制服資産の減価償却録 〜終わらない絶望のタイムライン〜 作:naomasa
23時の出頭指定まで、あと三時間。
県警本部刑事課の執務室は、不気味なほど静まり返っていた。窓の外では夜の冷たい雨が激しくガラスを叩いているが、室内にはただ、誰もいないデスクの事務用端末から発せられる微細なファン音だけが、平熱のまま響いている。昼間の喧騒が嘘のように引き引いた空間は、地上の規律が一時的に眠りについたかのような、物質的な重苦しさに支配されていた。
山本舞巡査部長は一人、自身のデスクの前に座り、青白いモニターの光に顔を照らされていた。
管理端末のキーボードを叩く打鍵音だけが、夜のオフィスに寂しく爆ぜる。画面の奥、県警の人事管理台帳のデータログにおいて、本日執行予定だった大沢美波のステータスから、『不祥事による懲戒免職手続き中』という文字が消去され、元通りの『病気休職』という青い現状維持のステータスへと書き換わった。
「……よかった」
舞の薄い唇から、かすかな安堵の溜息が漏れた。 これで、美波の警察官としての身分は守られた。あの子が明日、実名報道で社会的に抹殺され、地獄のような底なしの暗渠へ叩き落とされる破滅は、ひとまず回避されたのだ。 しかし、その安堵が消え去った直後、舞の脳裏に、藤田から突きつけられた美波の供述調書の記述が、生々しい悪夢としてフラッシュバックする。
顔面や頭髪への容赦なき射精受領、計14回。口腔内への直接嚥下、計8回。 累積24回に及ぶ、拭うことも許されなかった男たちの不浄な体液のぬめり。美波は、あの密室の薄汚れたマットの上で、どれほどの恐怖と屈辱の中に置き去りにされていたのだろうか。 もしここで自分が藤田たちの取引に応じなければ、美波はさらにどれほど恐ろしい「非公式の手続き」で貪られ、組織の歯車として無残に使い潰される予定だったのか。
(今度は……私が、あの廃倉庫と同じような闇の中へ行く。美波の代わりに…)
背筋を伝う冷たい戦録と共に、舞の胸に薄々とした直感が宿る。
23時に指定された地下の特命査問。そこが、まともな規律の及ぶ場所でないことは分かっている。自分のこの身体、これまで大切に守ってきた女としての気高さが、今度は美波と同じように、男たちの白濁でドロドロに汚損され、消費されることになるかもしれない…という予感。本能的な恐怖が指先をかすかに震わせたが、舞はそれを刑事としての強い意志でねじ伏せた。
その時、背後の自動ドアが不躾な電子音を立てて開いた。
室内の静寂を切り裂いて執務室に乱入してきたのは、後輩の刑事、井上美月巡査だった。美月の手には、システム監査の一歩遅いログを印刷した内線書類が握られており、その瞳は困惑と焦燥で激しく揺れていた。
「主任! これ、一体どういうことですか!?」
美月は激しい足取りで舞のデスクへ詰め寄り、手元の紙を叩きつけた。そこには、舞がデータを書き換える前の古い情報――『大沢美波:不祥事による懲戒免職手続き中』という赤文字が刻まれていた。
「美波先輩が不祥事……しかも、懲戒免職なんてあり得ません! あんなに真面目で心優しい先輩が……。主任、これはもしかしたら上層部の何かの陰謀じゃないですか!? 私たち刑事課で、今すぐ本部に抗議すべきです!」
美月は、舞が自らを犠牲にして地獄の取引に応じ、たった今その処分を覆したという恐ろしい真実までは全く察していなかった。ただ、実直で正義感の強い彼女は、一歩遅れて届いた「懲戒免職」という非情な文字に激昂し、主任である舞が何かを隠して一人で抱え込もうとしていることだけを、本能的に嗅ぎ取って食い下がっていた。
舞は椅子をゆっくりと回転させ、美月を振り返った。 その美しい顔には、先ほどまでの葛藤や怯えの色は微塵も残っていない。美月をこのおぞましい泥に絶対に巻き込まないため、舞は自身の感情を完全に殺し、冷酷な「上司の壁」へと自らを切り替えていた。
