私の目の前には手足を縛られて後輩と同級生にペチペチと叩かれてる女たらしな男がいる。
名前は比企谷八幡。
私の婚約者。
彼を婚約者と言える様になったのは割と最近。
彼と婚約するためには越えるべきハードルがいくつもあって、私と彼はそれを一つずつ越えていった。
彼は臆病で、卑屈で、そして、誰よりも優しい。
私はそんな彼が好きだけれど、キスをしたのは2年の文化祭の時。付き合ってキスをするだけで一年半掛かっている。この調子ではその、、、そういうことをするのは10年後とかになってもおかしくなかった。
これほどまでに進みが遅い理由は、彼が私の後を追っているということに他ならない。
私は彼が劣っているとは微塵も思っていないけれど、彼は私に追いつこうとしている。私がした事に対しては同じ様にやり返してくる。それは、彼がどうしても私と対等でいたい、私の横にいたい、そう思ってくれる証拠でもある。
それは凄く嬉しいことだけれど、私たちが前に進む為には、彼が私を追うだけでは足りない。私と同じくらい、彼には私に依存してもらわないといけない。そうじゃなければ、彼は遠からず壊れてしまう。
キスは私からお願いした。多分これがギリギリ。
一夜を共にすることに関しては彼から言ってもらわなければならない。
私がお願いしたら彼はまちがいなく了承する。拒否しない。私は彼と一夜を共にできる。けど、それまで。彼は私の『お願い』を私の『ワガママ』だと思ってしまうだろう。
『比企谷八幡が雪ノ下雪乃をダメにしている』
彼の臆病さと卑屈さと、そして優しさは、必ずこの答えに辿り着いてしまう。辿り着いてしまったら、私が何を言っても彼は考えを曲げないだろう。
『比企谷八幡が雪ノ下雪乃から離れる』
という決断を、彼は必ず実行するはず。そして、その決断は彼自身に大きな傷を付けることになる。彼が中学で受けたトラウマとは比較にならない程の傷を、私が付けてしまうことになる。
だから、キスをしてからの行動は慎重に慎重を重ねた。
彼が前に進んできたら、私も前に進む。
ただし、私が前に進む距離は以前よりも遅い。
彼が追いついてしまうように、歩幅を合わせていく。
修学旅行を経て、ついに一夜を共にする直前まで来た。
親を説得し、必ず年明けの挨拶までには紹介すると約束し、一人暮らしの権利を得た。私と彼が帰る場所は用意できている。
けど、ここから進めなかった。
奉仕部でも、
彼の部屋でも、
私の一人暮らしの部屋でも、
彼のあと一歩が進まなかった。
彼は進もうとしてくれてる。
けど、どうしてもあと一歩が出ない。
私にも理由が分からなかった。
なぜ、彼がここまで頑なに進まないのか。
一色さんが奉仕部に依頼に来た。
生徒会長になりたいと。
比企谷くんは何も言わない。おそらく、彼は私が一色さんを成長させるのだと思ってるに違いない。事実、私はそうするつもりだった。だから、雪ノ下雪乃とは違う選択を彼に見せた。私達が生徒会に入る、と。
彼は考えるはずだ。なぜ私達が生徒会に入ったのかを。
そして、自分が生徒会で何をすべきかを。
生徒会に入り、私と彼に物理的な距離ができた。これはそれ程問題じゃない。学校で距離ができようが、家に帰ればいくらでもイチャイチャできるのだから。
しかし、彼は違う。彼は私に追いつきたい。雪ノ下雪乃に釣り合うと、周りに知ってもらいたい。それができなくなった時、何かしら無理が出てくるはず。彼の弱さが絶対出てくる。私はそれを絶対に見逃さない。
それから少し経ち、彼は副生徒会長として仕事をしっかりこなしていた。彼は自身を無能というが、とんでもない。彼がいるからこの生徒会は上手く機能している。
しかし、私が見たいのは彼の器用さではない。彼の弱さだ。
クリスマスイベントの話が舞い込んできた。
本来、他校からの急な応援依頼などデメリットの方が高いので却下すべきだけど、容認した。比企谷くんと更に距離を取るために。
