酒瓶は思ったより軽くなっていた。彼が注ぐ。私が注ぐ。その繰り返しで、いつのまにか一合の半分以上が私たちの盃を巡っていた。盃が小さかったからだろうか。それとも、この部屋の空気がそうさせるのだろうか。いつもより、ずっと早く回っている。
「高校のとき、何部だったの」
彼が訊く。どうでもいいような、でも知りたいような声で。私は盃を置いて少し考えた。本当のことを言おうか、それとも少しだけ格好つけようか。でも酒の力か、それとも彼の前だからか素直な言葉が出てきた。
「帰宅部。というか、寄り道も禁止されてたから実質学校と家の往復だけ」
「え、それじゃあ青春してないじゃん」
「してなかったよ。してない。大学に入ってから全部初めて。一人暮らしも、深夜のコンビニもカラオケの朝までとかも」
彼が笑う。その笑い方が馬鹿にしているわけでもなくて、ただただ面白がっているわけでもなくて少しだけ優しかった。私はその笑顔が好きだと思った。言葉にしたら重くなるから、胸の内側にだけしまっておく。
「今、してるじゃん。こういうの」
彼が盃を傾けながら言う。こういうの、というのが何を指しているのか私にはわからなかった。旅行のことかもしれない。酒を飲んでいることかもしれない。二人でいることかもしれない。どの意味だとしても、私は頷くしかなかった。だってそうだから。今、私は青春をしている。二十歳になってやっと。遅すぎるくらいに。
盃を三度、四度と交わすうちに私の膝はもう彼の膝に触れていた。触れたことに気づいたのは、おそらく私の方が先だった。でもどけなかった。どけなかったというより、どけたくなかった。彼の膝は浴衣の上からでもわかるくらい、硬くて温かかった。私の膝はその熱を吸収してしまいそうなくらいに冷えていた。
「寒い?」
彼が訊く。私は首を横に振る。寒くない。むしろ、熱い。体の内側が。でもそれは口に出せない。彼は私の盃に酒を注ぎ足す。そのとき、彼の指が私の指に触れた。ほんの一瞬だった。でも、その一瞬で私の指先は電流が走ったように痺れた。彼は何も言わず、自分の盃に酒を注ぐ。その横顔を見つめながら、私は自分の心臓の音が彼に聞こえていないか心配になった。
「東京、暑いよね。七月」
「うん。でも、ここは涼しい」
「そういうところ、選んだんだ」
彼が少し照れたように言う。選んだ。この宿を。この部屋を。この時間を。彼が選んだのだ。私のために。それが嬉しくて、でも少しだけ怖かった。嬉しさと怖さが同じくらいで、私はどっちの顔をすればいいのかわからなくなった。だから、また酒を飲んだ。
瓶が空になる。最後の一滴を彼が私の盃に注ぐ。その手つきが丁寧で、まるで何かを捧げるみたいで私は目を逸らした。盃の中の透明な液体が、行灯の光を揺らしている。それを見ていると、自分が今どこにいるのかわからなくなりそうだった。現実なのか、夢なのか。いや現実だ。この畳の感触も、虫の音も彼の匂いも、全部、現実。
「私……」
口が勝手に動きかけて私は止めた。何を言おうとしたのだろう。わからない。でも、何か言いかけたことだけは確かだった。彼が私を見る。その目が、さっきよりずっと近い。いつの間にか私たちの顔の距離は盃一つ分もなかった。彼の睫毛の先まで見える。私は慌てて立ち上がった。
「待って」
声が裏返った。彼が少し驚いた顔をする。私は浴衣の襟を直しながら、早口で言った。
「もう一回、お風呂に入ってくる」
彼は何も言わなかった。ただ少しだけ笑って、頷いた。その笑顔が私の決心を試しているようで、許しているようでどちらとも取れた。私は足早に部屋を出た。廊下に出ると、冷たい空気が火照った頬に気持ちよかった。でも、胸の奥の熱は冷めない。廊下の突き当たり大浴場の暖簾が見える。その手前で、私は一度だけ立ち止まった。戻ろうか。戻って、何を言うつもりだ。わからない。でもこのまま部屋にいたら、私は何かを取り返しのつかないところまで持っていってしまいそうだった。
脱衣所で浴衣を脱ぐ。鏡に映った自分の体を見る。火照っている。酒のせいだけじゃない。母の声がまた聞こえる。「みっともない」。でも、その声はもう前ほど大きくはなかった。浴場の湯気が、私を包む。熱い。でもこの熱さがちょうどよかった。体の内側の熱と同じくらいで、少しだけ安心できた。湯船に浸かりながら私は天井を見上げた。木の梁が、暗い。その暗さが今は優しかった。
彼は、部屋で待っている。何を思って待っているのだろう。私が戻るのを、ただ待っているのか。それとも、私が戻らなかったらどうするのだろう。そんなことを考えながら、私は湯の中で自分の指を組んでみた。彼の指の温度を、まだ覚えている。一瞬だけ触れたあの冷たさを。もう一度、触れたい。今度はもっと長く。湯船の中で、私は小さく息を吐いた。その息が白くならなかったのが、少しだけ残念だった。