様に両方の記憶を持っているようだった。
ふたつの精神が同じ記憶を共有し、別の器に入っているというのだろうか。
クリムの中にセルマがいると言ってもクリムはクリムだ。
俺があの場所で殺した少女がクリムだ。
だが俺が手をとり日本へ連れ帰ったセルマもまたクリムだったのだ。
俺とサヤカはやはり死んでからこの世界に来たようだ。恐らくクリムも。
その意味ではここは死後の世界と言えるのかもしれない。
だが転べば痛いし腹も減る。眠くもなるしヤりたくなる事だってある。
俺が想像していた死後の世界とはどうも違う。
せつとゆかりは生きたままこの世界に来たらしい。
何故かはわからない。
事故か何かがきっかけでここに迷い込んできたのかもしれない。
その夜俺たちは宿屋の二階の部屋に泊まった。
そこでクリムは話した。クリムとセルマに起こった事を。
サヤカとの思い出を。そしてつらくて悲しい出来事を。