旅行から三か月が過ぎた。大学の講義もアルバイトもいつも通りに回っていて、日常は何事もなかったかのように私を包んでいた。キャンパスの銀杏はまだ青くて、図書館の冷房は少し強すぎて友達とのランチは楽しくて。何も変わっていない。でも、変わったものがひとつだけある。私の体だった。
その夜、私は自室の机に向かっていた。レポートの締め切りが近くて、パソコンの画面を睨みながらキーボードを叩いていた。深夜一時を過ぎたころ、ふと手が止まる。窓が少しだけ開いていてそこから入ってくる風がカーテンを揺らした。その風が、冷たかった。十月も半ばを過ぎた頃だ。夏の終わりはもう遠い。なのに、その冷たい風が頬に触れた瞬間私の体の奥で何かが反応した。
あの宿の朝の空気だった。露天風呂へ続く渡り廊下の冷たさ。湯船から立ち上る湯気の匂い。岩の縁に手をついたときの、指先の感触。それらが一瞬で蘇る。あまりに鮮明で、私は思わず背筋を伸ばした。パソコンの画面がぼやける。レポートの文字が、意味を持たない記号の羅列に見えた。私はキーボードから手を離した。椅子の背にもたれて、天井を見上げる。
日常に戻っても、体は覚えていた。彼の手のひらの温度を。彼の指が私の肌を辿った軌跡を。彼の吐息が耳元に落ちたときの、あの感覚を。忘れようとしていたわけではない。むしろ、忘れたくなかった。でもこんなにも鮮明に蘇るとは思わなかった。ふとした瞬間に、肌が疼く。胸の奥が小さな痛みを伴って熱くなる。それは寂しさとは少し違う。もっと体の芯に近いところから来る、切実な何かだった。
私は立ち上がって、部屋の灯りを消した。ベッドサイドの小さなライトだけを残す。オレンジ色の光が、部屋の隅に柔らかい影を作る。その光があの宿の行灯を思い出させた。私はベッドに座り、しばらくその光を見ていた。そしてゆっくりと、自分の体に手を伸ばした。誰かに見られるわけではない。この部屋には私しかいない。それなのに、指先が少しだけ震えた。
服の上から、そっと胸に触れる。彼の手を思い出す。彼の指はもっと大きくて、もっと確かででも優しかった。私はその記憶をなぞるように、自分の手を動かした。少しずつ少しずつ。あの夜の順番通りに。首筋から鎖骨へ。鎖骨から胸へ。彼が触れた場所を、私の指が辿っていく。体がその記憶に応えていく。肌が、熱を持ち始める。呼吸が浅くなる。
やがて、私は服を脱いだ。下着だけになった体をオレンジ色の光が照らす。鏡のない部屋だったけれど、自分の体がどんなふうに火照っているかはわかった。ベッドに横たわり、目を閉じる。まぶたの裏に彼が浮かぶ。彼の横顔。彼の腕。彼の背中。彼の指。私は自分の指を、彼の指だと思い込む。ゆっくりと体の中心へと近づけていく。
触れた瞬間、体が大きく反応した。あの夜から三か月。その間、私はずっと彼を体の内側に抱えていたのだ。指が動くたびに、あの宿の記憶が何層にも重なって蘇る。湯の中の彼の手。布団の上の彼の吐息。朝の光の中の彼の名前。それらがすべて混ざり合って、私の体の芯を震わせる。声を抑える必要はなかった。誰もいない。でも、抑えてしまった。それはまだ私の中に母の声が残っているからかもしれない。それとも、この快感が誰にも知られたくないものだからかもしれない。
波が来る。一人で迎える絶頂は彼と一緒に迎えたそれとはまるで違った。体の表面だけが震えて、内側はどこか冷めている。満たされているようで、満たされていない。私は体を丸めてその波が過ぎるのを待った。やがて、呼吸が落ち着く。汗ばんだ肌が冷たい空気に触れて少しだけ寒かった。私はベッドに潛り込んだ。布団を顎まで引き上げる。その布団は、あの宿の布団とはまるで違う。硬さも重さも、匂いも。でも目を閉じれば、あの夜の布団の感触が蘇る。彼の体温が隣にあったこと。
私はもう一度手を伸ばした。さっきよりもゆっくりと、確かめるように。一度では足りなかった。体が、もっと彼を欲しがっていた。指の動きに合わせて、記憶がまた蘇る。今度は後ろから抱かれた感覚。見えない彼の気配。腰を掴む手の力。耳元に落ちる吐息。それらを思い出しながら、私は自分の体を慰めた。今度の波はさっきよりずっと深かった。体の奥から、じんわりと広がっていく。彼の名前を小さく口に出していた。声にはならなかったけれど、唇がその形を作った。
二度目の絶頂のあと、私はしばらく動けなかった。天井のオレンジ色の光が、ぼやけて見える。目尻に少しだけ涙が滲んでいた。悲しいからではない。ただ、体が勝手に反応しただけだ。私はゆっくりと体を横に向け、布団を抱きしめるように丸くなった。あの夜のことを、もう一度だけ思い返す。露天風呂の湯気。彼の手のひら。送迎バスに乗る直前、さりげなく差し出された手。その温もり。それらをひとつずつ、胸の奥にしまい込んでいく。まるで、大切なものを箱に納めるように。
眠気が、少しずつ近づいてくる。体の熱はまだ残っているけれど、心は静かだった。私は目を閉じた。まぶたの裏に、あの宿の朝の光がまだある。障子越しの柔らかい白。その光の中で、私はもう一度だけ彼の名前を呼んだ。声には出さずに。そして、そのまま深い眠りに落ちていった。明日もまた、日常が始まる。でも、私の体のどこかには、あの二日間が確かに残っている。それは、誰にも奪えない私だけのものだった。