彼の部屋の扉をノックしたのは私からだった。金曜の夜、大学の講義が終わってから一度家に帰りシャワーを浴びてそれから電車に乗った。母には友達の家に泊まると言った。嘘ではなかった。正確には、友達ではないけれど。彼の部屋の前に立つまでに何度も引き返そうと思った。でも足は止まらなかった。むしろ、どんどん速くなっていった。私の体が彼を求めていた。
扉が開く。彼がそこに立っていた。いつもの部屋着。いつもの髪型。いつもの彼。なのに、その顔を見た瞬間私の体の奥で何かが弾けた。あの宿から帰ってきてからずっと燻っていたものが、一気に燃え上がる。彼も私を見て少しだけ驚いた顔をした。でも、その驚きはすぐに別のものに変わった。私がその変化を見逃すはずがなかった。だって、私自身も同じ変化を体の内側に感じていたから。
扉が閉まる。その音を聞くより早く彼の腕が私を抱き寄せた。強い力だった。あの宿で感じたどの抱擁よりもずっと強くて、ずっと切実だった。私はその力に息が詰まりそうになった。でも、それが心地よかった。日常の空間で彼が私を求めている。その事実が、私の全身を熱くした。彼の唇が重なる。急ぐようなキスだった。あの宿でのキスとはまるで違う。もっと荒くて、もっと貪欲でもっと正直だった。
彼の手が私の髪に指を絡める。少し痛いくらいに引かれて、私は顔を上げた。その隙に彼の唇が私の首筋へと移る。あの宿で覚えた場所を、彼は正確に知っていた。私がどこで震えるか。どこで声が出るか。彼の唇がそこに触れるたびに、私の体はあの夜の記憶を呼び覚まされていく。でも、記憶とは少し違う。もっと生々しい。もっと現実的。日常の部屋の匂い。彼のベッドの軋む音。窓の外の街灯の光。それらが全部、あの宿の幻想的な雰囲気を剥ぎ取ってもっと直接的な官能に変えていく。
私たちはベッドに倒れ込んだ。彼が上に覆いかぶさる。その重みが、あの宿の布団とは違う。もっと硬くてもっと狭くて、もっと私たちの体を密着させた。彼のシャツを脱がせる。私の服も、彼が乱暴に脱がせた。ボタンがひとつ飛んだかもしれない。でも、どうでもよかった。今は肌と肌が触れ合うことのほうがずっと大事だった。
彼が私の中に入ってくる。あの宿と同じ感覚。でも、もっと深い。もっと直接。彼の呼吸が私の耳元で深く刻まれる。その音を聞きながら、私は思っていた。日常の中で彼を感じるということが、こんなにも違うものだなんて。非日常の特別な場所で交わったときよりも、ずっとリアルでずっと私のものだった。この部屋は彼の生活の場所で、その真ん中に今私がいる。その事実が体の奥のほうでじんわりと熱を生んでいく。
彼の動きが激しくなる。あの宿ではどこか遠慮があった。私を壊さないようにという気遣いが。でも今夜は違う。彼は遠慮していない。私を求めている。その全部をぶつけてくる。私はその強さに身を委ねた。体の内側で、波が来る。あの宿で何度も感じた波とは違う。もっと鋭くて、もっと短くてでも何度も何度もやってくる。私は声を上げた。抑えなかった。この部屋には私たちしかいない。隣の部屋に聞こえるかもしれない。でも、それもどうでもよかった。
一度目の絶頂のあとも、彼は止まらなかった。むしろさらに深く私を抱いた。私も彼を離さなかった。あの宿で覚えたすべてのことを、今この部屋で再現しようとしているみたいだった。前から、後ろから上から、下から。体位を変えるたびに彼の呼吸が荒くなる。私の呼吸もそれに重なる。ふたりの呼吸が混ざり合って、この狭い部屋の空気を全部埋め尽くしていく。
二度目の絶頂のとき私は彼の名前を叫んだ。あの宿でも何度も呼んだ名前。でも今は、もっと近くでもっと確かに届く。彼が応える。その声を聞きながら、私は体の力が抜けていくのを感じた。彼も私の中で果てた。その瞬間の重みが、あの宿の夜よりもずっと重くてずっと私のものだった。
しばらく、私たちは動けなかった。彼が私の上に倒れ込む。汗ばんだ肌が、冷たいシーツに触れて心地よかった。彼の鼓動が、直接私の胸に響く。速い。私も同じくらい速い。その速さが、今の私たちの正直な気持ちだった。やがて彼が顔を上げる。私を見下ろして、少しだけ笑った。その笑顔に私は手を伸ばして触れた。汗で濡れた頬。でも、あの宿の朝の光の中の彼よりずっと近くにいた。
「明日、学校休みでしょ」
彼が言う。私は頷く。彼の指が、私の髪を梳く。その手つきはあの宿と変わらず優しかった。でも、その優しさの奥にまだ消えていない熱があった。彼の唇が、私の耳元に近づく。その吐息が私の名前を呼ぶ。そして、囁くように言った。
「今夜は寝かせないからね」
私はその言葉に小さく息を呑んだ。あの宿では、彼はいつも私を気遣っていた。無理しなくていいよと何度も言った。でも今夜は違う。彼が私を求めている。その全部を、私にぶつけようとしている。私は怖くなかった。むしろ、嬉しかった。彼が私をそういうふうに求めてくれることが。私は彼の首に腕を回して、引き寄せた。そのままもう一度キスをした。今度は、私から。長く深く。あの宿のどのキスよりも、ずっと私から。
彼の体が、また熱を持つ。私の体もそれに応える。窓の外では、街灯の光が変わらず灯っている。遠くで救急車のサイレンが聞こえる。日常の音。でも、この部屋の中は日常とは別の時間が流れていた。私は彼の腕の中で、ゆっくりと体を預けた。今夜は長い夜になる。その予感が、私の体の芯を震わせていた。でも逃げるつもりはなかった。むしろ、その長い夜を彼と一緒に過ごせることを嬉しく思っていた。