夜の十一時を過ぎた頃、スマートフォンがブルル、ブルルと振動した。
やまないその揺れに気付いた
「もしもし」
『円花? まだ起きてたか』
「はい」
聞くだけで全身がしびれそうなほどの魅惑の声。
電話越しだと妙にセクシーに聞こえるその声の主は、円花がこの春からお付き合いしている相手。つい数カ月前まで「先生」と呼んでいた人だ。
◆◇◆◇◆
「里田先生の電話の声は、心臓に悪いです」
昼下がりのカフェでアイスカフェモカを飲みながら、円花は呟いた。今は春から夏に移り変わりつつある暖かい季節なので、カフェモカの冷たさが喉に気持ちいい。
円花と向かい合って座っていた里田
「嫌な声ってことか?」
「えっ!? ちっ、違います! えっと、その……電話だと、こうして普通におしゃべりをしているときよりも低く聞こえるので、とっても緊張します……あの、声も格好いいから……」
頬を染めて照れる円花は口元をもごもごさせながらそう言うと、またアイスカフェモカに口を付けた。
円花と昇治は、数カ月前までは高校の生徒と教師という関係だった。しかし円花の高校卒業式の日に二人は想いを伝え合い、晴れて恋人同士となった。
その卒業式から約二カ月。今日は連休の二日目で、二人はのんびりと幸せなデートを満喫していた。
大学生になった円花は、もう昇治の教え子ではなく立派な恋人なのだが、憧れの「里田先生」が自分の恋人であるということにまだ慣れていない。そのため、週末にかかってくる昇治からの電話に出るたびに、彼のその色気たっぷりの声に心臓をドキドキさせてばかりだった。
「そうでもないだろう」
「そうでもあるんですっ! でも……」
「なんだよ」
「あの、電話もなんですけど……こうして生の声を聞いているほうが、やっぱり緊張します」
電話で彼の声を聞くたびに、電話ではなくじかにその声を聞きたいと思う。けれど実際にこうして会って話していると、声だけでなく目に見える昇治のすべてが格好よくて、鼓動がずっとずっと高鳴ってしまう。目の前にいる昇治を独り占めできているのだという事実だけで、喜びが爆発してしまいそうだ。
「そうか。早く慣れろよ」
昇治は口角をふっと上げて小さく笑うと、円花のひたいを人差し指でつん、と軽くたたいた。
恋人同士なのだからもっと堂々としていればいいのにと、円花よりも人生経験を積んでいる昇治は思う。しかし恥じらいを隠しきれずにどぎまぎとする、まだまだ青臭い円花もそれはそれでかわいく思う。
「むぅ~。里田先生、子供扱いしないでください」
「そう言うなら、その〝先生〟呼びをやめろ。俺はもう、お前の先生じゃない」
「でも……なんて呼べばいいんですか」
「普通に昇治だろ」
「だ、駄目ですっ! 呼び捨てなんてっ!」
「君付けでもいいけど? なんなら、様付けで呼ぶ? 昇治様、つってな」
慌てふためく円花が面白いので、昇治は意地悪な笑みを浮かべた。
他人からの呼ばれ方になどたいしてこだわりはないので、たとえ様付けで呼ばれても特に抵抗感はない。円花にそう呼ばれるなら、まるでメイドが主人を呼ぶようで悪くないとも思う。
ただ、周囲の目のことを考えると、「先生」呼びだけはいただけない。今はもう違うが、わずか二カ月前までは、たしかに教師と生徒という関係だったのだ。少しでも弱点をさらせばネットリンチが容易に行われるこんなご時世に、「生徒に手を出した教師」などと知られれば、自分の社会的首が確実に飛ぶ。
円花の在学中に手を出すようなことは一切しなかったが、彼女の高校卒業直後に付き合い始めたことに、昇治は年上の大人として少なからず負い目を感じていた。
「そんなの、もっと無理です!」
「じゃあ頑張って、普通に名前で呼んでくれないか」
砂糖もミルクも入れていないブラックのコーヒーを飲みながら、昇治は切なそうな視線を円花からそらした。
ぱっちりとした二重で切れ長のその目は、正面から見ても斜めから見ても、その力強さに引き込まれる。円花は昇治の整った横顔をちら、ちらっと見ながら小さな声を出した。
