制服資産の減価償却録 〜終わらない絶望のタイムライン〜 作:naomasa
あの薄暗い廃倉庫へ突入し、屈強な男たちによって四肢を床に縫い付けられ、為す術もなく見過ごした「四時間の空白」。あの日から、重く息苦しい三ヶ月という時間が、泥のように堆積していた。
後輩の大沢美波巡査長は、事件直後から「公務に起因する重度PTSD」という名目で、長期病気休職の扱いに伏せられていた。それは組織が傷ついた被害者を保護するための人道的措置などではなく、彼女の警察官としての身分を薄氷の上に繋ぎ止めたまま、その脳髄と皮膚の奥底へ恐怖の規律を完全に定着させるための、血の通わない事務手続きに過ぎなかった。
刑事課の執務室。主任である山本舞巡査部長は、冷たいアクリル机の上に置かれた一枚の公文書を前に、息を詰めていた。 それは、本日付で県警本部の監察指導官室において、大沢美波本人から任意で徴求されたという『供述調書』の謄本(とうほん)であった。
「内容を確認して、背反の事実がないか精査しなさい、山本主任」
正面に立つ女――県警本部警務部監察課の監察指導官、藤田美沙警部補が、冷気の一片すら動かない、底冷えするような声で告げた。
藤田は、警察組織の規律と大義名分を完璧に執行する、黒幕陣営の精神的拘束の体現者である。個人的な感情や侮蔑を一切交えず、対象が犯したとされる過失を「国民の血税で支給された制服への汚損」という公的な罪へとすり替え、責任のすべてを相手に帰結させる冷酷さを宿していた。その仕立ての良い制服の襟元には、一切の汚れも、歪みも存在しない。
舞は、自身の細い指先が激しく震えるのを自覚しながら、机の上の書類へ視線を落とした。 活字として規則正しく印字された漆黒の羅列が、舞の胸の奥を容赦なくえぐり取っていく。
『被疑事実:官給品衣服および階級章の自発的汚損行為、ならびに廃倉庫の密室アジトにおける、複数名の男性に対する性的な奉仕の提供。』
『実況見分詳細:口腔内への直接嚥下・計八回。顔面および頭髪への射精受領・計十四回。その他、制服繊維への直接浸透・計二回。累積二十四回に及ぶ、男子体液の付着を現認。被疑者はこれらを一切拒絶せず、従順に受け入れた旨を供述。』
あまりにも残酷で、血も涙もない内容であった。
「――っ、何ですか……これ。これは一体、何の意味ですか、藤田監察官……!」
舞の喉の奥から、怒りと悲しみに震える乾いた掠れ声が漏れた。
三ヶ月前、あの廃倉庫の薄汚れたマットの上で、美波の端正な顔面にべったりと張り付いていた不浄な白濁。言葉を発するたびに顎のラインを伝い、誇り高き青い制服の襟元をぐずぐずと汚していった、あの生温かくて生臭い、圧倒的な暴力の痕跡。 その痛ましい犠牲のすべてが、実況見分の公文書として、おぞましいほど事務的な数値の羅列へと置き換えられている。
「文字通りの意味よ、山本主任。大沢巡査長は、自らの意思でその衣服を汚し、男たちの処理を受け入れたと、自身の手で実印を捺したわ。彼女は警察官としての矜持を、自ら放棄したのよ」
「違う……ッ! そんなわけがない! 美波は、私の身代わりになって……ッ! 私の最低な判断ミスのせいで、あの子は無理やり押さえつけられて――」
「動機や経緯など、この監査台帳の前には何の意味も持たないわ」
藤田は取り乱す舞の言葉を冷たく遮り、氷のような視線を向けた。
「残されたのは、支給された制服が、男たちの白濁で修復不可能なほど汚損されたという物質的な事実だけ。表舞台の規律はね、これを『警察の威信を著しく失墜させる不祥事』と定義するの。そして大沢巡査長自身が、それを全面的に認めた。それだけよ」
舞の呼吸は急速に浅くなり、エリート刑事として保ってきた冷静さが、音を立てて瓦解していくのを感じた。 自らの無能が、この気高く美しい後輩の尊厳を、文字通り「二十四発の穢れ」で生き埋めにしたのだ。その消えない十字架が、自虐の凶器となって胸を激しく突き刺す。
その時、査問室の暗闇から、足音もなく一人の男が姿を現した。
県警監察課の裏の顔であり、女たちを底なしの暗渠へと引きずり込む元凶――鮫島警部であった。 鮫島は感情を一切持たず、人間を単なる「モノ」や「衣服」としてのみ扱う怪物である。精神論や「仕方がなかった」という感傷的な言い訳を、絶対的な事実だけで完璧にすり潰す男だ。
「明日、その免職調書が正式な決裁ラインに載る」
鮫島は机の端に頑強な両手を突き、舞の耳元へ、重い金属の塊を思わせる声で告げた。
「決裁が通れば、大沢美波の社会的抹殺――不祥事による懲戒免職処分が確定する」
鮫島はそこで言葉を区切り、わざとらしく数秒の沈黙を置いた。冷徹な蛇のような視線が、舞の動揺しきった顔面をなめ回す。
「懲戒免職となった身分を持たない人間が、この国でどう処理されるか。特に、警察の内部書類や職務上の秘密を知り尽くした元警察官が、組織から放り出された後、どういう『非公式の手続き』で扱われるか……。優秀な頭脳を持つお前なら、組織の防衛理論として当然計算できるだろう、山本主任。籍を失った人間は、二度と……光の当たる場所には戻れない」
