最初に、口を塞がれた。
次に、杖を落とされる。
魔法使いである私は、それだけで何も出来なくなった。
頭上から落ちてきたスライムは、迷うことなく口を塞ぎにくる。
詠唱に集中していた私は、驚き、慌てて、咳き込んだ。飲み込みかけていたスライムの一片は、幸運にも口の中から飛び出していく。
口を塞がれたらおしまいだ。
呪文を紡げない魔法使いが、何の役にも立たないのは、自分が一番よくわかっている。せめて、口は守らないと。口元を手で覆おうとした直前、スライムに手首を縛られ、腕が引き戻される。
一瞬の躊躇い。
「助けて」そう叫ぶだけの一瞬を、私は自ら手放してしまった。
だって、パーティーの中で一番強いのは私だ。たかだかスライム一匹に醜態は晒せない。出来損ないの魔法生物。学生が授業で作るような半端物。脅威というには、あまりに矮小だった。本来なら対処の必要すらない。しばらくすれば、魔力が枯渇して形を保てなくなるだろう。
野生化したスライムが生き延びるには、他所から魔力を奪うよりない。
手っ取り早いのは生き物の命。その獲物の殆どは、ネズミのような小動物。次に家畜と。肥大化するうちに、人の子どもや、力の弱い女性まで。
じゃあ、私は?
透けるような銀の髪。華奢な体躯に、傷の一つもない白い肌。繊細な指先は細く伸びて、今にも折れてしまいそう。「白雪姫」それが学院でのあだ名だった。
「あっ……くっ」
足首を取られ、体が前のめりに倒れ込む。
口元や、腕にばかり気を取られていた私は、強かに胸をぶつけて目を回す。肺から空気が押し出され、言葉をなくしている内に、スライムはあっさりと口元を覆ってしまった。一つ、二つ、三つ。時間にして、何秒もあったかどうか。突然のことに対処の遅れた私は、あっさりと無力化されていた。
ここにきて、ようやく理解する。
こんなスライムにも知能があること。
野生化することも稀なのに、ここまで生き延びるなんて。知らない。聞いたこともない。本にも書いてなかった。
女で、子どもで、魔法使い。
スライムからすれば、私は極上の獲物だったろう。
きっと、一人や二人じゃない。ダンジョンに入った冒険者がいなくなるなんて、珍しくもないんだから。何人もの魔法使いを捕まえて覚えたんだ。
口を塞げば呪文は紡げない。杖を手放したら、突然の対処にも出遅れる。
地面に呪文を描こうにも、それすら確かに封じられた。人を襲うほどに肥大化したスライムを、自力で振り払うなんて、ほとんどの魔法使いには無理だろう。
「ぅ、ぁ……っ」
顔を上げれば前線で戦っている、彼らの背中が見えた。
仲間だなんて思ってもない。冒険者パーティーを組むのに必要だったから利用した。ソロでも活動できるランクになれば、さっさと切り捨てるつもりで。
悔しい。
格下だと思っていた彼らに助けを求めるの?
何処で間違った。作戦は完璧だったはず。モンスターの探索だって怠っていなかったのに。突然、スライムなんか落ちてくるから。なんで気づけなかったの。なんで、こんな……なん、で。
その時、洞窟の天井が蠢いて見えた。
ああ、そうか。
壁一面に広がったスライムが、へばりついている。
魔力の反応は、薄く引き伸ばされて、探索魔法の下限を下回っていたんだ。
こうすれば見つからないと、分かって。全部、私のミス。野生化したスライムが出るという情報は聞いていても、そんなの歯牙にも掛けなかった。だって、本当なら相手にすらならないのに。
助けを呼ぶための口も、躊躇う間に塞がれた。
お願い、気づいて。祈ることですら恥ずかしい。
さんざん見下していた彼らに「ありがとう」なんて、言わなきゃいけないの?
