制服資産の減価償却録 〜終わらない絶望のタイムライン〜 作:naomasa
深夜の静寂に支配された、署の生活安全課執務室。昼間の喧騒が嘘のように引いた空間で、窓外に広がる街の灯りが、ブラインドの隙間から冷たい光を床に落としている。
XX県警のサイバー犯罪対策課の水野菜々美は、液晶画面の青白い光に端正な顔立ちを照らされながら、一人静かにキーボードを叩き続けていた。ストイックに後ろでまとめられた黒髪が一筋も乱れていない。彼女の知的で冷徹な瞳が追っているのは、何かの違和感がある「二つの歪な空白」だった。
大沢美波。そして、刑事課主任の山本舞。
激務を共に支え合い、互いの背中を預け合ってきた無二の親友の大沢美波。そしてその親友が実の姉のように慕い、背中を追いかけ続けていた気高き先輩刑事、それが山本舞になる。
この二人が短期間の内に表の社会から姿を消した。菜々美の卓越した知性は、その事務的な手続きの不自然さに、得体のしれない違和感を抱いていた。
「おかしい……何故…」
菜々美のタイピングが止まる。画面を見つめる眼鏡の奥の瞳が、鋭く細められた。
署の人事ログに残された記録によれば、山本舞主任は「重度適応障害による即日依願退職」。そして大沢美波巡査は「実家帰省を伴う長期の病気療養」。
刑事課の第一線で、誰よりも強い責任感を持って事件を追っていた師弟の二人が、なぜほぼ同じタイミングで、第一線から姿を消したのか…。
さらに菜々美の指先が手繰り寄せた「事務的事実」が、その疑惑を確信へと変えていく。
二人の後任人事が、まるで事前に用意されていたかのような異常な速度で配置されていること。二人の使用していたロッカーや署内共有フォルダのアクセス権が、上位組織の特密管理領域によって不可逆的にロックされていること。そして何より、署のローカルサーバーから二人の基本データが、不自然なほど綺麗に消去されていること。
これらは、通常の退職や病気療養の手続きでは絶対に起こり得ない、冷徹な事実だった。組織の意思が働いている。いや、何か致命的な形で隠滅されている。
(美波……舞主任とあなたに、一体何が……)
菜々美は小さく息を吐き、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。
彼女は武術の素養を持たない、完全なデスクワーカーである。現場で犯人を組み伏せる筋力も、修羅場をくぐった度胸もない。その代わりに、彼女には神から与えられた強力な武器があった。状況の無機質な統計データやログの不自然な穴から、目に見えない歪んだ謀略の輪郭を導き出す、客観的な情報解析能力だ。
画面を見つめる菜々美の脳裏に、不意に鮮明な日常の残影が蘇る。それは、ほんの数ヶ月前までの、何の変哲もない平熱感に満ちた夜の、愛おしい署内の記憶だった。生活安全課の激務を終え、疲れ果てて机に突っ伏していた菜々美のデスクの横に、冷えた缶コーヒーを二つ持った美波が
「お疲れ、菜々美。また数字と睨めっこ?」
と、いつもの屈託のない笑みを浮かべて近づいてくる。刑事課の荒っぽい男社会に揉まれながらも、美波の瞳にはいつも、市民を守るという警察官としての真っ直ぐな誇りと、菜々美に対する絶対的な信頼が宿っていた。
『菜々美の頭脳があれば、どんなに複雑な事件の糸口も見つけ出せるよね。私、現場で身体を張るしかできない脳筋だからさ、菜々美が後ろでログを追っててくれるだけで、本当に安心して突入できるんだ』
署の近くにあるガード下の居酒屋で、少し酒が回った美波が照れくさそうに、けれど真剣な目で語っていた言葉。菜々美が「私はただの事務職。あなたの後ろ盾にはなれないわ」と冷淡に返しても、美波は
『それが一番格好いいんじゃん。私にとって最高の参謀だよ』
と笑っていた。
山本舞主任の容赦のない厳しい指導に、署の屋上で涙を流しながらも、翌朝にはまた凛と出勤していく美波の姿。そして、そんな不器用な後輩の背中を、厳しくも温かい眼差しで見守っていた舞主任の、気高き警察官としての背中。あの二人の絆は、菜々美にとって、この冷徹で官僚的な組織の中で唯一、血の通った温かい「正義」そのものだったのだ。
