※この作品はR-18です。

温泉旅行   作:姫宮 伽那

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Scene 3: 暗がりの中の気配

 部屋に戻ると照明はすでに落とされていた。行灯の灯りだけが部屋の隅に小さな円を描いている。その光は畳の縁で止まり、部屋の大半は藍色の闇に沈んでいた。布団は二組、並んで敷かれている。中居さんが準備してくれたのだろう。その距離は、畳一畳分も離れていない。私は入り口に立ち尽くした。髪はまだ少し湿っている。湯上がりの体は、さっきよりずっと落ち着いていた。でもこの部屋の暗さがその落ち着きをゆっくりと剥がしていく。

 

 彼は、すでに布団の中にいた。仰向けに寝て、天井を見ている。私が戻ったことに気づくと、ゆっくりと体を起こそうとした。

 

「いいよ、そのまま」

 

 私の声は、思ったより静かだった。自分でも驚くくらいに。彼は少し迷ってから、また布団に横たわった。私は自分の布団へ歩いていく。足の裏に畳の目が当たる。冷たい。でも、その冷たさが今はありがたかった。布団の端をめくる。中は、ひやりとしていた。私はそっと体を滑り込ませる。浴衣の裾が、布団の中で広がる。仰向けになると天井の木目が行灯の光を受けて浮かび上がった。その模様を数えるように見つめる。心臓の音が、布団の中で反響している気がした。

 

 しばらく、何も起きなかった。彼の呼吸だけが聞こえていた。静かで、規則正しい。でもその呼吸が少しずつ近づいてくる。いや、私が彼の呼吸に意識を寄せすぎているだけかもしれない。目を閉じる。まぶたの裏に、さっき見た彼の横顔が浮かぶ。盃を持つ指。喉仏。笑ったときの目の端。全部が、暗闇の中で鮮やかに蘇る。

 

 そのときだった。布団と布団の間の空気が、わずかに動いた。彼の手がそっとこちらへ伸ばされる。指先が、私の腕に触れた。浴衣の袖口から出た剥き出しの皮膚。彼の指は、冷たいと思っていた。でも違った。温かい。いや、熱い。彼の指が腕の内側をゆっくりと撫で上げる。肩の方へ、上へ。その動きは確かめるようで、祈るようで私の皮膚の上をなぞるだけなのに、まるで私の内側に触れているみたいだった。

 

 私は息を止めた。止めてそれから、ゆっくりと吐いた。その吐息が暗闇の中でわずかに震えた。彼の指が止まる。私が拒んでいると思ったのだろうか。違う。違う。そう伝えたくて、私は自分の手を動かした。布団の上に置いた彼の手に、そっと重ねる。彼の指が私の指を掴む。優しく、でも確かに。

 

 彼の体温が、指先から手のひらへ手のひらから腕へ、腕から肩へと移っていく。まるで彼の熱が私の体の輪郭をなぞって内側に染み込んでくるようだった。呼吸の乱れが、暗闇の中に静かに響く。どちらの呼吸かもうわからない。彼の指が私の手を離れ、今度は髪に触れる。まだ少し湿った髪をすくうように。その手つきがあまりに優しくて、私は目を閉じた。閉じたまま、彼の気配を感じていた。

 

布団が、擦れる音。彼が少しだけこちらに寄ったのだ。畳一畳分あった距離が、半分になる。三分の一になる。彼の肩の熱が、私の肩に伝わる。触れているのはまだ指先と髪と、ほんの少しの肩だけ。それなのに体のすべてが彼に触れているみたいだった。母の声が、遠くで聞こえる。でもそれはもう言葉になっていなかった。ただの音。風の音と、区別がつかない。

 

彼が、私の名前を呼んだ。低い声で。初めてだった。ちゃんと、名前を。私の名前。その音が暗闇の中をゆっくりと渡ってきて、私の胸の奥に落ちた。私は返事の代わりに彼の方へ顔を向けた。行灯の光が、彼の輪郭を縁取っている。その光の中に彼の目があった。私を見ている。私だけを。

 

「怖い?」

 

 彼が訊く。私は首を横に振る。本当は少しだけ怖かった。でも、それ以上にもっと知りたいと思った。自分の体が、どこまで彼を受け入れるのか。どこまで私でいられるのか。彼の手が、私の頬に触れる。指先が頬の線を伝って、顎へ、首へ。その軌跡が、私の体の地図を書き換えていく。今まで知らなかった場所が、彼の指によって初めて私の場所になる。

私は彼の手に自分の手を重ねた。今度は、離さないように。彼の体温が私の体温と混ざり合う。どちらがどちらのものか、わからなくなる。呼吸の音だけが暗闇の中で、静かに確かに、響き渡っていた。

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