「……騒々しいわね、井上巡査」
感情を一切交えない、底冷えするような平熱の声が、美月の熱を圧殺する。舞の身体から放たれる、これまで見たこともないような冷酷な威圧感に、美月は思わず息を呑んだ。
「その書類は古い情報よ。大沢の案件は、すべて本部監察とのしかるべき正規の手続きと規律に基づいて処理されています。一介の若手であるあなたが、感情論で組織の決裁に口を挟む領域ではありません。今すぐ私室に戻りなさい」
「でも……っ、だったらなんで不祥事なんて文字が一度でも出るんですか! おかしいです! 何か大きな陰謀があって……上層部は影で何らかの取引でもしてるんじゃ――」
「退室しなさいと言っているのよ」
舞は美月の言葉を氷のように冷たく遮り、デスクの引き出しに手をかけた。
「これは公式な職務命令よ、井上巡査。これ以上、組織の規律に異議を唱えるというなら、今すぐその警察手帳と識別バッジをここに置いていきなさい。刑事課に、上司の命令に従えない身勝手な執務者は必要ありません」
「……っ」
舞の徹底した拒絶と、階級を盾にした冷徹な正論の前に、美月はそれ以上食い下がることができなかった。尊敬していた主任の頑なな態度に、強い割り切れない不信感を抱きつつも、彼女はその圧倒的な威圧感に気圧され、唇を噛み締めながら頭を下げて部屋を去るしかなかった。激しく閉まるドアの音を見届けながら、舞の張り詰めていた表情が、微かに歪む。
(ごめんなさい、美月。あなたまで、あんなおぞましい目に遭わせるわけにはいかないの。これでいい……泥を被るのは、私一人で十分よ)
22時45分。
オフィスに再び完全な静寂が戻った。舞は静かに立ち上がると、自らの警察手帳と金色の識別バッジをデスクの引き出しの奥へと仕舞い込み、重い金属の鍵をかけた。地上での身分、国家権力の証明、これまでのキャリア――自分を保護していたすべての日常の記号をここに置き去りにし、完全な丸腰の「一人の女」となる。舞は、デスクの隅に置かれていた、自身のシリアルナンバーが入った公務用手錠を見つめた。かつて数多の犯罪者を縛り上げてきた、冷たく気高い鉄の呪縛。一瞬、それを手に取ろうと指先が金属の冷徹な肌に触れたが、舞は静かに手を引き、それをデスクの上に残した。
(……地下の査問室に、私の手錠なんて必要ないものね)
自分はこれから、部下を救うための気高き身代わりとして、すべての泥を被りに行くのだ。だが、舞のその知性はまだ気づいていない。自身の手錠を置いていくという選択が、どのような未来に繋がっているのかを。
彼女は一時間後、自らの手錠を藤田美沙に弾き捨てられ、代わりに「三ヶ月前に美波を後ろ手に縛り上げていた、あの忌まわしい遺留品の手錠」でタイトに拘束される運命にある事を…。
舞は、これから地下の暗闇で待ち受けている特命査問に対し、相応の肉体的な苦痛と屈辱を覚悟していた。名もなき男たちに身体を弄ばれ、不浄に汚され、尊厳を一時的に踏みにじられるかもしれない。
そう、舞の優れた頭脳は、この先に待つ地獄を、あくまで査問という手続きの間の「一時的な受難」に過ぎないと、都合よく計算していたのだ。部下を想う高潔な自己犠牲の美徳。 その美しすぎる大義名分が、彼女の目を完全に曇らせている。
数時間が経過し、査問の苦痛に耐え抜きさえすれば、また制服を整えて地上の日常へ、刑事課主任の席へと戻れるのだと、彼女は本気で信じ込もうとしていた。 自分が身を投じようとしている場所が、一度足を踏み入れれば二度と光の当たる地上には戻れない、永遠の無間地獄であることなど、今の彼女は知る由もない。
23時ちょうど。 舞は執務室の灯りを消すと、庁舎の階段を、一歩ずつ、確実な足取りで下っていった。 冷たい地下最奥の資料室――その重い鉄扉の向こう側へと、山本舞は自ら、部下への愛という名の足枷を引きずりながら、足を踏み入れた。