これはその中の、一つのお話
宿の暖簾をくぐり通された客室の畳に足を踏み入れる。少し肌寒い初秋の風が開け放たれた広縁から吹き込み彼の羽織るジャケットの裾をわずかに揺らした。お茶を淹れる彼の長い指先とほのかに薫る秋草の香りに胸の奥が小さく跳ねる。
七月の終わりだというのに山あいのこの宿はなぜか、すでに秋の気配をまとっていた。東京の喧騒から二時間ばかりの特急に揺られ、さらに送迎のワゴンで細い山道を登ってきた。窓の外を流れる緑は深く、蝉の声もどこか遠慮がちに響いている。彼が選んだ宿だった。付き合い始めて二か月、初めての旅行。温泉に行こうと彼が言い出したのは期末試験が終わった直後のことだった。
「涼しいね」
彼が窓辺に立ったまま振り返る。夏用の薄手のジャケットを羽織った肩は、いつもより少しだけ頼りなく見えた。彼の名前を呼ぼうとして、やめる。まだ名前を呼ぶのに慣れていない。口の中で転がすように、何度も練習したけれど実際に声に出すとなると、どうしても躊躇してしまう。代わりに私は小さく頷いた。
畳の感触が足の裏に優しい。実家では畳の部屋などなかった。床はすべてフローリングで、母は毎朝雑巾がけをしていた。埃一つ許さない、という母の目はいつも厳しかった。門限は六時。友達と遊びに行くときは必ず誰とどこで何時に帰るかを告げなければならなかった。携帯電話を持たせてもらえたのは高校二年生になってからで、それもGPS機能付きのものだった。大学に入って一人暮らしを始めたとき、最初にしたことは深夜まで起きていることだった。意味もなく、ただ夜更かしをした。誰にも怒られないという事実が、こんなにも心地よいものかと驚いた。
「お茶、淹れるね」
彼はそう言って部屋の隅に置かれたポットに手を伸ばす。長い指。いつも思う。ピアノを弾くわけでもないのに、どうしてこんなに綺麗な指をしているのだろう。指先が茶葉をすくい、急須に落とす。その仕草のひとつひとつが私の知らない時間を彼が生きてきたことを物語っている。私より三つ年上の彼は、大学院で建築を学んでいる。初めて会ったのは、大学近くの古い喫茶店だった。私がレポートを書くのに必死になっていたとき、向かいの席で彼が静かに本を読んでいた。目が合ったのは、偶然だった。偶然のはずだった。
広縁から入る風が、彼のジャケットの裾を揺らす。その拍子にほのかに香るものがある。秋草の匂いだった。宿の庭に咲いているのだろうか。それとも、彼が使っている柔軟剤の香りだろうか。いや、これは彼自身の匂いだ。以前図書館で隣に座ったときに感じた、あの匂い。木の葉が乾いていくときのような、静かで少しだけ寂しい匂い。
胸の奥が小さく跳ねる。それは彼の指先を見ているときと、同じ反応だった。体の内側のどこかずっと奥の方で、何かが震える。高校生の頃私はこの感覚を必死に抑え込んでいた。母に「みっともない」と言われたことがある。生理用品を買うのも、母と一緒でなければ許されなかった。自分の体のことなのに、自分のものではないような気がしていた。大学に入って、初めて一人でドラッグストアに行ったとき生理用品の棚の前で十分以上も立ち尽くしてしまった。誰も私を見ていない。誰も私を咎めない。それが、怖いくらいに自由だった。
自由。その言葉を噛みしめる。大学生になって、私はたくさんのことを解き放った。講義をさぼることも、夜中にコンビニに行くことも男の子の部屋に泊まることも。でも、本当の意味で解き放たれたのは体のことだった。自分の体が、こんなにも熱を持つものだということを私は二十歳になるまで知らなかった。正確には、知らないふりをしていた。触れることを禁じられていた。自分の指でさえも。
彼がお茶を差し出す。湯呑みを受け取るとき、指先が触れた。彼の指は少し冷たかった。私の指は、きっと熱い。体温が上がっているのが自分でもわかる。顔には出さないように気をつけながら、私は湯呑みに口をつける。ほうじ茶の香ばしい匂いが、鼻の奥に抜けていく。
「美味しい」
やっと言えた。声が少し掠れていた。彼は安心したように笑って、自分も湯呑みを持ち上げる。その仕草を私はじっと見つめてしまう。彼の喉仏が動く。お茶を飲み込むときの、わずかな動き。それが妙に生々しくて私は目を逸らした。広縁の向こう、山の稜線が夕暮れに染まり始めている。オレンジ色の光が、畳の上に長い影を落としていた。
七月の終わり。夏と秋のあわい。私の体も、同じあわいに揺れている。抑え込んでいたものが、解き放たれたものがどちらも私の中で渦巻いている。彼の指先を見るたび、彼の匂いを嗅ぐたび私は自分がどこまで行けるのか、試したくなる。でもまだ二か月。まだ、何も始まっていない。始めたいのか始めたくないのか、それさえもわからない。ただ胸の奥が跳ねる。その感覚だけが、今の私の真実だった。
彼が急須を置いて、私の方を向く。その目が優しすぎて、少しだけ痛い。私は湯呑みを両手で包み込み、湯気の向こうにある彼の顔をぼんやりと見つめ返した。