彼の腕が私の背に回る。引き寄せられる力は強くて、でもどこか慎重だった。まるで私が壊れやすいものだとでも思っているみたいに。その遠慮が愛しくて、私は自分から彼の胸に顔を埋めた。浴衣の襟元から彼の匂いがした。石鹸と、酒と、それから彼自身の匂い。木の葉が乾いていくときのような、あの静かな匂い。
重なる影が、行灯の光を遮る。畳の上に落ちていた私たちの影がひとつになって、それから闇に溶けていった。彼の手が私の浴衣の帯に触れる。ゆっくりと、結び目を解いていく。その手つきはさっき盃に酒を注いだときと同じくらい丁寧だった。帯がほどける音が、暗闇の中でやけに大きく響く。私は目を閉じた。閉じたまま、彼の手の動きを追う。襟が開かれ肩が露わになる。夜の空気が、剥き出しの肌に触れる。冷たい。でもすぐに、彼の唇がそこに落ちてきた。
耳元で、彼の吐息が深く刻まれる。温かくて少し湿っていて、その息が私の首筋から鎖骨へと伝っていく。ぞくりとする感覚が背骨を駆け上がり、私は思わず彼の肩を掴んだ。爪が立たないように、必死に加減する。彼が私の名前を呼ぶ。低い声で、何度も。そのたびに私の内側の何かが応えようとして、でも言葉にならない。
彼の体が私を覆う。皮膚と皮膚が密着する熱さに、視界がかすんでいく。行灯の光も天井の木目も、もう何も見えない。あるのは彼の重みと彼の熱と、彼の呼吸だけ。私はシーツを握りしめた。白いシーツが、手のひらの中でくしゃりと歪む。その感触だけが、私がまだここにいることを教えてくれる。
彼がゆっくりと、私の中に入ってくる。ただ、ただ、圧倒的な存在感。彼が私の内側にいる。体の一番深いところに。その事実が、頭のてっぺんから爪先までを痺れさせる。私は息を呑んだ。声が出なかった。代わりに、彼の背中に回した腕に力がこもる。彼も息を止めている。私たちはしばらく、そのままでいた。動けなかった。動いたら何かが壊れてしまいそうで。
やがて、彼がゆっくりと動き始める。そのリズムは、波のようだった。寄せては返す静かな波。私はその波に身を委ねる。母の声も、門限も禁止された言葉も、全部が遠ざかっていく。遠ざかって消えていく。代わりに満ちていくのは、彼の名前だけ。彼の声だけ。彼の体温だけ。
「気持ちいい?」
彼が耳元で訊く。私は頷く。頷くのが精いっぱいで、声は出なかった。彼が少しだけ笑う気配がして、それからもっと深く私を抱きしめた。腕の力が強くなる。彼の鼓動が、私の胸に直接響く。速い。私と同じくらい速い。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。彼も同じなのだ。私と同じ場所にいるのだ。
リズムが少しずつ速くなる。彼の呼吸が荒くなる。私の呼吸も、それに重なっていく。どちらのものかわからない呼吸が、暗闇の中に満ちていく。彼が私の名前を呼ぶ。今度はさっきよりずっと近くで、切実に。その声が私の体の芯を震わせる。私は彼の背中に爪を立てた。もう加減できなかった。彼が私を抱く腕に、さらに力がこもる。
波が、高くなっていく。私は何かを掴もうとして、シーツを握りしめる。握りしめたシーツの感触と、彼が名前を呼ぶ低い声だけが世界を満たしていく。他のすべてが遠のいて、彼と私だけが残る。体の奥の方がじんじんと熱くなる。何かが近づいてくる。初めて感じる、その予感に私は少しだけ怖くなって、彼の名を呼んだ。生まれて初めてちゃんと、声に出して。
「……っ」
彼が応える。その声を合図にしたように私は深いところへ沈んでいく。目の前が白く弾けた。体の内側で、何かがほどけていく。長い間固く結ばれていたものが、ゆっくりとでも確かに。私は声を上げていた。自分でもわからない声で。彼の名前を呼んでいた。何度も。彼がそれに応えて、私を強く抱きしめる。彼も同じ場所にいた。
やがて、波が引いていく。ゆっくりと静かに。私は彼の腕の中で、荒い呼吸を整えながら天井を見上げた。行灯の光が、ぼやけて見える。涙が出ていたことにそこで初めて気づいた。悲しい涙ではなかった。ただ、体の内側に溜まっていたものが全部流れ出ていくような。彼が私の髪を撫でる。何も言わずに、ただ、撫でる。その手のひらが心地よかった。
深い心地よさの中に沈んでいく。私は彼の胸に頬を寄せた。彼の鼓動が、まだ少し速い。その音を子守唄のように聞きながら、私は目を閉じた。外では虫の音が続いている。夏と秋のあわいで、鳴き続けている。私もそのあわいにいた。抑え込んでいた私と、解き放たれた私。そのどちらも、彼の腕の中ではひとつだった。