部屋に戻るとすでに布団は上げられていた。中居さんが私たちのいない間に片付けてくれたのだろう。畳の上には何も残っていない。昨夜の名残は、部屋の空気の中にだけ、うっすらと漂っていた。私は浴衣を脱いで持ってきたシャツとスカートに着替える。肌に触れる布の感触が、浴衣とはまるで違う。少しだけ体が窮屈に感じた。それは服のせいだけではないのかもしれない。
彼は窓際で着替えていた。背を向けたままシャツのボタンを留めている。その背中を、私はぼんやりと眺めていた。昨夜私の背中に回された腕。その腕が、今は普通にシャツの袖を通している。当たり前のことなのに、その当たり前が少しだけ不思議だった。彼が振り返る。目が合う。彼は少しだけ照れたように笑った。その笑顔が、昨夜のどの瞬間よりも近くに感じられた。
朝食は広間で取った。私たち以外に、二組の客がいた。老夫婦と若い家族連れ。誰も私たちを見なかった。それがとてもありがたかった。味噌汁の湯気が、朝の光の中で白く揺れている。私はゆっくりと箸を動かした。体の芯に、まだ少しだるさが残っていた。それは疲れではなく、もっと柔らかいものだった。彼が隣で黙ってご飯を食べている。その横顔を、私は味噌汁の椀越しにこっそりと見た。彼の横顔には、どこか名残惜しそうな色があった。その色が、私の胸の奥を少しだけ締めつけた。
部屋に戻って荷物をまとめる。大した荷物ではない。小さな旅行鞄ひとつ。それでも、昨夜の浴衣を畳んだとき少しだけ手が止まった。この部屋で起きたことを、この鞄の中に詰め込んで持って帰れるわけではない。でも、この浴衣には昨夜の私の匂いが染みついている気がした。私はそっと、その浴衣を部屋の片隅の一番上に置いた。
チェックアウトを済ませ、玄関を出る。送迎バスがもう停まっていた。小さなマイクロバスで、乗客は私たちだけのようだった。運転手が荷物を積んでくれる。その間、私は宿の建物をもう一度見上げた。木造の古い建物。昨夜、私たちはあの二階の部屋にいた。今はもう別の誰かが泊まる準備をしているのかもしれない。そう思うと、少しだけ切なかった。
バスの扉が開く。私は乗り込もうとして、少しだけためらった。乗ってしまえばこの旅は終わりだった。そう思うと、足が重くなった。そのときだった。彼の手が、さりげなく差し出された。私の手をそっと握る。その手のひらは温かかった。昨夜、私の体を撫でたのと同じ手。でも今はただ私を導くためだけに差し出されている。そのさりげなさが、かえって胸に沁みた。
「行こう」
彼が言う。私は頷いてその手を握り返す。バスに乗り込む。座席に並んで座る。彼の手は、まだ私の手を握っていた。バスがゆっくりと動き出す。窓の外、宿の建物が少しずつ遠ざかっていく。山の緑が、朝の光の中で輝いている。私は窓にもたれて、その景色を見ていた。彼の手の温もりがずっと伝わってくる。その温もりが、旅の終わりを優しく告げていた。寂しさと満たされ感と。その両方が、今の私の中にあった。バスは山道を下っていく。私は目を閉じた。まぶたの裏に、昨夜の部屋の行灯の光がまだ残っていた。