「しょ……昇治、さん」
「あと、その丁寧語もやめてくれ」
「でも……」
円花が遠慮しようとすると、昇治は円花のほうへ視線を戻した。真面目な眼差しで円花を見つめ、円花が心臓に悪いと言った魅惑ボイスを低く響かせる。
「円花」
「わ……わかった」
「上出来だ。次に〝先生〟呼びと丁寧語を使ったら、お仕置きな」
ようやく思いどおりの距離感になりそうなので、昇治は満足げに笑った。
昇治に、円花を調教しているつもりはない。しかし、異性との交際経験は少ないであろう未成熟な彼女を少しずつ自分好みの方向へ導き、磨き上げていくのはなかなか面白い。馬鹿正直にこちらの言うことに従うのではなく、最初はいじらしく抗おうとするが、根が素直で純真なので、最終的には昇治の言うとおりにしているところが、健気で愛おしく思う。大学に入学して妙な男たちに目をつけられる前に自分のものにできてよかったと、昇治はしみじみ思った。
「お仕置きって、何をするんで……じゃなくて、すっ、するの?」
「そうだな。夜にするお仕置きだな」
「っ……!」
昇治が遠回しに卑猥なことを言うと、円花は顔を真っ赤にさせた。その意味がわからぬほど、子供ではない。
「そ、外でそういうことを言うのは……駄目っ!」
「円花が呼び方と話し方に気を付ければしねぇよ」
あくまでも大人の余裕を見せつける昇治は、ますます円花の反応を楽しんで口の端をにやりと持ち上げた。
「そろそろ行くか」
腕時計で時間を確認すると、昇治は円花をうながした。円花は頷くと、自分のカップと昇治のカップを持って、下げ台に持っていく。気を利かせた彼女に昇治は「さんきゅ」と声をかけ、二人はカフェを後にした。
「スタンドライトだったか、欲しいのは」
外に出ると、気持ちのいい風が道を通り抜け、まるで真夏のような日差しが燦々と降り注いでいた。
円花と昇治は、レトロな雑貨や洋服屋が多いとされる、懐古主義的な商店街を目指して歩きだした。そこはターゲット層に若者を想定している店が多いらしく、どの店も、取り扱っている品物は一昔前の古さをただよわせながらも、思わず部屋に置きたくなるようなこじゃれたものばかりがあると評判だった。
「はい……じゃ、なくてっ……えっと、うん」
「どういうのがいいんだ?」
「向きは変えられなくていいから、かわいいのがいい……かな」
高校を卒業して、四月から円花は大学生活を始めた。実家から通っているので、あまり大きな生活の変化というものはないが、自室を少しでも大人っぽくしたいと思うようになり、まずは新しい照明器具を買おうかと思った。
そこで、おしゃれな品が多いというその商店街を調べて見つけ、昇治とのデートも兼ねて足を運んでみたのだった。
「でも急ぎじゃないから、とりあえずぶらぶらしたい……な」
丁寧語ではない話し言葉を、円花はぎこちなく紡ぐ。先ほどのお仕置きという脅しを恐れているらしく、その言葉遣いは常にたどたどしい。
その初々しいぎこちなさをかわいく思い、昇治は円花をほほ笑ましく見つめてからその手を取り、自分の手とからめた。
◆◇◆◇◆
――約二カ月前。
穏やかに晴れた卒業式の日。円花が高校の制服を着るのも、その日が最後だった。
体育館で行われた卒業式が終わり、胸に花を付けて拍手の中を堂々と歩いて退場していく卒業生たちを、昇治は少しだけ目を細めて見ていた。
昇治の母校の私立一貫校ほどではないが、広いグラウンドときれいな校舎という良い環境に恵まれたこの公立高校を、今年もまた、多くの生徒たちが巣立っていく。
昇治は大学卒業後にこの高校に赴任し、教師生活三年目を終えようとしていた。自分が高校を卒業したのは七年前で、まだ十年も経っていない。どちらかというと、自分はまだ卒業生の側に近いと言えるだろう。それなのに、卒業生たちに対してしっかりと感慨深さが湧き起こるのは、自分の中に教師心というものが育っている証拠だろうか。
だが、今回はそれだけではないかもしれない。なぜなら、たった一人だけ、どうしても特別に思えて仕方のない生徒が卒業するからだ。