そして、見つけた。
折本かおりさんを。
私にスイパラでの一部始終の話をしてくれた一色さんと由比ヶ浜さんは気付いてないようだけれど、比企谷くんにしては行動が明らかにおかしい。
比企谷くんは中学のトラウマを既に克服したと私に話していた。事実、私以外の女性関係について彼はかなりドライだ。私はそれを最初安心していた。馬鹿正直に浮気の心配はなさそうだと。
明らかに美人な私の姉を無視するし、生徒会メンバーについても必要以上に距離を詰めない。けれどそれは、克服できていないということだ。克服できていないから、距離を取らざるをえなかっただけだったということだった。
トラウマの張本人である折本さんに対して、比企谷くんは罪滅ぼしの名目で強引に距離を取ろうとした。そして、結局は距離を取ることができず、有耶無耶のままそれを受け入れてしまった。本来の彼なら無理矢理にでも関係を断ち切ってるはず。つまり、折本さんに対してのトラウマが残っていたからできなかったということだ。
やっと、見つけることができた。
私は何とかして折本かおりさんと接触することができた。クリスマスイベントに向けて私と彼が別行動をとっていた事が幸いした。私は折本かおりさんに出来るだけ早く『今の彼をちゃんと見て欲しい』と伝えた。
一色さんと由比ヶ浜さんの話を聞く限り、折本さんは比企谷くんの事を気付きかけてる。だけど、彼女からしたら比企谷くんは大事な存在じゃない。後回しにされるだろう。だけど、私達には時間がない。
クリスマスで忙しいというのに、折本さんは了承してくれた。そして、私のことも黙っててくれると。
彼女は私のお願いを聞くため、イベントに途中参加までしてくれた。比企谷くんをちゃんと見てくれるために。
私は彼女の為にも校内の仕事を全力で終わらせて、クリスマスイベントを手伝った。
クリスマスイベントの終わり。
折本さんから『比企谷と最後に話すから見ていて欲しい』と言われた。おそらく彼と話すのはこれが最後になるからと。
折本さんと比企谷くんの最後の挨拶は、とてもアッサリしていた。私からのお願いなんて何も言わずに、ただの同級生として比企谷くんとの関係を終わらせてくれた。
彼女の頑張りは無駄にはしない。
彼女が壊してくれた過去の関係を踏み越えて、
私と彼は今日、新しい関係に進んでいく。
クリスマスが明けた。
私はとても浮かれていた。
彼と一夜を共にした。
それだけじゃない。結婚の約束までしてくれた。
てっきりエッチしようくらいの進み方だと思っていたけれど、何段階も飛び越えた成果だった。
婚姻届は何枚も書いた。何回も婚姻の真似事をした。
何回も彼と身体を重ねた。何回も何回も。幸せだった。
お義父様とお義母様にもサインを貰った。
けれど、私は幸せに呑まれていて気づかなかった。
何故、彼が何段階も飛び越えた結婚の約束なんて、
あり得ないことをしていたのかを。
それに気付いたのは、お母さんが待つ応接間の前に来た時だった。彼の様子がおかしかった。地に足が付いてない。確かに彼は臆病だけれど、大事な時はこんな事にはならない。
そして、思い出した。元々、私は彼に追いついてもらうだけじゃなくて、私が依存してしまうほど彼が私に依存してもらう為に動いていたんだ。お互いが高め合う、そんな関係を。
彼はトラウマを乗り越えた。その勢いで、私は彼を急かしてしまった。彼は自分の劣等感を覆い隠す為に、結婚なんて大見得を切ってしまった。私が、彼にそう言わせてしまったんだ。
失敗した。お母さんは嘘を嫌う。今回は結婚の報告じゃない。トラウマを克服した報告までしかできない。そして、それは比企谷くん自身が気付いていないし、それを私が伝えてしまっては意味がない。
