制服資産の減価償却録 〜終わらない絶望のタイムライン〜 作:naomasa
あの深夜から数日が経過していた。
署の生活安全課執務室は、相変わらず夜明け前の重苦しい静寂に満たされている。日中の喧騒が嘘のように引いた空間で、水野菜々美は一人、デスクの液晶画面が放つ青白い光の中に身を置いていた。
数日前に彼女が仕込んだパッチ隠滅型の時限プログラムは、署のメインサーバーの死角で静かに呼吸を続け、特密監察コードによって消去された残渣ファイルをじわじわと彼女のローカル端末へと手繰り寄せ続けていた。
菜々美はキーボードを叩きながら、かすかな、けれど確実に積み上がりつつある不自然な人事をプロファイリングしていた。
(舞主任の依願退職、美波の病気療養……どちらも手続きの承認ルートが、署の正規の決裁ラインを通っていない。誰が、何のために二人の存在を隠そうとしているの……?)
眼鏡の奥の知的で冷徹な瞳に、焦燥の色が僅かに滲む。
情報の客観的解析こそが彼女のすべてであり、最大の防壁だった。データに微かな異常を示している以上、そこには必ず人間が介在する意図的な何かがある。親友を救いたいという一途な友情が、彼女の優秀な頭脳を絶え間なく過熱させていた。
その時だった。
カチッ、と乾いたシグナル音が静まり返った室内に響いた。
菜々美の端末の隅で、正規の通信経路を完全に欺く形で、出所不明の暗号化パケットが滑り込んできた。自動展開を開始するインジケーター。菜々美の指先が、緊張で凍りつく。
「……何、これ……」
画面の中央に、一枚の動画ウィンドウが強制的にポップアップした。
映し出されたのは、コンクリートの壁が無機質に四方を囲む、窓一つない薄暗い一室の映像だった。
手ブレを伴う粗い画質。その中央に、冷たい床の上で激しく身悶えしている、一人の女性の姿があった。
菜々美の息が止まる。
その女性は「警察官の制服」を身に纏っていた。しかし、その制服はひどく乱れ、白濁液と正体の知れない粘着質な液体を吸い込んで、無残に変色している。両腕は背中の後ろへと回され、金属の鈍い光を放つ公務用手錠によってタイトに施錠されていた。
画面の向こうから、生々しい肉体の摩擦音と、男たちの低く濁った笑い声が漏れ聞こえてくる。複数の屈強な男たちが、四肢の自由を奪われたその女性警官を囲むようにして、顔面や口腔への執拗な凌辱を行っているようだった。顔口処理――。人間を人間として扱わない、ただの液体を処理するための道具として、その尊厳を擦り潰す光景が、無修正のまま菜々美の瞳へと飛び込んできた。
「嘘……、あ、ああ……っ」
菜々美は両手で口を覆い、胸の奥からせり上がる激しい嘔吐感を、真面目な理性が辛うじてねじ伏せる。
当初、その女性の顔は、激しく振り乱された濡れた黒髪と、顔面に浴びせられた大量の白濁によって、意地悪なほど判別が難しく処理されていた。
しかし、映像の中の男の一人が、楽しげに声を上げて女性の黒髪を鷲掴みにした。そして、力任せにその顔を、カメラの正面へと強制的に向けさせた。
レンズが、冷徹な解像度を結ぶ。
「あ……」
菜々美の喉から、言葉にならない、かすれた悲鳴が漏れた。
そこに映っていたのは、涙と汚水に塗れ、絶望に瞳を歪ませた、無二の親友の顔だった。
大沢美波。
激務の夜、缶コーヒーを差し出して屈託のない笑みを浮かべていた、あの愛おしい親友の顔面が、今まさに底辺の男たちの欲望の捌け口としてドロドロに犯されている。
さらに、菜々美の理性を完全に破壊する「決定的なファクト」がスピーカーから鳴り響いた。
