※この作品はR-18です。

温泉旅行   作:姫宮 伽那

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Scene 2: 湯上がりの部屋飲み

大浴場から戻ると部屋の灯りはすでに落とされ、行灯の柔らかな光だけが畳を照らしていた。彼はすでに浴衣に着替え、窓際に座っている。その膝のすぐ隣に私は少し迷ってから腰を下ろした。迷ったことを悟られないように、なるべく自然に。けれど畳に沈む膝の位置は、私の意思とは裏腹に彼へと近づいていく。触れる寸前で止まる。その距離が、妙に生々しかった。

 

湯上がりの体はまだ熱を持っている。髪の毛先が湿って、首筋に冷たい雫がひとつ伝った。彼からは石鹸の香りがした。宿の備え付けの、無機質なはずの香りなのに彼の肌から立ち上るとまるで違うものになる。そこに、冷えた地酒の甘い香りが混ざり合う。中居さんが置いていった一升瓶の栓が、いま開けられたばかりのようにかすかに音を立てた。

 

「飲む?」

 

彼が盃を差し出す。私は頷いて両手で受け取る。指先が彼の指に触れそうで触れない。ほんの数ミリの隙間。その隙間に、部屋の空気が吸い込まれていくようだった。彼が酌をしてくれる。注がれる酒の透明な筋を、私はじっと見つめてしまう。湯呑みのときとは違う。今は、もっと近い。彼の手の甲に浮く血管まで見える。私の呼吸が、少しだけ浅くなる。

 

「ありがとう」

 

盃を口に運ぶ。冷たい。けれど喉を落ちていくうちに、内側からじんわりと熱が広がる。甘い。日本酒は苦手だったはずなのに、この一杯はなぜか美味しいと思えた。彼も自分の盃に酒を注ぎ、一口含む。喉仏が動く。その線を目で追ってから、慌てて視線を畳に落とした。いけない。見すぎている。

 

中居さんが襖を開ける。まるで私たちの呼吸を読んでいたかのようなタイミングだった。盆の上には、小さな器がいくつも並んでいる。川魚の塩焼き、山菜の煮物胡麻豆腐、焚き合わせ。どれも湯気が立っていて部屋の中に匂いが満ちていく。私はほっとしたような、少し残念なような気持ちで背筋を伸ばした。彼も同じだったのか、わずかに息を吐いてから盆を受け取る。

 

「お酒、進みますか」

 

中居さんが微笑む。私は曖昧に笑い返す。進んでいるのか、進んでいないのか自分でもわからない。ただ、盃を交わすたびに彼との距離がひとつずつ削られていくような気がしていた。触れそうで触れない。その繰り返しに、体の奥がじんと痺れる。母の声が遠くで聞こえる気がする。「だらしがない」「みっともない」「女の子なんだから」。その言葉たちは、もう私を縛らないはずだった。大学生になって、一人暮らしを始めて私は自由になった。自由になったはずなのに、こうして彼の隣に座ると昔の私が顔を出す。いけない、と思う。いけないことなんて何もないのに。

 

料理は少しずつ運ばれ私たちはぽつりぽつりと話した。大学のこと、彼の研究のことこの宿の庭に咲いていた花のこと。話している間も、私は彼の膝と自分の膝の間の距離を数えていた。あと指二本分。あと指一本分。彼が箸を置くたび、浴衣の袖が揺れてその下の腕が見える。日焼けしていない、白い腕。私はそれを触ってみたいと思った。触れたら、どんな温度なのだろう。きっと私より少し冷たい。

 

最後のデザートは、桃のコンポートだった。冷たくて甘くて、口の中でとろける。彼はそれをゆっくりと食べながら、窓の外を見ていた。山の稜線はもう藍色に沈んでいる。虫の音が、さっきより近い。夏の終わりと秋の始まりが、部屋の隅で静かに混ざり合っている。私の体も、同じだった。抑え込んでいたものと解き放たれたものが、どちらもここにいる。

 

中居さんが最後の器を下げる。そして、にこりともせずけれどどこか含みのある声で言った。

 

「ごゆっくり」

襖が閉まる。その音がやけに大きく響いた。酒瓶だけが、ぽつんと畳の上に残されている。冷えた表面に、行灯の光が細く反射している。彼はまだ窓の外を見ている。私はその横顔を見つめながら、自分の膝をほんの少しだけ彼の方へ寄せた。触れるか触れないかの距離。息が、浅くなる。部屋に残ったのは私と、彼と、冷えた酒の瓶だけだった。

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