ホームルームを終える号令がされ、皆威勢のない挨拶を終えた直後の教室。
俺はストンと椅子に尻を落とし、目立たない程度に大きく息を吐いてから机に顔を伏せた。
いま俺はとても疲れていた。
今日の昼休み、教室でダラダラとスマホを見ていた俺は、友達に捕まって部活関連の道具を運ぶ手伝いをさせられていた。なんでも、部室の移動があったらしい。
部活動の一環なのだから、昼休みではなく放課後にやれば良いものの、どうにもそうは行かない理由があるのだと言う。
まあその辺りの事情はあまり興味がない。何もすることがなかったし、手伝って感謝されるのも気分は悪くないので、喜んで伝わせてもらった。
だが想像以上に荷物の量が多く、しゃかりきに働かされた俺は、昼休み明けには体育の直後よりも疲弊していた。
「よう稔。昼休みはありがとうな」
コトン、と何か固い物を置かれた音がするのと同時に、声をかけられた。男の声だ。
俺は顔を上げる。このまま眠ってしまいそうだった。危ない。
声の主は、件の労働を強いてきた男、友人の佐原だった。
机の上にはジュースの缶が置かれていた。男はその缶を指差しながら言う。
「これはお礼ってことで...。足りないなら明日にもう一本」
「ああ、ぜひ明日も頼む。同じやつで良い」
少なくともジュース二本に見合う労力は使ったはずだ。
「はいよ。...大分疲れさせてしまったな。今日はすまなかった」
俺の顔を覗きながら言う。
「いや、実は昨日面白い小説を見つけて少し夜ふかししたんだ。お前のせいじゃないよ」
あまり申し訳なく思われても嬉しくない。言い訳のようにそう言う。
「そうか」
佐原はそう言うと、俺の前の席に座る。まだ何か用があるのだろうか。
「休憩してから帰るなら、少し話に付き合ってくれないか」
さっさと帰ってしまいたいところが本音だったが、放課後の雑談も悪くはない。付き合うことにした。
「いいよ。申し訳ないけど俺からは話題はないからな」
佐原は俺の言葉に軽く笑い、そしてスッと真面目な表情になる。
佐原は背が高く、顔も悪くない。こいつのこの顔は、男の俺でもおっ、と思わせられるような雰囲気がある。現状モテていないことが不思議なくらいに。
そんな佐原からなにを言われるのかと身構えていたが、話題は非常にくだらない内容だった。
「童貞卒業おめでとう、って、言われてみたくないか...」
あまりにふざけた内容に、俺はガクリと項垂れる。こいつは唐突に、恥ずかしげもなく下品な話を始めた。それも声を抑えずに。
佐原がモテない理由の一端を知れた気がした。
「そんなもん...」
俺は両手で顔を覆ってため息を付く。
「言われたいに決まってるだろう」
「そうだよな」
俺は佐原のふざけに、付き合うことにした。
「やっぱり挿れた瞬間だよな。正常位か、騎乗位」
「わかる」
佐原はいつも通り、特に声量を抑えることなく話すが、俺はそこまで羞恥心を捨てているわけではない。
隣の佐原に丁度聞こえる程度の声量で会話を続ける。
幸いにも俺と佐原は目線を交わさずに話をしている。これなら、周りからは佐原が独りで下ネタを言っている様に見えるだろう。
「でもなあ、自分の現状を鑑みれば、この夢は少なくとも高校在学中に叶えられそうにはないな」
こいつ今、夢って言ったな。そこまで渇望していることなのか。
でもまあ、話はわかる。俺は「そうだな」と肯定する。俺にも、この夢...希望は叶えられない。
そんな下らない話をしていると、ある女子に話しかけられた。
肩の辺りまで伸ばした明るい髪を揺らすこの女子は、同じクラスの澤柳英梨だ。
英梨は年齢の割に幼い顔立ちで、身長もどちらかというと低め。
誰とでも明るく接する性格の持ち主で、男女共に好かれるクラスの人気者だ。
「ふたりとも、何の話してるのー」
いつも通り常時テンション高めの英梨は、俺達にそう声をかけた。
というか、ふたりとも、か。
二人で会話しているように見えていたってことは、佐原の独り言に見せる作戦は失敗していたらしい。
わかりやすく恥ずかしがるのもそれこそ恥ずかしいので、なにも気にしていない様子を装って、俺は言う。
「男同士の会話だ。見て見ぬふりしてくれよ」
「男同士の会話って?例えば?」
英梨は佐原を見て言う。
例えを求められて困ったのか、佐原は俺に問う。
「ええと、例えば、なんだろうな?」
「映像作品についてとかだな」
「ああ...ああ!そうだな。ビデオは良いものだ」
「それに本...美術関係の書籍についてとか」
「うん。そういうのも自分のペースで読めて、アリだな」
英梨は両手をひらひらと揺らして、呆れたといった様子だ。
「声聞こえてたよー。童貞がなんとかって」
「...聞こえてたんなら無視しろよ」
「童貞卒業おめでとう、って言われたいんだ?稔も同じだって」
全部聞こえていたらしい。ということは、他のクラスメイトにも...。俺は羞恥心に頭を抱える。
隣を見ると、佐原も頭を抱えていた。お前も恥ずかしがるのか。
この様子を見ると、佐原はどこでも下ネタを恥ずかしげもなく言う人間ではなく、デフォルトの声量が大きすぎるだけなのかも知れない。
今度は声量を適切なレベルに落とした佐原が言う。
「俺の夢なんだよ」
何となく格好いいセリフだが、赤らめた顔が様になっていない。
英梨はぷくく、と笑いをこらえている。これは明らかに馬鹿にしているときの笑いだ。
「じゃあ私が言ってあげようかー?童貞そ...」
俺の方に向かってそのセリフを言いかける英梨を、佐原は手のひらで制する。
「ダメなんだよ」
「え、何が」
佐原は拳を握りしめて言う。
「本当に童貞卒業した瞬間に、童貞を奪った女本人に言われないと、ダメなんだよ」
「...」
英梨は硬直する。
「だよな!」
「お、おう」
勢いに押されて同意してしまった。
英梨は、椅子に座る俺を見下ろして、小さく「ふーん」と呟いた後申し訳なさそうに、しかし大きな声で言う。
「じゃあごめん!童貞卒業おめでとう、って言ってあげられないな!」
「わかってるよ!」
帰り支度をしているクラスメイトの連中が、なんだなんだとこちらに注目する。
英梨は俺達をいじめたかったのだろうか。
俺はまた机に伏せる。
「くそっ澤柳のやつ...でもかわいかったな」
佐原もまた、同時に顔を伏せた。