美波の過去の無線通信記録を完全に学習した、最新の音声合成技術が紡ぎ出す、完璧な周波数の生の悲鳴。
『や、やめて……っ。お、お願い……放してぇ……っ!』
『大、大沢……美波です…………っ』
『 あ、あぁぁーーーっっ! ひぐっ、あ、ダメっ……!』
その瞬間、水野菜々美の理性の防壁は、内側から完全に爆破された。
情報の客観的プロフェッショナルであるはずの彼女の知性が、この瞬間に致命的な機能不全(バグ)を起こす。
実は、映像のベースとなっている肉体は、「大沢美波」として処理され続けている舞のものであった。
顔だけを美波のものにすり替えた悪辣なディープフェイク映像。冷静に見れば、制服の細かな縫製の差異やサイズの不一致など、菜々美であれば看破できたはずの『矛盾点』は数多く存在した。しかし、親友が蹂躙されているという圧倒的な視覚と聴覚の暴力の前に、それらの違和感は一瞬で無意識の底へと埋没させられていた。
高IQゆえの圧倒的な状況分析能力が、この瞬間、彼女自身を極限まで追い詰める最悪のブースターへと反転する。
しかも画面には「LIVE」の文字があり、まさしく今現在の美波の姿である。
(美波が……美波が今、この瞬間も、男たちに顔を犯され、制服を汚され、助けを求めて泣いている……!)
ドクン、ドクン、と耳奥で血流が狂ったように暴動を起こす。
菜々美の額から冷や汗がぼろぼろと流れ落ち、純白のカッターシャツの襟元を濡らしていく。恐怖と焦燥で頭が割れそうになりながらも、彼女の知性は、映像の背景に映り込んだ「ある特徴」を正確に解析してしまっていた。
コンクリートの剥き出しの質感。配管の不自然な配置。そして、画面の隅に一瞬だけ映り込んだ、錆びついた旧式の鉄扉。
(この場所……知っている……。署の、地下の最下層にある、旧資材管理室だ……!)
点と点が一瞬で結ばれ、脳内で最悪の因果律が確定する。
美波と舞主任は、遠くへ消えたわけではない。自分が毎日通っている、この署の、足元の暗闇に囚われているのだと瞬時に察した。
「今、行かなきゃ……私が、助けないと……っ」
菜々美は震える足で、椅子を弾き飛ばすようにして立ち上がった。
彼女は完全なデスクワーカーであり、手錠を外す技術も、男たちを制圧する武力も持たない。けれど、そんな論理的な計算は、親友を救いたいという悲痛な友情の前に完全に消し飛んでいた。今ここで躊躇すれば、美波の心も肉体も、あの薄暗い密室の中で完全にスクラップにされてしまう。
ローカル端末にデータをロックしたことすら確認せぬまま、菜々美は部屋を出て廊下に飛び出した。誰もいない、薄暗い署の廊下。菜々美は内勤用のカッターシャツとタイトスカートの姿のまま、狂ったように走り出した。カツ、カツ、と、彼女自身のヒールが静まり返った廊下に悲痛な音を響かせる。その足が向かうのは、誰も近づかない、地下へと続く重厚な非常階段の扉だった。
彼女はまだ知らない。
自らが絶対的な事実だと信じ込んだあの美波の映像も、地下の座標を示す不自然な配管のノイズも、すべては彼女の「友情」と「高い知性」を精緻に逆算した藤田美沙が仕掛けた、完璧な罠であったことを。
自分は美波を救うための参謀として階段を駆け下りているのだという、強烈な自己欺瞞。その気高い美徳こそが、 自らを底なしの泥沼へと引き摺り下ろし、男たちの体液を処理する人形へと作り変えるための、最も頑丈な首輪になる。
自ら牙を抜き、脚を開く地獄の門番が待つ地下へ向かって、水野菜々美は破滅のタイムラインをただ一途に疾走していく。