――アークエンジェル
エニルがナタルの私室で密やかな逢瀬を重ねていた頃。
エニル、ルナマリア、アグネス、メイリンに割り当てられた四人部屋では、エニルを除く三人の少女たちがベッドに寝転がり、それぞれに休息を取っていた。
夕刻を迎え、地上での慣れない活動を終えた身体には疲労が濃く滲んでいる。
「はぁ……。地球の重力生活って、本当にきついよね……」
右側の上段ベッドからだらりと腕を垂らし、メイリンが力なく愚痴をこぼした。
「ほんとよね。身体がずっと鉛みたいに重いわ」
「同意するわ。モビルスーツの操縦だって、宇宙(そら)とは勝手が違いすぎるし」
下段のルナマリアと、左側上段にいるアグネスも、深い共感と共に相槌を打つ。宇宙育ちの彼女たちにとって、地球の環境はただ生きているだけでも体力を削られる過酷な環境だった。
ふう、と息を吐いたメイリンは、身を乗り出して下段の姉と、向かいのアグネスをじっと見つめた。
「……ねぇ、お姉ちゃんとアグネスは、エニスさんのことどう思ってるの?」
「えっ?」
「どうって……急に何よ」
突然の問いに、ルナマリアは目をパチクリとさせ、アグネスは少しだけ身構えるように視線を逸らす。
「だって……私にはないのに、二人からはいつも【香水みたいな良い匂い】がするんだもん」
メイリンは鼻をひくつかせながら、少し拗ねたような口調で言った。
「私は貰ってないけど、二人ともエニスさんから何か貰ってるよね?
……何か、そういう関係になっちゃったの? 教えてよー」
「そ、そういう関係って……!」
ルナマリアがボフッと顔を赤くして慌てふためく。
だが、否定しきれないその反応が、メイリンの推測を裏付けていた。
「私、ほら……」
観念したように、ルナマリアがぽつりと話し始める。
「宇宙で、初めて人を……アレしちゃって。
そのあと、すごく悩んで落ち込んでた時に、エニスさんに救ってもらったというか……慰めてもらって。その時に、いただいたのよ」
それは、初めての実戦で命を奪った罪悪感に押し潰されそうになっていたルナマリアを、エニルがその身体と温もりで丸ごと受け止め、慰撫した時のことだった。
「私は、まあ……ご褒美かしらね」
ルナマリアのしんみりとした告白に続くように、アグネスが得意げに髪をかき上げた。
「私の操縦、すごく上手いって褒めてくれたし。
それで、【ルナマリアとは違う匂いのほうがいいだろう】ってことで、少し分けてもらったのよ」
アグネスの言葉の裏には、「ルナマリアとは違う、私だけの特別扱いを受けた」という彼女特有のプライドと優越感が滲んでいた。
「えーっ、いいなぁ! なら、私にもその香水、少し使わせてよー!」
メイリンが身を乗り出してねだるが、ルナマリアとアグネスは咄嗟に自分の小瓶を隠すように身を引いた。
「だ、だめよ! これは私たちがエニスさんから貰ったのだし!」
「そうよ。欲しければ、あなたも直接エニスさんから貰えばいいじゃない」
二人にぴしゃりと拒絶され、メイリンは「むーっ」と頬を膨らませる。
「そう言われても……なんか、私ってエニスさんとゆっくり会う機会ないんだよね。
シフトも合わないし……」
不満げにベッドの上でゴロゴロと転がりながら、メイリンはふと思い出したように口にした。
「ミリィ……ミリアリアはよく会ってるみたいなんだけど、そういう匂いはしないんだよね。もしかして貰ってないのかな。
やっぱり、パイロットと艦橋要員だと違うのかなぁ……」
「さあ……どうかしらね」
アグネスが適当に相槌を打つ中、メイリンは(いつか自分もエニスさんから特別な何かを貰えないか)と、密かな期待を膨らませるのだった。
* * *
ナタルの私室での密やかな逢瀬を終え、エニルは女性用の共同シャワールームで汗を流していた。
火照った身体を冷まし、身支度を整えて夜の静寂に包まれた通路に出たところで、不意に声をかけられる。
「――エニス」
振り返ると、そこにいたのはアークエンジェルの艦長、マリュー・ラミアスだった。
そのままマリューの艦長室へと招かれたエニルは、勧められるままに執務机の前にあった椅子に腰を下ろした。
執務机の椅子に座ったマリューから、琥珀色の酒が注がれたグラスを受け取る。
「お疲れ様。……色々と、大変でしょう」
「艦長さんこそね」
グラスを傾けながら、二人はぽつりぽつりと互いの愚痴をこぼし合う。地上に降りてからの過酷な環境、終わりの見えない逃避行、そして補給の不安。
酒が回り、少しだけ頬を朱に染めたマリューが、ふと真面目な顔つきでエニルを見つめた。
「……本当に、感謝しているわ。
戦闘でもあなたに助けられているし……何より、キラの面倒を見てくれてありがとう。
あの子、あなたがいてくれて随分と救われているみたいだから」
「いいえ。あの子は放っておけない性質(タチ)なだけよ」
エニルが軽く微笑んでグラスを煽ると、マリューは少しだけジト目を向けて、たしなめるように釘を刺してきた。
「ただ……あまり女絡みで問題を起こさないようにね。
ナタルも……最近少し、様子が違うようだし」
「あはは……善処するわ」
エニルは苦笑いで誤魔化す。マリューは大人の女性として、艦内でエニルが女性陣とどのような関係を築いているか、おおよそ察しているようだった。
ふう、とマリューが深いため息をつき、グラスの残りを飲み干す。
ふっと沈黙が落ちた後、彼女はどこか遠くを見るような、酷く感傷的な瞳でエニルに問いかけた。
「……ねえ、エニス。例えばの話なんだけど」
「うん?」
「昔付き合っていた男にそっくりな男か、あるいは……その男が記憶を失っていたら。
あなたなら、もう一度自分に振り向かせる? それとも……別の人を探すかしら」
<昔の男? フラガ大尉のことかしら……いや、少しニュアンスが違うわね>
エニルは内心で首を傾げた。今のマリューとムウの関係性は、まだそこまで深い段階には見えない。マリューの瞳の奥にあるのは、もっと深く、暗い喪失の記憶のように思えた。
事情はわからないが、エニルは深く追求することはせず、自分自身の価値観に従って素直に答えた。
「そうね……。もし、それが心底忘れられない相手だというのなら」
エニルは手元のグラスを揺らし、氷がカランと音を立てる。
「あたしなら、その男の回復を待ちつつ、自分が壊れない程度に『遊ぶ』かな」
「……ふふっ」
エニルのあまりにも彼女らしい、現実的で享楽的でありながらも、根本の愛情は決して手放さないという回答に、マリューは目を見張り、次いで堪えきれないように吹き出した。
「そう……。あなたらしい答えね。自分が壊れない程度に遊ぶ、か……」
マリューの表情から、先ほどまでの重苦しい陰りが少しだけ晴れていた。
「参考になったわ。ありがとう、エニス」