そんなのは__意地だ。私にだって、それはある。スライムを振り払えなくてもいい。ジリジリと腕を動かし、転がっている杖に手を伸ばす。
ちょっとでも、触れられれば。
杖に蓄えられている魔力を、一瞬解放するだけ。無詠唱で出来る緊急回避的な魔法の一つ。スライムくらいなら、それで十分に吹き飛ばせる……。
筈だった。
「……っ!?」
顔が青ざめる。あとちょっと、もうちょっとで、指が届きそうだったのに。
指先が触れるその直前。杖との距離が、僅かに遠のく。
__ズル
洞窟の暗がりへ。
__ズル
体が引きずられていく。
__ズル
足をばたつかせても、前には進まない。掴まれた足首がピンっと伸ばされた。つま先から暗がりに飲み込まれていく。まるで、暴れる犬みたい。口元を塞いだスライムは、私を鎖に繋いでみせた。半身を反りながら、どれだけ頭を振っても、スライムは離れてくれない。
せめて、地面に呪文を描ける暇さえあれば。
でも、引きずられていく体を止められない。爪の隙間に砂が入り込み、傷ついた指先から血が滲む。涙が……泣きたくなくても、我慢が出来ない。
だって、どんなに頭が悪くたって分かるでしょう? スライムに捕まった動物は、その体の中で溶かされていく。それが、私に待っている未来だった。
******
学院の首席卒業者。
それが、私の誇りだった。
友達も作らない。恋人になんて興味もない。
卒業生の挨拶。「シルヴィア・ロゼンベルグ」名前を呼ばれて立ち上がる。魔法に捧げた人生が、誰からも認められた瞬間だった。壇上に上がった私を見上げる視線はいくつあっても、見下ろす視線は一つだけ。何百と集まった生徒の誰もが、私よりも下なんだ。薄っすらとした微笑みを、きっと誰も気付かなかっただろう。
悲鳴と怒号が響く。
すっかりと混乱しきった彼らの声から、前線が崩壊したんだと理解した。
だけど不思議。「シルヴィアっ! どこっ、返事を……きゃっ!?」私を呼ぶ声に、恨み言は含まれない。突然消えてしまったんだ。見捨てられた可能性だってあるのに。その優しさが、余計に彼らを追い詰めてしまっていた。
一旦退こう。
でも、シルヴィアを置いていけないよ。
躊躇う合間も、魔物たちは待ってはくれない。
そもそも、私の火力があることが前提の作戦だった。一番大事な所が折れたらどうなるかなんて、火を見るより明らかだ。
いい人たちなんだと思う。
少なくとも、学院で私に嫌がらせをしてきた人たちよりは。
助けなきゃ。それでも私は、まだ上から見下ろしていた。
自分の失態が招いた結果だ。自分で取り返さないと意味がない。そうでもなければ、無能を晒し続ける自分を許せなかった。
__ジュッ
布の焦げる匂いが立ち込める。
纏っていたローブの防御魔法が切れ始めていた。これが無くなったら、いよいよ おしまいだ。チャンスは……一度きり。失敗したら、どうしよう? 胸を刺した痛みから、意識的に目を背けた。
安全な部屋の中で、分かりきった実験をする。
それが無意味だったなんて思わない。基礎を固めて積み上げる、応用から発展させて、新しい魔法だって作ってみせた。でも、それだけ。こと実戦での私は、スライムよりも劣ってた。いかに相手を出し抜くのか。そんな教科書に載ってないことを、いきなりやれだなんて。経験不足を突かれた結果がコレ。
一拍でいい。
舌が回れば、なんとでもなる。
「ぅっ……っ!」
勢いをつけて咳込んではみても、口を塞ぐスライムはブヨブヨと蠢くだけ。
そこにへばり付いたまま、離れてはくれない。まだ、息が出来てるだけいい。今に鼻まで塞がれたらと思うとゾッとする。
出来ることを、やれるうちに やらないと。
彼らだって長くは持たないはず。完全にスライムに飲み込まれてしまったら、溶かされる前に、窒息するほうが早いだろう。
__ゴクリ
強引に口を閉じて、スライムを噛み切った。
グミよりは、まだ柔らかいか。プツっとした食感はすぐに溶けて、嫌な後味を残す。水っぽい酸味と苦み。その奥には、舌が痺れるような甘みがあった。
出来の悪い魔法薬みたい。
そう思えば、飲み込めないこともない。
生唾よりも、酷い喉越しだ。思い切って飲み込むと同時に、ズシリとした重たさが腹に落ちる。
やっと口が開いた。
「……アウスっ!」
呪文を口走る。とても、魔法なんて呼べるものじゃない。
体内の魔力を ただ放出するだけだ。制御も何もなく、全力で。出し惜しみは考えられなかった。経験が足りなくても、実力差は明白だ。結局は、私の自由を許したスライムの負け。ちょっと手間取ったけど。実戦なんだから、勝った方が勝ちに決まってる。
暴風か、あるいは濁流のように。
荒れ狂う魔力の流れが、スライムを吹き飛ばし、頬を濡らす涙の跡をさらっていく。何もなかった。何でも無かった。私は……ちゃんと生きてる。負けてなんかない。
ヨロヨロと立ち上がると、羽織っていたローブが肩から滑り落ちた。
スライムの粘液に塗れたローブは、拾い上げようと掴んだだけで、その穴を大きく広げていく。
「くそ……っ。なんで、なんで……ぅっ」
悔しい……。
やっぱり、ダメだ。乾いたはずの涙が目尻に浮かび、爪が刺さるほどに拳を握る。
学院の首席卒業者だけに贈られる、ローブと杖。それが私の自慢で、私の価値そのものだ。それを傷つけられた。よりにもよって、スライムなんかに。
でも、でも……っ。
泣いてなんかない。泣いてる暇はない。落ち着いて、乱れかけた呼吸を戻す。
私一人、生きて帰ったら。後ろ指を指される自分に耐えきれない。そんなの、絶対間違ってる。ボロボロになったローブを纏めて、抱え上げた。もうこれ以上崩れてしまわないように、大事に胸にしまい込む。
肉を裂く鈍い音。金属がぶつかり甲高い悲鳴が響く。
洞窟の向こう側、聞こえてくるその有様に、安心さえしていた。薄く、口元が歪んでいるのさえ気付かない。今ならまだ間に合う。死ぬなんて許さない。みんな、私のために助けられて。
結局……
私は最後まで、それを捨てることが出来なかった。