今回は私が勝手に比企谷くんを引き連れて結婚したいと言い出した事にしよう。結婚報告は嘘になってしまうけれど、トラウマ克服までは年明けの挨拶までにするという約束自体は守ってる。たぶん、これなら猶予をくれる筈。お母さんなら分かってくれる。
比企谷くんには今日は黙っててもらうしかない。今日は比企谷くんはただの付き添いということになるのだから。それしか、今日のお母さんを納得させる方法はない。
年が明けた生徒会室。
案の定、比企谷くんの様子がおかしい。
私と目を合わそうとしない。
年明けの挨拶での行動の意味に気付いてしまったんだろう。
比企谷八幡と雪ノ下雪乃を明確に比べてしまっている。
このままだと今日は一緒に帰れない。何かしら理由をつけて、一緒に帰るのを断り、そして家で『比企谷八幡は雪ノ下雪乃の離れるべき』という結論に辿り着いてしまう。私達の関係が終わってしまう。
今、決めるしかない。
私は比企谷くんを絶対に手放したくない。
比企谷くんは話してる最中、
私と目を合わせてくれなかった。
こんな事は初めてだった。
私は彼が私を見る目が好きだ。
色々な感情が合わさった、あの優しい目が好きだ。
もしかしたら、もう、比企谷くんは私と離れる覚悟が決まっているのかもしれない。私がやっている事は無駄なことかもしれない。
それでも諦めきれなかった。
彼と過ごす幸せな未来を諦めきれなかった。
彼の顔を無理矢理掴んだ。
けれど、それでも彼は目を閉じていた。
明確な拒否の印だ。これ以上やっても彼は…………
「比企谷くん。私の目を見なさい。」
私は、何を言ってるんだろう。
彼はこんな強制は望まない。
こんなのは私じゃない。
「比企谷くんは私を幸せにしなさい。」
「その代わり、私が必ず比企谷くんを幸せにするわ。」
「比企谷くんが不幸になれないくらい私が幸せにしてあげるから、ずっと私のそばで私を幸せにしなさい。」
私から言ってしまったらダメなのに。
これは、
彼から言ってもらわなきゃダメなことだったのに。
これが、彼との最後の会話になってしまうだろう。
ダメになってしまった雪ノ下雪乃を、
こんな弱くて、何も出来なかった雪ノ下雪乃を、
比企谷八幡は雪ノ下雪乃とは認めてくれない。
これで、私達の関係は、終わってしまった。
彼からの言葉を聞きたくなかった。
サヨナラを聞きたくなかった。
だから、最後に彼と口付けをした。
これで、ホントにおわり。
後は彼が全て終わらせてくれる。
『俺が雪ノ下を絶対幸せにする。俺は誰にも負けないくらい雪ノ下を幸せにする。だから、雪ノ下は俺を幸せにしてくれ。』
彼からの言葉は、私と共に歩んでいくというものだった。
私のダメな部分も、弱い部分も、全部まとめて共に生きていこうという、そんな言葉だった。
そして、やり直すかのように口付けをされた。
そうか。
彼も、私の弱さを見つけたかったんだ。
私が彼の弱さを探していたように、彼も私の弱さを探してた。依存してもらうための、弱さを探してくれていた。
お互いに弱さを見つけようとしてただけだった。
私達は、やっとお互いを見つけられた。
お互いを依存させられることが出来た。
これで胸を張って、
お母さんに比企谷くんを婚約者だと報告ができる。
もう、比企谷くんは何も心配いらない。
彼ほど素晴らしい人はいない。
だって、私が彼を幸せにしているのだから。
そう思っていたのだけれど、彼の本性は女たらしだった。
鶴見さんからは彼から口説かれてるとクレームが来てるし、昨日の家族の食事会ではお母さんも姉さんも比企谷くんをベタ褒めして、姉さんに至ってはキスまでしていた。そして一色さんにも口説き文句を言っていた。
もちろん、これらは私を起因とした発言や行動なのは分かってる。分かってるけれど、こんな事を不特定多数にされたら私だって嫉妬してしまう。
比企谷くんは姉さんから合気道を少し教えてもらっていたと言っていた。だとしたら私も教えてあげなきゃいけない。ただし、私は姉さんより優しくないわ。