朝食の前にひと風呂と彼が言い出したのは、私がまだ布団の中でまどろんでいたときだった。この時間なら誰もいないだろう、と。私は少し迷ってから頷いた。体を起こすと、昨夜の名残が全身に薄く残っていてそれが少しだけ恥ずかしかった。浴衣を羽織り、タオルを手に部屋を出る。廊下はまだ静かで、私たちの足音だけが木の床に響いた。朝の空気は澄んでいて、夜とはまるで違う顔をしていた。
露天風呂は宿の奥、渡り廊下を抜けた先にあった。脱衣所には誰もいない。籠の中には、昨日の夕方に誰かが使ったらしいタオルが一枚だけ残されていた。私は浴衣を脱ぎ、タオルで体を隠すようにして磨りガラスの扉を開ける。途端に、湯の音が耳に飛び込んできた。ざあざあと絶え間なく注がれる音。白い湯気が立ち上り、視界を柔らかく包んでいく。空はもう青かった。夏の終わりの空だ。高いところに、うっすらと雲が流れている。
湯船は岩で組まれていて、縁には苔が生えている。誰もいない。当たり前のように誰もいない。彼の読みは当たっていた。私はタオルを畳んで縁に置き、静かに湯に足を入れる。熱い。でも熱すぎない。ちょうどいい。体がゆっくりと沈んでいく。肩まで浸かると、冷たい朝の空気が顔だけを包んだ。それが心地よくて、私は目を閉じた。湯気の向こうで彼が入ってくる気配がした。タオルを置く音。湯に足を入れる音。その音を、私は目を閉じたまま聞いていた。
彼が私の隣に浸かる。ふたりの肩が、湯の中で触れる。何も言わなかった。ただその触れ合いだけが、今の私たちの会話だった。しばらくそうしていた。湯の音と、鳥の声とときどき風が木の葉を揺らす音。それだけが世界に満ちていた。私は目を開けて空を見上げる。青い。昨日の夕暮れとは、まるで違う色。その色が私の体の内側にまで染み込んでくるようだった。
彼の手が、湯の中でそっと私の腰に回る。引き寄せられる。その力は強くも弱くもなく、ただ確かめるようだった。私はそれに逆らわず、彼の方へ体を寄せる。湯の中で肌と肌が触れる。冷たい朝の空気と、お湯の温もり、そして触れ合う肌の熱さがはっきりと交錯する。その三つの温度が、私の体の表面で混ざり合い内側へと染み込んでいく。彼の胸に背中を預けると、彼の鼓動が直接伝わってきた。速い。朝だというのに。いや、朝だからだろうか。
「ねぇ」
私は気づくとそう口にしていた。自分でも驚くほど小さな声だった。でも彼には届いている。彼の腕が、少しだけ強くなる。私は湯気の向こう山の稜線を見つめながら、続けた。
「ねぇ…もう一回」
柄にもなかった。こんなことをねだるなんて、自分でも思わなかった。でも言ってしまってから、後悔はしなかった。昨日の夜から私はずっと彼を求めていた。体だけではない。もっと深いところで、彼と繋がっていたかった。その欲求が朝の湯の中でまた顔を出したのだ。彼はしばらく何も言わなかった。その沈黙が、返事の代わりだった。露天風呂の岩の縁に手をついた。そしてゆっくりと、後ろから彼が入ってくる。
湯の中で、彼の形が私の内側に届く。お湯の抵抗と彼の圧迫が同時に私を包む。今までにない感覚だった。湯の中では、体が浮く。地面に足がついていない。その不安定さが、彼の存在をより強く感じさせた。私は湯船の縁に手をつく。指先で、苔の生えた岩を掴む。冷たい。でもその冷たさが、体の内側の熱をより鮮明にした。
彼が動き始める。湯が、彼の動きに合わせて小さく波立つ。その音が、湯の注ぎ口の音に混ざっていく。私は声を抑えられなかった。朝の静けさの中で、私の喘ぎが湯気の向こうへ溶けていく。誰もいない。誰も来ない。その事実が、私の声をさらに大きくした。遠慮がなかった。朝の光の中で、私は彼に抱かれていた。
彼の手が、私の腰から背中へそして肩へと移動する。その手のひらが、お湯に濡れて滑る。私の肌の上をゆっくりと確かめるように動く。彼の吐息が、私の耳元で深く刻まれる。昨夜と同じ。でも、朝の光の中で聞くその音はまた違う響きを持っていた。もっと生々しくて、もっと私の内側に直接届く。
彼の動きが少しずつ速くなる。湯の波が大きくなる。私は縁を掴む手に力を込めた。体の奥で、また波が来始める。昨日の夜から何度目だろう。数えるのをやめていた。そのくらい、私の体は彼に応え続けていた。今度の波は湯の中で来る。お湯の浮力と、彼のリズムと朝の冷たい空気。そのすべてが混ざり合って、私の体の芯を震わせる。
私は一度目の波に攫われる。湯の中で、体が大きく震える。縁を掴む手が滑りそうになる。彼がそれを支えるように、私の腰を強く掴む。二度目はすぐに来た。さっきよりも深く、長く。私はもう声も出せなかった。ただ湯の中で震えていた。彼もまた、私の中で果てる。その瞬間の彼の吐息が朝の空気の中に白く溶けていく。
しばらく、私たちはそのままの姿勢でいた。湯の音だけが、変わらず響いていた。彼がゆっくりと私から離れる。その瞬間、お湯が私の内側に入ってくる感覚に私は小さく息を漏らした。彼が私の隣に座り直す。ふたりで、湯船の縁に並んで寄りかかる。空はさっきより少しだけ明るくなっていた。朝が、確かに進んでいた。
「冷めるよ」
彼が言う。私は頷く。でもすぐには出たくなかった。彼の肩に頭を寄せる。その肩は、お湯に浸かって温かかった。私は目を閉じた。まぶたの裏に、朝の光が赤く滲む。この時間がずっと続けばいいのにと思った。でも、そう思えること自体がもう十分だった。昨日の夜から、私はずっと彼と一緒にいた。その事実だけで、私の体の内側は満たされていた。
やがて、彼が先に湯を出る。その音を聞きながら私はもう少しだけ湯に浸かっていた。指先がふやけていく。それさえも、今は愛しかった。