その二人が、何の痕跡も残さず、申し合わせたように同時に消えた。
(美波のあの真っ直ぐな誇りが、舞主任のあの強固な使命感が、理由もなく自発的に職務を放棄するはずがない。何かが、彼女たちの身に起きている。それも誰も触れられない死角のどこかで――)
親友を救いたいという純粋な友情と、正義の執行者としての知性が、菜々美の頭脳を過熱させていく。菜々美は、監査ログの網の目を掻い潜るためのディープ・プログラミングを開始した。署の定期システムアップデートのパッチ内に紛れ込ませる形で、ある時限プログラムを仕込んでいく。 それは、通常ではアクセスできない特密管理領域の底から、強制破棄されたはずの隠滅ログの残渣を、監視の死角にある自身のローカル端末へと自動退避させるための高度な触手だった。
画面の端で、進捗バーが無機質に伸びていく。真面目でストイックな彼女の正義感は、この暗闇の先に待つ組織の深淵をまだ知らない。自らの優れた頭脳が、すでに巨大な蜘蛛の巣の糸を自ら手繰り寄せていることすら、今の菜々美には予測不可能だった。
実は、この復元可能な状態のファイルこそが、菜々美の並外れた情報分析知性を正確にプロファイリングした藤田美沙が、彼女を地下へと誘い出すためにあえてサーバー内に残した冷酷な「罠(撒き餌)」であった。そうとは知らず、菜々美は自らの知性で防壁を突破したと確信し、冷や汗をにじませながら作業に没頭していく。
突如、コンソールの最深部から警告音が微かに響いた。
仕掛けたプログラムが、何かを捕らえたのだ。暗号化されたデータの底から、菜々美のプログラムは30%の復元に成功する。
展開された、無機質な文字列。そこには、菜々美の知性を凍り付かせる単語の断片が、まるで血痕のように並んでいた。
『……拘束処置…』
『……検体の配置完了……』
『……使用箇所、口内……』
『……累積汚染度計測システム……』
『……当該個体の個人情報消滅処理に移行……』
菜々美の息が止まる。
ドクン、と心臓が大きな拒絶の音を立てた。これは単なる人事の不祥事ではない。組織そのものが、「人間」としてではなく、何か別の、無機質な「数値(データ)」として処理している。
「拘束……汚染度……? 一体、これは何のデータ……?」
その冷酷な文字列を凝視するうちに、菜々美の優れた頭脳(知性の刃)は、最悪の因果関係を勝手に過剰演算し始めてしまった。
(美波……あなたは今、どこに……?)
暗い液晶画面の向こう側に、菜々美の想像力が紡ぎ出す、おぼろげで凄惨な幻視が形を結んでいく。
それは、光の届かない漆黒の密室。
あの、いつも誇り高く綺麗な美波の制服が、無残に拘束され、床に転がされながら、ただの「ただの無機質な器」として、何者かの処理を受け続けている親友の痛々しい輪郭。
『菜々美……助けて……っ』
脳内で勝手に再生された、美波の悲痛な幻聴が、菜々美の胸を鋭く抉った。恐怖と不安で全身の血が逆流するような感覚の中、菜々美の指先は小刻みに震え始める。まだ、何もわからない。データはあまりにも断片的で、核心を指し示す座標には届かない。けれど、美波と舞主任の身に、警察官としての尊厳を根底から剥ぎ取るような、恐ろしい何かが現在進行形で起きていることだけが、残渣ログの不気味な拍動から伝わってくる。
時計の針は、午前1時を回ろうとしている。
静まり返った執務室で、菜々美は激しく高鳴る鼓動を抑えるように、小さく震える手を強く握り締め、画面の電源を落とした。
自らの仕掛けたプログラムが、すでにインフラ管理者側のコンソールと同期され、完全に泳がされていることなど微塵も気づかないまま。菜々美は、液晶の灯りが消えた漆黒の画面を見つめ、明日の夜、さらなる深層ログの解析を継続する決意を固めていた。
誰にも気づかれていないという絶対的な自己欺瞞の傘の下、菜々美は静かに席を立ち、静寂の中、署の執務室を後にする。
彼女の気高い正義感と友情が、自分自身を破滅の奈落へと引き摺り下ろすための完璧な首輪である事実に気づいていない。その頭脳が直面するカウントダウンは、暗闇の中で静かに時を刻んでいる…。