「……っ」
舞の背筋を、氷をねじ込まれたような強烈な悪寒が駆け抜けた。 鮫島の言葉はどこまでも平易で、官僚的な手続きの範囲を超えていない。だが、刑事としての舞の本能的な直感が、そのマイルドな言葉の裏側に口を開けているおぞましい「深淵」を察知してしまった。
懲戒免職、警察籍の剥奪。 それは単に仕事を失うということではない。戸籍を上書きされ、社会的な生存を抹殺され、地上のあらゆる法律の保護から切り離されることを意味する。 かつて噂に聞いた、不祥事を起こして消えた女性警察官たちの末路。実名報道で社会的な地位を奪われ好奇の目に晒され続けた者。自暴自棄になり、見知らぬ街の風俗へ身を堕とした者。最悪は、そんな自身に耐え切れずに自ら命を絶った者。
もし、美波が明日免職になれば、あの大人しくて心優しい後輩が、その底なしの運命をたどってしまうのだろうか。 自らの無能が、美波をそんな地獄へと送り出すことになるのだ。
「……あの子を……美波を、そんな目に遭わせる気ですか……ッ!」
舞は鮫島を睨みつけたが、その声はひどく震え、瞳は恐怖と絶望で激しく揺らいでいた。
「我々としては、規律に従って社会から排除するだけだ」
鮫島は平然と言い放ち、藤田の手元にある調書を指先でトントンと叩いた。
「だが、もしもお前が、大沢の公籍を『病気休職』のまま現状維持し、組織の盾で彼女の身分を守ってやりたいと願うなら……話は別だ。この調書の手続きを、上層部の決済手前で、永久に保留にしておいてやってもいい」
「保留に……? そのための、条件は何ですか……ッ」
すがるように問い返す舞に、今度は藤田が官僚的な丁寧語で割り込んだ。
「簡単なことよ、山本主任。大沢巡査長の代わりに、あなたがすべての泥を被ればいいの。彼女が犯したとされる罪を、あなたのその優秀な身体で、非公式な『特命査問』として完全に相殺してもらうわ。もちろん、相応の汚損と従属を覚悟してもらうことになるけれど」
「私が、美波の身代わりに……。それに、汚損と従属って……」
言葉を反芻した瞬間、舞はハッと息を呑んだ。 「優秀な身体」「汚損」。つまり藤田は、明確に「舞の身体そのもの」を要求しているのだ。
(身代わり……。つまり美波は、このままいけば本当に、どこかの暗闇で身体を差し出す肉塊にされることが決定しているんだわ……ッ)
激しい葛藤が、彼女の優れた頭脳の中で渦を巻く。
舞は血が滲むほど唇を噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪えた。 大沢美波の代わりに、すべての泥を被る。それが意味する肉体的・精神的な屈辱の重さを、舞は理解した。藤田の言う「特命査問」が、正規の取り調べなどではないことは明白だった。
美波の調書に並んでいた『累積二十四回の汚辱』という凄惨な事実。それを今度は、自分自身の身体で、文字通り直接受け止め、貪られるということだ。 刑事課の主任としてのプライド、女としての気高さ、これまで積み上げてきたエリートとしてのキャリア。そのすべてが徹底的に破壊され、名もなき男たちの欲望に蹂躙される未来が、鮮明に脳内に浮かび上がる。
「いや……っ」
無意識に、震える唇から拒絶の言葉が漏れた。 本能的な恐怖が、舞の身体を内側から激しく震わせる。引き返して、このまま美波の免職を見過ごせば、自分は無傷で光の当たる地上にいられるかもしれない。 しかし、その瞬間に脳裏をよぎったのは、三ヶ月前、廃倉庫の床で衣服をボロボロに引き裂かれながらも、自分を逃がそうと無理に引きつった笑顔を作っていた美波の姿だった。
――『大丈夫です……主任は、逃げて……』
消え入るようなあの声が、耳にこびりついて離れない。
「……ダメよ。あの子は……私のせいで地獄を見たの。主任である私がここで逃げたら、あの子の人生は、本当に完全に消滅してしまう……ッ」
誰に言い聞かせるでもなく、舞は狂乱しそうな頭を振り乱しながら、掠れた声で呟いた。
「美波を守るためなら……私の尊厳なんて、いくらでも差し出してやる……ッ!!」
それは、恐怖を上書きした、部下を想う高潔な自己犠牲の精神だった。エリートとしてのあまりにも強固な責任感と美徳。 だが、その尊く美しい感情こそが、黒幕たちが最も効率よく女たちを暗闇へと歩かせるための、完璧な「見えない手錠」として利用されていることに、舞は最後まで気づくことができなかった。
「……わかりました。美波の手続きを、今すぐ保留にしてください。私が……その特命査問のすべてに応じます」
絞り出すような、けれど決意に満ちた声で、舞は自らを差し出した。
「賢い選択よ、山本主任。では、今夜二十三時、地下最奥の資料室へ単独で出頭しなさい。証拠隠滅を防ぐため、私物を一切持たない丸腰の状態でね」
藤田の冷徹な微笑みが、室内の冷気の中に溶けていく。 舞は自ら、底なしの地獄へと繋がる罠の扉を、部下への愛という美徳を燃料にして、正確に開け放ってしまったのだった。