彼の言葉は嘘ではなかった。その夜、私たちは何度も体位を変えた。あの宿で覚えたすべてを、この狭い部屋で再現するように。いやあの宿を超えようとするように。彼の手が私の体を反転させる。仰向けだった私がうつ伏せにされる。そのまま後ろから。あの朝の目覚めと同じ形。でも、違う。あのときはまだ眠りの名残があった。今は違う。私の体は完全に目覚めていて、彼のすべてを受け入れる準備ができていた。
彼の腰が私に当たる。そのリズムはあの朝よりずっと激しかった。布団ではなくベッドの上。軋む音が違う。もっと乾いた音。その音が、日常の部屋で私たちが交わっていることを教えてくれる。私はシーツを掴んだ。指の先で、冷たい感触を確かめる。あの畳の感触とはまるで違う。でも、彼の体温は同じだった。彼の呼吸も。彼の名前を呼ぶ声も。
二度目の体位変更。彼が私を仰向けに戻す。今度は私が彼の上に跨る。あの宿の二日目の夜と同じ形。でも、あのときは私が主導していた。今夜は違う。彼の手が私の腰を掴み、動きを導く。私はそれに従う。自分で動くのではなく、彼に動かされる。その感覚が新鮮だった。誰かに委ねるということが、こんなにも深い快感につながるなんて。彼の手のひらの熱が、私の腰から全身へと伝わっていく。彼の目が私を見上げている。その視線が、私をさらに高みへと押し上げる。
三度目。今度は彼が座った姿勢で私を抱く。向かい合って、足を絡めて。あの宿の最初の夜私が彼の上に跨ったときと似ている。でも、あのときは私が動いていた。今はふたりで動く。彼の胸と私の胸が触れ合う。心臓の音がふたつ重なる。彼の腕が私の背中を強く抱く。その力が、私の体の芯を震わせる。私は彼の首に腕を回して、顔を埋めた。彼の匂い。汗とシャンプーと、彼自身の匂い。それが混ざり合って私の記憶に深く刻まれていく。
四度目。彼が私をベッドの端まで運ぶ。立ったまま。壁に手をつかされる。冷たい壁。でも、背中には彼の熱。その対比が私の感覚を研ぎ澄ませる。彼の動きが深くなる。立っているから、角度が違う。さっきまでとは違う場所を彼が突く。私は声を上げた。壁に響く自分の声。それさえも快感だった。この部屋に私の声が満ちていく。彼の名前が。彼への欲求が。
五度目。最後は彼が私を抱きしめたままベッドに横たわる。向かい合って、足を絡めて顔を近づけて。もう体力の限界だった。でも、彼はまだ私を離さない。私も離したくなかった。彼の動きはもうゆっくりだった。急ぐのをやめて、ただ確かめるように。私もそれに応えた。ゆっくりと。深く。彼の目を見ながら。彼の呼吸を感じながら。彼のすべてを、体の内側に受け入れながら。
絶頂は、もう数え切れなかった。あの宿で感じたどの波よりも、今夜の波は長く続いた。何度も何度も。波と波の間がほとんどなくて、私はずっと高みにいた。彼も同じだった。彼の体が何度も震えた。そのたびに彼の名前を呼んだ。私も呼ばれた。ふたりの声が混ざり合って、この部屋の空気を震わせた。やがて本当の最後が来た。彼が私の中で果てる。その瞬間、私は彼のすべてを感じた。体の奥に広がる温もり。彼の腕の強さ。彼の呼吸の速さ。そのすべてが、今の私のすべてだった。
しばらく、私たちは動けなかった。彼が私の上に倒れ込む。汗ばんだ肌が、シーツに吸いつく。彼の鼓動が直接私の胸に響く。速い。でも、だんだんと落ち着いていく。私の鼓動もそれに合わせるようにゆっくりになっていく。窓の外では、街灯の光がまだ灯っている。遠くで電車の音が聞こえる。終電だろうか。もうそんな時間だったのか。この部屋に来てから、どれくらい経っただろう。時計を見る気力もなかった。
彼が顔を上げる。私を見下ろして少しだけ笑った。その笑顔は、あの宿で見たどの笑顔よりも疲れていてでも、どの笑顔よりも満たされていた。私も笑った。声にはならなかったけれど、唇が自然に緩んだ。彼の指が私の髪を梳く。その手つきは、あの宿と変わらず優しかった。でもその優しさの奥に、まだ消えていない熱があった。
「すごかった」
彼が言う。私は頷く。言葉は要らなかった。でも、彼が言葉にしたかったのだろう。私も何か言いたかった。でも、うまく言葉にならなかった。代わりに彼の首に腕を回して引き寄せた。そのまま、しばらく抱き合っていた。汗が引いていく。体が冷えていく。でも、心は温かかった。この部屋で彼と過ごした時間が、私の体の内側にゆっくりと染み込んでいく。
やがて、彼がベッドサイドのライトを消した。部屋が暗くなる。窓の外の街灯の光だけが、カーテンの隙間から差し込んでいる。その光が、彼の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。私はその輪郭に手を伸ばした。指先で、彼の頬をなぞる。彼がその手を握る。温かい。あの宿の朝、送迎バスに乗る前に差し出された手と同じ温もり。でも、今はもっと近くにあった。
「また、行こうね」
彼が囁く。私は一瞬何のことかわからなかった。でも、すぐに理解した。温泉。あの宿。私たちが最初に交わった場所。彼は、またあそこに行きたいと言っているのだ。私は頷いた。暗闇の中で、彼にわかるように。そして小さく答えた。
「うん。今度は、もっと長く」
彼が笑う。その笑い声が暗闇の中で小さく響く。私もつられて笑った。ふたりの笑い声が、狭い部屋の中を優しく満たしていく。窓の外では、街灯の光が変わらず灯っている。遠くでまた電車の音が聞こえる。もう終電は過ぎたかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。私は彼の腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。彼の鼓動が子守唄みたいに聞こえる。あの宿の夜と同じ。でも、今夜はもっと近くにあった。もっと私のものだった。
眠りに落ちる前に私はもう一度だけ彼の名前を呼んだ。声には出さずに。唇だけで。彼がそれに気づいたかどうかはわからない。でも、構わなかった。私の体のどこかに今夜の記憶が刻まれた。それは、明日も明後日もずっと私の中に残る。あの宿の記憶と一緒に。そして、また新しい記憶が加わる日が来る。次の温泉旅行。その約束が、私の胸の奥で小さく灯っている。まるであの宿の行灯みたいに。私はその光を胸に抱きながら、深い眠りへと落ちていった。
Fin.
過去の体験を勢いに任せてしまいました。
感想あったら、嬉しいです。